これから
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それから数日後、すみれはしげるに連れられ、例の家の前に立っていた。冬の空気は冷たく、息を吐くたび白くほどける。
簡素な塀の奥に、小さな平屋が見えた。庭木は好き放題に枝を伸ばし、手入れをされなくなって久しいことが窺える。中央に引き戸の玄関。その右手には大きな窓があり、日当たりだけは良さそうだった。けれど窓硝子は長年積もった埃に曇り、陽の光さえ、どこか鈍く見える。
思っていたよりも、ずっと静かな場所だった。人の暮らす気配は周囲にある。遠くで戸の閉まる音がし、どこかの家から夕餉の匂いも流れてくる。
なのに、この家だけが少し取り残されていた。時間だけが、ぽっかり止まっているようだった。
「いい加減、入りましょう」
隣でしげるが言う。寒さのせいか、それとも元からなのか、やる気のない声音だった。
「そうね」
すみれは小さく息を吸い、鍵を差し込み回す。少し固い感触のあと、かちり、と乾いた音がした。
引き戸を開ける。汚れた見た目に反して、戸は驚くほど素直に動いた。隙間から、冷えた空気が流れ出てくる。少し湿って、埃っぽい匂い。長く誰も帰ってこなかった家の匂いだった。
すみれは持参した古いスリッパを玄関に二足並べた。
「用意いいね」
「忘れられてるくらいだもの。埃、すごそうじゃない」
そう言いながら靴を脱ぎ、そっと上がる。床板が、わずかに軋んだ。足音だけが、やけに響く。
——なにも、ない。
思わず、そう呟きそうになる。畳の部屋が、静かに連なっている。けれど家具らしいものは一切なかった。卓もない。箪笥もない。
ただ、がらんどうの空間だけが、冷たく広がっている。声を出せば、きっと遠くまで響いてしまう。そんな静けさだった。すみれはゆっくり歩く。後ろを、しげるが気ままについてくる。衣擦れの音だけが、妙に近かった。
奥の部屋で、ふと足が止まる。
柱。
一本の柱に、いくつもの傷が刻まれていた。近づき、そっと指先でなぞる。浅い線が少しずつ、高くなっていく。子どもの頃、自分もやった——背比べだ。
柱に印をつけて、昨日より少し伸びたと喜ぶ。きっとそんな日々があったのだろう。小さな字で書かれた名前の隣には、少し大きくなった字があり、途中からは筆圧まで変わっている。
——ここに、いたんだ。
誰かが確かに暮らしていた。笑って、泣いて、叱られて、季節を越えて。背を伸ばしながら。その時間だけが、この柱に残されている。指先に、妙な温度が宿った気がした。そのとき、冷たい風が、すっと頬を撫でた。振り向くと、しげるが庭へ通じる窓を開けている。
「すみれさん、来て」
珍しく、少しだけ声が弾んでいた。
「どうしたの?」
「庭。思ったより広い」
外へ目を向けると雑草は伸び放題だった。けれど、思っていたよりずっと広い。洗濯物を干しても余りそうだったし、小さな子どもなら駆け回れるくらいある。窓のすぐ下には木の腰掛けが据えられ、簡素な縁側のようになっていた。
誰かがここに腰を下ろして、庭を眺めていたのだろうか。子どもがこの庭を走ったこともあったのかもしれない。そんな光景を想像しかけて、すみれは首を振った。本当のことは分からない。ただ、この家には確かに誰かが暮らした時間だけが残っていた。
「……いいお家ね」
自然と、声がこぼれた。何もない。なのに、不思議と寒々しくない。
むしろ、誰かがいた気配だけが静かに残っている。この家は、まだ終わっていないのかもしれない。窓枠に触れていた指先を離す。冷たかったはずなのに、少しだけ体温が移っていた。
ここで暮らしたら……。その思いが胸の内に静かに落ちてくる。もちろん簡単なことではない。まずは掃除をしなければならないし、暮らしを整えるための金も必要になるだろう。新しい生活を形にするだけで、しばらくは手一杯になるに違いない。それでも——。まっさらな部屋を見渡しながら、すみれは思う。ここなら、もう一度、始められるかもしれない。
「……住めそう?」
いつの間にかタバコをふかしながらしげるが言う。
「ええ。これから大変そうだわ」
そう返すと、しげるが喉の奥で小さく笑った。
「クク……それなら良かった」
風が、またひとつ部屋を抜けていく。冷たいのに、さっきほど寒くなかった。
簡素な塀の奥に、小さな平屋が見えた。庭木は好き放題に枝を伸ばし、手入れをされなくなって久しいことが窺える。中央に引き戸の玄関。その右手には大きな窓があり、日当たりだけは良さそうだった。けれど窓硝子は長年積もった埃に曇り、陽の光さえ、どこか鈍く見える。
思っていたよりも、ずっと静かな場所だった。人の暮らす気配は周囲にある。遠くで戸の閉まる音がし、どこかの家から夕餉の匂いも流れてくる。
なのに、この家だけが少し取り残されていた。時間だけが、ぽっかり止まっているようだった。
「いい加減、入りましょう」
隣でしげるが言う。寒さのせいか、それとも元からなのか、やる気のない声音だった。
「そうね」
すみれは小さく息を吸い、鍵を差し込み回す。少し固い感触のあと、かちり、と乾いた音がした。
引き戸を開ける。汚れた見た目に反して、戸は驚くほど素直に動いた。隙間から、冷えた空気が流れ出てくる。少し湿って、埃っぽい匂い。長く誰も帰ってこなかった家の匂いだった。
すみれは持参した古いスリッパを玄関に二足並べた。
「用意いいね」
「忘れられてるくらいだもの。埃、すごそうじゃない」
そう言いながら靴を脱ぎ、そっと上がる。床板が、わずかに軋んだ。足音だけが、やけに響く。
——なにも、ない。
思わず、そう呟きそうになる。畳の部屋が、静かに連なっている。けれど家具らしいものは一切なかった。卓もない。箪笥もない。
ただ、がらんどうの空間だけが、冷たく広がっている。声を出せば、きっと遠くまで響いてしまう。そんな静けさだった。すみれはゆっくり歩く。後ろを、しげるが気ままについてくる。衣擦れの音だけが、妙に近かった。
奥の部屋で、ふと足が止まる。
柱。
一本の柱に、いくつもの傷が刻まれていた。近づき、そっと指先でなぞる。浅い線が少しずつ、高くなっていく。子どもの頃、自分もやった——背比べだ。
柱に印をつけて、昨日より少し伸びたと喜ぶ。きっとそんな日々があったのだろう。小さな字で書かれた名前の隣には、少し大きくなった字があり、途中からは筆圧まで変わっている。
——ここに、いたんだ。
誰かが確かに暮らしていた。笑って、泣いて、叱られて、季節を越えて。背を伸ばしながら。その時間だけが、この柱に残されている。指先に、妙な温度が宿った気がした。そのとき、冷たい風が、すっと頬を撫でた。振り向くと、しげるが庭へ通じる窓を開けている。
「すみれさん、来て」
珍しく、少しだけ声が弾んでいた。
「どうしたの?」
「庭。思ったより広い」
外へ目を向けると雑草は伸び放題だった。けれど、思っていたよりずっと広い。洗濯物を干しても余りそうだったし、小さな子どもなら駆け回れるくらいある。窓のすぐ下には木の腰掛けが据えられ、簡素な縁側のようになっていた。
誰かがここに腰を下ろして、庭を眺めていたのだろうか。子どもがこの庭を走ったこともあったのかもしれない。そんな光景を想像しかけて、すみれは首を振った。本当のことは分からない。ただ、この家には確かに誰かが暮らした時間だけが残っていた。
「……いいお家ね」
自然と、声がこぼれた。何もない。なのに、不思議と寒々しくない。
むしろ、誰かがいた気配だけが静かに残っている。この家は、まだ終わっていないのかもしれない。窓枠に触れていた指先を離す。冷たかったはずなのに、少しだけ体温が移っていた。
ここで暮らしたら……。その思いが胸の内に静かに落ちてくる。もちろん簡単なことではない。まずは掃除をしなければならないし、暮らしを整えるための金も必要になるだろう。新しい生活を形にするだけで、しばらくは手一杯になるに違いない。それでも——。まっさらな部屋を見渡しながら、すみれは思う。ここなら、もう一度、始められるかもしれない。
「……住めそう?」
いつの間にかタバコをふかしながらしげるが言う。
「ええ。これから大変そうだわ」
そう返すと、しげるが喉の奥で小さく笑った。
「クク……それなら良かった」
風が、またひとつ部屋を抜けていく。冷たいのに、さっきほど寒くなかった。
