旅行:前半
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宿に戻ると、二人はほとんど間を置かずに温泉へ向かった。脱衣所で着替えの浴衣を手に取り、男湯と女湯に分かれる。
温泉は広くはないが、壁には効能がびっしりと書き並べられている。神経痛、冷え性、疲労回復――湯に浸かりながら、それらをぼんやり眺めていると、身体の芯までほどけていくようだった。
四十分後。
浴衣に身を包み、女湯を出る。ぽかぽかした体を冷ますように、うららは手で軽く仰ぎながら広間へ向かった。長椅子の端に、しげるが座っている。こちらに背を向けたまま、煙草を吸い待っていた。
「お待たせ……」
声をかけると、しげるがゆっくり振り返る。その瞬間、思わず目が止まった。浴衣の胸元が、ぱっくりと開いている。湯上がりのせいか、首筋から鎖骨にかけて、うっすらと赤い。
大胆すぎる!?
「ゆっくりできました?」
「うん」
うららは短く答えると、しげるは立ち上がる。その動きで、胸元がちょうど目線の高さに来てしまい、うららは一瞬、視線の置き場に困った。
ため息をひとつ。そして何事もないふりをして、両手でそっと、その開いた胸元を合わせる。
「苦しいんだけど」
しげるが、少し不満そうに言う。
「風邪ひいちゃうでしょ」
きっぱり返すと、しげるは小さく鼻で笑った。
「ガキ扱いしすぎ」
「してません」
そう言い切って、手を離す。胸元はきちんと収まり、さっきよりずっと落ち着いた印象になった。しげるは何も言わず、少しだけ首元をゆるめるのだった。
その後、夕食を部屋で食べ終え、広縁で酒を飲もうと、運ばれてきた徳利と猪口を卓に置きながら、うららはふと窓の外を見た。
昼間、あれほど広く、きらきらと光っていた海は、闇に溶けてしまったようで、何も見えない。窓の向こうは、ただ黒い。
「……海、見えないね」
ぽつりとこぼすと、しげるは猪口に酒を注ぎながら言った。
「電気つけてるからじゃない?」
そう言って、立ち上がる。ためらいもなく、部屋の明かりの紐を引いた。ぱちり、と音がして、室内が闇に沈む。
一瞬、何も見えなくなる。だが、すぐに
「……あ」
思わず声が漏れた。
窓の外に、淡い銀色が広がっていた。月明かりに照らされた海が、さざ波に合わせて、細かく、静かに光っている。昼間の眩しさとは違う、息をひそめたような輝きだった。
「ほら」
しげるが、どこか得意げに言う。
「……きれい」
「…このまま飲んじまおう」
そう言って、しげるは徳利を軽く振り、もう一つの猪口に酒を注いだ。向かい合って座る二人の間には、月明かりと、小さな卓と、静かな酒の匂い。
「乾杯」
その日初めての乾杯は、陶器が触れ合う、小さな音だった。
一口、口に含む。米の甘みがふわりと広がり、すぐに引いていく。飲みやすく、後に残らない酒だ。
「おいしい」
しげるは猪口に口をつけたまま、窓の外を眺めている。月明かりに照らされた横顔は、昼間よりも影が深く、どこか落ち着いて見えた。
浴衣の胸元は、相変わらず少し緩い。きちんと着なさいと言ったはずなのに、部屋の中だからか、しげるは直す気配がない。視線を向けるたび、意識してしまう距離だ。
うららは、猪口を持つ指先に視線を落とし、ぽつりと口を開いた。
「ねえ……」
「ん?」
しげるは、目線だけをこちらに向ける。
「しげるくんはさ、私と夫婦に間違われるって、嫌じゃないの?」
しげるは一瞬だけ考えるような素振りをしてから、あっさりと答えた。
「嫌じゃない」
その言葉に少し喜ぶ自分がいる。嫌われてはないってことよね。
「それに……そのほうが、都合がいいでしょ」
「そう、なの?」
都合がいいとはどんな場面だろうかと少し考える。
「否定すると、変な憶測される可能性あるじゃない」
「ああ……」
確かに、と頷きかけたところで、しげるがククッと笑った。その笑い方が、月明かりの中だと、少しだけ大人びて見える。
「うららさんは、嫌だった?」
聞かれて、うららは少し困ったように笑った。
「嫌っていうか……」
言葉を探すように、視線をまた海へ逃がす。
「私の中でね、しげるくんって、まだ子供のままで止まってるの」
波の音が、一度大きくなって、また引く。
「だから……急に“夫婦”に間違われるって、なんだか変な感じで」
しげるは猪口を口に運びながら、ちらりとうららを見る。
「俺はもう、大人だよ」
低く、静かな声。そのまっすぐな瞳にうららは、思わず小さく笑ってしまった。
「ふふっ……そうね」
否定はしなかった。昼間、海ではしゃいでいた背中と、今、月明かりに照らされて座っている姿が、確かに重ならない。
「……六年、経ったものね」
そう呟くと、しげるは何も言わず、また酒を注いだ。広縁に並ぶ二つの影が、月の光に引き伸ばされ、静かに揺れる。それが、今の二人には、ちょうどよかった。
温泉は広くはないが、壁には効能がびっしりと書き並べられている。神経痛、冷え性、疲労回復――湯に浸かりながら、それらをぼんやり眺めていると、身体の芯までほどけていくようだった。
四十分後。
浴衣に身を包み、女湯を出る。ぽかぽかした体を冷ますように、うららは手で軽く仰ぎながら広間へ向かった。長椅子の端に、しげるが座っている。こちらに背を向けたまま、煙草を吸い待っていた。
「お待たせ……」
声をかけると、しげるがゆっくり振り返る。その瞬間、思わず目が止まった。浴衣の胸元が、ぱっくりと開いている。湯上がりのせいか、首筋から鎖骨にかけて、うっすらと赤い。
大胆すぎる!?
「ゆっくりできました?」
「うん」
うららは短く答えると、しげるは立ち上がる。その動きで、胸元がちょうど目線の高さに来てしまい、うららは一瞬、視線の置き場に困った。
ため息をひとつ。そして何事もないふりをして、両手でそっと、その開いた胸元を合わせる。
「苦しいんだけど」
しげるが、少し不満そうに言う。
「風邪ひいちゃうでしょ」
きっぱり返すと、しげるは小さく鼻で笑った。
「ガキ扱いしすぎ」
「してません」
そう言い切って、手を離す。胸元はきちんと収まり、さっきよりずっと落ち着いた印象になった。しげるは何も言わず、少しだけ首元をゆるめるのだった。
その後、夕食を部屋で食べ終え、広縁で酒を飲もうと、運ばれてきた徳利と猪口を卓に置きながら、うららはふと窓の外を見た。
昼間、あれほど広く、きらきらと光っていた海は、闇に溶けてしまったようで、何も見えない。窓の向こうは、ただ黒い。
「……海、見えないね」
ぽつりとこぼすと、しげるは猪口に酒を注ぎながら言った。
「電気つけてるからじゃない?」
そう言って、立ち上がる。ためらいもなく、部屋の明かりの紐を引いた。ぱちり、と音がして、室内が闇に沈む。
一瞬、何も見えなくなる。だが、すぐに
「……あ」
思わず声が漏れた。
窓の外に、淡い銀色が広がっていた。月明かりに照らされた海が、さざ波に合わせて、細かく、静かに光っている。昼間の眩しさとは違う、息をひそめたような輝きだった。
「ほら」
しげるが、どこか得意げに言う。
「……きれい」
「…このまま飲んじまおう」
そう言って、しげるは徳利を軽く振り、もう一つの猪口に酒を注いだ。向かい合って座る二人の間には、月明かりと、小さな卓と、静かな酒の匂い。
「乾杯」
その日初めての乾杯は、陶器が触れ合う、小さな音だった。
一口、口に含む。米の甘みがふわりと広がり、すぐに引いていく。飲みやすく、後に残らない酒だ。
「おいしい」
しげるは猪口に口をつけたまま、窓の外を眺めている。月明かりに照らされた横顔は、昼間よりも影が深く、どこか落ち着いて見えた。
浴衣の胸元は、相変わらず少し緩い。きちんと着なさいと言ったはずなのに、部屋の中だからか、しげるは直す気配がない。視線を向けるたび、意識してしまう距離だ。
うららは、猪口を持つ指先に視線を落とし、ぽつりと口を開いた。
「ねえ……」
「ん?」
しげるは、目線だけをこちらに向ける。
「しげるくんはさ、私と夫婦に間違われるって、嫌じゃないの?」
しげるは一瞬だけ考えるような素振りをしてから、あっさりと答えた。
「嫌じゃない」
その言葉に少し喜ぶ自分がいる。嫌われてはないってことよね。
「それに……そのほうが、都合がいいでしょ」
「そう、なの?」
都合がいいとはどんな場面だろうかと少し考える。
「否定すると、変な憶測される可能性あるじゃない」
「ああ……」
確かに、と頷きかけたところで、しげるがククッと笑った。その笑い方が、月明かりの中だと、少しだけ大人びて見える。
「うららさんは、嫌だった?」
聞かれて、うららは少し困ったように笑った。
「嫌っていうか……」
言葉を探すように、視線をまた海へ逃がす。
「私の中でね、しげるくんって、まだ子供のままで止まってるの」
波の音が、一度大きくなって、また引く。
「だから……急に“夫婦”に間違われるって、なんだか変な感じで」
しげるは猪口を口に運びながら、ちらりとうららを見る。
「俺はもう、大人だよ」
低く、静かな声。そのまっすぐな瞳にうららは、思わず小さく笑ってしまった。
「ふふっ……そうね」
否定はしなかった。昼間、海ではしゃいでいた背中と、今、月明かりに照らされて座っている姿が、確かに重ならない。
「……六年、経ったものね」
そう呟くと、しげるは何も言わず、また酒を注いだ。広縁に並ぶ二つの影が、月の光に引き伸ばされ、静かに揺れる。それが、今の二人には、ちょうどよかった。
