嵐が明けたら
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夕日が、ゆっくりと街を染めていく。部屋から見える電柱が朱に照らされ、影を長く引きずっていた。
朝の静けさが嘘のように、表からは豆腐屋のラッパや戸の開け閉めの音が混ざり合って聞こえてくる。小さな長屋の一室にも、その暮らしのざわめきが薄く届いていた。うららは窯のふたを開ける。ふわりと立ちのぼる湯気の向こうで、白い米粒がつやりと光る。炊き立ての匂いが部屋いっぱいに広がった。底のほうが少しだけ焦げているが、十分だ。
ちゃぶ台の向こうでは、しげるが新聞を広げている。足を崩し、肘をつき、難しい顔で活字を追っている。十三歳の少年と新聞。その組み合わせが、どこか噛み合わない。
先ほどまで、畳の上で眠っていたことが嘘のようだった。商店街から戻ったときも、まだ起きなかった。声をかけようとして、やめた。呼吸は深く、眉間の皺もなく、ただ静かだった。そして、その顔は年相応だった。険しさも、張り詰めたものもなく、ただの少年だった。
ああ、本当はこういう顔をするのだ、と胸の奥がわずかに重くなる。
険しい顔をしなければならない理由があるのだろう。まだ子どもなのに。それが、うららには少しだけやるせなかった。そんな考えを吹き飛ばすように少し声の調子を上げて声をかける。
「気になるニュースでもあった?」
「なにも。何か大きな事件でもって思ったんですがね」
そう言うとしげるは興味を失ったようにぽいっと新聞をちゃぶ台の下へ投げ捨てた。
「大きな事件がないのはいいことね……はい、ご飯できたわよ」
ちゃぶ台の上に並ぶ、つやつやの白飯、味噌汁、焼き魚。特別なものは何もない。けれど、湯気が立つたび、部屋の空気が柔らかくなっていく。
「いい匂い……」
「おかわりあるからね」
「……やった」
しげるは、素直に笑った。その一瞬がまるで、部屋の中のすべてを少し明るくしたようだった。
食後、うららは洗い物をしながら、ちらちらと彼の様子を見ていた。しげるは窓の外をぼんやり眺めている。街灯がひとつ、またひとつと灯りはじめる時間。白い髪がその光を受けて、まるで月のように淡く輝いていた。
その後は静かなものだった、銭湯に入りに行き、歯を磨き身支度を整えると布団を二つ並べて、電気を落とす。障子から柔い街の灯りが細く差し込み、部屋を淡い橙色に染めていた。しげるが布団の中からぽつりとつぶやいた。
「……南沢さん」
「ん?」
「僕もう少しここにいちゃだめですか」
その声は、子どもが夜に見せる甘えのようだった。暗がりの中でぽつりと置かれたその言葉が、うららの内側に静かに響く。
「……好きにすればいいわ。ここ狭いけど、まあ……しげる君ならね」
返した瞬間、自分がどれだけ彼を心配していたのか、うららは気づいた。
「……ありがとう、南沢さん」
「どういたしまして」
窓の外では風がやみ、月が顔を出していた。白い髪の少年は、うっすらと月明かりを受けながら眠っていた。うららはその横顔を見つめながらそっと目を閉じた。
そのあと、静かになった部屋に、二人の呼吸だけがゆっくりと重なっていく。
――台風の翌日、知らない少年を拾った朝。
その日から、彼女の世界は少しずつ、音を取り戻し始めていた。
朝の静けさが嘘のように、表からは豆腐屋のラッパや戸の開け閉めの音が混ざり合って聞こえてくる。小さな長屋の一室にも、その暮らしのざわめきが薄く届いていた。うららは窯のふたを開ける。ふわりと立ちのぼる湯気の向こうで、白い米粒がつやりと光る。炊き立ての匂いが部屋いっぱいに広がった。底のほうが少しだけ焦げているが、十分だ。
ちゃぶ台の向こうでは、しげるが新聞を広げている。足を崩し、肘をつき、難しい顔で活字を追っている。十三歳の少年と新聞。その組み合わせが、どこか噛み合わない。
先ほどまで、畳の上で眠っていたことが嘘のようだった。商店街から戻ったときも、まだ起きなかった。声をかけようとして、やめた。呼吸は深く、眉間の皺もなく、ただ静かだった。そして、その顔は年相応だった。険しさも、張り詰めたものもなく、ただの少年だった。
ああ、本当はこういう顔をするのだ、と胸の奥がわずかに重くなる。
険しい顔をしなければならない理由があるのだろう。まだ子どもなのに。それが、うららには少しだけやるせなかった。そんな考えを吹き飛ばすように少し声の調子を上げて声をかける。
「気になるニュースでもあった?」
「なにも。何か大きな事件でもって思ったんですがね」
そう言うとしげるは興味を失ったようにぽいっと新聞をちゃぶ台の下へ投げ捨てた。
「大きな事件がないのはいいことね……はい、ご飯できたわよ」
ちゃぶ台の上に並ぶ、つやつやの白飯、味噌汁、焼き魚。特別なものは何もない。けれど、湯気が立つたび、部屋の空気が柔らかくなっていく。
「いい匂い……」
「おかわりあるからね」
「……やった」
しげるは、素直に笑った。その一瞬がまるで、部屋の中のすべてを少し明るくしたようだった。
食後、うららは洗い物をしながら、ちらちらと彼の様子を見ていた。しげるは窓の外をぼんやり眺めている。街灯がひとつ、またひとつと灯りはじめる時間。白い髪がその光を受けて、まるで月のように淡く輝いていた。
その後は静かなものだった、銭湯に入りに行き、歯を磨き身支度を整えると布団を二つ並べて、電気を落とす。障子から柔い街の灯りが細く差し込み、部屋を淡い橙色に染めていた。しげるが布団の中からぽつりとつぶやいた。
「……南沢さん」
「ん?」
「僕もう少しここにいちゃだめですか」
その声は、子どもが夜に見せる甘えのようだった。暗がりの中でぽつりと置かれたその言葉が、うららの内側に静かに響く。
「……好きにすればいいわ。ここ狭いけど、まあ……しげる君ならね」
返した瞬間、自分がどれだけ彼を心配していたのか、うららは気づいた。
「……ありがとう、南沢さん」
「どういたしまして」
窓の外では風がやみ、月が顔を出していた。白い髪の少年は、うっすらと月明かりを受けながら眠っていた。うららはその横顔を見つめながらそっと目を閉じた。
そのあと、静かになった部屋に、二人の呼吸だけがゆっくりと重なっていく。
――台風の翌日、知らない少年を拾った朝。
その日から、彼女の世界は少しずつ、音を取り戻し始めていた。
