初めての食卓
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商店街は、夕飯の支度に向かう人の気配で満ちていた。魚屋の前には氷の上に並んだ魚が銀色に光り、元気のよい掛け声がそこら中から響いている。仕事帰りの女たちが足早に行き交い、どこからか包丁の音が重なって聞こえた。すみれは鞄から風呂敷を取り出す。風呂敷はいつでも使えるよう、あらかじめ持ち手を作って手提げの形にしてあった。角を少し整え、結び目を確かめてから、小さく息を吐く。さて、と買い物は早く終わらせて帰ろう。ほんのささやかな、夕方の切り替え。それだけで気持ちはもう“家に帰る側”へ向いていた。
「それ、なんですか?」
隣から覗き込むように、しげるが言う。
「風呂敷よ。これに買ったもの入れるの」
「ふーん。……貸して」
そう言うなり、しげるは風呂敷をひったくるようにすみれの手から取った。あまりに唐突で、すみれは一瞬きょとんとする。
――持ってくれる、のかな?
言葉にはしないまま、胸の奥で答えに行き着いて、思わず吹き出してしまった。
「ふふっ……ありがとう、しげるくん」
「うん」
短く返事をして、しげるは何事もなかったように風呂敷を提げた。何も入っていない風呂敷はひらひらと風に揺れる。持ち方はぎこちないが、落とさないよう気を遣っているのが背中から伝わってきた。魚屋で鯖を二切れと豆腐屋で油揚げも忘れずに包みに収めた。
「今日は……鯖の味噌煮にしようか」
何気なくそう言うと、しげるは小さく頷く。賛成なのか、ただ聞いているだけなのかはわからない。けれど否定しない、その沈黙が今は心地よかった。風呂敷は次第にふくらみ、手にした重みは一人分よりも確かに多くなった。
商店街の角を曲がると、八百屋の前だけがひときわ賑やかだった。木箱に積まれた野菜が通りにはみ出し、濡れた青菜の匂いと土の匂いが混じっている。夕方の支度時とあって、女たちの声と秤の分銅が触れ合う乾いた音が、せわしなく行き交っていた。
「いらっしゃい、今日は大根が安いよ」
店先で声を張る親父が、すみれの顔を見るなり目を細める。
「南沢さん、お勤め帰りかい」
「ええ。今日は少し涼しくて助かります」
すみれがそう答えると、親父の視線がふと横へ移った。風呂敷をきちんと両手で持ち、黙って隣に立つ、しげるの姿に気づいたのだ。
「おや、見ねえ顔の坊主だな」
しげるは一瞬だけ親父を見上げ、何も言わずに軽く頭を下げる。その様子に、親父は小さく鼻を鳴らした。
「へえ……荷物持ってやってるのか。えらいな」
すみれが少し照れたように言う。
「ちょっと手伝ってもらってて」
「そうかい、そうかい」
親父は満足そうに頷き、会計を済ませたあと、ふと思い出したように奥へ引っ込んだ。木箱がこすれる音がして、すぐに戻ってくる。
「坊主、これ持ってきな」
差し出されたのは、真っ赤で、ずしりと重みがありそうなりんごだった。
「えっ……そんな」
「いいんだよ。働き者には、ご褒美だ」
すみれが慌てて頭を下げる。
「ありがとうございます」
「いいってことよ。秋の味だ。ちゃんと分けて食えよ」
しげるは一瞬だけりんごを見て、小さくお礼を言う。そしてりんごを風呂敷にそっと入れ、無言で頭を下げた。しげるのりんごを扱う手つきが、どこか慎重で、大事なもののようだった。
商店街を離れ、家路につく。賑わいは背中の方へ遠ざかり、代わりに人通りもまばらになっていく。さっきまで聞こえていた呼び声や物音も、いつの間にか途切れていた。
しげるが持つ風呂敷が、さっきよりわずかに下がって見える。歩くたびに、その布がゆっくりと揺れた。すみれはその様子を目で追いながら、小さく微笑む。この町では、顔を覚えられ、こうして何かを持たされることがある。それを、あの子も受け取っている。それがすみれにはとても嬉しかった。
「よかったわね、りんご」
「……はい」
風呂敷を提げ、二人は夕方の道を並んで歩く。低くなった空に電線が伸び、その影が地面に細長く落ちている。さらさらとほほを撫でる風が、汗ばむほどでもなく、肌にやさしかった。
長屋の板塀が見えてきたころ、すみれは自然と歩調をゆるめる。その時だった。
「あら、南沢さん」
声をかけられて振り向くと、向かいの棟に住むおばさんが立っていた。洗い終えたばかりらしい手拭いを肩にかけ、まだ少し湿った指先で端をつまんでいる。夕方のやさしい風に、布がひらりと揺れた。
「お帰りなさい」
「はい、ただいまです」
それから、彼女の視線がゆっくりと、すみれの横へ移る。
「あら、見かけない子ねぇ。どこの子?」
にこにこと人の良さそうな笑顔のまま、今度はしげるをまじまじと見つめる。すみれが何か言おうと口を開きかけた、その時だった。
「……少し遠くの親戚なんです。ね、すみれさん」
しげるが、何でもないことのように言った。少しだけ取り繕うように、だが淡々とした声。迷いも、探る様子もない。あまりにも自然で、すみれは一瞬、言葉を失った。目を見開いたまま、しげるを見る。
「あ、そうなんです。親戚の子で……。少しの間、預かってて」
一拍遅れて、慌てて言葉を継ぐ。おばさんは疑う様子もなく、ぱっと表情を明るくした。
「あら、そうなの! まあまあ、南沢さんの親戚のお子さんが来てたのねぇ」
「え、ええ……ちょっと事情があって……」
声がわずかに裏返ったのを、自分でもはっきりと自覚する。しげるはそんなすみれをちらりとも見ず、ただ静かに立っていた。
「へぇ……ずいぶん落ち着いた子ね。おいくつ?」
「十三です」
彼女は感心したように、何度も頷いた。
「十三でこの落ち着き? 大したものだわ」
「南沢さんに似て、しっかりしているのねぇ」
「そ、そんな……」
否定したいような、けれど完全には否定できないような曖昧さが喉に引っかかる。すみれは小さく笑ってごまかした。
「じゃあ、しばらく賑やかになるわね」
「ええ……そうですね」
言葉が口を離れたあと、ほんのわずかに間があいた。賑やかになる。とくり、と心臓が小さく鳴った。そのとき、長屋の板塀の向こうから子どもの大きな声が飛んできた。
「おかーさん。お腹すいたー。まだー?」
「今行くわー」
彼女は口元に手を添え、声を張る。暮らしの声が、夕方の空気に混ざっていく。
「じゃあ、お腹すかせた子がいるから私は急ぐわね」
彼女は駆け足で長屋へと帰って行った。急ぐ背中を見送るとすみれはようやく息を吐いた。
「……しげるくん」
名前を呼ぶと、しげるは歩き始めた。すみれも数歩遅れて歩き出した。
「さっきの……」
言いかけた言葉を、しげるが遮る。
「都合がいいと思ったので。それにまた咄嗟に聞かれたら、説明が面倒でしょう。きっとあの人、みんなに話してくれますよ」
淡々とした口調で言い切って、しげるは前を向いたまま歩き続ける。そこに悪びれた様子はなく、計算というより判断に近い。すみれは言葉に詰まり、少し遅れてから、ふっと小さく息を吐いた。
「……確かに、そうかもしれない」
否定する理由も、訂正する勇気も、今は見つからなかった。しげるは何も言わない。ただ、風呂敷を持つ手に、ほんの少しだけ力がこもった気がした。夕暮れの空が、長屋の屋根を橙色に染めている。
板塀の影が伸び、二人の足元に並んで重なる。その影は、どこか家族のようにも見えて嘘だったはずの言葉が、ほんの一瞬だけ、現実になった気がした。
――家族。
その響きが、胸の奥に小さく残る。ざわめきはあるのに、形にならないまま。すみれはそれを、まだ言葉にはしなかった。
「しげるくん!」
少しだけ大きな声で呼ぶ。
「今度は何ですか?」
しげるはゆっくりと隣にいるすみれへと目をやる。いつも通りの無表情に、すみれは思わず笑ってしまった。今度はすみれが一歩前へ出て振り返る。
「名前、呼んでくれて……嬉しかった」
しげるは小さく息を鳴らすように笑った。
「……そうですか」
それから、少しだけ間を置いて。
「これからも、よろしくお願いします。すみれさん」
逆光で、表情はよく見えない。けれどその声は、昼間よりも優しく聞こえた。たぶん、笑っている。
「見て、夕日がきれい」
すみれの言葉にしげるも振り返りその顔をオレンジ色に染める。
「そうですね」
横を見る。今度こそしげるの顔が柔らかく微笑んでいた。
「それ、なんですか?」
隣から覗き込むように、しげるが言う。
「風呂敷よ。これに買ったもの入れるの」
「ふーん。……貸して」
そう言うなり、しげるは風呂敷をひったくるようにすみれの手から取った。あまりに唐突で、すみれは一瞬きょとんとする。
――持ってくれる、のかな?
言葉にはしないまま、胸の奥で答えに行き着いて、思わず吹き出してしまった。
「ふふっ……ありがとう、しげるくん」
「うん」
短く返事をして、しげるは何事もなかったように風呂敷を提げた。何も入っていない風呂敷はひらひらと風に揺れる。持ち方はぎこちないが、落とさないよう気を遣っているのが背中から伝わってきた。魚屋で鯖を二切れと豆腐屋で油揚げも忘れずに包みに収めた。
「今日は……鯖の味噌煮にしようか」
何気なくそう言うと、しげるは小さく頷く。賛成なのか、ただ聞いているだけなのかはわからない。けれど否定しない、その沈黙が今は心地よかった。風呂敷は次第にふくらみ、手にした重みは一人分よりも確かに多くなった。
商店街の角を曲がると、八百屋の前だけがひときわ賑やかだった。木箱に積まれた野菜が通りにはみ出し、濡れた青菜の匂いと土の匂いが混じっている。夕方の支度時とあって、女たちの声と秤の分銅が触れ合う乾いた音が、せわしなく行き交っていた。
「いらっしゃい、今日は大根が安いよ」
店先で声を張る親父が、すみれの顔を見るなり目を細める。
「南沢さん、お勤め帰りかい」
「ええ。今日は少し涼しくて助かります」
すみれがそう答えると、親父の視線がふと横へ移った。風呂敷をきちんと両手で持ち、黙って隣に立つ、しげるの姿に気づいたのだ。
「おや、見ねえ顔の坊主だな」
しげるは一瞬だけ親父を見上げ、何も言わずに軽く頭を下げる。その様子に、親父は小さく鼻を鳴らした。
「へえ……荷物持ってやってるのか。えらいな」
すみれが少し照れたように言う。
「ちょっと手伝ってもらってて」
「そうかい、そうかい」
親父は満足そうに頷き、会計を済ませたあと、ふと思い出したように奥へ引っ込んだ。木箱がこすれる音がして、すぐに戻ってくる。
「坊主、これ持ってきな」
差し出されたのは、真っ赤で、ずしりと重みがありそうなりんごだった。
「えっ……そんな」
「いいんだよ。働き者には、ご褒美だ」
すみれが慌てて頭を下げる。
「ありがとうございます」
「いいってことよ。秋の味だ。ちゃんと分けて食えよ」
しげるは一瞬だけりんごを見て、小さくお礼を言う。そしてりんごを風呂敷にそっと入れ、無言で頭を下げた。しげるのりんごを扱う手つきが、どこか慎重で、大事なもののようだった。
商店街を離れ、家路につく。賑わいは背中の方へ遠ざかり、代わりに人通りもまばらになっていく。さっきまで聞こえていた呼び声や物音も、いつの間にか途切れていた。
しげるが持つ風呂敷が、さっきよりわずかに下がって見える。歩くたびに、その布がゆっくりと揺れた。すみれはその様子を目で追いながら、小さく微笑む。この町では、顔を覚えられ、こうして何かを持たされることがある。それを、あの子も受け取っている。それがすみれにはとても嬉しかった。
「よかったわね、りんご」
「……はい」
風呂敷を提げ、二人は夕方の道を並んで歩く。低くなった空に電線が伸び、その影が地面に細長く落ちている。さらさらとほほを撫でる風が、汗ばむほどでもなく、肌にやさしかった。
長屋の板塀が見えてきたころ、すみれは自然と歩調をゆるめる。その時だった。
「あら、南沢さん」
声をかけられて振り向くと、向かいの棟に住むおばさんが立っていた。洗い終えたばかりらしい手拭いを肩にかけ、まだ少し湿った指先で端をつまんでいる。夕方のやさしい風に、布がひらりと揺れた。
「お帰りなさい」
「はい、ただいまです」
それから、彼女の視線がゆっくりと、すみれの横へ移る。
「あら、見かけない子ねぇ。どこの子?」
にこにこと人の良さそうな笑顔のまま、今度はしげるをまじまじと見つめる。すみれが何か言おうと口を開きかけた、その時だった。
「……少し遠くの親戚なんです。ね、すみれさん」
しげるが、何でもないことのように言った。少しだけ取り繕うように、だが淡々とした声。迷いも、探る様子もない。あまりにも自然で、すみれは一瞬、言葉を失った。目を見開いたまま、しげるを見る。
「あ、そうなんです。親戚の子で……。少しの間、預かってて」
一拍遅れて、慌てて言葉を継ぐ。おばさんは疑う様子もなく、ぱっと表情を明るくした。
「あら、そうなの! まあまあ、南沢さんの親戚のお子さんが来てたのねぇ」
「え、ええ……ちょっと事情があって……」
声がわずかに裏返ったのを、自分でもはっきりと自覚する。しげるはそんなすみれをちらりとも見ず、ただ静かに立っていた。
「へぇ……ずいぶん落ち着いた子ね。おいくつ?」
「十三です」
彼女は感心したように、何度も頷いた。
「十三でこの落ち着き? 大したものだわ」
「南沢さんに似て、しっかりしているのねぇ」
「そ、そんな……」
否定したいような、けれど完全には否定できないような曖昧さが喉に引っかかる。すみれは小さく笑ってごまかした。
「じゃあ、しばらく賑やかになるわね」
「ええ……そうですね」
言葉が口を離れたあと、ほんのわずかに間があいた。賑やかになる。とくり、と心臓が小さく鳴った。そのとき、長屋の板塀の向こうから子どもの大きな声が飛んできた。
「おかーさん。お腹すいたー。まだー?」
「今行くわー」
彼女は口元に手を添え、声を張る。暮らしの声が、夕方の空気に混ざっていく。
「じゃあ、お腹すかせた子がいるから私は急ぐわね」
彼女は駆け足で長屋へと帰って行った。急ぐ背中を見送るとすみれはようやく息を吐いた。
「……しげるくん」
名前を呼ぶと、しげるは歩き始めた。すみれも数歩遅れて歩き出した。
「さっきの……」
言いかけた言葉を、しげるが遮る。
「都合がいいと思ったので。それにまた咄嗟に聞かれたら、説明が面倒でしょう。きっとあの人、みんなに話してくれますよ」
淡々とした口調で言い切って、しげるは前を向いたまま歩き続ける。そこに悪びれた様子はなく、計算というより判断に近い。すみれは言葉に詰まり、少し遅れてから、ふっと小さく息を吐いた。
「……確かに、そうかもしれない」
否定する理由も、訂正する勇気も、今は見つからなかった。しげるは何も言わない。ただ、風呂敷を持つ手に、ほんの少しだけ力がこもった気がした。夕暮れの空が、長屋の屋根を橙色に染めている。
板塀の影が伸び、二人の足元に並んで重なる。その影は、どこか家族のようにも見えて嘘だったはずの言葉が、ほんの一瞬だけ、現実になった気がした。
――家族。
その響きが、胸の奥に小さく残る。ざわめきはあるのに、形にならないまま。すみれはそれを、まだ言葉にはしなかった。
「しげるくん!」
少しだけ大きな声で呼ぶ。
「今度は何ですか?」
しげるはゆっくりと隣にいるすみれへと目をやる。いつも通りの無表情に、すみれは思わず笑ってしまった。今度はすみれが一歩前へ出て振り返る。
「名前、呼んでくれて……嬉しかった」
しげるは小さく息を鳴らすように笑った。
「……そうですか」
それから、少しだけ間を置いて。
「これからも、よろしくお願いします。すみれさん」
逆光で、表情はよく見えない。けれどその声は、昼間よりも優しく聞こえた。たぶん、笑っている。
「見て、夕日がきれい」
すみれの言葉にしげるも振り返りその顔をオレンジ色に染める。
「そうですね」
横を見る。今度こそしげるの顔が柔らかく微笑んでいた。
