お見合い
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庭を抜け、そのまま外へ出ようとしたときだった。
「待って」
すみれは、はっとしたように足を止めた。引かれていた腕が、わずかに強まる。
「着物……着替えないと」
振り返りざまにそう言うと、しげるはわずかに眉を動かした。
「なんで?」
「借りものなの」
短く答える。しげるはそれ以上何も言わなかったが、掴んでいた手の力を少しだけ緩めた。
「……着替えるから、待って」
そういうがしげるは腕を離してはくれない。すみれはしかたなくそのまま来た道を引き返す。
廊下を歩く二つの足音が、重なる。通された待合のような部屋に戻ると、着付け師が驚いた表情をする。それもそのはず顔合わせが開始してまだ三十分も経っていないのだ。
しかも先ほどまでいなかった知らない男を引き連れているのだから面食らうだろう。
「早かったわね」
着付け師の目線がしげるへと向かう。
「はい。あの……着替えお願いします」
「はいはい。じゃあお連れ様はそこの椅子にでも座っててください」
しげるはすみれの腕を離すと静かに腰を下ろし、胸ポケットから煙草を取りだす。
「ごめんなさいね、ここ禁煙なんです」
着付け師の言葉にしげるは動きを止め、そして煙草をしまった。襖の向こうへと通される。
控えの間は、先ほどの座敷よりも幾分か狭く、簡素だった。外のざわめきも、ここまでは届かない。
「じゃあ解いていきますね」
そう言って、着付け師が手早く帯に手をかける。結び目が、するりとほどけた。きゅ、と締めつけられていたものが緩むと同時に、胸の奥に溜まっていたものまで、少しだけほどけた気がした。
重なっていた布が、一枚、また一枚と外されていく。着付け師の手に委ねたまま、すみれはじっとしていた。そのあいだに、ふと、先ほどのことがよぎる。
突然、現れて。何の迷いもなく腕を掴み、そのまま外へ引き出そうとする。あの人は、昔から変わらない。
——いや。
帯を外され、肩口の布がゆるむ。
襖の向こう側に座ってるしげるの気配を思い出す。何も言わずに、ああして現れて。何も変わらないまま、そこに立っている。
それだけで——胸の奥が、静かに満ちていく。
会えてよかった。ただ、それだけでいい。そう思えた。
衣擦れの音が、やわらかく重なる。重たかった布が、少しずつ身体から離れていくたびに、肩の力も抜けていく。帯に締められていた身体が、ふっとほどけた。
息が、深く吸えた。
鏡の中には、わずかに頬の緩んだ自分が映っている。気づかないうちに、張りつめていたらしい。着物を脱ぐのに、それほど時間はかからなかった。
けれど、そのわずかなあいだに——すみれの中で、何かが静かにほどけていた。
最後に洋服へと着替え終える。襟元を整えながら、すみれは、ほんの少しだけためらってから口を開いた。
「あの……高橋さんは、いらっしゃいますか」
衣桁に掛けた着物の皺を手で伸ばしていた着付け師が、ちらりと振り返る。
「今は、会わないほうがいいんじゃないかしら」
やわらかい声だったが、言葉ははっきりしていた。
「彼、お見合いのお相手じゃないでしょう?」
襖の奥のしげるを横目に答える。すみれはその一言で、胸がどくりと鳴る。言い返す言葉が、すぐには出てこない。
「私からうまく伝えておくわ」
着付け師は、淡々と続ける。
「あなたは、そのままお帰りなさい」
「でも……」
思わず口をついて出る。
「いいから!ここで顔を合わせるほうが、気まずいでしょう」
諭すような声音だった。すみれは、わずかに視線を落とした。
その通りだと思う。
あの場で、自分がしたことも。そのあと、どういう空気が残ったかも。想像がつく。
——逃げるようで、よくない。
そう思う気持ちと。
——今は、会わない方がいい。
そう告げられた言葉とが、胸の内で静かにぶつかる。
けれど、やがて。
「……わかりました」
小さく、そう答えた。
「着付け、ありがとうございました」
頭を下げる。着付け師は、軽く頷くだけだった。
襖を開けると、廊下の空気はひんやりとしていた。さきほどまでいた座敷の方角からは、人の気配がわずかに流れてくる。声は聞こえない。ただ、そこに“続き”があるのだけは分かる。
すみれは、一瞬だけ足を止めた。
振り返れば、戻れる。
きちんと頭を下げて、言葉を尽くして——
そうすべきなのかもしれない。
けれど。
ゆっくりと、首を振る。そして、足を前に出した。
向かう先は、ひとつしかない。襖の前で、手をかける。
すぐそこにいるはずの気配に、わずかに息を整えてから、そっと開けた。部屋の中には、しげるがいる。
座卓の脇に、変わらない様子で腰を下ろしている。まるで、最初からそこにいたかのように。すみれを見ても、特に驚いた様子はない。
「終わった?」
すみれは、一瞬だけ言葉に詰まってから、小さく頷いた。
「……うん」
「じゃ、行こう」
しげるは立ち上がり当然のように言う。そしてそのまま廊下へと出て言ってしまう。すみれは、その背中を追う。ほんの少し前までいた場所と、同じ建物の中なのに。もう、別の場所のように感じられた。
「待って」
すみれは、はっとしたように足を止めた。引かれていた腕が、わずかに強まる。
「着物……着替えないと」
振り返りざまにそう言うと、しげるはわずかに眉を動かした。
「なんで?」
「借りものなの」
短く答える。しげるはそれ以上何も言わなかったが、掴んでいた手の力を少しだけ緩めた。
「……着替えるから、待って」
そういうがしげるは腕を離してはくれない。すみれはしかたなくそのまま来た道を引き返す。
廊下を歩く二つの足音が、重なる。通された待合のような部屋に戻ると、着付け師が驚いた表情をする。それもそのはず顔合わせが開始してまだ三十分も経っていないのだ。
しかも先ほどまでいなかった知らない男を引き連れているのだから面食らうだろう。
「早かったわね」
着付け師の目線がしげるへと向かう。
「はい。あの……着替えお願いします」
「はいはい。じゃあお連れ様はそこの椅子にでも座っててください」
しげるはすみれの腕を離すと静かに腰を下ろし、胸ポケットから煙草を取りだす。
「ごめんなさいね、ここ禁煙なんです」
着付け師の言葉にしげるは動きを止め、そして煙草をしまった。襖の向こうへと通される。
控えの間は、先ほどの座敷よりも幾分か狭く、簡素だった。外のざわめきも、ここまでは届かない。
「じゃあ解いていきますね」
そう言って、着付け師が手早く帯に手をかける。結び目が、するりとほどけた。きゅ、と締めつけられていたものが緩むと同時に、胸の奥に溜まっていたものまで、少しだけほどけた気がした。
重なっていた布が、一枚、また一枚と外されていく。着付け師の手に委ねたまま、すみれはじっとしていた。そのあいだに、ふと、先ほどのことがよぎる。
突然、現れて。何の迷いもなく腕を掴み、そのまま外へ引き出そうとする。あの人は、昔から変わらない。
——いや。
帯を外され、肩口の布がゆるむ。
襖の向こう側に座ってるしげるの気配を思い出す。何も言わずに、ああして現れて。何も変わらないまま、そこに立っている。
それだけで——胸の奥が、静かに満ちていく。
会えてよかった。ただ、それだけでいい。そう思えた。
衣擦れの音が、やわらかく重なる。重たかった布が、少しずつ身体から離れていくたびに、肩の力も抜けていく。帯に締められていた身体が、ふっとほどけた。
息が、深く吸えた。
鏡の中には、わずかに頬の緩んだ自分が映っている。気づかないうちに、張りつめていたらしい。着物を脱ぐのに、それほど時間はかからなかった。
けれど、そのわずかなあいだに——すみれの中で、何かが静かにほどけていた。
最後に洋服へと着替え終える。襟元を整えながら、すみれは、ほんの少しだけためらってから口を開いた。
「あの……高橋さんは、いらっしゃいますか」
衣桁に掛けた着物の皺を手で伸ばしていた着付け師が、ちらりと振り返る。
「今は、会わないほうがいいんじゃないかしら」
やわらかい声だったが、言葉ははっきりしていた。
「彼、お見合いのお相手じゃないでしょう?」
襖の奥のしげるを横目に答える。すみれはその一言で、胸がどくりと鳴る。言い返す言葉が、すぐには出てこない。
「私からうまく伝えておくわ」
着付け師は、淡々と続ける。
「あなたは、そのままお帰りなさい」
「でも……」
思わず口をついて出る。
「いいから!ここで顔を合わせるほうが、気まずいでしょう」
諭すような声音だった。すみれは、わずかに視線を落とした。
その通りだと思う。
あの場で、自分がしたことも。そのあと、どういう空気が残ったかも。想像がつく。
——逃げるようで、よくない。
そう思う気持ちと。
——今は、会わない方がいい。
そう告げられた言葉とが、胸の内で静かにぶつかる。
けれど、やがて。
「……わかりました」
小さく、そう答えた。
「着付け、ありがとうございました」
頭を下げる。着付け師は、軽く頷くだけだった。
襖を開けると、廊下の空気はひんやりとしていた。さきほどまでいた座敷の方角からは、人の気配がわずかに流れてくる。声は聞こえない。ただ、そこに“続き”があるのだけは分かる。
すみれは、一瞬だけ足を止めた。
振り返れば、戻れる。
きちんと頭を下げて、言葉を尽くして——
そうすべきなのかもしれない。
けれど。
ゆっくりと、首を振る。そして、足を前に出した。
向かう先は、ひとつしかない。襖の前で、手をかける。
すぐそこにいるはずの気配に、わずかに息を整えてから、そっと開けた。部屋の中には、しげるがいる。
座卓の脇に、変わらない様子で腰を下ろしている。まるで、最初からそこにいたかのように。すみれを見ても、特に驚いた様子はない。
「終わった?」
すみれは、一瞬だけ言葉に詰まってから、小さく頷いた。
「……うん」
「じゃ、行こう」
しげるは立ち上がり当然のように言う。そしてそのまま廊下へと出て言ってしまう。すみれは、その背中を追う。ほんの少し前までいた場所と、同じ建物の中なのに。もう、別の場所のように感じられた。
