嵐が明けたら
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ゆったりとしたTシャツに半ズボン、足元は使い込まれた下駄という、まだ夏の名残を引きずった軽装のまま、しげるは長屋の軒先をくぐった。
左手には手桶を提げ、その中には紙袋に入った石鹸と白い手拭いが一枚きちんと収められている。右手の中では牛乳でも飲んできなさい、と少し多めにもらった五十円玉がじっとりと汗ばみ、体温を吸ってぬるくなっている。指先で硬貨をくるりと弾くと、冷たさが一瞬だけ掌を滑っては消えた。
細い路地を抜けると、銭湯の高い煙突が薄曇りの空に黒く突き刺さっているのが見える。煤けた壁に取り付けられた色あせた看板は左下の釘が外れかけており、風が吹くたびにギィ、と乾いた音を立てて揺れていた。その佇まいは、何十年も同じ場所で黙々と湯を沸かし続けてきた家長のような貫禄をまとっている。
暖簾をくぐった瞬間、湿り気を帯びた熱気が頬にまとわりつき、石鹸と湯の匂いが混ざり合った重たい空気が胸の奥まで入り込んできた。三和土の打ちっぱなしのコンクリートからひやりとした空気が這い上がり、足元から体温を奪う。外気との境目をはっきりと意識させられた。
下駄を脱ぎ、一段上がった板張りの床を踏みしめるたび、ぎしり、と古い木が鳴る。下足箱は年季の入った木製で、無数に並ぶ小さな扉には擦り切れた番号札が差し込まれている。空いている二十八番に手を伸ばした、そのときだった。
「おい」
背後から低い声が飛ぶ。振り返らず、横目だけで男を測ると、腕を組んだ腹の出た中年が顎をしゃくって言った。
「そこは山さんの場所じゃ。ほか使いな」
縄張りか、と内心でだけ呟く。しげるは何も答えないまま隣の札に手を伸ばし、木札を引き抜いた。乾いた木の音が小さく響き、男の視線が背中に刺さるが、それ以上は何も起きない。下駄を押し込み、扉を閉めると、番号札を抜くのと同時に内側で金具がかすかに鳴り、簡素な鍵がかかる仕組みになっているのが分かる。その音さえも、常連たちにとっては日常の一部なのだろう。
番台の老婆が高い位置からこちらを覗き込む。深く刻まれた皺に埋もれるような細い目が、頭の先から素足までゆっくりと辿ってくる。
「二十円」
しげるは掌の五十円玉を置き、木の台に触れた金属が軽い音を立てるのを聞いた。老婆は慣れた手つきで三十円を滑らせ、その間も視線を外さない。釣銭を受け取ったしげるは、無意識の癖で指先に重みを確かめた。老婆の目は見慣れない顔を値踏みする目、と分かる。だが、問いかけてはこない。
青い暖簾を押し分けると、“男”の白い文字が揺れ、さらに濃い熱気が全身を包み込んだ。
脱衣所は高い天井から差し込む光に満ち、うっすらと白んでいる。それは多少湯気のせいでもあるのだろう。回転する扇風機の前では子どもが声を震わせて遊び、その甲高い響きが梁に反射している。籐かごの並ぶ棚には衣類が乱雑に押し込まれ、袖や裾がだらしなく垂れ下がり、ここが誰かの生活の延長線上にあることを物語っていた。
しげるは迷わず隅の棚を選び、半袖シャツと半ズボンを脱いでかごに放り込む。露わになった体はまだ少年の細さを残しているが、その目だけは場に溶け込まず、湯気の向こうを冷ややかに見据えていた。手拭いを首に掛け、石鹸を持つ。ここではよそ者だ。見られていることを承知のうえで堂々とその視線を無視しながら、立ち込める湯気の奥へと足を踏み入れていく。
白い湯気の向こうに、富士山のペンキ絵が大きく広がっている。群青は濃く、やけに鮮やかで、湯煙に輪郭をぼかされながらも、その稜線だけはくっきりと浮かび上がっていた。洗い場に腰を下ろすと、蛇口をひねりお湯を桶に溜める。頭からひとかぶりしてから石鹸を泡立て、手早く頭から足先まで洗い流す。無駄のない動きで立ち上がると、そのまま湯船へと足を踏み入れた。
湯に浸かった体は、じわじわと熱を帯びていく。最初は皮膚を刺すようだった熱も、やがて輪郭を失い、肌にまとわりつく重さへと変わっていく。銭湯の蒸した空気や洗い場の湯だけでは抜けきらなかった芯の冷えが、足先から少しずつほどけていくのが分かった。肩まで沈めると、肺の奥に溜まっていた冷たい空気がゆっくりと抜けた。水の弾く音。桶の縁がぶつかる響き。誰かの笑い声が天井に反射して揺れる。無数の気配に囲まれながら、そのどれとも交わらず、ひとりで沈む。知らないうちに長く息が零れ落ちる。
何の気なしに入った長屋だった。海水浴帰りの夜通しの麻雀で、正直疲れていた。
ほんのすこし、体を休める場所があればそれでよかった。
ただ眠りたかった。
追ってくる連中も、いずれは諦める。
察も、もっと大きな騒ぎに目を奪われれば、こちらまで手は回らない。
それまで身を隠すための避難場所。
ただ、それだけのはずだった。それが、思いのほか妙なことになってしまったらしい。
湯気の奥に、彼女の顔がふと浮かぶ。弱ったものを見ると、迷わず手を差し伸べる目をしている。疑うより先に、心配が勝つ人間。可哀そうな少年を置いておけない。
――そう思わせるのは難しくない。
その役は、簡単だ。俯いて、無垢な少年の目を見せる、あとは余計なことを言わなければいい。演じるだけだ。何か聞かれてもそれらしいことを言えばいい。そう思いながら、しげるは目を閉じる。
湯の重みが瞼の裏まで染み込むようで、もう一度、ゆっくりと息を吐いた。
湯煙に包まれたその姿は、どう見ても、ただの少年が一人、熱い湯に身を沈めているだけだった。けれど、その胸の内まで読み取れる者は、誰もいない。
左手には手桶を提げ、その中には紙袋に入った石鹸と白い手拭いが一枚きちんと収められている。右手の中では牛乳でも飲んできなさい、と少し多めにもらった五十円玉がじっとりと汗ばみ、体温を吸ってぬるくなっている。指先で硬貨をくるりと弾くと、冷たさが一瞬だけ掌を滑っては消えた。
細い路地を抜けると、銭湯の高い煙突が薄曇りの空に黒く突き刺さっているのが見える。煤けた壁に取り付けられた色あせた看板は左下の釘が外れかけており、風が吹くたびにギィ、と乾いた音を立てて揺れていた。その佇まいは、何十年も同じ場所で黙々と湯を沸かし続けてきた家長のような貫禄をまとっている。
暖簾をくぐった瞬間、湿り気を帯びた熱気が頬にまとわりつき、石鹸と湯の匂いが混ざり合った重たい空気が胸の奥まで入り込んできた。三和土の打ちっぱなしのコンクリートからひやりとした空気が這い上がり、足元から体温を奪う。外気との境目をはっきりと意識させられた。
下駄を脱ぎ、一段上がった板張りの床を踏みしめるたび、ぎしり、と古い木が鳴る。下足箱は年季の入った木製で、無数に並ぶ小さな扉には擦り切れた番号札が差し込まれている。空いている二十八番に手を伸ばした、そのときだった。
「おい」
背後から低い声が飛ぶ。振り返らず、横目だけで男を測ると、腕を組んだ腹の出た中年が顎をしゃくって言った。
「そこは山さんの場所じゃ。ほか使いな」
縄張りか、と内心でだけ呟く。しげるは何も答えないまま隣の札に手を伸ばし、木札を引き抜いた。乾いた木の音が小さく響き、男の視線が背中に刺さるが、それ以上は何も起きない。下駄を押し込み、扉を閉めると、番号札を抜くのと同時に内側で金具がかすかに鳴り、簡素な鍵がかかる仕組みになっているのが分かる。その音さえも、常連たちにとっては日常の一部なのだろう。
番台の老婆が高い位置からこちらを覗き込む。深く刻まれた皺に埋もれるような細い目が、頭の先から素足までゆっくりと辿ってくる。
「二十円」
しげるは掌の五十円玉を置き、木の台に触れた金属が軽い音を立てるのを聞いた。老婆は慣れた手つきで三十円を滑らせ、その間も視線を外さない。釣銭を受け取ったしげるは、無意識の癖で指先に重みを確かめた。老婆の目は見慣れない顔を値踏みする目、と分かる。だが、問いかけてはこない。
青い暖簾を押し分けると、“男”の白い文字が揺れ、さらに濃い熱気が全身を包み込んだ。
脱衣所は高い天井から差し込む光に満ち、うっすらと白んでいる。それは多少湯気のせいでもあるのだろう。回転する扇風機の前では子どもが声を震わせて遊び、その甲高い響きが梁に反射している。籐かごの並ぶ棚には衣類が乱雑に押し込まれ、袖や裾がだらしなく垂れ下がり、ここが誰かの生活の延長線上にあることを物語っていた。
しげるは迷わず隅の棚を選び、半袖シャツと半ズボンを脱いでかごに放り込む。露わになった体はまだ少年の細さを残しているが、その目だけは場に溶け込まず、湯気の向こうを冷ややかに見据えていた。手拭いを首に掛け、石鹸を持つ。ここではよそ者だ。見られていることを承知のうえで堂々とその視線を無視しながら、立ち込める湯気の奥へと足を踏み入れていく。
白い湯気の向こうに、富士山のペンキ絵が大きく広がっている。群青は濃く、やけに鮮やかで、湯煙に輪郭をぼかされながらも、その稜線だけはくっきりと浮かび上がっていた。洗い場に腰を下ろすと、蛇口をひねりお湯を桶に溜める。頭からひとかぶりしてから石鹸を泡立て、手早く頭から足先まで洗い流す。無駄のない動きで立ち上がると、そのまま湯船へと足を踏み入れた。
湯に浸かった体は、じわじわと熱を帯びていく。最初は皮膚を刺すようだった熱も、やがて輪郭を失い、肌にまとわりつく重さへと変わっていく。銭湯の蒸した空気や洗い場の湯だけでは抜けきらなかった芯の冷えが、足先から少しずつほどけていくのが分かった。肩まで沈めると、肺の奥に溜まっていた冷たい空気がゆっくりと抜けた。水の弾く音。桶の縁がぶつかる響き。誰かの笑い声が天井に反射して揺れる。無数の気配に囲まれながら、そのどれとも交わらず、ひとりで沈む。知らないうちに長く息が零れ落ちる。
何の気なしに入った長屋だった。海水浴帰りの夜通しの麻雀で、正直疲れていた。
ほんのすこし、体を休める場所があればそれでよかった。
ただ眠りたかった。
追ってくる連中も、いずれは諦める。
察も、もっと大きな騒ぎに目を奪われれば、こちらまで手は回らない。
それまで身を隠すための避難場所。
ただ、それだけのはずだった。それが、思いのほか妙なことになってしまったらしい。
湯気の奥に、彼女の顔がふと浮かぶ。弱ったものを見ると、迷わず手を差し伸べる目をしている。疑うより先に、心配が勝つ人間。可哀そうな少年を置いておけない。
――そう思わせるのは難しくない。
その役は、簡単だ。俯いて、無垢な少年の目を見せる、あとは余計なことを言わなければいい。演じるだけだ。何か聞かれてもそれらしいことを言えばいい。そう思いながら、しげるは目を閉じる。
湯の重みが瞼の裏まで染み込むようで、もう一度、ゆっくりと息を吐いた。
湯煙に包まれたその姿は、どう見ても、ただの少年が一人、熱い湯に身を沈めているだけだった。けれど、その胸の内まで読み取れる者は、誰もいない。
