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しげると再会してから一か月が過ぎ、季節はすっかり冬になっていた。
すみれ相変わらず、同じ時間に起き、同じように働き、同じように帰ってくる。
変わったことといえば、部屋に電気こたつを入れたことくらいだろうか。
それ以外は、長屋にいた頃とほとんど変わらない。
変わらないはずなのに、うまく噛み合っていない。
いや、ひとつだけ、確かに変わってしまったものがある。
大家の態度だった。
あれ以来、あからさまではないにせよ、距離を置かれているのがわかる。
顔を合わせれば挨拶は返ってくる。けれど、以前のように声をかけられることも、余り物を分けてもらうことも、もうない。
あのときの、柔らかな気配だけが、きれいに取り払われていた。
——いや、当然だ。
すみれは小さく頭を振る。
あれは自分が悪い。彼女の息子に対して、あんな態度を取ったのだから。
——でも、あのお見合いだって。
強引だった。
断る間も与えられず、話は進められていた。
——だからって、あんなこと。
思考が行き止まり、すみれはそこで考えるのをやめた。
夕食を終え、後片付けも済ませた部屋は、ひどく静かだった。
こたつの中だけが、温かい。
夜は深く、家の内も外も静まり返っていた。
耳を澄ませば、沈黙のほうが音を立てているようだった。
すみれは卓の上に、小さな紙切れをいくつか並べた。
どれも似たような間取りだった。六畳に、狭い台所。
風呂付きのものもあれば、そうでないものもある。
端には、家賃が書き添えられていた。
先月から、いくつも見て回っている。
この部屋に住み続ける気には、どうしてもなれなかった。
紙の隣に、家計簿を開く。
今月の収入。
日々の出費。
残っている金。
指先でなぞるたび、紙がかすかに擦れる音がした。
端の方には、何度も書き直した跡が残っている。
薄くなった鉛筆の線が、重なり合っていた。
——これなら、どうにか。
ひとつの部屋に視線を落とす。
けれど、すぐに首を横に振った。
ぎりぎりだ。
やっていけないことはない。
けれど、何かひとつ狂えば、簡単に崩れる。
紙を押さえたまま、小さく息を吐く。
誰にも頼らずにやっていくと決めたはずなのに、計算を重ねるほどに、その決意のほうが削れていく。
しばらく、動けなかった。
視線だけが、紙の上を行き来する。
——どうしよう。
答えは出ない。
ただ時間だけが、静かに過ぎていく。
「なにしてるの?」
背後から、声が落ちてきた。
はっとして振り返る。
いつの間にか、しげるが部屋に上がり込んでいた。
まるで最初からそこにいたかのように、自然な顔で卓を覗き込んでいる。
「……おかえりなさい」
驚きを押し殺して言うと、しげるは返事をしないまま、紙のひとつを持ち上げた。
「部屋探してるの?」
簡単な間取り図を、興味なさそうに眺めている。
「うん……ちょっとね」
紙を揃えながら答える。
「というより、かなり気まずくって」
その言葉に、しげるの指が一瞬止まった。
けれどすぐに、何事もなかったように紙から目を離す。
「ふーん」
うららすみれ家計簿を閉じかけて、わずかに手を止める。
見られて困るものではないのに、そのままにしておくことが、なぜか落ち着かなかった。
「……どうにかは、なると思うんだけど。このアパートが破格だったのよね」
独り言のように言うと、しげるが顔を上げた。卓の上をもう一度見て、それから、何でもないことのように言う。
「じゃあ、オレのとこ来ればいいじゃない」
あまりにも自然で、引っかかりのない声音だった。
「……え?」
すみれは、すぐには意味を飲み込めなかった。
「家、ある」
それだけ。
「……しげるくん、家あったんだ」
思ったよりも軽い声が出る。
けれど、その内側で、何かが小さく引っかかる。
——家。
帰る場所。
自分の知らないところに、そんなものがあったのだと、遅れて実感する。
この人は、どこにも留まらないものだと、いつの間にか思い込んでいた。勝って、去って、また別の場所へ行く。そんな風に生きている人だと。だからこそ、自分の知らない場所に「家」があるという事実が、妙に胸をざわつかせた。
——何を考えているの。
すぐに、その思いを押し込める。
しげるはもう子どもではない。
どこに住もうと、どんな暮らしをしていようと、不思議なことではない。
そのうち、誰かと暮らすことだって、あるのかもしれない。……あるの、かな?このしげるくんが?
そこまで考えて、すみれは視線を落とした。
紙の上の数字が、急に遠く見える。
「結構前に貰ったんだ、家」
しげるが言う。
「……もらったって」
「ギャンブルの勝ち分」
あっさりとした言い方だった。詳しく聞かなくても、だいたいのことは想像がつく。
「……そこ、住んでるの?」
気づけば、そう聞いていた。
「いや、入ったことねえな」
その言葉が、すとんと胸に落ちる。気づかないうちに張っていたものが、わずかにほどけた。
「……そう」
紙の端を揃えながら、すみれは小さく息をつく。
理由はうまく説明できない。
けれど、なぜか少しだけ——ほっとしている。
「空いてるから使えばいい」
当然のように言う。
すみれはしばらく黙ったまま、紙を見つめていた。
指先で、同じ場所を何度もなぞる。
やがて、小さく息を吐く。
「……家賃は、どれほど払えばいいでしょうか」
顔を上げたときには、少しだけよそよそしい声になっていた。
「いらねえ」
「そういうわけにはいかないわ」
間を置かずに返す。しげるは少し考えて、それからどうでもよさそうに言った。
「じゃあ、泊めてよ」
「……え?」
「いつもみたいに」
それだけ言って、すみれを見る。すみれは一瞬ぽかんとして、それから思わず笑った。
「……なにそれ。しげるくんの家でしょ」
くすくすと笑いがこぼれる。しげるは肩をすくめる。
「貰ったことすら、忘れてたくらいだ」
あまりにも軽い言い方で、うららはまた少し笑った。笑いながら、ほんの少しだけ考える。しげるは卓の上の紙を、もう一度指で弾いた。
「考えといて」
それだけ言って、もう興味を失ったように視線を逸らした。
「それより何か食うもんない?」
「うん、ちょっと待ってね」
すみれは家計簿閉じキッチンへ向かう。少しの希望が見えてきていた。
すみれ相変わらず、同じ時間に起き、同じように働き、同じように帰ってくる。
変わったことといえば、部屋に電気こたつを入れたことくらいだろうか。
それ以外は、長屋にいた頃とほとんど変わらない。
変わらないはずなのに、うまく噛み合っていない。
いや、ひとつだけ、確かに変わってしまったものがある。
大家の態度だった。
あれ以来、あからさまではないにせよ、距離を置かれているのがわかる。
顔を合わせれば挨拶は返ってくる。けれど、以前のように声をかけられることも、余り物を分けてもらうことも、もうない。
あのときの、柔らかな気配だけが、きれいに取り払われていた。
——いや、当然だ。
すみれは小さく頭を振る。
あれは自分が悪い。彼女の息子に対して、あんな態度を取ったのだから。
——でも、あのお見合いだって。
強引だった。
断る間も与えられず、話は進められていた。
——だからって、あんなこと。
思考が行き止まり、すみれはそこで考えるのをやめた。
夕食を終え、後片付けも済ませた部屋は、ひどく静かだった。
こたつの中だけが、温かい。
夜は深く、家の内も外も静まり返っていた。
耳を澄ませば、沈黙のほうが音を立てているようだった。
すみれは卓の上に、小さな紙切れをいくつか並べた。
どれも似たような間取りだった。六畳に、狭い台所。
風呂付きのものもあれば、そうでないものもある。
端には、家賃が書き添えられていた。
先月から、いくつも見て回っている。
この部屋に住み続ける気には、どうしてもなれなかった。
紙の隣に、家計簿を開く。
今月の収入。
日々の出費。
残っている金。
指先でなぞるたび、紙がかすかに擦れる音がした。
端の方には、何度も書き直した跡が残っている。
薄くなった鉛筆の線が、重なり合っていた。
——これなら、どうにか。
ひとつの部屋に視線を落とす。
けれど、すぐに首を横に振った。
ぎりぎりだ。
やっていけないことはない。
けれど、何かひとつ狂えば、簡単に崩れる。
紙を押さえたまま、小さく息を吐く。
誰にも頼らずにやっていくと決めたはずなのに、計算を重ねるほどに、その決意のほうが削れていく。
しばらく、動けなかった。
視線だけが、紙の上を行き来する。
——どうしよう。
答えは出ない。
ただ時間だけが、静かに過ぎていく。
「なにしてるの?」
背後から、声が落ちてきた。
はっとして振り返る。
いつの間にか、しげるが部屋に上がり込んでいた。
まるで最初からそこにいたかのように、自然な顔で卓を覗き込んでいる。
「……おかえりなさい」
驚きを押し殺して言うと、しげるは返事をしないまま、紙のひとつを持ち上げた。
「部屋探してるの?」
簡単な間取り図を、興味なさそうに眺めている。
「うん……ちょっとね」
紙を揃えながら答える。
「というより、かなり気まずくって」
その言葉に、しげるの指が一瞬止まった。
けれどすぐに、何事もなかったように紙から目を離す。
「ふーん」
うららすみれ家計簿を閉じかけて、わずかに手を止める。
見られて困るものではないのに、そのままにしておくことが、なぜか落ち着かなかった。
「……どうにかは、なると思うんだけど。このアパートが破格だったのよね」
独り言のように言うと、しげるが顔を上げた。卓の上をもう一度見て、それから、何でもないことのように言う。
「じゃあ、オレのとこ来ればいいじゃない」
あまりにも自然で、引っかかりのない声音だった。
「……え?」
すみれは、すぐには意味を飲み込めなかった。
「家、ある」
それだけ。
「……しげるくん、家あったんだ」
思ったよりも軽い声が出る。
けれど、その内側で、何かが小さく引っかかる。
——家。
帰る場所。
自分の知らないところに、そんなものがあったのだと、遅れて実感する。
この人は、どこにも留まらないものだと、いつの間にか思い込んでいた。勝って、去って、また別の場所へ行く。そんな風に生きている人だと。だからこそ、自分の知らない場所に「家」があるという事実が、妙に胸をざわつかせた。
——何を考えているの。
すぐに、その思いを押し込める。
しげるはもう子どもではない。
どこに住もうと、どんな暮らしをしていようと、不思議なことではない。
そのうち、誰かと暮らすことだって、あるのかもしれない。……あるの、かな?このしげるくんが?
そこまで考えて、すみれは視線を落とした。
紙の上の数字が、急に遠く見える。
「結構前に貰ったんだ、家」
しげるが言う。
「……もらったって」
「ギャンブルの勝ち分」
あっさりとした言い方だった。詳しく聞かなくても、だいたいのことは想像がつく。
「……そこ、住んでるの?」
気づけば、そう聞いていた。
「いや、入ったことねえな」
その言葉が、すとんと胸に落ちる。気づかないうちに張っていたものが、わずかにほどけた。
「……そう」
紙の端を揃えながら、すみれは小さく息をつく。
理由はうまく説明できない。
けれど、なぜか少しだけ——ほっとしている。
「空いてるから使えばいい」
当然のように言う。
すみれはしばらく黙ったまま、紙を見つめていた。
指先で、同じ場所を何度もなぞる。
やがて、小さく息を吐く。
「……家賃は、どれほど払えばいいでしょうか」
顔を上げたときには、少しだけよそよそしい声になっていた。
「いらねえ」
「そういうわけにはいかないわ」
間を置かずに返す。しげるは少し考えて、それからどうでもよさそうに言った。
「じゃあ、泊めてよ」
「……え?」
「いつもみたいに」
それだけ言って、すみれを見る。すみれは一瞬ぽかんとして、それから思わず笑った。
「……なにそれ。しげるくんの家でしょ」
くすくすと笑いがこぼれる。しげるは肩をすくめる。
「貰ったことすら、忘れてたくらいだ」
あまりにも軽い言い方で、うららはまた少し笑った。笑いながら、ほんの少しだけ考える。しげるは卓の上の紙を、もう一度指で弾いた。
「考えといて」
それだけ言って、もう興味を失ったように視線を逸らした。
「それより何か食うもんない?」
「うん、ちょっと待ってね」
すみれは家計簿閉じキッチンへ向かう。少しの希望が見えてきていた。
