旅行:前半
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宿の前に立った瞬間、うららは、思わず息を呑んだ。
門構えは高くない。けれど、太く黒光りする木の柱が、年月を重ねた重みを静かに主張している。
白い壁は、くすみ一つなく、軒先は深く、雨や陽を受け止めてきたであろう瓦が、きちんと揃っていた。看板も控えめで、金文字が誇示するように輝くこともない。それなのに、近づくほどに、「ここは違う」と、肌で分かる。
敷石は一枚一枚が大きく、欠けや歪みがない。庭先の松や低木も、飾り気はないのに、手入れが行き届いている。
「……」
うららは、思わず、しげるの袖をつまんだ。
「ねえ……ほんとに、ここ?」
声が、自然と小さくなる。
「そうだけど?」
しげるは、いつもと変わらない調子で答える。
「だって……」
門の奥を見つめながら、言葉を探す。人の出入りはあるのに、騒がしくない。客の話し声も、笑い声も、不思議と外に漏れてこない。
「すごく……」
高そう。喉まで出かかった言葉を、ぐっと飲み込む。
「……豪華じゃない」
しげるは、ちらりとうららを見て、「そうですね」と、短く返す。
「うん……なんていうか……」
派手な装飾も、きらびやかさもないのに、一歩踏み入れたら、きちんと振る舞わなきゃいけない気がする。自分でも、うまく説明できない。
「まあ、ついてきな」
しげるは、それだけ言って、門をくぐる。砂利を踏む音すら、なんだか厳かな気がする。うららは、気持ちを落ち着けながらしげるの半歩後ろを歩く。
「……私、大丈夫かな」
小さく漏らす。
「何が?」
「……こういうとこ」
しげるは、少しだけ口の端を上げた。
「別に、とって食われるわけじゃない」
「それはそうだけど……」
けれど、しげるの軽口に少しだけ肩の力が抜けた。そしてがらりと開いた玄関の向こうに、あの、静まり返った世界が待っていた。
玄関に足を踏み入れた瞬間、うららはまたもや立ち止まった。磨き込まれた板張りの床。低く抑えられた照明。派手な装飾はどこにもないのに、一つひとつが、見ただけで「いいもの」だと分かる。
静かすぎる。旅館特有の、ざわつきがない。声も足音も、畳に吸い込まれるように消えていく。安っぽさが、どこにもない。花瓶一つ、掛け軸一つ、すべてが主張せず、けれど確かに品がある。
こういうのが、本物なんだ。そう思うと、背筋が勝手に伸びた。
「ほら」
立ち止まっているうららの手を掴むと、しげるは帳場へ向かう。年配の番頭が、深く頭を下げた。
「いらっしゃいませ。お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
しげるが、短く名乗る。
「赤木」
それだけで相手の空気が変わったのが、うららにも分かった。言葉遣いが、さらに丁寧になる。
帳場を済ませると、すぐに女将が現れ、荷物を受け取った。年配の女性で、声も所作も、驚くほど柔らかい。
「こちらへどうぞ」
歩きながら、にこやかに尋ねる。
「ご夫婦で、ご旅行ですか?」
何気ない一言。
「え?」
思わず声が裏返る。
――夫婦?
「あ……」
慌てて否定しようとした、その瞬間。
「ええ」
しげるが、何でもないように答えた。
「伊豆は、いいところですね」
さらりと、嘘とも本当ともつかない言い方。中居は、疑いもせず、にこりと笑った。
「まあ、それはそれは。お二人で、ゆっくりなさってくださいね」
うららは、言葉を失ったまま、ただ、しげるの横顔を見上げる。
夫婦。胸が、変な音を立てた。
案内された部屋は、さらに別世界だった。広い和室。中央には立派なテーブルと座椅子が2つ。壁に寄せられたブラウン管テレビ。奥には広縁があり、障子越しに、海の気配。床の間には、季節の花が一輪だけ活けられている。
「……」
声が出ない。畳は新しいのに、青臭さがない。柱も、天井も、すべてが美しい。中居が、すっと障子を開けた。
「あちらから入っていただくと、お部屋のお風呂でございます」
そこには――小ぶりながら、海を一望できる立派な内風呂があった。
「え……?」
思わず、声が漏れる。
「お部屋に……?」
「はい。いつでも、お使いいただけます」
中居は、当然のように言う。うららは、慌ててしげるを見る。
「ね、ねえ……」
「ん?」
「ここ……ほんとに……」
言葉が続かない。
胸の奥で、心臓がどくどくと音を立てる。
いくらなんでも。
いくらなんでも、だ。
「高そう」と口に出すのは、なんだか自分が浅ましくなる気がして言えず、代わりに胃のあたりが、きゅっと縮んだ。
磨き込まれた廊下、控えめなのに品のある意匠の欄間。余計な飾りはないのに、置かれているもの一つ一つが「いいものだ」と、否応なく分かる。
しげるは部屋を一瞥すると、
「悪くないな」
と、拍子抜けするほどあっさり言った。
「悪くないって……」
うららは小さく息を吐き、その横顔を盗み見る。
堂々とした立ち方。
視線の置き方。
場に呑まれない態度。
本当に、あの時の少年なのだろうか。
本当に、自分より年下なのだろうか。
ふと、そんな不安がよぎる。そして同時に、自分の経験のなさを突きつけられた気がして、少しだけ恥ずかしくなった。
「私……場違いじゃない?」
ぽつりとこぼす。
「別に」
しげるはそれだけ言って、畳に腰を下ろし、くつろいだ様子で煙草を取り出す。
「金は払ってる」
それだけ。
余計な説明も、気遣いもない。その言い方が、逆に現実味を帯びて、うららはどうしていいか分からなくなる。
豪華で、静かで、どこか現実感のない部屋。
ここで過ごす時間が、どんなものになるのか――
うららには、まだ想像がつかなかった。
女将が、静かな所作で一通りの説明を終え、襖を閉めて去っていく。その途端、部屋の広さが、より際立つ。
しげるは煙草を吸い終えると、おもむろに立ち上がり、広縁の障子を開けた。外の光が、すっと入り込む。
しばらく景色を眺めていたかと思えば、今度は隣の部屋の襖を開け、中を覗くように入っていってしまった。残されたうららは、座椅子に腰を下ろしたまま、視線の届く範囲で、部屋をゆっくりと見回す。
今まで泊まった宿の中で、間違いなく一番広くて、立派だ。
落ち着かない。
そわそわする。
畳の縁に指を置き、意味もなく、整えられた座布団を直す。
ここにいていいのだろうか。
しげるくんの隣に。
そんな考えが頭を巡っていると、不意に、向こうの部屋から声がした。
「なあ」
襖の向こうから、しげるが顔を出す。
「海、行こう」
「……海」
そう言って、外を指さす。波の音が、うっすらと、ここまで届いていた。
「部屋でそわそわするより、歩いたほうがマシだろ」
図星だった。うららは、少しだけ苦笑してから、立ち上がる。
「……うん。行く」
障子を閉める音が、静かに響いた。
門構えは高くない。けれど、太く黒光りする木の柱が、年月を重ねた重みを静かに主張している。
白い壁は、くすみ一つなく、軒先は深く、雨や陽を受け止めてきたであろう瓦が、きちんと揃っていた。看板も控えめで、金文字が誇示するように輝くこともない。それなのに、近づくほどに、「ここは違う」と、肌で分かる。
敷石は一枚一枚が大きく、欠けや歪みがない。庭先の松や低木も、飾り気はないのに、手入れが行き届いている。
「……」
うららは、思わず、しげるの袖をつまんだ。
「ねえ……ほんとに、ここ?」
声が、自然と小さくなる。
「そうだけど?」
しげるは、いつもと変わらない調子で答える。
「だって……」
門の奥を見つめながら、言葉を探す。人の出入りはあるのに、騒がしくない。客の話し声も、笑い声も、不思議と外に漏れてこない。
「すごく……」
高そう。喉まで出かかった言葉を、ぐっと飲み込む。
「……豪華じゃない」
しげるは、ちらりとうららを見て、「そうですね」と、短く返す。
「うん……なんていうか……」
派手な装飾も、きらびやかさもないのに、一歩踏み入れたら、きちんと振る舞わなきゃいけない気がする。自分でも、うまく説明できない。
「まあ、ついてきな」
しげるは、それだけ言って、門をくぐる。砂利を踏む音すら、なんだか厳かな気がする。うららは、気持ちを落ち着けながらしげるの半歩後ろを歩く。
「……私、大丈夫かな」
小さく漏らす。
「何が?」
「……こういうとこ」
しげるは、少しだけ口の端を上げた。
「別に、とって食われるわけじゃない」
「それはそうだけど……」
けれど、しげるの軽口に少しだけ肩の力が抜けた。そしてがらりと開いた玄関の向こうに、あの、静まり返った世界が待っていた。
玄関に足を踏み入れた瞬間、うららはまたもや立ち止まった。磨き込まれた板張りの床。低く抑えられた照明。派手な装飾はどこにもないのに、一つひとつが、見ただけで「いいもの」だと分かる。
静かすぎる。旅館特有の、ざわつきがない。声も足音も、畳に吸い込まれるように消えていく。安っぽさが、どこにもない。花瓶一つ、掛け軸一つ、すべてが主張せず、けれど確かに品がある。
こういうのが、本物なんだ。そう思うと、背筋が勝手に伸びた。
「ほら」
立ち止まっているうららの手を掴むと、しげるは帳場へ向かう。年配の番頭が、深く頭を下げた。
「いらっしゃいませ。お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
しげるが、短く名乗る。
「赤木」
それだけで相手の空気が変わったのが、うららにも分かった。言葉遣いが、さらに丁寧になる。
帳場を済ませると、すぐに女将が現れ、荷物を受け取った。年配の女性で、声も所作も、驚くほど柔らかい。
「こちらへどうぞ」
歩きながら、にこやかに尋ねる。
「ご夫婦で、ご旅行ですか?」
何気ない一言。
「え?」
思わず声が裏返る。
――夫婦?
「あ……」
慌てて否定しようとした、その瞬間。
「ええ」
しげるが、何でもないように答えた。
「伊豆は、いいところですね」
さらりと、嘘とも本当ともつかない言い方。中居は、疑いもせず、にこりと笑った。
「まあ、それはそれは。お二人で、ゆっくりなさってくださいね」
うららは、言葉を失ったまま、ただ、しげるの横顔を見上げる。
夫婦。胸が、変な音を立てた。
案内された部屋は、さらに別世界だった。広い和室。中央には立派なテーブルと座椅子が2つ。壁に寄せられたブラウン管テレビ。奥には広縁があり、障子越しに、海の気配。床の間には、季節の花が一輪だけ活けられている。
「……」
声が出ない。畳は新しいのに、青臭さがない。柱も、天井も、すべてが美しい。中居が、すっと障子を開けた。
「あちらから入っていただくと、お部屋のお風呂でございます」
そこには――小ぶりながら、海を一望できる立派な内風呂があった。
「え……?」
思わず、声が漏れる。
「お部屋に……?」
「はい。いつでも、お使いいただけます」
中居は、当然のように言う。うららは、慌ててしげるを見る。
「ね、ねえ……」
「ん?」
「ここ……ほんとに……」
言葉が続かない。
胸の奥で、心臓がどくどくと音を立てる。
いくらなんでも。
いくらなんでも、だ。
「高そう」と口に出すのは、なんだか自分が浅ましくなる気がして言えず、代わりに胃のあたりが、きゅっと縮んだ。
磨き込まれた廊下、控えめなのに品のある意匠の欄間。余計な飾りはないのに、置かれているもの一つ一つが「いいものだ」と、否応なく分かる。
しげるは部屋を一瞥すると、
「悪くないな」
と、拍子抜けするほどあっさり言った。
「悪くないって……」
うららは小さく息を吐き、その横顔を盗み見る。
堂々とした立ち方。
視線の置き方。
場に呑まれない態度。
本当に、あの時の少年なのだろうか。
本当に、自分より年下なのだろうか。
ふと、そんな不安がよぎる。そして同時に、自分の経験のなさを突きつけられた気がして、少しだけ恥ずかしくなった。
「私……場違いじゃない?」
ぽつりとこぼす。
「別に」
しげるはそれだけ言って、畳に腰を下ろし、くつろいだ様子で煙草を取り出す。
「金は払ってる」
それだけ。
余計な説明も、気遣いもない。その言い方が、逆に現実味を帯びて、うららはどうしていいか分からなくなる。
豪華で、静かで、どこか現実感のない部屋。
ここで過ごす時間が、どんなものになるのか――
うららには、まだ想像がつかなかった。
女将が、静かな所作で一通りの説明を終え、襖を閉めて去っていく。その途端、部屋の広さが、より際立つ。
しげるは煙草を吸い終えると、おもむろに立ち上がり、広縁の障子を開けた。外の光が、すっと入り込む。
しばらく景色を眺めていたかと思えば、今度は隣の部屋の襖を開け、中を覗くように入っていってしまった。残されたうららは、座椅子に腰を下ろしたまま、視線の届く範囲で、部屋をゆっくりと見回す。
今まで泊まった宿の中で、間違いなく一番広くて、立派だ。
落ち着かない。
そわそわする。
畳の縁に指を置き、意味もなく、整えられた座布団を直す。
ここにいていいのだろうか。
しげるくんの隣に。
そんな考えが頭を巡っていると、不意に、向こうの部屋から声がした。
「なあ」
襖の向こうから、しげるが顔を出す。
「海、行こう」
「……海」
そう言って、外を指さす。波の音が、うっすらと、ここまで届いていた。
「部屋でそわそわするより、歩いたほうがマシだろ」
図星だった。うららは、少しだけ苦笑してから、立ち上がる。
「……うん。行く」
障子を閉める音が、静かに響いた。
