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車を降りたのは、通りから一本外れた細い路地の駐車場だった。
暖簾も看板も見当たらない。だが淡い光に照らされて石畳が浮かび上がっているように感じられる。その奥に、ひっそりとした格子戸があるだけだ。
戸を引くと、小さな音とともに開いた。中に立っていたのは、淡い桃色の着物を着た女将だった。所作のひとつひとつが、こちらの背筋を自然と伸ばさせる。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた柔らかい声。女将は軽く会釈をしてから、廊下を先導した。畳を踏む足音が吸い込まれていく。奥へ進むにつれて、外の気配がすっと遠のいていった。
通されたのは、十畳ほどの個室だった。
向かい合わせに置かれた座椅子。その間には、木目の美しい座卓が一つ。卓上には、料理を受けるための和紙の敷紙―懐紙が揃えて置かれている。
床の間には、花が生けてある。
白磁の細身の花入れに、すっと立ち上がる緑の線。深い藍に近い紫の花菖蒲。花弁は大きくわずかに内側へと反り返り、凛とした緊張を保っている。もう一輪、朱に近い橙の小花が、低くあしらわれていた。
うららは、そっと息を整えた。
豪勢な部屋に通されるのは、これで二度目だ。前ほど胸がざわつかない自分に、少しだけ驚く。
「では、お料理をお持ちいたします」
女将はそう言って、静かに戸を閉めた。室内に残ったのは、二人と、しんとした空気だけだった。
「今日は、落ち着いてるね」
しげるが、どこか面白がるように言う。
「そう…かしら?」
「前は、もっと肩に力入ってた」
うららは小さく笑って、座椅子に腰を落ち着ける。
「しげるくんのおかげでね。慣れたわ」
本心だった。あの車に乗り、非日常の速度と音を一度受け入れてしまえば、こういう場所も、同じ延長線上にある気がしてくる。
しげるは、喉の奥で小さく笑った。
「ククク……そうこなくちゃ」
子供のようでいて、どこか余裕のあるその笑い方に、うららは少しだけ目を細めた。
運ばれてきた料理は、どれも美しかった。余白のある皿の中央に、季節だけが置かれているようだ。
その中でも、うららの目を引いたのは、小ぶりの黒塗りの器に盛られた生雲丹だった。氷を敷いた上に、黄金色の雲丹が重ねられている。光を含んだような艶。まるで宝石のようにキラキラと佇んでいる。
しげるはその宝石を一口で口に放り込んでしまう。うららもおそるおそる口に運ぶ。
舌に触れた瞬間、塩気でも苦みでもなく、まろやかな甘みが広がった。海の匂いはあるのに、生臭さがない。濃厚なのに、重くない。体温に溶けるように、すっと消えていく。
「……う~ん、おいしい」
思わず、声が漏れた。
「実は、雲丹って苦手だったのよね。 でも、この雲丹は……濃厚で、なめらかで、口の中で溶けてくみたい」
自分でも少し驚いている。しげるは向かいで、静かに盃を置いた。
「そりゃよかった」
それだけの言い方なのに、どこか満足げだ。
「こんないいお店、誰から聞いたの?」
箸を持ったまま尋ねると、しげるは何でもない調子で答えた。
「石川さん。覚えてる?」
「石川さん……」
一瞬、記憶を探る。そして、はっとする。
「ああ、あの時の…」
再会した日の夜。しげるを探していた、黒い背広の男。低い声と、鋭い目つき。あの喫茶店で確かにそう名乗っていた。
「石川さんたちが、よく使うんだって」
“たち”という言い方が、うららの胸に小さく引っかかった。
「へぇ……」
それ以上は聞かなかった。聞いてはいけない気がした。
部屋は相変わらず静かで、床の間の花が凛と立っている。その静けさの中で、やっぱり自分だけが少し違う場所に足を踏み入れているような気がした。
うららは、最後の一口を名残惜しそうに口へ運ぶ。噛みしめる間もなく、雲丹は溶けて消えた。
「そんなに旨い?」
しげるが、少しだけからかうように言う。
「うん、とっても」
素直に頷くと、しげるは視線を逸らし、さらりと言った。
「なら、また来よう」
その一言に、うららの胸が、ふっと揺れた。
“また”
こうして向かい合って、同じものを食べる時間を、次も当然のようなそんな響きがあった。未来の話を、彼のほうから口にすることは、そう多くない。うららは、器をそっと置き、静かに微笑んだ。
「うん」
上手く言葉が出てこず、うららは短い返事だけをする。しかし胸の奥では、何かが温かく灯っていた。
料亭を出ると、夜気は思いのほかひんやりとしていた。ほろ酔いの頬に、風が心地よい。
車に乗り込むと、革の匂いとわずかに残った酒の香りが混ざり合う。エンジンがかかる。低い振動が背中に伝わると、身体の奥に残っていた緊張がゆるりとほどけた。
街の灯りが、今度は帰り道の顔をしている。行きよりも少し静かに見えるのは、自分が満たされているせいだろうか。
「……おいしかったなあ」
思わず、声に出る。
雲丹の甘み。すっぽんの濃い出汁。鯛茶漬けのやさしい温度。
「明日、仕事がお休みで良かったわ」
余韻に浸ったまま言うと、しげるは前を見たまま答える。
「そうですね」
信号待ちで、車が静かに止まる。
「うららさん」
「なあに?]
「俺、明日用があるから、飯いらない」
少し間を置いた言い方だった。
「あら、そうなの……わかった」
そう返しながら、うららの胸の奥に小さな引っかかりが生まれる。
どこに行くのかしら。
聞いていいことなのか。
聞かないほうがいいことなのか。
迷っていると、
「前の会社の人間に用があってね」
と、しげるのほうから言った。
「え……」
思わず横を見る。
「気になるって顔に書いてあった」
うららは慌てて両頬を手で押さえた。
「そんなに分かりやすい?」
「分かりやすい」
喉の奥で、くく、と小さく笑う。その笑い方は、料亭で見せた顔とも、商店街での顔とも少し違う。
「治っていうんだけど」
ハンドルを軽く切りながら、続ける。
「そいつの助けがあって、大金せしめたからさ。礼をしに行く」
さらりと言う。
「大金、せしめたって……」
うららの頭の中に、勝手な像が浮かび上がる。鋭い目をした、凶悪そうな男。暗い路地。札束。低い笑い声。
「……物騒ね」
思わず呟く。しげるは肩をすくめる。
「心配しなくていいよ。うららさん」
「……そう」
それ以上は聞かなかった。というより聞けなかった。
車は長屋の近くへと入っていく。
ネオンは消え、見慣れた街灯の色に戻る。さっきまでの華やかな夜と、これからの静かな部屋。その間に、しげるの“別の世界”があるのだと、うららは改めて思う。
エンジンが止まり、振動が消える。急に、静寂が広がる。家の戸を開けると、いつもの匂いが迎える。
けれど、今夜のうららの胸には、料亭の余韻と、知らない男“治”の影とが、並んで残っていた。
暖簾も看板も見当たらない。だが淡い光に照らされて石畳が浮かび上がっているように感じられる。その奥に、ひっそりとした格子戸があるだけだ。
戸を引くと、小さな音とともに開いた。中に立っていたのは、淡い桃色の着物を着た女将だった。所作のひとつひとつが、こちらの背筋を自然と伸ばさせる。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた柔らかい声。女将は軽く会釈をしてから、廊下を先導した。畳を踏む足音が吸い込まれていく。奥へ進むにつれて、外の気配がすっと遠のいていった。
通されたのは、十畳ほどの個室だった。
向かい合わせに置かれた座椅子。その間には、木目の美しい座卓が一つ。卓上には、料理を受けるための和紙の敷紙―懐紙が揃えて置かれている。
床の間には、花が生けてある。
白磁の細身の花入れに、すっと立ち上がる緑の線。深い藍に近い紫の花菖蒲。花弁は大きくわずかに内側へと反り返り、凛とした緊張を保っている。もう一輪、朱に近い橙の小花が、低くあしらわれていた。
うららは、そっと息を整えた。
豪勢な部屋に通されるのは、これで二度目だ。前ほど胸がざわつかない自分に、少しだけ驚く。
「では、お料理をお持ちいたします」
女将はそう言って、静かに戸を閉めた。室内に残ったのは、二人と、しんとした空気だけだった。
「今日は、落ち着いてるね」
しげるが、どこか面白がるように言う。
「そう…かしら?」
「前は、もっと肩に力入ってた」
うららは小さく笑って、座椅子に腰を落ち着ける。
「しげるくんのおかげでね。慣れたわ」
本心だった。あの車に乗り、非日常の速度と音を一度受け入れてしまえば、こういう場所も、同じ延長線上にある気がしてくる。
しげるは、喉の奥で小さく笑った。
「ククク……そうこなくちゃ」
子供のようでいて、どこか余裕のあるその笑い方に、うららは少しだけ目を細めた。
運ばれてきた料理は、どれも美しかった。余白のある皿の中央に、季節だけが置かれているようだ。
その中でも、うららの目を引いたのは、小ぶりの黒塗りの器に盛られた生雲丹だった。氷を敷いた上に、黄金色の雲丹が重ねられている。光を含んだような艶。まるで宝石のようにキラキラと佇んでいる。
しげるはその宝石を一口で口に放り込んでしまう。うららもおそるおそる口に運ぶ。
舌に触れた瞬間、塩気でも苦みでもなく、まろやかな甘みが広がった。海の匂いはあるのに、生臭さがない。濃厚なのに、重くない。体温に溶けるように、すっと消えていく。
「……う~ん、おいしい」
思わず、声が漏れた。
「実は、雲丹って苦手だったのよね。 でも、この雲丹は……濃厚で、なめらかで、口の中で溶けてくみたい」
自分でも少し驚いている。しげるは向かいで、静かに盃を置いた。
「そりゃよかった」
それだけの言い方なのに、どこか満足げだ。
「こんないいお店、誰から聞いたの?」
箸を持ったまま尋ねると、しげるは何でもない調子で答えた。
「石川さん。覚えてる?」
「石川さん……」
一瞬、記憶を探る。そして、はっとする。
「ああ、あの時の…」
再会した日の夜。しげるを探していた、黒い背広の男。低い声と、鋭い目つき。あの喫茶店で確かにそう名乗っていた。
「石川さんたちが、よく使うんだって」
“たち”という言い方が、うららの胸に小さく引っかかった。
「へぇ……」
それ以上は聞かなかった。聞いてはいけない気がした。
部屋は相変わらず静かで、床の間の花が凛と立っている。その静けさの中で、やっぱり自分だけが少し違う場所に足を踏み入れているような気がした。
うららは、最後の一口を名残惜しそうに口へ運ぶ。噛みしめる間もなく、雲丹は溶けて消えた。
「そんなに旨い?」
しげるが、少しだけからかうように言う。
「うん、とっても」
素直に頷くと、しげるは視線を逸らし、さらりと言った。
「なら、また来よう」
その一言に、うららの胸が、ふっと揺れた。
“また”
こうして向かい合って、同じものを食べる時間を、次も当然のようなそんな響きがあった。未来の話を、彼のほうから口にすることは、そう多くない。うららは、器をそっと置き、静かに微笑んだ。
「うん」
上手く言葉が出てこず、うららは短い返事だけをする。しかし胸の奥では、何かが温かく灯っていた。
料亭を出ると、夜気は思いのほかひんやりとしていた。ほろ酔いの頬に、風が心地よい。
車に乗り込むと、革の匂いとわずかに残った酒の香りが混ざり合う。エンジンがかかる。低い振動が背中に伝わると、身体の奥に残っていた緊張がゆるりとほどけた。
街の灯りが、今度は帰り道の顔をしている。行きよりも少し静かに見えるのは、自分が満たされているせいだろうか。
「……おいしかったなあ」
思わず、声に出る。
雲丹の甘み。すっぽんの濃い出汁。鯛茶漬けのやさしい温度。
「明日、仕事がお休みで良かったわ」
余韻に浸ったまま言うと、しげるは前を見たまま答える。
「そうですね」
信号待ちで、車が静かに止まる。
「うららさん」
「なあに?]
「俺、明日用があるから、飯いらない」
少し間を置いた言い方だった。
「あら、そうなの……わかった」
そう返しながら、うららの胸の奥に小さな引っかかりが生まれる。
どこに行くのかしら。
聞いていいことなのか。
聞かないほうがいいことなのか。
迷っていると、
「前の会社の人間に用があってね」
と、しげるのほうから言った。
「え……」
思わず横を見る。
「気になるって顔に書いてあった」
うららは慌てて両頬を手で押さえた。
「そんなに分かりやすい?」
「分かりやすい」
喉の奥で、くく、と小さく笑う。その笑い方は、料亭で見せた顔とも、商店街での顔とも少し違う。
「治っていうんだけど」
ハンドルを軽く切りながら、続ける。
「そいつの助けがあって、大金せしめたからさ。礼をしに行く」
さらりと言う。
「大金、せしめたって……」
うららの頭の中に、勝手な像が浮かび上がる。鋭い目をした、凶悪そうな男。暗い路地。札束。低い笑い声。
「……物騒ね」
思わず呟く。しげるは肩をすくめる。
「心配しなくていいよ。うららさん」
「……そう」
それ以上は聞かなかった。というより聞けなかった。
車は長屋の近くへと入っていく。
ネオンは消え、見慣れた街灯の色に戻る。さっきまでの華やかな夜と、これからの静かな部屋。その間に、しげるの“別の世界”があるのだと、うららは改めて思う。
エンジンが止まり、振動が消える。急に、静寂が広がる。家の戸を開けると、いつもの匂いが迎える。
けれど、今夜のうららの胸には、料亭の余韻と、知らない男“治”の影とが、並んで残っていた。
