お見合い
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冷たい空気が、頬に触れる。廊下の先、庭へと続く引き戸が開け放たれている。先導する仲居に続き、すみれと男は外へ出た。日差しは温かいが時折吹く風が冷たい。
庭はよく手入れが行き届いており、少し上を見上げれば赤赤と色づく紅葉が美しい。低く刈り込まれた木々のあいだを、細い石畳が縫うように伸びていた。
その先に、小さな橋がかかっている。中央がわずかに膨らんだ、ゆるやかな弧を描く橋だった。
二人は並んでそこへ歩み寄る。
橋の下には、澄んだ水をたたえた池。影のように揺れていたものが、足音に気づいたのか、ゆっくりと浮かび上がってくる。
鯉だった。
丸々と太ったそれらが、いくつも水面に集まり、口を開けては閉じる。餌をねだるように、音もなく、水を揺らす。
「立派なものですね」
男が感心したように言う。
「ええ……」
すみれは曖昧に頷き、視線を水面に落としたまま答えた。
ぱく、ぱく、と規則正しく開閉する口。ただそれだけの動きが、なぜか妙に目について離れない。
「こういう場所は、よくいらっしゃるんですか」
男の声が、すぐそばで続く。
「いいえ。あまり……その、縁がなくて」
言葉を選びながら答える。嘘ではない。ただ、それ以上のことを話す気にはなれなかった。しばし、間が落ちる。水の音と、風に揺れる葉擦れだけが耳に残る。
——いい人、なのだろう。
ふと、そんな考えがよぎる。穏やかで、丁寧で、こうして気遣いもできる人だ。誰かと暮らすには、きっと、何の不足もない。それでも。胸の奥にある空白は、埋まらないままだった。
そのとき——砂利を踏む音がした。
ひとつ、ふたつ。ゆっくりと、こちらへ近づいてくる足音。男が振り返ろうとした、その刹那。ぐい、と腕を引かれた。不意の力に体勢が崩れる。そのまま、肩を抱き寄せられるようにして、後ろへ引かれた。
「——っ」
息が詰まる。何が起きたのか分からないまま、すみれは反射的に振り返った。
そこに、立っていた見慣れた顔。けれど、見慣れていたはずのそれとは、どこか違う輪郭。少し伸びた髪。細くなった顎の線。そして——あの、変わらない目。
「……しげる、くん」
名を呼んだのは、自分でも気づかないほど、かすかな声だった。
男が、戸惑ったように二人を見ている。けれど、その視線も、周囲の気配も、すべて遠のいたように感じられた。ただひとり、目の前の存在だけが、やけに鮮明だった。
「見つけた」
それだけだった。低く落ちる声は、まるで最初からここにいたかのように自然で、けれど場の空気だけがわずかに軋んだ。腕を取られたまま、すみれは言葉を失っていた。
「南沢さん、この方はどちら様でしょうか?」
控えめな声が、横から差し込む。はっとして視線を戻すと、男がこちらを見ていた。戸惑いを隠しきれない様子で、それでも礼を失わないように言葉を選んでいる。
「あ、……えっと、遠い親戚の、子です」
口にしてから、その言葉がひどく頼りないものに思えた。子、と言うにはもう背は高く、こうして腕を引く力も強い。
しげるは、何も言わなかった。ただ、すみれの肩にかけた手を外す気配もなく、男の方へと一度だけ視線を向ける。値踏みするようでもなく、興味を示すでもなく。ただ一瞥して、それで終わりだった。
「……そう、でしたか」
男はわずかに頷いたものの、どこか納得しきれていない様子だった。無理もない、とすみれは思う。突然現れて、当然のように距離を詰めてくるこの男を、説明できる言葉など持ち合わせていなかった。
短い沈黙が落ちる。庭の水面で、鯉が水面をたたく音だけが、やけに大きく聞こえた。
「帰ろう」
それは確認でも提案でもなく、ただの事実のように置かれた言葉だった。しげるはそう言うと次の瞬間には、腕を引かれるままに歩き出していた。
もちろん、すみれの腕と肩を抱いたまま。そのためすみれは慌てて男の方を見る。言うべき言葉が、いくつも浮かんでは消えていく。
「……すみません」
結局、出てきたのはそれだけだった。男は驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく息を吐き、どこか納得したように視線を落とした。
「いえ……お邪魔したようですね」
丁寧にそう返す声は、やはり誠実。だがその言葉は、すみれたちには届かなかった。
庭はよく手入れが行き届いており、少し上を見上げれば赤赤と色づく紅葉が美しい。低く刈り込まれた木々のあいだを、細い石畳が縫うように伸びていた。
その先に、小さな橋がかかっている。中央がわずかに膨らんだ、ゆるやかな弧を描く橋だった。
二人は並んでそこへ歩み寄る。
橋の下には、澄んだ水をたたえた池。影のように揺れていたものが、足音に気づいたのか、ゆっくりと浮かび上がってくる。
鯉だった。
丸々と太ったそれらが、いくつも水面に集まり、口を開けては閉じる。餌をねだるように、音もなく、水を揺らす。
「立派なものですね」
男が感心したように言う。
「ええ……」
すみれは曖昧に頷き、視線を水面に落としたまま答えた。
ぱく、ぱく、と規則正しく開閉する口。ただそれだけの動きが、なぜか妙に目について離れない。
「こういう場所は、よくいらっしゃるんですか」
男の声が、すぐそばで続く。
「いいえ。あまり……その、縁がなくて」
言葉を選びながら答える。嘘ではない。ただ、それ以上のことを話す気にはなれなかった。しばし、間が落ちる。水の音と、風に揺れる葉擦れだけが耳に残る。
——いい人、なのだろう。
ふと、そんな考えがよぎる。穏やかで、丁寧で、こうして気遣いもできる人だ。誰かと暮らすには、きっと、何の不足もない。それでも。胸の奥にある空白は、埋まらないままだった。
そのとき——砂利を踏む音がした。
ひとつ、ふたつ。ゆっくりと、こちらへ近づいてくる足音。男が振り返ろうとした、その刹那。ぐい、と腕を引かれた。不意の力に体勢が崩れる。そのまま、肩を抱き寄せられるようにして、後ろへ引かれた。
「——っ」
息が詰まる。何が起きたのか分からないまま、すみれは反射的に振り返った。
そこに、立っていた見慣れた顔。けれど、見慣れていたはずのそれとは、どこか違う輪郭。少し伸びた髪。細くなった顎の線。そして——あの、変わらない目。
「……しげる、くん」
名を呼んだのは、自分でも気づかないほど、かすかな声だった。
男が、戸惑ったように二人を見ている。けれど、その視線も、周囲の気配も、すべて遠のいたように感じられた。ただひとり、目の前の存在だけが、やけに鮮明だった。
「見つけた」
それだけだった。低く落ちる声は、まるで最初からここにいたかのように自然で、けれど場の空気だけがわずかに軋んだ。腕を取られたまま、すみれは言葉を失っていた。
「南沢さん、この方はどちら様でしょうか?」
控えめな声が、横から差し込む。はっとして視線を戻すと、男がこちらを見ていた。戸惑いを隠しきれない様子で、それでも礼を失わないように言葉を選んでいる。
「あ、……えっと、遠い親戚の、子です」
口にしてから、その言葉がひどく頼りないものに思えた。子、と言うにはもう背は高く、こうして腕を引く力も強い。
しげるは、何も言わなかった。ただ、すみれの肩にかけた手を外す気配もなく、男の方へと一度だけ視線を向ける。値踏みするようでもなく、興味を示すでもなく。ただ一瞥して、それで終わりだった。
「……そう、でしたか」
男はわずかに頷いたものの、どこか納得しきれていない様子だった。無理もない、とすみれは思う。突然現れて、当然のように距離を詰めてくるこの男を、説明できる言葉など持ち合わせていなかった。
短い沈黙が落ちる。庭の水面で、鯉が水面をたたく音だけが、やけに大きく聞こえた。
「帰ろう」
それは確認でも提案でもなく、ただの事実のように置かれた言葉だった。しげるはそう言うと次の瞬間には、腕を引かれるままに歩き出していた。
もちろん、すみれの腕と肩を抱いたまま。そのためすみれは慌てて男の方を見る。言うべき言葉が、いくつも浮かんでは消えていく。
「……すみません」
結局、出てきたのはそれだけだった。男は驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく息を吐き、どこか納得したように視線を落とした。
「いえ……お邪魔したようですね」
丁寧にそう返す声は、やはり誠実。だがその言葉は、すみれたちには届かなかった。
