初めての食卓
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ジリリリリリ。
けたたましいベルの音が鳴り、お昼の時間を告げた。その音を合図に、工場の奥からは工具を置く乾いた音や、雑談が次第に大きくなっていく。事務所にいたすみれは両腕を上にあげ背伸びをし、川島は帳簿を閉じた。
ここは、すみれの勤めている金属加工の町工場の事務所だ。板張りの床に、油と紙の匂いが混じった空気。
入り口側の窓際に机が二つ、横並びに置かれていて、外からの光が帳簿の角を白く照らしている。奥には電話と書類棚、壁には月めくりの暦と、安全標語の貼り紙。
事務員は、すみれと川島の二人だけ。昼休みも、こうして自分たちの机で弁当を広げるのが、いつもの光景だった。
すみれは風呂敷をほどき、弁当箱の蓋を開ける。朝食の鮭を一尾多めに焼き、詰めてきたものだ。ふわりと、鮭の塩気のある香りが立ちのぼる。
――そういえば。
箸を取ろうとして、ふと手が止まった。
しげるくん、中学生だもの……給食、あるわよね考えて、すぐに首を振る。それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
お昼ごはんのこと、何も考えてなかった。朝の慌ただしさと、あの穏やかな時間に気を取られていた自分を思い出し、頭を抱えた。
ああ……ごめんね、しげるくん。
その瞬間。
「ねえ、南沢さん。何かいいことあった?」
川島の声に、思わず口に入れたご飯を詰まらせる。
「ンッ!? ……ゴホッ、ゴホ……!」
「ちょっと、大丈夫!?」
川島は慌てて立ち上がり、湯呑みに注いだお茶を差し出す。すみれはそれを受け取り、一気に飲み干した。川島が背中をとんとんと優しく叩く。その仕草は、まるで母親のようだった。
「……ありがとうございます」
ようやく息を整えながら礼を言う。だが、早鐘を打つ心臓は、喉にご飯を詰まらせたせいだけではなかった。
「ごめんね、変なこと言ったからかしら。でも……今日はね、南沢さん、全体的にふわふわしてるわよ」
「そ、そうでしょうか……自覚、ありませんでした」
川島は箸を動かしながら、くすりと笑う。
「ニコニコしたと思ったら、急に真剣な顔になったり。今日の南沢さん、コロコロ表情が変わって、見ていて楽しいの」
「……お恥ずかしいです」
そう言って俯いた瞬間、すみれははっきりと気づいた。
――浮かれていたんだ。
朝の出来事を、何度も心の中で反芻していた。誰かと一緒に食卓を囲み、何気ない会話を交わし、「行ってきます」と「行ってらっしゃい」を言い合う、その余韻を。それが、知らないうちに表情に出ていたのだ。
――仕事中なのに。
ほんの少し、背筋が伸びる。同時に、自分の中に残っていた温もりを、そっと大事にしまい込む。
「……午後は、頑張ります」
「そうね。でも南沢さんがニコニコしている分には工場の人たちもうれしいと思うわ」
川島の言葉に、すみれは恥ずかしそうに小さく頷いた。
やがて昼休みが終わり、ベルが再び鳴る。帳簿を開き、電話を取り、図面を揃え、いつもの仕事に戻っていく。
金属を削る音が一定のリズムで響き続ける中、時間は静かに流れ、気づけば外の光は傾き始めていた。終業のベルが鳴るまで、あと少し。
すみれはペンを走らせながら、夕方には、あの家に戻るのだということを、頭の中でそっと思い描いていた。
終業を告げるベルが鳴ったのは、思っていたよりも少し早く感じた。
ジリリリリリ。その音に、工場の中の空気がふっと緩む。機械が止まり、職人たちが一日の区切りをつけるように手を拭き、道具を片づけていく。
すみれも帳簿を閉じ、引き出しにペンを戻した。机の上を整え、椅子を押し込む。その一つ一つの動作が、どこかそわそわしているのを自分でも感じていた。
「お先に失礼します」
「はい、お疲れさま。気をつけて帰ってね」
川島の声に会釈をして、すみれは事務所を出る。夕方の空気は、昼間より少しだけ涼しく、残暑の中に秋の気配が混じっていた。
工場の敷地を抜け、鉄製の門へ向かう。蝶番のきしむ音を立てて門を押し開けた、そのとき――視界の端に、見覚えのある影が映った。門のすぐ外、電柱のそばに、しげるが立っていた。
「…あ」
思わず声が漏れる。半袖のシャツに、相変わらず手ぶらのまま。どこか所在なさげで、道行く人の流れから少しだけ距離を置いている。
「しげるくん……?」
名前を呼ぶとしげるはすぐにこちらを見た。彼はいつもの無表情で、見つめる。その瞳は真っ直ぐにすみれを映していた。
「……お疲れさまです。」
「お疲れ様。どうしたの? もう、学校終わった?」
問いかけると、しげるは短く頷いた。
「はい」
それ以上は説明しない。けれど、ここで待っていたという事実だけが、はっきりと伝わってくる。すみれは門を閉めながら胸の内に小さな波が立つのを感じていた。
――迎えに来てくれた?
理由はわからない。でも、それを問いただすより先に、自然と口が動いた。
「じゃあ……一緒に帰ろう。食材買いに行くの手伝ってくれる?」
しげるはまたもや短く頷いた。二人は並んで歩き出す。工場の門を背に、夕方の道へと足を向けながら、その距離は、朝よりもほんの少しだけ近づいていたような気がした。
けたたましいベルの音が鳴り、お昼の時間を告げた。その音を合図に、工場の奥からは工具を置く乾いた音や、雑談が次第に大きくなっていく。事務所にいたすみれは両腕を上にあげ背伸びをし、川島は帳簿を閉じた。
ここは、すみれの勤めている金属加工の町工場の事務所だ。板張りの床に、油と紙の匂いが混じった空気。
入り口側の窓際に机が二つ、横並びに置かれていて、外からの光が帳簿の角を白く照らしている。奥には電話と書類棚、壁には月めくりの暦と、安全標語の貼り紙。
事務員は、すみれと川島の二人だけ。昼休みも、こうして自分たちの机で弁当を広げるのが、いつもの光景だった。
すみれは風呂敷をほどき、弁当箱の蓋を開ける。朝食の鮭を一尾多めに焼き、詰めてきたものだ。ふわりと、鮭の塩気のある香りが立ちのぼる。
――そういえば。
箸を取ろうとして、ふと手が止まった。
しげるくん、中学生だもの……給食、あるわよね考えて、すぐに首を振る。それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
お昼ごはんのこと、何も考えてなかった。朝の慌ただしさと、あの穏やかな時間に気を取られていた自分を思い出し、頭を抱えた。
ああ……ごめんね、しげるくん。
その瞬間。
「ねえ、南沢さん。何かいいことあった?」
川島の声に、思わず口に入れたご飯を詰まらせる。
「ンッ!? ……ゴホッ、ゴホ……!」
「ちょっと、大丈夫!?」
川島は慌てて立ち上がり、湯呑みに注いだお茶を差し出す。すみれはそれを受け取り、一気に飲み干した。川島が背中をとんとんと優しく叩く。その仕草は、まるで母親のようだった。
「……ありがとうございます」
ようやく息を整えながら礼を言う。だが、早鐘を打つ心臓は、喉にご飯を詰まらせたせいだけではなかった。
「ごめんね、変なこと言ったからかしら。でも……今日はね、南沢さん、全体的にふわふわしてるわよ」
「そ、そうでしょうか……自覚、ありませんでした」
川島は箸を動かしながら、くすりと笑う。
「ニコニコしたと思ったら、急に真剣な顔になったり。今日の南沢さん、コロコロ表情が変わって、見ていて楽しいの」
「……お恥ずかしいです」
そう言って俯いた瞬間、すみれははっきりと気づいた。
――浮かれていたんだ。
朝の出来事を、何度も心の中で反芻していた。誰かと一緒に食卓を囲み、何気ない会話を交わし、「行ってきます」と「行ってらっしゃい」を言い合う、その余韻を。それが、知らないうちに表情に出ていたのだ。
――仕事中なのに。
ほんの少し、背筋が伸びる。同時に、自分の中に残っていた温もりを、そっと大事にしまい込む。
「……午後は、頑張ります」
「そうね。でも南沢さんがニコニコしている分には工場の人たちもうれしいと思うわ」
川島の言葉に、すみれは恥ずかしそうに小さく頷いた。
やがて昼休みが終わり、ベルが再び鳴る。帳簿を開き、電話を取り、図面を揃え、いつもの仕事に戻っていく。
金属を削る音が一定のリズムで響き続ける中、時間は静かに流れ、気づけば外の光は傾き始めていた。終業のベルが鳴るまで、あと少し。
すみれはペンを走らせながら、夕方には、あの家に戻るのだということを、頭の中でそっと思い描いていた。
終業を告げるベルが鳴ったのは、思っていたよりも少し早く感じた。
ジリリリリリ。その音に、工場の中の空気がふっと緩む。機械が止まり、職人たちが一日の区切りをつけるように手を拭き、道具を片づけていく。
すみれも帳簿を閉じ、引き出しにペンを戻した。机の上を整え、椅子を押し込む。その一つ一つの動作が、どこかそわそわしているのを自分でも感じていた。
「お先に失礼します」
「はい、お疲れさま。気をつけて帰ってね」
川島の声に会釈をして、すみれは事務所を出る。夕方の空気は、昼間より少しだけ涼しく、残暑の中に秋の気配が混じっていた。
工場の敷地を抜け、鉄製の門へ向かう。蝶番のきしむ音を立てて門を押し開けた、そのとき――視界の端に、見覚えのある影が映った。門のすぐ外、電柱のそばに、しげるが立っていた。
「…あ」
思わず声が漏れる。半袖のシャツに、相変わらず手ぶらのまま。どこか所在なさげで、道行く人の流れから少しだけ距離を置いている。
「しげるくん……?」
名前を呼ぶとしげるはすぐにこちらを見た。彼はいつもの無表情で、見つめる。その瞳は真っ直ぐにすみれを映していた。
「……お疲れさまです。」
「お疲れ様。どうしたの? もう、学校終わった?」
問いかけると、しげるは短く頷いた。
「はい」
それ以上は説明しない。けれど、ここで待っていたという事実だけが、はっきりと伝わってくる。すみれは門を閉めながら胸の内に小さな波が立つのを感じていた。
――迎えに来てくれた?
理由はわからない。でも、それを問いただすより先に、自然と口が動いた。
「じゃあ……一緒に帰ろう。食材買いに行くの手伝ってくれる?」
しげるはまたもや短く頷いた。二人は並んで歩き出す。工場の門を背に、夕方の道へと足を向けながら、その距離は、朝よりもほんの少しだけ近づいていたような気がした。
