勿忘草のおやつ
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夕食が終わると、ちゃぶ台の上は一気に片付けられる。椀と茶碗を重ね、すみれは手早く洗い済ませる。戸を開けた先の流し場からは、かすかに水の音が聞こえるが、夜の長屋にはもう人の気配も少ない。
「……そうだ」
ふと思い出したように、すみれは戸棚の奥に手を伸ばし、新聞紙に包んだものを取り出した。
「今日もらったりんご、食べちゃいましょう」
包みを解くと、赤い皮が電灯の下でつややかに光る。あたりを甘い匂いが包み込んだ。この時代、りんごはそう頻繁に口にできるものではない。しげるの瞳はりんごの光が反射しきらきらと映り込んでいる。
ちゃぶ台の向かいで、すみれがまな板を置き、りんごを切る。包丁が当たり、軽い木の音だけが聞こえる。芯を避け、くし形に切られたりんごは、さらに細かく手を加えられていく。しげるはただ黙って手元を追っていた。
「……上手いもんですね」
「慣れているだけよ」
皮が剥かれる音が、静かな部屋によく響く。ふいにしげるが口を開いた。
「すみれさんって指輪しないんですね」
「……してたわよ、昔は」
包丁の刃先が、りんごの白い果肉をすべる。
「今は、仏壇に置いてあるの」
「ふーん」
しげるの興味なさそうな声を聴きながら、すみれは最後のひと手を加えた。皮の一部を残し、小さな耳を形づくる。
「できた」
「……それ、なに?」
「ウサギ」
「……」
しげるは、いつもの無表情のままそれを見つめていた。驚いているのか、呆れているのかは分からない。いつも通りの無表情さ。赤い皮の耳が立った、小さなウサギが、まな板の上に一匹、また一匹と並んでいく。
「昔ね、母にやってもらってたの。子どもって、こういう形にすると喜ぶのよね」
そう言いながら、最後の一切れも同じ形にする。包丁の刃先が止まり、まな板の上には小さな赤いウサギたちが揃った。
「子ども、扱いですか」
わずかに間を置いて、しげるが言う。拗ねたようにも、照れ隠しのようにも聞こえる声音。
「まさか」
くすっと笑って、すみれはウサギを差し出した。
「はい。どうぞ」
しげるは少しだけ迷ってから、ウサギを受けとる。赤い耳を指でつまみ、しばらく眺めてから、そっとかじった。
「……美味い」
「よかった」
すみれも一つ取り、同じようにかじる。シャリ、という音が、ほぼ同時に重なった。
「……変な感じです」
「なにが?」
「ウサギ」
しげるは、残ったウサギを見ながら言う。
「……ククッ。かわいい」
その言葉に、すみれは何も言わず、ただ目を細めて微笑んだ。しばらく、二人で黙ってりんごを食べる。まな板の上では、一匹、また一匹とウサギが姿を消していき、やがて最後の一匹だけが残った。
「食べていいわよ」
「どうぞ」
二人同時に譲り合い、視線がぶつかる。一拍置いて、どちらからともなく小さく笑いが漏れた。
「ふふっ……じゃあ、半分こね」
最後のウサギを、すみれは包丁で二つに分けた。赤い耳が一つずつ残るように、きれいに。
「りんごって、美味いですね」
「そうね。八百屋のおじさんに、お礼しなきゃ」
そう言って笑うと、しげるも、小さく口元を緩めた。電灯の下、赤い耳のりんごを分け合う夜。特別でも何でもないけれど確かにここはもう、一人で食べる場所ではなくなっていた。
「……そうだ」
ふと思い出したように、すみれは戸棚の奥に手を伸ばし、新聞紙に包んだものを取り出した。
「今日もらったりんご、食べちゃいましょう」
包みを解くと、赤い皮が電灯の下でつややかに光る。あたりを甘い匂いが包み込んだ。この時代、りんごはそう頻繁に口にできるものではない。しげるの瞳はりんごの光が反射しきらきらと映り込んでいる。
ちゃぶ台の向かいで、すみれがまな板を置き、りんごを切る。包丁が当たり、軽い木の音だけが聞こえる。芯を避け、くし形に切られたりんごは、さらに細かく手を加えられていく。しげるはただ黙って手元を追っていた。
「……上手いもんですね」
「慣れているだけよ」
皮が剥かれる音が、静かな部屋によく響く。ふいにしげるが口を開いた。
「すみれさんって指輪しないんですね」
「……してたわよ、昔は」
包丁の刃先が、りんごの白い果肉をすべる。
「今は、仏壇に置いてあるの」
「ふーん」
しげるの興味なさそうな声を聴きながら、すみれは最後のひと手を加えた。皮の一部を残し、小さな耳を形づくる。
「できた」
「……それ、なに?」
「ウサギ」
「……」
しげるは、いつもの無表情のままそれを見つめていた。驚いているのか、呆れているのかは分からない。いつも通りの無表情さ。赤い皮の耳が立った、小さなウサギが、まな板の上に一匹、また一匹と並んでいく。
「昔ね、母にやってもらってたの。子どもって、こういう形にすると喜ぶのよね」
そう言いながら、最後の一切れも同じ形にする。包丁の刃先が止まり、まな板の上には小さな赤いウサギたちが揃った。
「子ども、扱いですか」
わずかに間を置いて、しげるが言う。拗ねたようにも、照れ隠しのようにも聞こえる声音。
「まさか」
くすっと笑って、すみれはウサギを差し出した。
「はい。どうぞ」
しげるは少しだけ迷ってから、ウサギを受けとる。赤い耳を指でつまみ、しばらく眺めてから、そっとかじった。
「……美味い」
「よかった」
すみれも一つ取り、同じようにかじる。シャリ、という音が、ほぼ同時に重なった。
「……変な感じです」
「なにが?」
「ウサギ」
しげるは、残ったウサギを見ながら言う。
「……ククッ。かわいい」
その言葉に、すみれは何も言わず、ただ目を細めて微笑んだ。しばらく、二人で黙ってりんごを食べる。まな板の上では、一匹、また一匹とウサギが姿を消していき、やがて最後の一匹だけが残った。
「食べていいわよ」
「どうぞ」
二人同時に譲り合い、視線がぶつかる。一拍置いて、どちらからともなく小さく笑いが漏れた。
「ふふっ……じゃあ、半分こね」
最後のウサギを、すみれは包丁で二つに分けた。赤い耳が一つずつ残るように、きれいに。
「りんごって、美味いですね」
「そうね。八百屋のおじさんに、お礼しなきゃ」
そう言って笑うと、しげるも、小さく口元を緩めた。電灯の下、赤い耳のりんごを分け合う夜。特別でも何でもないけれど確かにここはもう、一人で食べる場所ではなくなっていた。
