嵐が明けたら
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午後の光が、障子の隙間からこぼれ落ちていた。
昨日の台風が嘘のように晴れ、濡れていたアスファルトは乾きはじめ、むっとする陽気のなかに生温い土の匂いが混じっている。すみれは、洗濯物をぱたぱたとはためかせながら、庭から部屋の中をちらりと見た。
ちゃぶ台の前、少年が正座している。借り物のゆったりした部屋着に身を包んだ、白い髪の少年・赤木しげる。湯上がりの髪先にはいくつも小さな水滴が残り、木枠の窓から差し込む薄い朝の光に照らされて、銀糸のようにきらりと揺れた。食事を済ませたあと、すみれは彼を近所の銭湯へ送り出した。
――あれだけ冷えていたのだもの。広い湯に浸かったほうがいいわ。
そう思いながら、戸口の引き戸越しに彼の背中が路地の向こうへ消えていくのを見送った。しげるがいない間、すみれは彼の服を洗った。流し込まれる水の冷たさに思わず肩をすくめながら、泥のこびりついた布地を揉みしだくと、黒ずんだ水がじわりと広がっていく。その色を見ていると、少年がどんな夜を越えてきたのか、胸の奥がほの暗く痛んだ。
今、しげるは湯気の余韻をまとい、古いちゃぶ台の前に静かに座っている。外ではまだ風が残ったまま、どこかの家の洗濯ハサミがカタン、と揺れる音がした。遠くのほうでは子供の遊ぶ声、布団をたたく音、水の流れる音が薄い木造の壁越しに、昭和の朝の気配がゆっくりとしみこんでくる。サンダルを脱いで部屋に入ると、しげるはちらりとすみれを見上げた。その視線には年齢に似つかわしくない静けさが宿っているのに、不思議と部屋全体の空気がやわらいでいく気がした。
「しげる君、体調はどう? 寒気とかしてない?」
「いえ。大丈夫です。……南沢さんのおかげです」
丁寧な言葉遣いに、すみれは思わずふっと笑った。誰かを気遣って笑う。そんなささいな行為が、自分の身体にこんなにも軽く乗ることに、少しだけ驚いた。
「なんだか、しげる君って不思議よね。落ち着いた雰囲気というか……」
「そうですか?」
「うん。黙っていると、十三歳って感じが全然しないの」
言いながら指先に、落ち着かない感覚が残る。“こんなふうに誰かと笑う”それは、夫を失ってから長いあいだ遠ざかっていた感覚だった。恥ずかしさをごまかすようにすみれは話題を変えた。
「しげる君、家には……帰らなくていいの?」
しげるはしばらく視線を落とし、やがて窓の外へゆっくりと目を向けた。風が雲を押し流し、その隙間から柔らかな午後の光が射し込む。
「帰る場所はありません」
「ありませんって……今までどこに住んでいたの?」
「いろんな場所です。どこにいても、自分がそこにいていいって思えなかったから」
すみれは喉がつっかえるような苦しさを感じた。“帰る場所が急に他人の家になってしまう瞬間”を彼女も知っていた。夫を失った夜、家に灯る明かりが自分のためではないように思えた、あの重たい空気を。
「……そっか」
返す言葉を探しながら、胸の奥が静かに疼くのを感じた。
「今夜は、泊まっていきなさい。布団あるから。ほら、無理に外にいなくてもいいの」
しげるは、一瞬だけ驚いたように目を丸くした。その素直な表情が、逆に胸を打つ。
「いいんですか」
「もちろん。風邪引いたら可哀想だもの」
「……ありがとうございます」
ふっと、彼の顔が年相応にやわらぐ。窓から吹き込む光が頬に触れ、その柔らかさが一層際立った。午後の光が二人の間に薄い膜のように漂っている。窓際のコップに射す光が反射し、ちゃぶ台に小さな虹色の輪を落とした。その虹色をみつめながら、しげるが静かに言った。
「南沢さん」
「なあに?」
「人って、不思議ですね。嵐が終わると、どこかの誰かが助けてくれる」
「……そんなうまくいくものじゃないわよ」
「でも、今日はそうでした」
その、あまりに素直な言葉がすみれの心に満ちた瞬間、部屋の光が変わったように見えた。しげるの白い髪が、光の粒子をまとって揺れている。その肩に差した午後の陽射しは、まるでほんの少しの幸福だけを選んで照らし出しているようだった。すみれは気づいた。静かな部屋の風景は、今日からすこし違って見えるだろう、と。たったひとりの少年が混じっただけで、光の温度が変わるということを。
昨日の台風が嘘のように晴れ、濡れていたアスファルトは乾きはじめ、むっとする陽気のなかに生温い土の匂いが混じっている。すみれは、洗濯物をぱたぱたとはためかせながら、庭から部屋の中をちらりと見た。
ちゃぶ台の前、少年が正座している。借り物のゆったりした部屋着に身を包んだ、白い髪の少年・赤木しげる。湯上がりの髪先にはいくつも小さな水滴が残り、木枠の窓から差し込む薄い朝の光に照らされて、銀糸のようにきらりと揺れた。食事を済ませたあと、すみれは彼を近所の銭湯へ送り出した。
――あれだけ冷えていたのだもの。広い湯に浸かったほうがいいわ。
そう思いながら、戸口の引き戸越しに彼の背中が路地の向こうへ消えていくのを見送った。しげるがいない間、すみれは彼の服を洗った。流し込まれる水の冷たさに思わず肩をすくめながら、泥のこびりついた布地を揉みしだくと、黒ずんだ水がじわりと広がっていく。その色を見ていると、少年がどんな夜を越えてきたのか、胸の奥がほの暗く痛んだ。
今、しげるは湯気の余韻をまとい、古いちゃぶ台の前に静かに座っている。外ではまだ風が残ったまま、どこかの家の洗濯ハサミがカタン、と揺れる音がした。遠くのほうでは子供の遊ぶ声、布団をたたく音、水の流れる音が薄い木造の壁越しに、昭和の朝の気配がゆっくりとしみこんでくる。サンダルを脱いで部屋に入ると、しげるはちらりとすみれを見上げた。その視線には年齢に似つかわしくない静けさが宿っているのに、不思議と部屋全体の空気がやわらいでいく気がした。
「しげる君、体調はどう? 寒気とかしてない?」
「いえ。大丈夫です。……南沢さんのおかげです」
丁寧な言葉遣いに、すみれは思わずふっと笑った。誰かを気遣って笑う。そんなささいな行為が、自分の身体にこんなにも軽く乗ることに、少しだけ驚いた。
「なんだか、しげる君って不思議よね。落ち着いた雰囲気というか……」
「そうですか?」
「うん。黙っていると、十三歳って感じが全然しないの」
言いながら指先に、落ち着かない感覚が残る。“こんなふうに誰かと笑う”それは、夫を失ってから長いあいだ遠ざかっていた感覚だった。恥ずかしさをごまかすようにすみれは話題を変えた。
「しげる君、家には……帰らなくていいの?」
しげるはしばらく視線を落とし、やがて窓の外へゆっくりと目を向けた。風が雲を押し流し、その隙間から柔らかな午後の光が射し込む。
「帰る場所はありません」
「ありませんって……今までどこに住んでいたの?」
「いろんな場所です。どこにいても、自分がそこにいていいって思えなかったから」
すみれは喉がつっかえるような苦しさを感じた。“帰る場所が急に他人の家になってしまう瞬間”を彼女も知っていた。夫を失った夜、家に灯る明かりが自分のためではないように思えた、あの重たい空気を。
「……そっか」
返す言葉を探しながら、胸の奥が静かに疼くのを感じた。
「今夜は、泊まっていきなさい。布団あるから。ほら、無理に外にいなくてもいいの」
しげるは、一瞬だけ驚いたように目を丸くした。その素直な表情が、逆に胸を打つ。
「いいんですか」
「もちろん。風邪引いたら可哀想だもの」
「……ありがとうございます」
ふっと、彼の顔が年相応にやわらぐ。窓から吹き込む光が頬に触れ、その柔らかさが一層際立った。午後の光が二人の間に薄い膜のように漂っている。窓際のコップに射す光が反射し、ちゃぶ台に小さな虹色の輪を落とした。その虹色をみつめながら、しげるが静かに言った。
「南沢さん」
「なあに?」
「人って、不思議ですね。嵐が終わると、どこかの誰かが助けてくれる」
「……そんなうまくいくものじゃないわよ」
「でも、今日はそうでした」
その、あまりに素直な言葉がすみれの心に満ちた瞬間、部屋の光が変わったように見えた。しげるの白い髪が、光の粒子をまとって揺れている。その肩に差した午後の陽射しは、まるでほんの少しの幸福だけを選んで照らし出しているようだった。すみれは気づいた。静かな部屋の風景は、今日からすこし違って見えるだろう、と。たったひとりの少年が混じっただけで、光の温度が変わるということを。
