旅行:後半
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集合場所へ向かうと、車はすでに待っていた。乗り込むと、外の賑わいが嘘みたいに遠ざかる。
エンジン音と、規則正しい揺れ。しげるは窓の外を見ている。うららは膝の上のひつじを、そっと撫でた。
祭りの熱が、ゆっくりと体から抜けていく。宿の灯りが見えてきたころ、しげるがぽつりと言った。
「……楽しかったな」
「ええ」
自分だけでなく、しげるも楽しんでくれたという事実にうららはほっと胸を撫でおろした。
宿に戻ると、廊下はすっかり静まり返っていた。遠くで誰かが引き戸を閉める音がしたきり、あとは虫の声と、微かなお湯の流れる音だけが聞こえる。
浴衣を返し部屋に入ると、しげるは月明かりの中広縁でタバコを吸っている。
「灯付けないの?」
「少しこうしてたい」
「そう」
それだけ言うとうららは温泉に入る準備をする。
「しげるくんも温泉入り行くでしょ?」
「うん…もう少ししたら入る」
「じゃあ鍵お願いね」
テーブルの上の鍵を目くばせし、うららは大浴場へと向かうのだった。
湯から上がり、廊下を戻る頃には、宿の中はすっかり夜の静けさに沈んでいた。
遠くで誰かが引き戸を閉める音が一度だけ響き、あとは虫の声と、微かに湯の流れる気配。湯上がりの体はまだ熱を持っていて、浴衣の襟元から少しだけ肌が涼しい空気に触れる。足取りは自然とゆっくりになる。
部屋の前で鍵を差し込み、控えめに戸を開けた。
「……ただいま」
返事があるわけでもないのに、小さく呟いてしまう。うららは行灯の明かりをひとつ点けた。ぱちり、と音がして、柔らかな橙色が畳と壁を淡く照らす。
このくらいの灯なら、窓の向こうの海の輝きも眺めることができるだろう。広縁の椅子には、浴衣や下着が脱ぎ散らかしてある。祭りの余韻のまま戻ってきた証拠みたいで、うららは小さく息をついた。
「もう……」
誰に言うでもなく呟きながら、浴衣を拾い上げて畳む。帯を揃え、下駄の向きも整える。
あとで浴衣、返しに行かなきゃ。
そんなことを考えながら、広縁の窓をそっと開けた。すぐに、海風が入り込む。昼間の熱気とは違う、湿り気を含んだ涼しさが、火照った肌をゆっくり冷ましていく。髪の先が揺れて、潮の匂いがかすかに鼻をくすぐった。
遠くでは波の音。闇の中で、海だけが静かに息をしている。うららは窓枠に手を置いたまま、しばらくその音に耳を澄ませた。湯を掻く、静かな水音。
「うららさん」
名を呼ばれて、心臓がひとつ跳ねる。まさか、と思いながら、声のした方、内風呂へと目をやった。柱に隠れて見えていなかったが、湯につかるしげるがいた。湯船の縁に左手を枕にし、こちらに気づくと、ひらひらと右手を振る。
何気ない仕草なのに、場違いな気がして、うららは一瞬言葉を失う。
「……大浴場、行かなかったのね」
ようやくそれだけ口にすると、しげるは目を細めた。
「うん。……一度は入っておこうと思ってね」
「たしかに……」
うららは曖昧に頷く。湯の音が、間を埋めるように静かに響いている。
「私も、入ればよかった」
それは本当に、独り言のつもりだった。
「一緒にどう?」
しげるは、何でもない調子で言った。
「……もう、からかわないで」
即座に返す。冗談だと決めつけてしまえば、ここで話は終わるはずだった。しげるは小さく息を吐く。
「本気なんだけど」
そう言って、濡れた前髪を指でかき上げる。湯に濡れた肌が一瞬あらわになり、うららは反射的に視線を逸らした。
見ちゃいけない。そう思うほど、意識してしまう。
「……」
言葉が見つからない。冗談だと笑ってしまえば楽なのに、さっきの声色が、それを許さなかった。
「まあ、いいや」
しげるは湯船の中で体勢を変え、肩まで沈む。
「あんたに分からせてやる」
「……なにを?」
問い返す声が、思ったよりも小さくなる。
「さあ。秘密」
少しだけ口角を上げる。
「楽しみにしててよ」
その目が、からかっているようでいて、どこか真剣なのがわかってしまう。うららは窓枠に置いた指先を、ぎゅっと握った。
昨日の会話が、胸の奥で静かによみがえる。「そう思っていたほうが、楽だった」その逃げ道を、少しずつ塞がれている気がした。しげるは急に湯船から立ち上がる。
「ちょっと、上がるなら上がるって言って!」
慌てて、うららは体を室内へ引っ込め、視線を伏せる。外からは、いつものしげるの笑い声が聞こえた。
「また、からかって……」
呟いた言葉は、もう届かない。窓を閉めながら、うららは一度だけ、深く息を吸った。
さっきまでと同じ部屋。同じ静けさ。それなのに、その質だけが、ほんの少し変わってしまった気がして、胸の奥が、落ち着かないままだった。
二組、少し間を空けて敷かれた布団。
電気を落とすと、部屋は一気に暗くなった。行灯の明かりだけが、天井にぼんやりと影を映す。布団に入ると、昼の疲れが、ようやく体に出てくる。
「……今日は、よく歩いたわね」
「うん」
短い返事。少し間があって、しげるが言う。
「はぐれなくて、よかった」
暗闇の中で、うららは小さく笑った。
「本当ね」
それ以上、言葉は続かなかった。ひつじのぬいぐるみを、枕元に置く。その白さが、行灯の光を少しだけ返している。やがて、しげるの呼吸が、ゆっくりと一定になる。起きているのか、眠りかけているのか、わからない。
「……おやすみ」
小さくそう言うと、
「おやすみ」
間を置いて、低い声が返ってきた。
エンジン音と、規則正しい揺れ。しげるは窓の外を見ている。うららは膝の上のひつじを、そっと撫でた。
祭りの熱が、ゆっくりと体から抜けていく。宿の灯りが見えてきたころ、しげるがぽつりと言った。
「……楽しかったな」
「ええ」
自分だけでなく、しげるも楽しんでくれたという事実にうららはほっと胸を撫でおろした。
宿に戻ると、廊下はすっかり静まり返っていた。遠くで誰かが引き戸を閉める音がしたきり、あとは虫の声と、微かなお湯の流れる音だけが聞こえる。
浴衣を返し部屋に入ると、しげるは月明かりの中広縁でタバコを吸っている。
「灯付けないの?」
「少しこうしてたい」
「そう」
それだけ言うとうららは温泉に入る準備をする。
「しげるくんも温泉入り行くでしょ?」
「うん…もう少ししたら入る」
「じゃあ鍵お願いね」
テーブルの上の鍵を目くばせし、うららは大浴場へと向かうのだった。
湯から上がり、廊下を戻る頃には、宿の中はすっかり夜の静けさに沈んでいた。
遠くで誰かが引き戸を閉める音が一度だけ響き、あとは虫の声と、微かに湯の流れる気配。湯上がりの体はまだ熱を持っていて、浴衣の襟元から少しだけ肌が涼しい空気に触れる。足取りは自然とゆっくりになる。
部屋の前で鍵を差し込み、控えめに戸を開けた。
「……ただいま」
返事があるわけでもないのに、小さく呟いてしまう。うららは行灯の明かりをひとつ点けた。ぱちり、と音がして、柔らかな橙色が畳と壁を淡く照らす。
このくらいの灯なら、窓の向こうの海の輝きも眺めることができるだろう。広縁の椅子には、浴衣や下着が脱ぎ散らかしてある。祭りの余韻のまま戻ってきた証拠みたいで、うららは小さく息をついた。
「もう……」
誰に言うでもなく呟きながら、浴衣を拾い上げて畳む。帯を揃え、下駄の向きも整える。
あとで浴衣、返しに行かなきゃ。
そんなことを考えながら、広縁の窓をそっと開けた。すぐに、海風が入り込む。昼間の熱気とは違う、湿り気を含んだ涼しさが、火照った肌をゆっくり冷ましていく。髪の先が揺れて、潮の匂いがかすかに鼻をくすぐった。
遠くでは波の音。闇の中で、海だけが静かに息をしている。うららは窓枠に手を置いたまま、しばらくその音に耳を澄ませた。湯を掻く、静かな水音。
「うららさん」
名を呼ばれて、心臓がひとつ跳ねる。まさか、と思いながら、声のした方、内風呂へと目をやった。柱に隠れて見えていなかったが、湯につかるしげるがいた。湯船の縁に左手を枕にし、こちらに気づくと、ひらひらと右手を振る。
何気ない仕草なのに、場違いな気がして、うららは一瞬言葉を失う。
「……大浴場、行かなかったのね」
ようやくそれだけ口にすると、しげるは目を細めた。
「うん。……一度は入っておこうと思ってね」
「たしかに……」
うららは曖昧に頷く。湯の音が、間を埋めるように静かに響いている。
「私も、入ればよかった」
それは本当に、独り言のつもりだった。
「一緒にどう?」
しげるは、何でもない調子で言った。
「……もう、からかわないで」
即座に返す。冗談だと決めつけてしまえば、ここで話は終わるはずだった。しげるは小さく息を吐く。
「本気なんだけど」
そう言って、濡れた前髪を指でかき上げる。湯に濡れた肌が一瞬あらわになり、うららは反射的に視線を逸らした。
見ちゃいけない。そう思うほど、意識してしまう。
「……」
言葉が見つからない。冗談だと笑ってしまえば楽なのに、さっきの声色が、それを許さなかった。
「まあ、いいや」
しげるは湯船の中で体勢を変え、肩まで沈む。
「あんたに分からせてやる」
「……なにを?」
問い返す声が、思ったよりも小さくなる。
「さあ。秘密」
少しだけ口角を上げる。
「楽しみにしててよ」
その目が、からかっているようでいて、どこか真剣なのがわかってしまう。うららは窓枠に置いた指先を、ぎゅっと握った。
昨日の会話が、胸の奥で静かによみがえる。「そう思っていたほうが、楽だった」その逃げ道を、少しずつ塞がれている気がした。しげるは急に湯船から立ち上がる。
「ちょっと、上がるなら上がるって言って!」
慌てて、うららは体を室内へ引っ込め、視線を伏せる。外からは、いつものしげるの笑い声が聞こえた。
「また、からかって……」
呟いた言葉は、もう届かない。窓を閉めながら、うららは一度だけ、深く息を吸った。
さっきまでと同じ部屋。同じ静けさ。それなのに、その質だけが、ほんの少し変わってしまった気がして、胸の奥が、落ち着かないままだった。
二組、少し間を空けて敷かれた布団。
電気を落とすと、部屋は一気に暗くなった。行灯の明かりだけが、天井にぼんやりと影を映す。布団に入ると、昼の疲れが、ようやく体に出てくる。
「……今日は、よく歩いたわね」
「うん」
短い返事。少し間があって、しげるが言う。
「はぐれなくて、よかった」
暗闇の中で、うららは小さく笑った。
「本当ね」
それ以上、言葉は続かなかった。ひつじのぬいぐるみを、枕元に置く。その白さが、行灯の光を少しだけ返している。やがて、しげるの呼吸が、ゆっくりと一定になる。起きているのか、眠りかけているのか、わからない。
「……おやすみ」
小さくそう言うと、
「おやすみ」
間を置いて、低い声が返ってきた。
