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家の掃除は思った以上に手がかかった。
最初に家へ足を踏み入れたときよりはましだったが、長い間人の住まなかった家は、やはり一筋縄ではいかなかった。窓を開け放って空気を入れ替え、積もった埃を払い、畳を拭く。庭に伸び放題だった草も少しずつ刈り取っていった。
一度に終わるような量ではなく、休みのたびに通っては手を動かした。
しげるも気が向けば顔を出したが、箒を持つより縁側に腰掛けている時間のほうが長かった。それでも重い荷物を運ぶときだけは黙って手を貸してくれるので、すみれも文句は言わなかった。
十二月に入る頃には、ようやく人が暮らせる形が見え始めた。
古いながらも使える場所はそのまま残し、足りないものだけを少しずつ買い足していく。アパートから持ってきた卓や箪笥を置くと、がらんとしていた部屋にも少しずつ生活の気配が宿った。
そうして慌ただしく日々を過ごしているうちに、年の瀬はあっという間に近づいてきた。
冷たい風の吹くある日、最後の荷物を運び終えたすみれは、ひとり部屋の中央に立った。
畳の匂い。
台所に並べた食器。
窓辺に置いたこたつ。
まだどこか落ち着かないものの、そこには確かに自分の暮らしがあった。
年をまたぐ少し前のことだった。休日の午前中、すみれは近所への挨拶回りをしていた。
風呂敷に包んでいるのは、町の荒物屋で買った石鹸の詰め合わせだ。高価なものではないが、当時の引っ越し挨拶としてはそう珍しくもない。
「このたび向こうの家に越してまいりました、南沢と申します」
そう言って頭を下げるたび、相手も「ああ、あの空いていた家ね」と頷いてくれる。古くから住む人が多い土地らしく、どの家も互いの顔をよく知っているようだった。
何軒目かの家を訪ねたときだった。玄関先に出てきた初老の女性は、石鹸を受け取ると人の良い笑みを浮かべた。
「あらあら、ご丁寧にどうも」
「いえ、こちらこそ。これからよろしくお願いいたします」
「ずっと入っていなかったもの、あの家を片付けるのは大変だったでしょう」
「そうですね。でも何とか」
すみれが笑うと、女性も何度か頷く。それから、ふと思い出したように言った。
「そういえば、今日は旦那さんいらっしゃらないのね」
その言葉に、すみれは思わず顔を上げた。
「え――」
違います、と言いかけて口を閉じる。脳裏に、以前住んでいたアパートの大家の顔が浮かんだ。
あのお見合い話。断る暇もなく進んでいった縁談。善意なのは分かっている。分かっているからこそ、断りづらかった。
もしここでも独り身だと知れたら。また似たようなことになるかもしれない。親切な人ほど、放っておいてはくれない。
ほんの一瞬の逡巡だった。しかしその間に女性は話を続ける。
「荷物運んでらしたでしょう? 背の高い男前な旦那さん」
すみれは曖昧に笑った。
「……あ、はい。今日は出ていまして」
言った瞬間、胸の奥がちくりと痛む。
――ごめんなさい。
心の中でそっと謝る。たぶんしげるが聞いたら、「好きにしたら」とでも言うだろう。あるいは興味も示さないかもしれない。けれど勝手に旦那扱いしてしまったことに、妙な後ろめたさがあった。
「手伝ってくれるなんて、いい旦那さんねえ」
「そうでしょうか」
「だって引っ越しのとき、よく見かけたもの」
それはたぶん、荷物を運んでいた姿だろう。実際には縁側で寝転がっていた時間の方が長かった気もするが。そのことを思い出して、少しだけ笑いそうになる。
「それにうちの人なんて何にもしないわよ」
「確かに、助かりました」
嘘ではなかった。女性は満足そうに頷く。
「やっぱり男手があると違うものねえ」
すみれは曖昧な笑みを浮かべたまま、ただ頭を下げた。
帰り道、冬の風が頬を撫でる。
旦那さん。
そんな言葉を向けられるたび、まだ少しだけ落ち着かない。けれど訂正しなかったのは自分だ。今さらどうこう言う話でもない。小さく息を吐き、すみれは家路を急いだ。
玄関を開けると、冷えた空気の向こうにすでに見慣れた畳の部屋がある。もう空き家ではない。自分が帰る家なのだ。
その夜、すみれはひとり台所に立っていた。まだ段ボールは部屋の隅に積まれたままで、箪笥の引き出しも半分しか埋まっていない。けれど、流し台の上には洗った茶碗が二つ並び、窓辺には長屋から持ってきた小さな花瓶が置かれていた。
何もなかった家に、自分の物が少しずつ根を下ろしていく。
そのことが、不思議だった。
鍋の中で味噌汁が静かに煮える。昆布と煮干しの匂いが部屋に広がると、冷え切っていた空気が少しだけ柔らかくなった。背後で、畳の軋む音がする。
「いい匂い」
振り返ると、しげるがいつの間にか上がり込んでいた。外の冷気をまとったまま、当たり前の顔で部屋に入ってくる。
「おかえりなさい」
「ただいま」
しげるはそれ以上気にした様子もなく、こたつに潜り込む。彼は足を伸ばして満足そうに息を吐いた。すみれは魔法瓶に入った暖かいお茶を湯呑みへ注ぐとしげるへ差し出す。
「もう少しでご飯できるから、食べるでしょう?」
「うん」
しげるの返事を聞くとまた食事の準備へと戻る。味噌汁を椀によそい、焼いた魚を皿に盛る。特別な献立ではない。あの頃の長屋にいた時と同じような夕飯だ。
それなのに、卓に向かい合って座ると、どこか違って見えた。
部屋が広いからか。窓の外に大きな庭があるからか。
それとも――。
「何」
しげるが箸を止める。
「え?」
「オレのこと見てた」
図星を付かれて、すみれは少しだけ視線を逸らした。しげるは追及せず、味噌汁を一口飲む。
「うまい」
「それはよかった」
すみれは誤魔化すように湯呑みへ手を伸ばした。視線を落としたまま一口飲み、それから何気ない顔を作って窓の方を見る。冬枯れの庭が暗がりの向こうに広がっていた。
「ねえ、しげるくん。あの庭、春になったら何か植えてもいい?」
すみれが言うと、しげるは「ああ」と気のない返事をした。
「葱とか、紫蘇とか。ちょっとあると便利だし。……あとお花を植えてもいいなって思うのよね」
「いいんじゃない?」
「やった。春が楽しみ。また春になったら見に来て」
そう言ってから、すみれは少しだけ笑う。春はまだ先だ。しげるがその頃どこにいるのかなんて、分からない。だからこそ、帰ってくる理由をひとつくらい作っておきたかったのだ。
「それだとまだ食えないな」
「それはそうね」
食べることしか考えていないしげるがおかしくて、すみれはまた笑う。笑ったあと、ふと気づく。
ここの家では、自分は前より声を出して笑っている。以前の部屋では、夜は静かに過ごすものだった。 隣に音を聞かせないように、なるべく気配を小さくして。けれどこの家は違う。古いし、冬は少し冷える。それでも、息を潜めなくていい。しげるが勝手に上がり込み、一緒に夕飯を食べていく。それを嬉しいと思う自分がいる。
——帰ってくる場所。
ふと、そんな言葉が胸をよぎった。テレビもラジオもつけていない。他に聞こえるのは箸の触れる音と、ときどき庭を渡る風の気配だけ。けれど、その静けさは以前の部屋とは違っていた。
食事を終え、すみれが食器を片付けていると、背後から声が飛んだ。
「こたつ、いいな」
「でしょ。冬はこれがないと生きられないもの」
「オレも欲しいな」
「あら、ここはしげるくんの家でもあるのよ?」
「じゃあ、オレの家財ってことか」
「人のこたつを勝手に所有物にしないで」
しげるは喉の奥で笑った。洗い終えた茶碗を拭きながら、すみれはふと窓の外を見る。庭の木々は冬の夜に黒く沈み、遠くでどこかの家の戸が閉まる音がした。
ここに来る前、この家は止まった時間の中にあるように見えた。けれど今は違う。こたつの熱。湯気の立つ味噌汁。彼が勝手に上がり込んでくる足音。
そんな小さなものたちが、家を少しずつ現在へ引き戻している。
「……ねえ、しげるくん。……ありがとう」
「なにが?」
「この家に住まわせてくれて」
「まだ言ってるの」
「だって嬉しいんだもの」
そわそわとしたすみれをよそに、しげるはこたつに頬杖をついたまま、少し考えるふりをした。
「たまに泊めてくださいよ」
「フフ……安い家賃ね」
「高いと出ていっちゃいそうだから」
「出ていかないわよ」
「ふーん」
しげるはそれ以上何も言わなかった。
すみれは布巾を畳み、こたつの向かいに座り直す。足を入れると、ようやく温まってきた熱がじんわり伝わってきた。窓の外では風が鳴っている。
けれど部屋の中には、こたつの熱があり、洗った食器があり、誰かの気配が残っている。ほんの少し前まで空き家だったとは思えない。
すみれは湯呑みに手を添えた。
この家で迎える最初の冬は、思っていたよりずっと暖かそうだった。
最初に家へ足を踏み入れたときよりはましだったが、長い間人の住まなかった家は、やはり一筋縄ではいかなかった。窓を開け放って空気を入れ替え、積もった埃を払い、畳を拭く。庭に伸び放題だった草も少しずつ刈り取っていった。
一度に終わるような量ではなく、休みのたびに通っては手を動かした。
しげるも気が向けば顔を出したが、箒を持つより縁側に腰掛けている時間のほうが長かった。それでも重い荷物を運ぶときだけは黙って手を貸してくれるので、すみれも文句は言わなかった。
十二月に入る頃には、ようやく人が暮らせる形が見え始めた。
古いながらも使える場所はそのまま残し、足りないものだけを少しずつ買い足していく。アパートから持ってきた卓や箪笥を置くと、がらんとしていた部屋にも少しずつ生活の気配が宿った。
そうして慌ただしく日々を過ごしているうちに、年の瀬はあっという間に近づいてきた。
冷たい風の吹くある日、最後の荷物を運び終えたすみれは、ひとり部屋の中央に立った。
畳の匂い。
台所に並べた食器。
窓辺に置いたこたつ。
まだどこか落ち着かないものの、そこには確かに自分の暮らしがあった。
年をまたぐ少し前のことだった。休日の午前中、すみれは近所への挨拶回りをしていた。
風呂敷に包んでいるのは、町の荒物屋で買った石鹸の詰め合わせだ。高価なものではないが、当時の引っ越し挨拶としてはそう珍しくもない。
「このたび向こうの家に越してまいりました、南沢と申します」
そう言って頭を下げるたび、相手も「ああ、あの空いていた家ね」と頷いてくれる。古くから住む人が多い土地らしく、どの家も互いの顔をよく知っているようだった。
何軒目かの家を訪ねたときだった。玄関先に出てきた初老の女性は、石鹸を受け取ると人の良い笑みを浮かべた。
「あらあら、ご丁寧にどうも」
「いえ、こちらこそ。これからよろしくお願いいたします」
「ずっと入っていなかったもの、あの家を片付けるのは大変だったでしょう」
「そうですね。でも何とか」
すみれが笑うと、女性も何度か頷く。それから、ふと思い出したように言った。
「そういえば、今日は旦那さんいらっしゃらないのね」
その言葉に、すみれは思わず顔を上げた。
「え――」
違います、と言いかけて口を閉じる。脳裏に、以前住んでいたアパートの大家の顔が浮かんだ。
あのお見合い話。断る暇もなく進んでいった縁談。善意なのは分かっている。分かっているからこそ、断りづらかった。
もしここでも独り身だと知れたら。また似たようなことになるかもしれない。親切な人ほど、放っておいてはくれない。
ほんの一瞬の逡巡だった。しかしその間に女性は話を続ける。
「荷物運んでらしたでしょう? 背の高い男前な旦那さん」
すみれは曖昧に笑った。
「……あ、はい。今日は出ていまして」
言った瞬間、胸の奥がちくりと痛む。
――ごめんなさい。
心の中でそっと謝る。たぶんしげるが聞いたら、「好きにしたら」とでも言うだろう。あるいは興味も示さないかもしれない。けれど勝手に旦那扱いしてしまったことに、妙な後ろめたさがあった。
「手伝ってくれるなんて、いい旦那さんねえ」
「そうでしょうか」
「だって引っ越しのとき、よく見かけたもの」
それはたぶん、荷物を運んでいた姿だろう。実際には縁側で寝転がっていた時間の方が長かった気もするが。そのことを思い出して、少しだけ笑いそうになる。
「それにうちの人なんて何にもしないわよ」
「確かに、助かりました」
嘘ではなかった。女性は満足そうに頷く。
「やっぱり男手があると違うものねえ」
すみれは曖昧な笑みを浮かべたまま、ただ頭を下げた。
帰り道、冬の風が頬を撫でる。
旦那さん。
そんな言葉を向けられるたび、まだ少しだけ落ち着かない。けれど訂正しなかったのは自分だ。今さらどうこう言う話でもない。小さく息を吐き、すみれは家路を急いだ。
玄関を開けると、冷えた空気の向こうにすでに見慣れた畳の部屋がある。もう空き家ではない。自分が帰る家なのだ。
その夜、すみれはひとり台所に立っていた。まだ段ボールは部屋の隅に積まれたままで、箪笥の引き出しも半分しか埋まっていない。けれど、流し台の上には洗った茶碗が二つ並び、窓辺には長屋から持ってきた小さな花瓶が置かれていた。
何もなかった家に、自分の物が少しずつ根を下ろしていく。
そのことが、不思議だった。
鍋の中で味噌汁が静かに煮える。昆布と煮干しの匂いが部屋に広がると、冷え切っていた空気が少しだけ柔らかくなった。背後で、畳の軋む音がする。
「いい匂い」
振り返ると、しげるがいつの間にか上がり込んでいた。外の冷気をまとったまま、当たり前の顔で部屋に入ってくる。
「おかえりなさい」
「ただいま」
しげるはそれ以上気にした様子もなく、こたつに潜り込む。彼は足を伸ばして満足そうに息を吐いた。すみれは魔法瓶に入った暖かいお茶を湯呑みへ注ぐとしげるへ差し出す。
「もう少しでご飯できるから、食べるでしょう?」
「うん」
しげるの返事を聞くとまた食事の準備へと戻る。味噌汁を椀によそい、焼いた魚を皿に盛る。特別な献立ではない。あの頃の長屋にいた時と同じような夕飯だ。
それなのに、卓に向かい合って座ると、どこか違って見えた。
部屋が広いからか。窓の外に大きな庭があるからか。
それとも――。
「何」
しげるが箸を止める。
「え?」
「オレのこと見てた」
図星を付かれて、すみれは少しだけ視線を逸らした。しげるは追及せず、味噌汁を一口飲む。
「うまい」
「それはよかった」
すみれは誤魔化すように湯呑みへ手を伸ばした。視線を落としたまま一口飲み、それから何気ない顔を作って窓の方を見る。冬枯れの庭が暗がりの向こうに広がっていた。
「ねえ、しげるくん。あの庭、春になったら何か植えてもいい?」
すみれが言うと、しげるは「ああ」と気のない返事をした。
「葱とか、紫蘇とか。ちょっとあると便利だし。……あとお花を植えてもいいなって思うのよね」
「いいんじゃない?」
「やった。春が楽しみ。また春になったら見に来て」
そう言ってから、すみれは少しだけ笑う。春はまだ先だ。しげるがその頃どこにいるのかなんて、分からない。だからこそ、帰ってくる理由をひとつくらい作っておきたかったのだ。
「それだとまだ食えないな」
「それはそうね」
食べることしか考えていないしげるがおかしくて、すみれはまた笑う。笑ったあと、ふと気づく。
ここの家では、自分は前より声を出して笑っている。以前の部屋では、夜は静かに過ごすものだった。 隣に音を聞かせないように、なるべく気配を小さくして。けれどこの家は違う。古いし、冬は少し冷える。それでも、息を潜めなくていい。しげるが勝手に上がり込み、一緒に夕飯を食べていく。それを嬉しいと思う自分がいる。
——帰ってくる場所。
ふと、そんな言葉が胸をよぎった。テレビもラジオもつけていない。他に聞こえるのは箸の触れる音と、ときどき庭を渡る風の気配だけ。けれど、その静けさは以前の部屋とは違っていた。
食事を終え、すみれが食器を片付けていると、背後から声が飛んだ。
「こたつ、いいな」
「でしょ。冬はこれがないと生きられないもの」
「オレも欲しいな」
「あら、ここはしげるくんの家でもあるのよ?」
「じゃあ、オレの家財ってことか」
「人のこたつを勝手に所有物にしないで」
しげるは喉の奥で笑った。洗い終えた茶碗を拭きながら、すみれはふと窓の外を見る。庭の木々は冬の夜に黒く沈み、遠くでどこかの家の戸が閉まる音がした。
ここに来る前、この家は止まった時間の中にあるように見えた。けれど今は違う。こたつの熱。湯気の立つ味噌汁。彼が勝手に上がり込んでくる足音。
そんな小さなものたちが、家を少しずつ現在へ引き戻している。
「……ねえ、しげるくん。……ありがとう」
「なにが?」
「この家に住まわせてくれて」
「まだ言ってるの」
「だって嬉しいんだもの」
そわそわとしたすみれをよそに、しげるはこたつに頬杖をついたまま、少し考えるふりをした。
「たまに泊めてくださいよ」
「フフ……安い家賃ね」
「高いと出ていっちゃいそうだから」
「出ていかないわよ」
「ふーん」
しげるはそれ以上何も言わなかった。
すみれは布巾を畳み、こたつの向かいに座り直す。足を入れると、ようやく温まってきた熱がじんわり伝わってきた。窓の外では風が鳴っている。
けれど部屋の中には、こたつの熱があり、洗った食器があり、誰かの気配が残っている。ほんの少し前まで空き家だったとは思えない。
すみれは湯呑みに手を添えた。
この家で迎える最初の冬は、思っていたよりずっと暖かそうだった。
