初めての食卓
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
早朝、窓の外には雲一つない青空が広がり、淡い光だけが台所へ差し込んでいた。
すみれは鍋で出汁を取りながら、その光の中で湯気が静かに揺れるのをぼんやり眺める。勝手口のほうでは、七輪から炭のはぜる音が、パチッパチッと一定のリズムで聞こえていた。昨日のことを思い出すたび、口元が自然とゆるむ。
背後で布団がこすれる小さな音がして振り返ると、しげるが目を擦りながら上半身を起こしていた。寝起きのためか、動作はゆっくりで、どこか無防備だ。
「しげるくん、おはよう。よく眠れた?」
「……おはようございます。眠れました」
掠れた声と、まだ眠気の残る顔。そして後ろ髪が寝相で跳ねている。その子どもらしさに思わず口元がほころぶ。
「もう少しで朝ごはん出来るから、顔洗っておいで」
しげるは小さくうなずき、外へ出ていく。戻ってきたのは数分後だった。しげるは布団をたたむと襖を開けその中へと押し込む。背後で片付く気配を聞きながら、すみれは長ネギを刻んでいた。まな板に包丁が当たる音だけが、静かに続いている。
「…あの」
「ん? なあに?」
言葉を探すような静かな間のあと、しげるは視線を落としたまま、唇を開いた。
「手伝います」
その一言に、すみれの手がわずかに止まる。昭和三十三年、家事は女の仕事という価値観が当たり前で、十三歳の男の子が自分から手伝うと言うのは珍しい。驚きはあったが、その歩み寄りを無下にはできず、すみれは少しだけ考えた。
「じゃあ……お豆腐、お願いしようかな」
すみれは残りの長ネギをさっと切り終え、鍋へ投入する。そして氷冷蔵庫から豆腐を取り出し、まな板に置いた。今朝、豆腐屋さんから買ったばかりのものだ。すみれは二本目の包丁をしげるに差し出しながら言った。
「包丁、持ってみて」
しげるは慎重に包丁を握ったが、その手つきはどこかぎこちない。
「うん、そう……でもね、ここ。人差し指を背のところに軽く添えてみて。そうそう、力を入れすぎないで添えるだけ」
しげるの指が背に触れる。包丁の重さが少しだけ安定した。しげるが指を背に押し当てるように力を入れる。
「包丁に持ち方あるなんて、知らなかった」
「あるのよ。危ないものほど、正しい扱い方が大事なの」
すみれは豆腐の端に軽く包丁を入れ、しげるに見せながら続ける。
「まずはこうして、厚みを一定に切って……。ゆっくりでいいから。お豆腐は柔らかいから押しつぶさないよう、刃の重さを使ってスッと」
しげるは真剣な目つきで包丁を動かした。刃が豆腐に沈み込む感触に少し戸惑いながらも、一つ、また一つと丁寧に切っていく。
「上手、上手。じゃあ次は、それを縦に並べて……そう。そのまま指を巻き込まないように気をつけて」
切った豆腐を揃えて、今度は横に包丁を入れる。賽の目になるたびに、白い立方が静かに転がり、まな板の上に整っていった。
「……できた」
「わぁ、本当にきれいにできてる。しげるくん、器用なのね」
しげるの無表情のままの顔が、ほんのわずかに誇らしげに見えた。その小さな変化に、胸にまた温かいものが灯る。すみれは切り終えた豆腐を見て、ふっと微笑んだ。
「じゃあ、これをお味噌汁に入れましょうか。崩れやすいからね、包丁の平らなところに乗せて運ぶのが一番安全なの」
そう言って、すみれは豆腐の下に包丁をそっと差し入れ、刃の側面に豆腐を乗せてみせる。
「ほら、こんな感じ。落とさないように、ゆっくり……」
すみれはそっと鍋に豆腐を落としいれる。しげるは真剣な表情でそれを真似る。切った豆腐をいくつか包丁に乗せると、手首が少し震えていた。
「大丈夫よ。そのまま……そう、鍋のところまで持ってきて」
しげるは息を詰めたまま、鍋の縁に包丁の背をそっと寄せる。豆腐がするり、と湯の中に沈んだ。ほっと安堵するしげるの肩から、小さく力が抜ける。すみれはその様子に思わず目を細めた。
「上手よ。もうひとつ、できる?」
「はい」
ほんの小さなやりとりが二人の間にゆっくり積もっていくのをすみれは感じていた。味噌汁の湯気が落ち着いたころ、ちゃぶ台に朝の膳を並べる。白いご飯と味噌汁、焼き立ての鮭、きゅうりの浅漬けに海苔。どれも特別なものではないけれど、この時代のどこにでも転がっているような、温かい朝食だ。
「いただきます」
二人は向かい、静かに手を合わせた。食卓には、味噌汁の香りと魚の脂の匂いだけが満ちていた。しげるは相変わらず無表情のまま黙々と箸を動かす。なのに、その沈黙がどこか心地よかった。
……こんなことを、またいつか誰かと過ごせたらって、思っていたな。
すみれがそう考えた瞬間、夫の顔を思い出し胸がちくりと痛んだ。すみれは気持ちを切り替えるように息を整える。
「しげるくんの切ってくれたお豆腐とっても形がきれいよ」
「よかった。また手伝います」
「ありがとう……ねえ、しげるくん」
一度改めようと、名前を呼ぶと変に大ごとな話の前振りのように感じて少し失敗したと思った。
「今日はこれから仕事なんだ。夕方まで戻れないの」
しげるは顔を上げる。その目は相変わらず無表情なのに、真っすぐで大人びている。
「……しげるくんは学校? あ、全然家にいてくれてもいいのよ!」
”自分の居場所がない”と話していた彼の顔を思い出し、すみれは喉の奥が、わずかに詰まった。しかし、しげるは淡々と答える。
「学校いきます」
その言葉に、行くのか、と安堵したような、”居場所がない場所”へ送り出す後ろめたさが入り混じる。自分でも整理のつかない複雑な感情だった。
「南沢さんって……どこに勤めてるの?」
しげるが、わずかに間をあけて問うた。声はいつも通り感情が読めない。その質問自体がどんな意図を持っているかは謎だ。
「えっと……小さな町工場よ。ここから十五分くらい歩いたところにあるの」
しげるは静かに頷き、続けて口を開いた。
「仕事、何時に終わる?」
「だいたい……十七時過ぎ、かな。あ、夕食はいつも十八時半頃よ。それまでには帰ってきてね」
「……わかりました」
しげるは返事を受け止めるように、短く頷いた。食べ終わると、すみれは茶碗をまとめて運び、手際よく洗いものを済ませた。しげるも無言で箸や椀を拭いてくれた。その小さな気遣いが胸にじんとしみていた。
七輪の火を軽く処理し、家の中を軽く整えると、時計の針はもう出発の時間に差し掛かっていた。
「そろそろ行かないと」
パンプスに足を通そうとしたとき、ふと思い出し部屋へと戻る。すみれは箪笥の一番上の引き出しを引き、その奥から小さな箱を取り出した。
「忘れ物ですか?」
しげるがスニーカー履きながら問いかける。
「違うの。しげるくん、これ……家の鍵。持っておいてくれる?」
箱から鍵を取り出し差し出すと、しげるがわずかに目を瞬いた。本当に一瞬だけの、驚き。
「……いらない」
想定の返事。でも、拒絶というより遠慮がにじむ声だった。すみれは微笑んで、押しつけないように言う。
「持っているだけでいいの。困ったら入っていいから」
「……あんまり、こういうことしないほうがいいですよ」
「しげるくんだから渡しているのよ」
しげるは迷うように鍵を見つめ、少し遅れて、そっと受け取った。
戸を閉めて外に出る。朝の風は少し湿り気を含んでいた。すみれが歩き出すと、しげるも自然に横へ並ぶ。
――あら、同じ方向だったのね。
すみれはそれ以上深く考えず、いつもの道を、いつもの速さで歩き続けた。横を歩く少年の存在が、いつもとは違うことに心躍らせながら。
すみれは鍋で出汁を取りながら、その光の中で湯気が静かに揺れるのをぼんやり眺める。勝手口のほうでは、七輪から炭のはぜる音が、パチッパチッと一定のリズムで聞こえていた。昨日のことを思い出すたび、口元が自然とゆるむ。
背後で布団がこすれる小さな音がして振り返ると、しげるが目を擦りながら上半身を起こしていた。寝起きのためか、動作はゆっくりで、どこか無防備だ。
「しげるくん、おはよう。よく眠れた?」
「……おはようございます。眠れました」
掠れた声と、まだ眠気の残る顔。そして後ろ髪が寝相で跳ねている。その子どもらしさに思わず口元がほころぶ。
「もう少しで朝ごはん出来るから、顔洗っておいで」
しげるは小さくうなずき、外へ出ていく。戻ってきたのは数分後だった。しげるは布団をたたむと襖を開けその中へと押し込む。背後で片付く気配を聞きながら、すみれは長ネギを刻んでいた。まな板に包丁が当たる音だけが、静かに続いている。
「…あの」
「ん? なあに?」
言葉を探すような静かな間のあと、しげるは視線を落としたまま、唇を開いた。
「手伝います」
その一言に、すみれの手がわずかに止まる。昭和三十三年、家事は女の仕事という価値観が当たり前で、十三歳の男の子が自分から手伝うと言うのは珍しい。驚きはあったが、その歩み寄りを無下にはできず、すみれは少しだけ考えた。
「じゃあ……お豆腐、お願いしようかな」
すみれは残りの長ネギをさっと切り終え、鍋へ投入する。そして氷冷蔵庫から豆腐を取り出し、まな板に置いた。今朝、豆腐屋さんから買ったばかりのものだ。すみれは二本目の包丁をしげるに差し出しながら言った。
「包丁、持ってみて」
しげるは慎重に包丁を握ったが、その手つきはどこかぎこちない。
「うん、そう……でもね、ここ。人差し指を背のところに軽く添えてみて。そうそう、力を入れすぎないで添えるだけ」
しげるの指が背に触れる。包丁の重さが少しだけ安定した。しげるが指を背に押し当てるように力を入れる。
「包丁に持ち方あるなんて、知らなかった」
「あるのよ。危ないものほど、正しい扱い方が大事なの」
すみれは豆腐の端に軽く包丁を入れ、しげるに見せながら続ける。
「まずはこうして、厚みを一定に切って……。ゆっくりでいいから。お豆腐は柔らかいから押しつぶさないよう、刃の重さを使ってスッと」
しげるは真剣な目つきで包丁を動かした。刃が豆腐に沈み込む感触に少し戸惑いながらも、一つ、また一つと丁寧に切っていく。
「上手、上手。じゃあ次は、それを縦に並べて……そう。そのまま指を巻き込まないように気をつけて」
切った豆腐を揃えて、今度は横に包丁を入れる。賽の目になるたびに、白い立方が静かに転がり、まな板の上に整っていった。
「……できた」
「わぁ、本当にきれいにできてる。しげるくん、器用なのね」
しげるの無表情のままの顔が、ほんのわずかに誇らしげに見えた。その小さな変化に、胸にまた温かいものが灯る。すみれは切り終えた豆腐を見て、ふっと微笑んだ。
「じゃあ、これをお味噌汁に入れましょうか。崩れやすいからね、包丁の平らなところに乗せて運ぶのが一番安全なの」
そう言って、すみれは豆腐の下に包丁をそっと差し入れ、刃の側面に豆腐を乗せてみせる。
「ほら、こんな感じ。落とさないように、ゆっくり……」
すみれはそっと鍋に豆腐を落としいれる。しげるは真剣な表情でそれを真似る。切った豆腐をいくつか包丁に乗せると、手首が少し震えていた。
「大丈夫よ。そのまま……そう、鍋のところまで持ってきて」
しげるは息を詰めたまま、鍋の縁に包丁の背をそっと寄せる。豆腐がするり、と湯の中に沈んだ。ほっと安堵するしげるの肩から、小さく力が抜ける。すみれはその様子に思わず目を細めた。
「上手よ。もうひとつ、できる?」
「はい」
ほんの小さなやりとりが二人の間にゆっくり積もっていくのをすみれは感じていた。味噌汁の湯気が落ち着いたころ、ちゃぶ台に朝の膳を並べる。白いご飯と味噌汁、焼き立ての鮭、きゅうりの浅漬けに海苔。どれも特別なものではないけれど、この時代のどこにでも転がっているような、温かい朝食だ。
「いただきます」
二人は向かい、静かに手を合わせた。食卓には、味噌汁の香りと魚の脂の匂いだけが満ちていた。しげるは相変わらず無表情のまま黙々と箸を動かす。なのに、その沈黙がどこか心地よかった。
……こんなことを、またいつか誰かと過ごせたらって、思っていたな。
すみれがそう考えた瞬間、夫の顔を思い出し胸がちくりと痛んだ。すみれは気持ちを切り替えるように息を整える。
「しげるくんの切ってくれたお豆腐とっても形がきれいよ」
「よかった。また手伝います」
「ありがとう……ねえ、しげるくん」
一度改めようと、名前を呼ぶと変に大ごとな話の前振りのように感じて少し失敗したと思った。
「今日はこれから仕事なんだ。夕方まで戻れないの」
しげるは顔を上げる。その目は相変わらず無表情なのに、真っすぐで大人びている。
「……しげるくんは学校? あ、全然家にいてくれてもいいのよ!」
”自分の居場所がない”と話していた彼の顔を思い出し、すみれは喉の奥が、わずかに詰まった。しかし、しげるは淡々と答える。
「学校いきます」
その言葉に、行くのか、と安堵したような、”居場所がない場所”へ送り出す後ろめたさが入り混じる。自分でも整理のつかない複雑な感情だった。
「南沢さんって……どこに勤めてるの?」
しげるが、わずかに間をあけて問うた。声はいつも通り感情が読めない。その質問自体がどんな意図を持っているかは謎だ。
「えっと……小さな町工場よ。ここから十五分くらい歩いたところにあるの」
しげるは静かに頷き、続けて口を開いた。
「仕事、何時に終わる?」
「だいたい……十七時過ぎ、かな。あ、夕食はいつも十八時半頃よ。それまでには帰ってきてね」
「……わかりました」
しげるは返事を受け止めるように、短く頷いた。食べ終わると、すみれは茶碗をまとめて運び、手際よく洗いものを済ませた。しげるも無言で箸や椀を拭いてくれた。その小さな気遣いが胸にじんとしみていた。
七輪の火を軽く処理し、家の中を軽く整えると、時計の針はもう出発の時間に差し掛かっていた。
「そろそろ行かないと」
パンプスに足を通そうとしたとき、ふと思い出し部屋へと戻る。すみれは箪笥の一番上の引き出しを引き、その奥から小さな箱を取り出した。
「忘れ物ですか?」
しげるがスニーカー履きながら問いかける。
「違うの。しげるくん、これ……家の鍵。持っておいてくれる?」
箱から鍵を取り出し差し出すと、しげるがわずかに目を瞬いた。本当に一瞬だけの、驚き。
「……いらない」
想定の返事。でも、拒絶というより遠慮がにじむ声だった。すみれは微笑んで、押しつけないように言う。
「持っているだけでいいの。困ったら入っていいから」
「……あんまり、こういうことしないほうがいいですよ」
「しげるくんだから渡しているのよ」
しげるは迷うように鍵を見つめ、少し遅れて、そっと受け取った。
戸を閉めて外に出る。朝の風は少し湿り気を含んでいた。すみれが歩き出すと、しげるも自然に横へ並ぶ。
――あら、同じ方向だったのね。
すみれはそれ以上深く考えず、いつもの道を、いつもの速さで歩き続けた。横を歩く少年の存在が、いつもとは違うことに心躍らせながら。
