旅行:後半
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翌朝。
障子越しの光で、うららは目を覚ました。まだ早い時間らしく、部屋はしんと静まっている。布団の中で一度、寝返りを打つ。
昨日の疲れが、まだ少し体に残っていた。身支度を整え、窓を開けると、冷たい朝の空気が入ってくる。潮の匂いは薄くなり、代わりに土と草の匂いが混じっていた。
しげるは、すでに起きている。卓の上で、帰り支度をしていた。
「早いわね」
「目ぇ覚めました」
朝食を済ませ、女将に挨拶をする。昨日の浴衣のお礼とお祭りの話を少しだけして、軽く頭を下げた。玄関で靴を履き、外へ出る。
朝の空は澄んでいて、昨日の喧騒が嘘のようだ。送迎車に揺られ、駅へ向かう。帰りの電車は、行きよりも空いていた。
向かい合わせの座席に腰を下ろす。窓の外を、見慣れない町並みが流れていく。ひつじのぬいぐるみは、うららの膝の上だ。白い体が、少しだけくたびれている。
「気に入った?」
「ええ。取ってくれてありがとう」
そう答えると、しげるは「ふーん」と興味なさそうに窓の外へ目をやる。電車が揺れるたび、ひつじも小さく揺れる。うららは、無意識にその体を押さえた。
「……旅行、楽しかったな」
しげるが、窓の外を見たまま言う。
「ええ」
それだけで、話は終わる。しばらくすると、しげるは目を閉じた。眠っているのか、考え事をしているのかは、わからない。車内には、レールの音だけが響いていた。
数日後。
仕事を終え、買い物袋を提げたまま、うららは部屋の戸を開けた。がらり、と木の立てる音。外の冷えた空気が、室内の静けさに溶け込む。
いつもの匂い。煮干しと畳と、ほんのわずかな石炭の名残。何も変わらないはずの部屋なのに、少しだけ胸の奥がゆるむ。仏壇に目をやる。あの人の遺影の隣に、小さなひつじがちょこんと座っている。
射的の景品。形は歪で、縫い目も少し粗い。決して特別高価なものではない。
それでも。
そこにあるだけで、あの夜の月明かりや、祭囃子の音、帰りの電車の揺れが、ふいに胸の奥から立ち上ってくる。
人混みの熱。
浴衣の擦れる音。
手の甲に残った、あの温度。
うららはそっと近づき、ひつじの頭に指先を置いた。柔らかくもなく、硬すぎもしない。頼りない感触。
「……ただいま」
小さく呟く。
返事はない。もちろん、最初から期待していない。それでいい、と自分に言い聞かせるように、指を離した、そのとき。
「何してるの?」
背後から声が落ちてきた。
「わっ……!」
思わず肩が跳ねる。
「しげるくん……驚かせないでよ」
「あんたが勝手に驚いたんでしょ」
いつもの調子。振り返ると、戸口に立つしげるが、腕を組んでこちらを見ている。
「……いつからいたの」
「今さっき」
そっけなく言いながら、視線は仏壇のほうへ移る。ひつじを見つけ、ほんの一瞬、目を細めた。
「それ」
「え?」
「……いつも話しかけてるの?」
図星を突かれたようで、うららは一拍遅れて頷く。
「ああ……うん。なんとなく」
「ふーん」
それ以上、何も言わない。しげるは興味があるのかないのか分からない顔で、ひつじから視線を外した。沈黙が刺さる。いい年した女がぬいぐるみに話しかけて痛いと思われたかも。
「さてと!」
流れを断ち切るようにわざとらしく声をだす。
「…夕ご飯の支度を始めます」
「今日のご飯はなに?」
「今日はね…」
明日も、同じ朝が来る。食卓に座り、仕事に出て、日が落ちて、夜が来る。
変わらない日々。
続いていく生活。
それでも、この小さなひつじがある限り、あの時間は、確かにここに残っていた。過去になりきらないまま、日常の中に、静かに座っている。
うららはもう一度だけ、ひつじに目をやった。そして何も言わず、買い物袋を台所へ運んだ。
暮らしは続く。その隅に、忘れられない一夜を、そっと置いたまま。
障子越しの光で、うららは目を覚ました。まだ早い時間らしく、部屋はしんと静まっている。布団の中で一度、寝返りを打つ。
昨日の疲れが、まだ少し体に残っていた。身支度を整え、窓を開けると、冷たい朝の空気が入ってくる。潮の匂いは薄くなり、代わりに土と草の匂いが混じっていた。
しげるは、すでに起きている。卓の上で、帰り支度をしていた。
「早いわね」
「目ぇ覚めました」
朝食を済ませ、女将に挨拶をする。昨日の浴衣のお礼とお祭りの話を少しだけして、軽く頭を下げた。玄関で靴を履き、外へ出る。
朝の空は澄んでいて、昨日の喧騒が嘘のようだ。送迎車に揺られ、駅へ向かう。帰りの電車は、行きよりも空いていた。
向かい合わせの座席に腰を下ろす。窓の外を、見慣れない町並みが流れていく。ひつじのぬいぐるみは、うららの膝の上だ。白い体が、少しだけくたびれている。
「気に入った?」
「ええ。取ってくれてありがとう」
そう答えると、しげるは「ふーん」と興味なさそうに窓の外へ目をやる。電車が揺れるたび、ひつじも小さく揺れる。うららは、無意識にその体を押さえた。
「……旅行、楽しかったな」
しげるが、窓の外を見たまま言う。
「ええ」
それだけで、話は終わる。しばらくすると、しげるは目を閉じた。眠っているのか、考え事をしているのかは、わからない。車内には、レールの音だけが響いていた。
数日後。
仕事を終え、買い物袋を提げたまま、うららは部屋の戸を開けた。がらり、と木の立てる音。外の冷えた空気が、室内の静けさに溶け込む。
いつもの匂い。煮干しと畳と、ほんのわずかな石炭の名残。何も変わらないはずの部屋なのに、少しだけ胸の奥がゆるむ。仏壇に目をやる。あの人の遺影の隣に、小さなひつじがちょこんと座っている。
射的の景品。形は歪で、縫い目も少し粗い。決して特別高価なものではない。
それでも。
そこにあるだけで、あの夜の月明かりや、祭囃子の音、帰りの電車の揺れが、ふいに胸の奥から立ち上ってくる。
人混みの熱。
浴衣の擦れる音。
手の甲に残った、あの温度。
うららはそっと近づき、ひつじの頭に指先を置いた。柔らかくもなく、硬すぎもしない。頼りない感触。
「……ただいま」
小さく呟く。
返事はない。もちろん、最初から期待していない。それでいい、と自分に言い聞かせるように、指を離した、そのとき。
「何してるの?」
背後から声が落ちてきた。
「わっ……!」
思わず肩が跳ねる。
「しげるくん……驚かせないでよ」
「あんたが勝手に驚いたんでしょ」
いつもの調子。振り返ると、戸口に立つしげるが、腕を組んでこちらを見ている。
「……いつからいたの」
「今さっき」
そっけなく言いながら、視線は仏壇のほうへ移る。ひつじを見つけ、ほんの一瞬、目を細めた。
「それ」
「え?」
「……いつも話しかけてるの?」
図星を突かれたようで、うららは一拍遅れて頷く。
「ああ……うん。なんとなく」
「ふーん」
それ以上、何も言わない。しげるは興味があるのかないのか分からない顔で、ひつじから視線を外した。沈黙が刺さる。いい年した女がぬいぐるみに話しかけて痛いと思われたかも。
「さてと!」
流れを断ち切るようにわざとらしく声をだす。
「…夕ご飯の支度を始めます」
「今日のご飯はなに?」
「今日はね…」
明日も、同じ朝が来る。食卓に座り、仕事に出て、日が落ちて、夜が来る。
変わらない日々。
続いていく生活。
それでも、この小さなひつじがある限り、あの時間は、確かにここに残っていた。過去になりきらないまま、日常の中に、静かに座っている。
うららはもう一度だけ、ひつじに目をやった。そして何も言わず、買い物袋を台所へ運んだ。
暮らしは続く。その隅に、忘れられない一夜を、そっと置いたまま。
