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旅行から戻った週の、仕事納め前の一日だった。
工場の中は朝からどこか落ち着かず、機械の音に混じって、外のざわめきが妙に耳についた。誰かが笑う声、普段より高い調子の話し声。
何かあったのだろうかと、うららは気になりながらも、いつも通りに仕事を終えた。
定時を少し過ぎて、門へ向かう。
その瞬間、足が止まった。
門の前に、見慣れない白があった。艶のある白塗りの車体。丸みを帯びた流線型の輪郭は、国産車とは明らかに違う。
低く、地面に張り付くような姿勢。フロントはすっきりとしていて、余計な装飾がない。車に詳しくないうららでも、一目でいい車だとわかった。
そしてその車に、しげるが寄りかかっていた。片手に煙草を持ち、もう一方の肘を車体に預けるようにして立っている。白い車と、濃い影を落とすその姿が、場違いなくらい様になっていた。
周りには、うちの工場のおじさんたちが群がっている。まるで展示品でも囲むように、口々に声をかけていた。
「すごい車だね」
「いくらしたの?」
「あんちゃん、たいしたもんだ」
「かっこいいなあ」
しげるは、愛想よくもなく、無愛想でもなく、気まぐれに相槌を打つだけだった。まるで、この騒ぎ自体が他人事のようだ。
その光景を前にして、うららは門の内側で立ち尽くした。今出ていけば、確実に視線が集まるだろう。
少しだけ様子をうかがうように、顔を出した瞬間、しげると視線が合った。
しまった、と思ったときには遅かった。
しげるは煙草を指に挟んだまま、群れを抜けてこちらへ歩いてくる。逃げ場はない。うららは、諦めたように門を出た。
「遅かったですね」
何でもない調子で言われる。
「……うん。ちょっと、出づらくて」
視線が、自然と車のほうへ行ってしまう。
「気にしすぎ。帰ろう」
しげるは親指で、背後の車を示した。
「やっぱり……その車、しげるくんのだったんだね」
「ええ」
短いやり取りの最中に、一人の社員が、おずおずと声をかけてきた。
「南沢ちゃん。あのさ……」
野次馬の中でも車好きで有名な人だ。
「この車、すごいよ」
「そうなんですか?」
「排気音が全然違うんだよ」
「へえ……」
うららは、曖昧に笑うしかなかった。
「そういうことで」
しげるが、会話を切り上げるように言う。
「行きましょう、うららさん」
「あ、うん……みなさん、お疲れ様です」
頭を下げると、背中にいくつもの視線を感じた。そのあと、工場の中で南沢うららの名前が、妙な噂と一緒に囁かれるようになったのは、また別の話だ。
しげるは白い車の助手席のドアを、静かに開く。
「どうぞ」
まるで物語のヒロインにでもなった気分だ。うららは一度だけ深呼吸をして、そこに腰を下ろした。
低い視線。近い天井。ドアが閉まる音が、いつもより重く響いた。どこへ行くのか、聞く前に、エンジンがかかった。
低く、乾いた音が、車内の奥から響く。工場の前に並んでいたいつもの軽い音とは違う。音が跳ねず、地面に吸い付くように広がる。うららは、思わず背もたれに肩を預けた。
クラッチをつなぐと、車体がすっと前に出た。その動きがあまりに自然で、逆に速度を感じさせる。振動はあるのに、ばらつきがない。座席の背中側から、鼓動のようなものが伝わってくる。
しかし不思議と不快じゃない。奇妙な感覚。工場の門を離れ、細い道へ出る。車高が低いせいか、路面がやけに近い。小さな段差でも、身体がふわりと浮くような感覚がある。
ふと、車内の匂いに気づく。革の匂い。オイル。ほのかにガソリン。そこに、しげるの煙草の残り香が混じっている。どれも馴染みのない匂いなのに、不思議と落ち着く。
「……なんか、遠くに来たみたい」
「まだ、町も出てない」
しげるが口の端を上げる。
「だっていつもの道じゃない感じするんだもの」
バックミラーに映る工場の門が、少しずつ小さくなっていく。視線が集まっていたのも、音と振動に紛れて遠ざかっていく。
「ねえ」
「ん?」
「……この車で、商店街は行かないよね」
遠慮がちに言うと、しげるは小さく息を吐いた。
「行けるけど」
「けど?」
「行きたいとこあるんだ」
その思わせぶりな言い方に、うららは思わず笑った。
信号で一度止まる。エンジン音が低く一定のリズムを刻み、その振動が足元から膝へ伝わってきている。
「……今日は、外で食べよう」
「いいわね。どこ行くの?」
「少し走ったとこ。いい店聞いたんだ」
「しげるくんの、いいお店…」
うららは、一瞬だけ旅行を思い出す。彼の言ういい店が少し恐ろしく感じた。
「待って、そんないいお店行くのに私…服が」
いつものブラウスに眺めのフレアスカート、薄いカーディガンを羽織っている。まさに仕事帰り。こんな格好でいい場所なのだろうか。
「安心してよ。ちゃんと考えてる」
しげるがアクセルを踏むと、エンジンの音が少しだけ高まる。街灯が流れ、風景が滑るように後ろへ流れていく。うららは、助手席の窓に映る自分の顔を見た。少しだけ、知らない人みたいだった。
車が大通りへ出るころには日が沈んでいた。車は街の光の中へ滑り込む。
東京の夜は、うららが思っているよりも明るい。商店の看板、ネオン、街灯。ひとつひとつは小さな灯りなのに、集まると昼間とは別の都会を作り出している。
助手席の窓越しに、光が流れていく。低い車体のせいか、景色がいつもより近く、速く感じられた。エンジンの低い振動が背中に伝わり、一定の鼓動のように身体を揺らしている。
「少し来るだけで、都会ね」
思わず口をついて出る。しげるはハンドルを握ったまま、短く答えた。
「そうだな」
信号が青に変わり、車はするりと前へ出る。窓の外を流れるネオンの色が、フロントガラスに淡く映り込む。うららは、自分の胸の内に小さな弾みがあることに気づいた。心が、少し浮き立っている。
私、何をこんなに…
可笑しくなって、小さく笑ってしまう。
「なに?」
しげるが横目で見る。
「え?……ああ。何だか、おかしくって」
「なにが」
追及する声は穏やかだが、逃がす気はないらしい。うららは少し迷ってから、正直に言うことにした。
「えっと……いま、すごくワクワクしてるの」
自分で言って、少し照れる。
「しげるくんと一緒だと、楽しいことがたくさんあるなって思っただけ」
車内に、一瞬だけ沈黙が落ちる。エンジン音だけが低く響いている。しげるは、口元をわずかに歪めた。
「へえ。嬉しいこと言ってくれるね」
「お世辞じゃないのよ?」
うららはしげるの顔を覗き込む。ネオンの赤が、しげるの頬に淡く映っている。
「ん」
短い返事。
車はさらに街の中心へと進む。光は増え、人の気配も濃くなる。背中に伝わる振動。革とオイルの匂い。窓の外を流れる東京。そのすべてが、うららには少しだけ新しく、そして眩しかった。
自分はもう、若い娘ではない。それでも今、胸が弾んでいる。それが可笑しくて、そして、少しだけ嬉しかった。
「ねえ、しげるくん」
「なに」
「……ありがとう」
ただ、車はそのまま、街を抜けて走っていく。いつもの生活から、ほんの少しだけ離れた場所へ。
工場の中は朝からどこか落ち着かず、機械の音に混じって、外のざわめきが妙に耳についた。誰かが笑う声、普段より高い調子の話し声。
何かあったのだろうかと、うららは気になりながらも、いつも通りに仕事を終えた。
定時を少し過ぎて、門へ向かう。
その瞬間、足が止まった。
門の前に、見慣れない白があった。艶のある白塗りの車体。丸みを帯びた流線型の輪郭は、国産車とは明らかに違う。
低く、地面に張り付くような姿勢。フロントはすっきりとしていて、余計な装飾がない。車に詳しくないうららでも、一目でいい車だとわかった。
そしてその車に、しげるが寄りかかっていた。片手に煙草を持ち、もう一方の肘を車体に預けるようにして立っている。白い車と、濃い影を落とすその姿が、場違いなくらい様になっていた。
周りには、うちの工場のおじさんたちが群がっている。まるで展示品でも囲むように、口々に声をかけていた。
「すごい車だね」
「いくらしたの?」
「あんちゃん、たいしたもんだ」
「かっこいいなあ」
しげるは、愛想よくもなく、無愛想でもなく、気まぐれに相槌を打つだけだった。まるで、この騒ぎ自体が他人事のようだ。
その光景を前にして、うららは門の内側で立ち尽くした。今出ていけば、確実に視線が集まるだろう。
少しだけ様子をうかがうように、顔を出した瞬間、しげると視線が合った。
しまった、と思ったときには遅かった。
しげるは煙草を指に挟んだまま、群れを抜けてこちらへ歩いてくる。逃げ場はない。うららは、諦めたように門を出た。
「遅かったですね」
何でもない調子で言われる。
「……うん。ちょっと、出づらくて」
視線が、自然と車のほうへ行ってしまう。
「気にしすぎ。帰ろう」
しげるは親指で、背後の車を示した。
「やっぱり……その車、しげるくんのだったんだね」
「ええ」
短いやり取りの最中に、一人の社員が、おずおずと声をかけてきた。
「南沢ちゃん。あのさ……」
野次馬の中でも車好きで有名な人だ。
「この車、すごいよ」
「そうなんですか?」
「排気音が全然違うんだよ」
「へえ……」
うららは、曖昧に笑うしかなかった。
「そういうことで」
しげるが、会話を切り上げるように言う。
「行きましょう、うららさん」
「あ、うん……みなさん、お疲れ様です」
頭を下げると、背中にいくつもの視線を感じた。そのあと、工場の中で南沢うららの名前が、妙な噂と一緒に囁かれるようになったのは、また別の話だ。
しげるは白い車の助手席のドアを、静かに開く。
「どうぞ」
まるで物語のヒロインにでもなった気分だ。うららは一度だけ深呼吸をして、そこに腰を下ろした。
低い視線。近い天井。ドアが閉まる音が、いつもより重く響いた。どこへ行くのか、聞く前に、エンジンがかかった。
低く、乾いた音が、車内の奥から響く。工場の前に並んでいたいつもの軽い音とは違う。音が跳ねず、地面に吸い付くように広がる。うららは、思わず背もたれに肩を預けた。
クラッチをつなぐと、車体がすっと前に出た。その動きがあまりに自然で、逆に速度を感じさせる。振動はあるのに、ばらつきがない。座席の背中側から、鼓動のようなものが伝わってくる。
しかし不思議と不快じゃない。奇妙な感覚。工場の門を離れ、細い道へ出る。車高が低いせいか、路面がやけに近い。小さな段差でも、身体がふわりと浮くような感覚がある。
ふと、車内の匂いに気づく。革の匂い。オイル。ほのかにガソリン。そこに、しげるの煙草の残り香が混じっている。どれも馴染みのない匂いなのに、不思議と落ち着く。
「……なんか、遠くに来たみたい」
「まだ、町も出てない」
しげるが口の端を上げる。
「だっていつもの道じゃない感じするんだもの」
バックミラーに映る工場の門が、少しずつ小さくなっていく。視線が集まっていたのも、音と振動に紛れて遠ざかっていく。
「ねえ」
「ん?」
「……この車で、商店街は行かないよね」
遠慮がちに言うと、しげるは小さく息を吐いた。
「行けるけど」
「けど?」
「行きたいとこあるんだ」
その思わせぶりな言い方に、うららは思わず笑った。
信号で一度止まる。エンジン音が低く一定のリズムを刻み、その振動が足元から膝へ伝わってきている。
「……今日は、外で食べよう」
「いいわね。どこ行くの?」
「少し走ったとこ。いい店聞いたんだ」
「しげるくんの、いいお店…」
うららは、一瞬だけ旅行を思い出す。彼の言ういい店が少し恐ろしく感じた。
「待って、そんないいお店行くのに私…服が」
いつものブラウスに眺めのフレアスカート、薄いカーディガンを羽織っている。まさに仕事帰り。こんな格好でいい場所なのだろうか。
「安心してよ。ちゃんと考えてる」
しげるがアクセルを踏むと、エンジンの音が少しだけ高まる。街灯が流れ、風景が滑るように後ろへ流れていく。うららは、助手席の窓に映る自分の顔を見た。少しだけ、知らない人みたいだった。
車が大通りへ出るころには日が沈んでいた。車は街の光の中へ滑り込む。
東京の夜は、うららが思っているよりも明るい。商店の看板、ネオン、街灯。ひとつひとつは小さな灯りなのに、集まると昼間とは別の都会を作り出している。
助手席の窓越しに、光が流れていく。低い車体のせいか、景色がいつもより近く、速く感じられた。エンジンの低い振動が背中に伝わり、一定の鼓動のように身体を揺らしている。
「少し来るだけで、都会ね」
思わず口をついて出る。しげるはハンドルを握ったまま、短く答えた。
「そうだな」
信号が青に変わり、車はするりと前へ出る。窓の外を流れるネオンの色が、フロントガラスに淡く映り込む。うららは、自分の胸の内に小さな弾みがあることに気づいた。心が、少し浮き立っている。
私、何をこんなに…
可笑しくなって、小さく笑ってしまう。
「なに?」
しげるが横目で見る。
「え?……ああ。何だか、おかしくって」
「なにが」
追及する声は穏やかだが、逃がす気はないらしい。うららは少し迷ってから、正直に言うことにした。
「えっと……いま、すごくワクワクしてるの」
自分で言って、少し照れる。
「しげるくんと一緒だと、楽しいことがたくさんあるなって思っただけ」
車内に、一瞬だけ沈黙が落ちる。エンジン音だけが低く響いている。しげるは、口元をわずかに歪めた。
「へえ。嬉しいこと言ってくれるね」
「お世辞じゃないのよ?」
うららはしげるの顔を覗き込む。ネオンの赤が、しげるの頬に淡く映っている。
「ん」
短い返事。
車はさらに街の中心へと進む。光は増え、人の気配も濃くなる。背中に伝わる振動。革とオイルの匂い。窓の外を流れる東京。そのすべてが、うららには少しだけ新しく、そして眩しかった。
自分はもう、若い娘ではない。それでも今、胸が弾んでいる。それが可笑しくて、そして、少しだけ嬉しかった。
「ねえ、しげるくん」
「なに」
「……ありがとう」
ただ、車はそのまま、街を抜けて走っていく。いつもの生活から、ほんの少しだけ離れた場所へ。
