お見合い
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「南沢さん……ご趣味は?」
「そう、ですね……読書や編み物、でしょうか」
「とても女性らしいご趣味だ。どういったものを読まれるんですか?」
低く降り注ぐ日が、障子越しに差し込んでいる。障子の隙間から見える外では燃えるように色づいた木々が庭先に揺れ、風が吹くたび乾いた葉が音を立てて地を這った。
ししおどしが、こつん、と静けさを区切る。
すみれは、困っていた。目の前に座る男と、どう話を結べばよいのか——それがわからない。落ち着いた色合いの訪問着に身を包み。向かいには、眼鏡をかけた実直そうな男。背筋の伸びた座り方が、その人となりをそのまま表しているようだった。男の隣に、もう一枚座布団が置かれていた。
男は誠実そうで、言葉遣いも丁寧で、何ひとつ不快なところはない。むしろ、だからこそ。ここに座っている自分が、ひどく不誠実に思えてならなかった。途切れ途切れの会話が、表面だけをなぞって過ぎていく。やがて、沈黙が落ちた。
何か言わなければ。そう思うほど、言葉は喉の奥で固まる。
——どうしたものか。
すみれは小さく息を吸い、思い切って口にする。
「あの……外を、少し歩きませんか」
男はわずかに目を見開いたあと、すぐに穏やかに頷いた。
「ええ、それはいいですね」
座敷を辞し、廊下に出る。廊下は落ち着いた赤い絨毯が敷き詰められており足裏を優しく支えてくれる。先を歩く男の背をぼんやりと眺めながら、すみれは胸の内でつぶやいた。
——やっぱり、断ればよかった。
廊下の先、外の光が近づいてくる。その白さに目を細めたとき、ふと、ある日のことが脳裏をよぎった。
それは——まだ暑さの残る頃のことだった。
工場長が工員を集めて口にした言葉は、青天の霹靂だった。
「——今月で、この工場を閉めることになった」
ざわ、と場の空気が揺れた。
誰もすぐには声を上げなかったが、それぞれが小さく顔を見合わせ、やがて低いざわめきが広がっていく。機械の音に慣れた耳には、そのざわつきが妙に生々しく響いた。
工場長は続けて、移転先の話をした。希望すれば、新しい工場でそのまま働けること。通いは少し遠くなるが、仕事は用意されていること。
それを聞いて、ほっとしたような息がいくつか漏れた。
けれど。
すみれの胸の内には、うまく言葉にならないものが残った。当たり前のように通っていた場所がなくなる。その実感が、じわじわと染み込んでくる。
朝一番の、まだ冷たい機械の鉄の匂いも。昼休みに聞こえていた、他愛のない笑い声も。何度も同じ動きを繰り返した、自分の手の感覚も。そのすべてが、今月で終わるのだと、遅れて理解が追いついてくる。
それから間もなくして、長屋の解体も決まった。重なるときは、こうも重なるものなのか。そう思わずにはいられなかった。
工場の閉鎖に加え、長屋の解体も決まり、すみれの生活は目まぐるしく変わっていった。 通常の業務の合間に、古い資料の整理や片づけに追われる日々。並行して、新しい住まいも探さなければならない。 家に帰ってからも、休む間もなく引っ越しの支度に手を動かす。
そんな慌ただしさの中で、ふと気が緩んだ瞬間に思い浮かぶのは、しげるのことだった。
治が帰ったあと、しげるはしばらく滞在したのち、家を出て行ってしまった。いろいろな賭場を巡ると言葉を残し、振り返らず行ってしまった。あれからひと月ほどが過ぎている。季節が大きく移り変わったわけではないが、しげると過ごしたあの夏の気配は、もうどこにも残っていなかった。
あの子は、今ごろどこで何をしているのだろう。気まぐれのように現れて、気まぐれのように去っていく。決まった時期も、約束もない。
それでも。そろそろ来る頃かもしれない、と。そんなふうに思うことは、あった。来月あたり、また顔を見せるかもしれないと。
けれど。そう思っていた場所は、もう更地になっていた。知らせる術もないままに、あの住所ごと消えてしまった。
このまま、どこかですれ違ったとしても、気づかずに終わってしまうかもしれない。
胸の奥に、名のつかない空白だけが残った。
その空白を抱えたままでも、日々は続いていく。
新しい工場で働けること。住む場所も、思っていたよりは安く見つかったこと。どれも、決して悪い話ではないはずなのに。胸のどこかが、ひどく静かに沈んでいく。
越してきたばかりのアパートは、道の角に建つ木造二階建てだった。低いブロック塀に囲まれたその建物は、ところどころ色褪せてはいるものの、まだしっかりと人の暮らしを支えているように見えた。
外階段を上がった先の部屋には、新しい畳の匂いが残っている。それでも壁や建具には年季があり、日焼けしている。以前住んでいたのであろう住民の暮らしが垣間見えた。隣の気配がかすかに伝わってくるあたりは、以前の長屋とさほど変わらない。
夕方になると、決まって戸を叩く音がする。
「南沢さん、いるかい」
大家の声だった。戸を開けると、小柄な身体に割烹着をかけた老女が立っている。髪はきちんと結い上げられ、その目だけが妙に力強い。
「これ、煮物。ひとりじゃ作りすぎちまってねえ」
そう言って、包みを押しつけるように渡してくる。最初は、ありがたいと思った。身寄りのない身には、そうした気遣いが身に沁みた。
けれど、それが何度か続いたある日——
「南沢さん、あんた、いい人いないのかい」
唐突に、そんなことを言われた。曖昧に笑ってごまかしたものの、老女は気にも留めない様子で言葉を重ねる。
「うちの息子がね、ちょうど一人でさ」
その“ちょうど”が何を指しているのか、聞かなくてもわかった。断りの言葉は口にしたはずだった。けれど、それは最後まで言い切ることができなかった。
「一度でいいんだよ、顔を合わせるだけでいい」
逃げ道は、少しずつ塞がれていく。急に決まった立ち退き。次の住まいを探して歩き回った日々。ようやく見つけたこの部屋は、相場よりいくらか安く、新しい職場通いもなんとかなる距離にあった。
——そして、こうして世話まで焼いてくれる。強く出られる立場ではなかった。
「……一度だけ、なら」
そう口にしてしまったのは、ほとんど観念に近かった。大家は満足そうに頷き、「承諾してくれると思ったよ」とほほ笑んだ。
その帰り際、
「いい子だよ、うちの息子は」
と念を押すように言われたのが、妙に耳に残った。
——いい子。
その言葉を、すみれは胸の内で繰り返す。いい人であることと、その人と共に生きることは、同じではない。そんな当たり前のことを、わざわざ口にすることもできずに。
——こつん。
不意に、硬い音がした。ししおどしの音だった。
はっとして顔を上げる。視界に、白い光が戻ってくる。廊下の先、庭へと続く引き戸が開け放たれている。先導する仲居に続き、すみれと男は外へ出た。
「そう、ですね……読書や編み物、でしょうか」
「とても女性らしいご趣味だ。どういったものを読まれるんですか?」
低く降り注ぐ日が、障子越しに差し込んでいる。障子の隙間から見える外では燃えるように色づいた木々が庭先に揺れ、風が吹くたび乾いた葉が音を立てて地を這った。
ししおどしが、こつん、と静けさを区切る。
すみれは、困っていた。目の前に座る男と、どう話を結べばよいのか——それがわからない。落ち着いた色合いの訪問着に身を包み。向かいには、眼鏡をかけた実直そうな男。背筋の伸びた座り方が、その人となりをそのまま表しているようだった。男の隣に、もう一枚座布団が置かれていた。
男は誠実そうで、言葉遣いも丁寧で、何ひとつ不快なところはない。むしろ、だからこそ。ここに座っている自分が、ひどく不誠実に思えてならなかった。途切れ途切れの会話が、表面だけをなぞって過ぎていく。やがて、沈黙が落ちた。
何か言わなければ。そう思うほど、言葉は喉の奥で固まる。
——どうしたものか。
すみれは小さく息を吸い、思い切って口にする。
「あの……外を、少し歩きませんか」
男はわずかに目を見開いたあと、すぐに穏やかに頷いた。
「ええ、それはいいですね」
座敷を辞し、廊下に出る。廊下は落ち着いた赤い絨毯が敷き詰められており足裏を優しく支えてくれる。先を歩く男の背をぼんやりと眺めながら、すみれは胸の内でつぶやいた。
——やっぱり、断ればよかった。
廊下の先、外の光が近づいてくる。その白さに目を細めたとき、ふと、ある日のことが脳裏をよぎった。
それは——まだ暑さの残る頃のことだった。
工場長が工員を集めて口にした言葉は、青天の霹靂だった。
「——今月で、この工場を閉めることになった」
ざわ、と場の空気が揺れた。
誰もすぐには声を上げなかったが、それぞれが小さく顔を見合わせ、やがて低いざわめきが広がっていく。機械の音に慣れた耳には、そのざわつきが妙に生々しく響いた。
工場長は続けて、移転先の話をした。希望すれば、新しい工場でそのまま働けること。通いは少し遠くなるが、仕事は用意されていること。
それを聞いて、ほっとしたような息がいくつか漏れた。
けれど。
すみれの胸の内には、うまく言葉にならないものが残った。当たり前のように通っていた場所がなくなる。その実感が、じわじわと染み込んでくる。
朝一番の、まだ冷たい機械の鉄の匂いも。昼休みに聞こえていた、他愛のない笑い声も。何度も同じ動きを繰り返した、自分の手の感覚も。そのすべてが、今月で終わるのだと、遅れて理解が追いついてくる。
それから間もなくして、長屋の解体も決まった。重なるときは、こうも重なるものなのか。そう思わずにはいられなかった。
工場の閉鎖に加え、長屋の解体も決まり、すみれの生活は目まぐるしく変わっていった。 通常の業務の合間に、古い資料の整理や片づけに追われる日々。並行して、新しい住まいも探さなければならない。 家に帰ってからも、休む間もなく引っ越しの支度に手を動かす。
そんな慌ただしさの中で、ふと気が緩んだ瞬間に思い浮かぶのは、しげるのことだった。
治が帰ったあと、しげるはしばらく滞在したのち、家を出て行ってしまった。いろいろな賭場を巡ると言葉を残し、振り返らず行ってしまった。あれからひと月ほどが過ぎている。季節が大きく移り変わったわけではないが、しげると過ごしたあの夏の気配は、もうどこにも残っていなかった。
あの子は、今ごろどこで何をしているのだろう。気まぐれのように現れて、気まぐれのように去っていく。決まった時期も、約束もない。
それでも。そろそろ来る頃かもしれない、と。そんなふうに思うことは、あった。来月あたり、また顔を見せるかもしれないと。
けれど。そう思っていた場所は、もう更地になっていた。知らせる術もないままに、あの住所ごと消えてしまった。
このまま、どこかですれ違ったとしても、気づかずに終わってしまうかもしれない。
胸の奥に、名のつかない空白だけが残った。
その空白を抱えたままでも、日々は続いていく。
新しい工場で働けること。住む場所も、思っていたよりは安く見つかったこと。どれも、決して悪い話ではないはずなのに。胸のどこかが、ひどく静かに沈んでいく。
越してきたばかりのアパートは、道の角に建つ木造二階建てだった。低いブロック塀に囲まれたその建物は、ところどころ色褪せてはいるものの、まだしっかりと人の暮らしを支えているように見えた。
外階段を上がった先の部屋には、新しい畳の匂いが残っている。それでも壁や建具には年季があり、日焼けしている。以前住んでいたのであろう住民の暮らしが垣間見えた。隣の気配がかすかに伝わってくるあたりは、以前の長屋とさほど変わらない。
夕方になると、決まって戸を叩く音がする。
「南沢さん、いるかい」
大家の声だった。戸を開けると、小柄な身体に割烹着をかけた老女が立っている。髪はきちんと結い上げられ、その目だけが妙に力強い。
「これ、煮物。ひとりじゃ作りすぎちまってねえ」
そう言って、包みを押しつけるように渡してくる。最初は、ありがたいと思った。身寄りのない身には、そうした気遣いが身に沁みた。
けれど、それが何度か続いたある日——
「南沢さん、あんた、いい人いないのかい」
唐突に、そんなことを言われた。曖昧に笑ってごまかしたものの、老女は気にも留めない様子で言葉を重ねる。
「うちの息子がね、ちょうど一人でさ」
その“ちょうど”が何を指しているのか、聞かなくてもわかった。断りの言葉は口にしたはずだった。けれど、それは最後まで言い切ることができなかった。
「一度でいいんだよ、顔を合わせるだけでいい」
逃げ道は、少しずつ塞がれていく。急に決まった立ち退き。次の住まいを探して歩き回った日々。ようやく見つけたこの部屋は、相場よりいくらか安く、新しい職場通いもなんとかなる距離にあった。
——そして、こうして世話まで焼いてくれる。強く出られる立場ではなかった。
「……一度だけ、なら」
そう口にしてしまったのは、ほとんど観念に近かった。大家は満足そうに頷き、「承諾してくれると思ったよ」とほほ笑んだ。
その帰り際、
「いい子だよ、うちの息子は」
と念を押すように言われたのが、妙に耳に残った。
——いい子。
その言葉を、すみれは胸の内で繰り返す。いい人であることと、その人と共に生きることは、同じではない。そんな当たり前のことを、わざわざ口にすることもできずに。
——こつん。
不意に、硬い音がした。ししおどしの音だった。
はっとして顔を上げる。視界に、白い光が戻ってくる。廊下の先、庭へと続く引き戸が開け放たれている。先導する仲居に続き、すみれと男は外へ出た。
