ドライブ
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駅前のデパートは、夕方になると急にせわしなくなる。一人の時間を満喫したうららは、紙袋を腕にかけ、満足げに外へ出た。洋食器を眺め、ハンカチを一枚買い、喫茶店でティータイム。そんなささやかな贅沢。
さて、いつもの商店街へ戻ろうか。
そう思って歩き出したときだった。人混みの向こうに、見覚えのある後ろ姿がある。いつもの青いシャツに白い髪。少しだけ無造作な立ち姿。赤木しげるである。
その向かいに、もう一人。しげるより少し小柄で、そばかす顔の柔らかい雰囲気の青年が何か必死に話している。押し問答のようにも見える。
”用がある”と昨日話していた彼を思い出す。少し迷ったが、うららはそのまま歩み寄った。
「しげるくん、奇遇ね」
二人の会話がぴたりと止まる。
「……」
しげるは露骨に、嫌そうな顔をした。
「?…… しげるくん?」
その青年が、きょとんとした顔でうららを見る。
「赤木さん? この方は?」
「初めまして。私、南沢うららと申します」
軽く会釈する。青年も慌てて頭を下げた。
「初めまして!オレ、野崎治です」
その名前に、うららの動きが一瞬止まった。
治?
昨日、車の中で聞いた名前。
“前の会社の人間”
“大金せしめた”
頭の中で勝手に描いていたのは、強面で鋭い目の男だった。だが目の前にいるのは、穏やかな目をした、どこか人懐っこい青年だ。
「あ……えっと、しげるくんのお友達?」
治は少し照れたように笑った。
「友達、って言っていいのか……赤木さんは、オレの憧れなんです」
その言葉は、驚くほどまっすぐだった。うららは思わず、しげるを見る。”憧れ”そんなふうに言われる彼を、初めて見る。
「そうなの」
素直に感心してしまう。
「もうお前、帰れ」
しげるがやっと口を開いたと思えば、ぶっきらぼうに言い放つ。
「ええ? 俺もついていきます」
引かない。
「帰れ」
「いやです」
まるで子供の口喧嘩だ。うららは二人を交互に見た。
「今日この後、予定あるの?」
治に尋ねる。
「ないですけど」
「なら、うちでご飯食べていきなさいよ」
しげるが即座に振り向いた。
「あんた、何を―」
「いいんですか?」
治の目がぱっと明るくなる。
「ええ。若い人が一人増えたくらい、どうってことないわ」
「ありがとうございます!」
治は深く頭を下げた。しげるがいつにもまして仏頂面を見せる。だが、うららは構わない。
「あ… 別の場所で食べる予定でもあった?」
「ない」
「なら、せっかくのご縁でしょう?」
「…」
うららはしげるの無言を肯定と捉えることにした。料亭で見た“大人の顔”とは違う。今は、少しだけ年相応の青年のようだ。
「じゃあ、行きましょうか。 治くん、好きな食べ物はある?」
こうして三人は、夕暮れの商店街を抜け、長屋へと向かうことになった。
不満そうなしげると対照的に治のはニコニコとうららに話を振る。しげるの交友関係を知れたことをうららは嬉しく思いながらも会話に花を咲かせていった。
長屋の六畳間に、煮物の匂いが広がっている。ちゃぶ台を囲む三人。湯気の立つ味噌汁、小鉢の胡麻和え、そして大皿の煮物。治は正座を崩しかけては慌てて直し、どこか緊張した様子で箸を持っていた。
「いただきます!」
やけに元気な声が、少し狭い部屋に響く。しげるは無言で箸を動かす。うららはその様子を横目で見ながら、味噌汁をよそう。
「この煮物、旨いです!」
治が目を丸くした。
「ほんとに旨い。味がしみてて……あ、すみません」
「いいのよ、たくさんあるから」
うららが微笑むと、治は嬉しそうにもう一口食べた。しげるは黙ったままだ。だが、箸の進みが少し早い。
「そういえば……治くんって、どうしてしげるくんに憧れてるの?」
「赤木さんってすごいんですよ」
よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに治が言い出した。うららはその勢いに驚き、箸を止める。
「そうなの?」
「はい。オレ、初めて見たとき衝撃でした。考え方とか、読みの強さとか…」
治は少し考えて続ける。
「あとから話を聞いても理屈は分かるけど、そんなこと絶対しないだろうし、できない。でも赤木さんはそれができるんですよ! それにあんな打ち方する人、見たことなくて」
しげるは何も言わない。
「偶然を使って敵を刺すんです! まさに運も実力のうちを体現しているんですよ、赤木さんは」
治の目が、少し熱を帯びる。うららは、ぽかんとしながら聞いている。麻雀のことは分からない。読みがどうとか、打ち方がどうとか。
けれど、治の語り口から、それがどれほどのことかは伝わってくる。
「へえ……」
自然と、しげるを見る。ちゃぶ台の向こうで、黙々と飯を食べている青年。少し不機嫌そうで、どこか面倒くさそうで。けれど今、目の前にいる彼は、誰かの“憧れ”なのだ。
自分の知らない時間を生きてきたしげる。
自分の知らない顔で、誰かの記憶に残っているしげる。
胸の奥が、ふわりと温かくなる。
「すごいのね、しげるくん」
素直に言う。しげるは茶碗を持ったまま、ちらりと治を睨んだ。
「別に」
ぶっきらぼうだ。
「いや、すごいですよ!」
治が即座に返す。
「賭けるものだって―」
「治、ストップ」
静かな声。治は「あ、はい」と少し縮こまるが、それでも笑っている。
「でも本当に、オレ…赤木さんに会わなかったら弱虫のままでした」
その言葉に、うららの箸が止まる。
「だから赤木さんには感謝しているんです」
しげるは何も答えない。ただ、味噌汁を一口すすった。
「治くんを助けたのね」
「そういうわけじゃない」
「いえ、助けられました!」
部屋には、湯気と、煮物の甘い匂いが漂っている。うららは、そっと思った。
私は、この子をどれくらいを知っているのだろう。
知らない顔がある。
知らない時間がある。
それが少し寂しくて、けれど、嬉しい。
「治くん、もっと食べなさい」
「え、いいんですか?」
「若いんだから」
治は満面の笑みで頭を下げた。
「いただきます!」
その無邪気さに、しげるは小さくため息をつく。
「……うるさい」
けれど、その声はどこか柔らかかった。ちゃぶ台を囲む三人の影が、壁に揺れている。静かな夜だったはずの長屋は、いつもより少しだけ賑やかだった。
煮物の皿はきれいに空になり、味噌汁の椀も重ねられた。
「ごちそうさまでした!」
治が深く頭を下げる。その額がテーブルにぶつかりそうな勢いだ。
「お粗末様でした」
うららは思わず笑う。
「いや、本当に旨かったです。オレ、こんなちゃんとしたご飯、久しぶりで……」
言いかけて、少しだけ言葉を飲み込む。しげるは黙って煙草の煙を吐いている。外はもうすっかり夜だ。長屋の外を渡る風が、硝子をかすかに鳴らす。
その時、時計が21時を示す音が鳴った。
「あら、もうこんな時間」
うららが時計を見る。治もつられて振り返る。
「あ……ほんとだ」
しげるが間髪入れずに言った。
「帰れ」
「えぇ?」
「用は済んだろ」
治は困ったように笑う。
「う…はい…」
うららは二人を見比べた。
「泊まっていけば?」
空気が止まる。
「あんたね…」
しげるの声が低くなる。
「だって、この時間でしょう? 無理して帰らなくても」
治の目がきらりと光る。
「いいんですか?」
「布団はあるわ。 狭いけど」
「ありがとうございます!」
またもや勢いよく頭を下げる治。
「…」
「いいじゃない。 減るものでもないし」
うららはさらりと言う。しげるはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐き、煙草の火を消す。
「……明日は帰れよ」
治がぱっと顔を上げる。
「はい!」
即答だ。
「絶対だからな」
「分かってます!」
うららはそのやり取りを微笑ましく思う。
「じゃあみんなでお風呂に入りに行きましょうか」
連れ立って銭湯に行く道はいつもより賑やかだった。
その後お風呂のあとは”牛乳”か”フルーツ牛乳”かという論争があったが小さな部屋に3枚の布団を引き床に着く。
治の規則正しい呼吸が聞こえる。うららは目を閉じたまま、眠れずにいた。隣の気配が近い。いつもよりも近くにいるだけで、こんなにも体温を感じるものなのだろうか。
「……寝れないの?」
しげるの小さな声。目を開ける。
「どうして分かったの?」
「息」
「え?」
「寝てる時と違う」
暗がりの中で、うららはそっと笑う。
「なんでもお見通しね」
「まあね」
うららは、布団の上で指先をぎゅっと握る。聞いてみたいことが、胸に浮かんでいた。横目でしげるを盗み見る。
「ねえ」
「ん?」
「しげるくんは……怖くないの?」
「何が」
「大金掛けるんでしょ……負けたら…」
しげるは天井を見たまま答えない。うららは言葉に詰まる。
「…負けたらって考えないの?」
「考えない。負けたら負けた時だ。その時は潔く死ねばいい」」
静かな声。うららは、ゆっくり横を向く。
月明かりに照らされた横顔は、昼よりもずっと大人に見える。さっきまで近かった距離がどこか遠い。
「わたしはね」
小さく言う。
「しげるくんには生きててほしい」
しげるの視線が、初めてまっすぐこちらを向く。
「勝つとか負けるとか、すごいとかすごくないとか、よく分からないけど……」
喉が少し詰まる。
「生きててくれないと…帰ってきてくれないと、困るの」
部屋の空気が止まる。治の寝返りの音が、やけに遠い。しげるはしばらく何も言わなかった。
やがて、布団の上で手が動く気配がする。指先が、うららの手の甲に触れた。
ほんの一瞬。偶然みたいに、軽く。うららの心臓が跳ねる。離れると思った。けれど離れなかった。息が止まりそうになる。指先が、今度はちゃんと重なる。強くはないが、確かに握られた。
しげるは答えてはくれない。もしかしたら誤魔化しているのかもしれない。でもそれでいいと思った。自分の考えは伝えられた。どう考え、どう行動するかはしげる次第なのだ。
うららはそっと握り返す。月明かりの下で、二人の手だけが同じ温度になる。
しばらくして、うららが小さく言う。
「……寝ましょう」
「ああ」
でも、どちらもすぐには眠れなかった。
六畳の部屋。
三枚の布団。
ひとつだけ、距離がなくなっている。やがて、うららは安心したように目を閉じた。手は、そのままだった。夜は静かに、二人を包み込んでいく。
治が去った後の部屋が、しんとする。朝起きてすぐに布団をたたみ何度も頭を下げ治は駆け足に帰っていったのだ。うららは思わず息を吐いた。
「……まるで台風が去った後みたいね」
ちゃぶ台の上には湯呑みが三つ。
「ああ」
しげるは壁にもたれたまま、短く答える。さっきまであんなに賑やかだったのに、今は自分たちの呼吸の音だけがやけに大きい。
「でも」
うららは微笑む。
「しげるくんのお友達がいい子で良かったわ」
「……そう?」
「ええ。素直で、ちゃんとお礼も言えて。ご飯もおいしそうに食べてくれて」
少し考えるように視線を上げる。
「まっすぐな子ね」
しげるは鼻で笑う。
「うららさんって、いい子好きだもんな」
からかうような声音。うららはくすりと笑う。
「うふふ。そうね」
否定しない。しげるが、少しだけ間を置く。そして、何気ないふうを装って言う。
「……オレは?」
「え?」
「いい子?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。それから意味を理解してうららは吹き出してしまう。
「ふふっ……」
肩が揺れる。
「なに笑ってんの」
「だって……」
笑いをこらえきれない。
「しげるくんもそういうの、気にするのね」
「別に」
すぐに視線を逸らす。
「どうかしらね」
わざと考えるふりをする。
「気まぐれで、意地悪で、危なっかしくて……」
しげるの眉がわずかに寄る。
「でも…ちゃんと帰ってくるし、ちゃんと約束も守るし」
昨夜つないだ手の感触が、まだ残っている。
「わたしには、十分いい子よ」
しげるは一瞬、うららの目をじっと見つめる。それから、小さく息を吐いた。
「……基準が甘いな」
「そうかしら?」
「騙されるぞ」
「誰に?」
「オレに」
その瞳が真っすぐで、うららはまた笑ってしまう。
「もう騙されてるかもしれないわね」
「……」
しげるは何も言わない。ただ、少しだけ口元が緩む。六畳の部屋は静かだ。
けれど今は、さっきまでの賑やかさが嘘のように、落ち着いた温度で満たされている。うららは湯呑みにお茶を注ぐ。湯気がゆらりと立ち上る。
「また来るかしらね」
「もう来ないさ」
「来たらまた泊めましょう」
「……来ないって」
けれど、その声はもう本気ではなかった。
台風が去ったあとの空みたいに、部屋の空気は澄んでいる。そして二人の距離は、昨夜よりも確かに近かった。
さて、いつもの商店街へ戻ろうか。
そう思って歩き出したときだった。人混みの向こうに、見覚えのある後ろ姿がある。いつもの青いシャツに白い髪。少しだけ無造作な立ち姿。赤木しげるである。
その向かいに、もう一人。しげるより少し小柄で、そばかす顔の柔らかい雰囲気の青年が何か必死に話している。押し問答のようにも見える。
”用がある”と昨日話していた彼を思い出す。少し迷ったが、うららはそのまま歩み寄った。
「しげるくん、奇遇ね」
二人の会話がぴたりと止まる。
「……」
しげるは露骨に、嫌そうな顔をした。
「?…… しげるくん?」
その青年が、きょとんとした顔でうららを見る。
「赤木さん? この方は?」
「初めまして。私、南沢うららと申します」
軽く会釈する。青年も慌てて頭を下げた。
「初めまして!オレ、野崎治です」
その名前に、うららの動きが一瞬止まった。
治?
昨日、車の中で聞いた名前。
“前の会社の人間”
“大金せしめた”
頭の中で勝手に描いていたのは、強面で鋭い目の男だった。だが目の前にいるのは、穏やかな目をした、どこか人懐っこい青年だ。
「あ……えっと、しげるくんのお友達?」
治は少し照れたように笑った。
「友達、って言っていいのか……赤木さんは、オレの憧れなんです」
その言葉は、驚くほどまっすぐだった。うららは思わず、しげるを見る。”憧れ”そんなふうに言われる彼を、初めて見る。
「そうなの」
素直に感心してしまう。
「もうお前、帰れ」
しげるがやっと口を開いたと思えば、ぶっきらぼうに言い放つ。
「ええ? 俺もついていきます」
引かない。
「帰れ」
「いやです」
まるで子供の口喧嘩だ。うららは二人を交互に見た。
「今日この後、予定あるの?」
治に尋ねる。
「ないですけど」
「なら、うちでご飯食べていきなさいよ」
しげるが即座に振り向いた。
「あんた、何を―」
「いいんですか?」
治の目がぱっと明るくなる。
「ええ。若い人が一人増えたくらい、どうってことないわ」
「ありがとうございます!」
治は深く頭を下げた。しげるがいつにもまして仏頂面を見せる。だが、うららは構わない。
「あ… 別の場所で食べる予定でもあった?」
「ない」
「なら、せっかくのご縁でしょう?」
「…」
うららはしげるの無言を肯定と捉えることにした。料亭で見た“大人の顔”とは違う。今は、少しだけ年相応の青年のようだ。
「じゃあ、行きましょうか。 治くん、好きな食べ物はある?」
こうして三人は、夕暮れの商店街を抜け、長屋へと向かうことになった。
不満そうなしげると対照的に治のはニコニコとうららに話を振る。しげるの交友関係を知れたことをうららは嬉しく思いながらも会話に花を咲かせていった。
長屋の六畳間に、煮物の匂いが広がっている。ちゃぶ台を囲む三人。湯気の立つ味噌汁、小鉢の胡麻和え、そして大皿の煮物。治は正座を崩しかけては慌てて直し、どこか緊張した様子で箸を持っていた。
「いただきます!」
やけに元気な声が、少し狭い部屋に響く。しげるは無言で箸を動かす。うららはその様子を横目で見ながら、味噌汁をよそう。
「この煮物、旨いです!」
治が目を丸くした。
「ほんとに旨い。味がしみてて……あ、すみません」
「いいのよ、たくさんあるから」
うららが微笑むと、治は嬉しそうにもう一口食べた。しげるは黙ったままだ。だが、箸の進みが少し早い。
「そういえば……治くんって、どうしてしげるくんに憧れてるの?」
「赤木さんってすごいんですよ」
よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに治が言い出した。うららはその勢いに驚き、箸を止める。
「そうなの?」
「はい。オレ、初めて見たとき衝撃でした。考え方とか、読みの強さとか…」
治は少し考えて続ける。
「あとから話を聞いても理屈は分かるけど、そんなこと絶対しないだろうし、できない。でも赤木さんはそれができるんですよ! それにあんな打ち方する人、見たことなくて」
しげるは何も言わない。
「偶然を使って敵を刺すんです! まさに運も実力のうちを体現しているんですよ、赤木さんは」
治の目が、少し熱を帯びる。うららは、ぽかんとしながら聞いている。麻雀のことは分からない。読みがどうとか、打ち方がどうとか。
けれど、治の語り口から、それがどれほどのことかは伝わってくる。
「へえ……」
自然と、しげるを見る。ちゃぶ台の向こうで、黙々と飯を食べている青年。少し不機嫌そうで、どこか面倒くさそうで。けれど今、目の前にいる彼は、誰かの“憧れ”なのだ。
自分の知らない時間を生きてきたしげる。
自分の知らない顔で、誰かの記憶に残っているしげる。
胸の奥が、ふわりと温かくなる。
「すごいのね、しげるくん」
素直に言う。しげるは茶碗を持ったまま、ちらりと治を睨んだ。
「別に」
ぶっきらぼうだ。
「いや、すごいですよ!」
治が即座に返す。
「賭けるものだって―」
「治、ストップ」
静かな声。治は「あ、はい」と少し縮こまるが、それでも笑っている。
「でも本当に、オレ…赤木さんに会わなかったら弱虫のままでした」
その言葉に、うららの箸が止まる。
「だから赤木さんには感謝しているんです」
しげるは何も答えない。ただ、味噌汁を一口すすった。
「治くんを助けたのね」
「そういうわけじゃない」
「いえ、助けられました!」
部屋には、湯気と、煮物の甘い匂いが漂っている。うららは、そっと思った。
私は、この子をどれくらいを知っているのだろう。
知らない顔がある。
知らない時間がある。
それが少し寂しくて、けれど、嬉しい。
「治くん、もっと食べなさい」
「え、いいんですか?」
「若いんだから」
治は満面の笑みで頭を下げた。
「いただきます!」
その無邪気さに、しげるは小さくため息をつく。
「……うるさい」
けれど、その声はどこか柔らかかった。ちゃぶ台を囲む三人の影が、壁に揺れている。静かな夜だったはずの長屋は、いつもより少しだけ賑やかだった。
煮物の皿はきれいに空になり、味噌汁の椀も重ねられた。
「ごちそうさまでした!」
治が深く頭を下げる。その額がテーブルにぶつかりそうな勢いだ。
「お粗末様でした」
うららは思わず笑う。
「いや、本当に旨かったです。オレ、こんなちゃんとしたご飯、久しぶりで……」
言いかけて、少しだけ言葉を飲み込む。しげるは黙って煙草の煙を吐いている。外はもうすっかり夜だ。長屋の外を渡る風が、硝子をかすかに鳴らす。
その時、時計が21時を示す音が鳴った。
「あら、もうこんな時間」
うららが時計を見る。治もつられて振り返る。
「あ……ほんとだ」
しげるが間髪入れずに言った。
「帰れ」
「えぇ?」
「用は済んだろ」
治は困ったように笑う。
「う…はい…」
うららは二人を見比べた。
「泊まっていけば?」
空気が止まる。
「あんたね…」
しげるの声が低くなる。
「だって、この時間でしょう? 無理して帰らなくても」
治の目がきらりと光る。
「いいんですか?」
「布団はあるわ。 狭いけど」
「ありがとうございます!」
またもや勢いよく頭を下げる治。
「…」
「いいじゃない。 減るものでもないし」
うららはさらりと言う。しげるはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐き、煙草の火を消す。
「……明日は帰れよ」
治がぱっと顔を上げる。
「はい!」
即答だ。
「絶対だからな」
「分かってます!」
うららはそのやり取りを微笑ましく思う。
「じゃあみんなでお風呂に入りに行きましょうか」
連れ立って銭湯に行く道はいつもより賑やかだった。
その後お風呂のあとは”牛乳”か”フルーツ牛乳”かという論争があったが小さな部屋に3枚の布団を引き床に着く。
治の規則正しい呼吸が聞こえる。うららは目を閉じたまま、眠れずにいた。隣の気配が近い。いつもよりも近くにいるだけで、こんなにも体温を感じるものなのだろうか。
「……寝れないの?」
しげるの小さな声。目を開ける。
「どうして分かったの?」
「息」
「え?」
「寝てる時と違う」
暗がりの中で、うららはそっと笑う。
「なんでもお見通しね」
「まあね」
うららは、布団の上で指先をぎゅっと握る。聞いてみたいことが、胸に浮かんでいた。横目でしげるを盗み見る。
「ねえ」
「ん?」
「しげるくんは……怖くないの?」
「何が」
「大金掛けるんでしょ……負けたら…」
しげるは天井を見たまま答えない。うららは言葉に詰まる。
「…負けたらって考えないの?」
「考えない。負けたら負けた時だ。その時は潔く死ねばいい」」
静かな声。うららは、ゆっくり横を向く。
月明かりに照らされた横顔は、昼よりもずっと大人に見える。さっきまで近かった距離がどこか遠い。
「わたしはね」
小さく言う。
「しげるくんには生きててほしい」
しげるの視線が、初めてまっすぐこちらを向く。
「勝つとか負けるとか、すごいとかすごくないとか、よく分からないけど……」
喉が少し詰まる。
「生きててくれないと…帰ってきてくれないと、困るの」
部屋の空気が止まる。治の寝返りの音が、やけに遠い。しげるはしばらく何も言わなかった。
やがて、布団の上で手が動く気配がする。指先が、うららの手の甲に触れた。
ほんの一瞬。偶然みたいに、軽く。うららの心臓が跳ねる。離れると思った。けれど離れなかった。息が止まりそうになる。指先が、今度はちゃんと重なる。強くはないが、確かに握られた。
しげるは答えてはくれない。もしかしたら誤魔化しているのかもしれない。でもそれでいいと思った。自分の考えは伝えられた。どう考え、どう行動するかはしげる次第なのだ。
うららはそっと握り返す。月明かりの下で、二人の手だけが同じ温度になる。
しばらくして、うららが小さく言う。
「……寝ましょう」
「ああ」
でも、どちらもすぐには眠れなかった。
六畳の部屋。
三枚の布団。
ひとつだけ、距離がなくなっている。やがて、うららは安心したように目を閉じた。手は、そのままだった。夜は静かに、二人を包み込んでいく。
治が去った後の部屋が、しんとする。朝起きてすぐに布団をたたみ何度も頭を下げ治は駆け足に帰っていったのだ。うららは思わず息を吐いた。
「……まるで台風が去った後みたいね」
ちゃぶ台の上には湯呑みが三つ。
「ああ」
しげるは壁にもたれたまま、短く答える。さっきまであんなに賑やかだったのに、今は自分たちの呼吸の音だけがやけに大きい。
「でも」
うららは微笑む。
「しげるくんのお友達がいい子で良かったわ」
「……そう?」
「ええ。素直で、ちゃんとお礼も言えて。ご飯もおいしそうに食べてくれて」
少し考えるように視線を上げる。
「まっすぐな子ね」
しげるは鼻で笑う。
「うららさんって、いい子好きだもんな」
からかうような声音。うららはくすりと笑う。
「うふふ。そうね」
否定しない。しげるが、少しだけ間を置く。そして、何気ないふうを装って言う。
「……オレは?」
「え?」
「いい子?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。それから意味を理解してうららは吹き出してしまう。
「ふふっ……」
肩が揺れる。
「なに笑ってんの」
「だって……」
笑いをこらえきれない。
「しげるくんもそういうの、気にするのね」
「別に」
すぐに視線を逸らす。
「どうかしらね」
わざと考えるふりをする。
「気まぐれで、意地悪で、危なっかしくて……」
しげるの眉がわずかに寄る。
「でも…ちゃんと帰ってくるし、ちゃんと約束も守るし」
昨夜つないだ手の感触が、まだ残っている。
「わたしには、十分いい子よ」
しげるは一瞬、うららの目をじっと見つめる。それから、小さく息を吐いた。
「……基準が甘いな」
「そうかしら?」
「騙されるぞ」
「誰に?」
「オレに」
その瞳が真っすぐで、うららはまた笑ってしまう。
「もう騙されてるかもしれないわね」
「……」
しげるは何も言わない。ただ、少しだけ口元が緩む。六畳の部屋は静かだ。
けれど今は、さっきまでの賑やかさが嘘のように、落ち着いた温度で満たされている。うららは湯呑みにお茶を注ぐ。湯気がゆらりと立ち上る。
「また来るかしらね」
「もう来ないさ」
「来たらまた泊めましょう」
「……来ないって」
けれど、その声はもう本気ではなかった。
台風が去ったあとの空みたいに、部屋の空気は澄んでいる。そして二人の距離は、昨夜よりも確かに近かった。
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