再会
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
あれから六年後、昭和三十九年。日本中が東京オリンピック開催に湧きかえっていた。
ある日の昼下がり。すみれは大きい建物が並んだ町へ来ていた。車通りが多く、自分の住む町とは大違いで臆してしまう。なぜこの町まで来たかというと、仕事の最中、南郷から電話がかかってきた。
“赤木しげる”のことで話がある、とだけ告げられ、とある喫茶店に呼び出された。すみれは居ても立ってもいられず仕事を早退し、乗り換えが一度必要なこの町までやってきたのだ。
あれから南郷とは、たまに顔を合わせる関係になっていた。最初に会ったのは、しげるの行方を尋ねられたときだ。そのときも、今回と同じように、喫茶店だった。それ以降、年に一、二度、近況を少し話す関係になっていた。仕事や生活のあれこれ。そして、話題が尽きると、決まって赤木しげるの話になる。
今どこにいると思うか。
生きているのか。
ああいう男は、どういう大人になるのか。
答えの出ない話ばかりだ。
すみれと南郷は、決して特別な関係にはならなかった。お互い、それを望んでいないことが、言葉にしなくても分かっていた。南郷は、しげるを知っている。すみれの家に、あの少年が確かにいたことを、覚えている。それだけで、十分だった。
——しげるは、確かに存在していた。
それを、すみれ以外の誰かが知っている。それが、すみれにとって何よりの救いだった。もしかしたら、ある日、ふらりと帰ってくるかもしれない。あのときのように、戸を開けて、何事もなかった顔で立っているかもしれない。そんな、根拠のない期待を、完全に捨てきれずにいる。南郷と関わり続けているのは、そのせいだと、すみれ自身が一番よく分かっていた。この細い糸が切れてしまったら、しげるのいた日々まで、遠い昔の出来事になってしまいそうで。それが、どうしようもなく、怖かったのだ。
たった数日、ほんの少しの時間を一緒に過ごしただけなのに赤木しげるという少年はすみれの心に居座り続けている。
カラン。
扉に取り付けられた鈴が、乾いた音を立てた。外の光から切り離された店内は、目が慣れるまでのほんの一瞬、ひどく暗く感じられる。焙煎した豆の匂いと、古い木の床が吸い込んだ時間の気配が、静かに鼻をくすぐった。
視線を奥へ向けると、ソファ席に南郷の姿が見える。だが、今日はそれだけではなかった。
南郷と向かい合うように、黒ずくめの男が一人、背筋を伸ばして座っている。細身の体躯に無駄のない姿勢。店内だというのにサングラスを外さず、その奥の視線を読むことはできない。そのせいか、場に馴染む気配がまるでなく、喫茶店の穏やかな空気から、ぽつりと浮いているようだった。すみれは一瞬、足を止めかける。だが、南郷が気づいて小さく手を上げたため、引き返すわけにもいかず、そのまま足を運んだ。
「お待たせしました」
できるだけ声を整えてそう言うと、南郷はどこか落ち着かない様子で、ぎこちなく笑った。その瞬間、黒ずくめの男の顔が、ほんのわずかにこちらを向く。視線が走る。値踏みするような、感情の読めない視線だった。
「南沢さん、わざわざすみません」
「いえ……あの、そちらの方は……?」
「申し遅れました。私は石川と申します」
低く、よく通る声だった。感情の起伏を感じさせない口調が、かえって耳に残る。
「まあ、座ってください。コーヒーでいいですか?」
「……はい。失礼します」
南郷が少し身をずらし、席を作る。すみれは遠慮がちに腰を下ろし、無意識に背中を丸めた。ソファがやけに柔らかく感じられ、落ち着かない。
「単刀直入に言います」
石川は、前置きもなく切り出した。
「私は赤木を探しています。……南郷さんに聞いたところ、赤木のことならあなたが一番詳しいだろう、と」
その瞬間、すみれのみぞおちが、きゅっと縮んだ。六年という時間が、音もなく巻き戻される。
「……はい」
返事をしながら、自分の声が少しだけ硬いことに気づく。石川は淡々と話を続けた。
「実は最近、赤木しげるらしき人物が、とある玩具工場で働いている、という話が入りまして」
——玩具工場。
あまりにも現実的で、拍子抜けするほど穏やかな言葉。だからこそ、不気味だった。あの子の名前が、そんな場所に結びつくこと自体が、どこか噛み合わない。
「ただ」
石川は、そこで一度言葉を切った。沈黙が、重くテーブルの上に落ちる。
「本人かどうか、確証がありません。……そこで」
視線が、まず南郷へ向けられ、次いで、ゆっくりとすみれへと移る。
「本当に赤木しげるかどうか、確かめてほしい」
すみれの指先が、無意識のうちに膝の上で強張る。逃げ場のない言葉だった。ざわりと何かが音を立てる。期待とも、恐怖ともつかない感情が、渦を巻いていた。
——探している人がいる。そして、その人は、生きて生活している。
その事実だけが、重く、確かに、そこにあった。南郷とすみれの視線が、ふと交わる。南郷の目は、問いかけていた。
——どうする。
すみれは、すぐには答えられなかった。六年、封じ込めてきた名前。もう会わないと、自分に言い聞かせてきた存在。それが今、「確かめてほしい」という形で、目の前に差し出されている。
喫茶店の時計が、かちり、と音を立てた。その音だけが、やけに大きく響いている。石川の言葉が、店内に落ちたまま、しばらく誰も動かなかった。
——確かめてほしい。
その一言が、すみれの頭の中で、何度も反響する。指先が冷たくなっているのに気づいて、すみれはそっと膝の上で手を組み直した。
……確かめる、って。
それはつまり、彼の“今”を知る、ということだ。六年前のあの朝が、否応なく思い出される。ちゃぶ台の上に置かれていた、二つの札束。そして、返された家の鍵。顔も見ず、声もかけず、ただ、置いていった。しげるは、きっと考え抜いた末に、ああした。
しげるがすみれと一緒にいれば、すみれが巻き込まれる。だからこそ、何も言わず、関係を断ち切ったのだとすみれはわかっていた。
……それなのに。
今さら、探しに行っていいのだろうか。すみれの胸に、重たい問いが落ちる。彼の覚悟を、彼なりの優しさを、無下にしてしまうことにならないだろうか。
——会いたい、なんて言える立場じゃない。
彼は、戻らないことを選んだ。すみれが泣いても、探しても、それでも戻らなかった。それは、しげるの“決断”だった。
……私は。
自分は、何をしに行くのだろう。もし、そこに本当にしげるがいたら。元気そうに、何事もなかったように働いていたら。あるいは、まるで別人のように、遠い目をしていたら。
——声をかける資格なんて、あるの?
すみれは唇を噛みしめる。口の中に、わずかな苦みが広がった。
「……南郷さん」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「もし……本当に、あの子」
言葉を選びながら、続ける。
「私が行くことで、あの子の邪魔になるかもしれない……。あの子は、しげるくんは、戻らないって、決めたから」
南郷は黙って聞いていた。遮らない。その沈黙が、かえって重い。
「……お金も、鍵も、全部置いていったの」
すみれは、目を伏せたまま言う。
「何も言わずに……それって、もう、関わるなって意味でしょう」
その言葉を口にした瞬間、腹の奥が冷えたような気がした。それでも……。
「それでも、あの子が、今どこにいるのか」
生きているのか。
ちゃんと、ご飯を食べているのか。
夜、眠れているのか。
それを知りたいと思う気持ちまで、なかったことにしていいのだろうか。探すことは、引き止めることとは違う。会いに行くことは、連れ戻すこととは違う。
「……私は、確かめたい」
しげるが選んだ道を、ちゃんと自分の足で歩いているのかどうかを。すみれは、ゆっくりと顔を上げた。
「……行きます」
声は、震えていなかった。
「でも……本人かどうか、確かめるだけです」
そう口に出してから、すみれは小さく息を吐いた。言葉にしたことで、自分に言い聞かせているのだと、はっきり分かる。すみれ自身、まだ迷いが残っている。行かなければよかったのでは、という声も確かにある。けれど同時に、長いあいだ凍りついていた何かが、ぎしりと音を立てて、わずかに動き出す感覚もあった。
——あの日。何も言わずに、顔も合わせることもなく去っていった人。
置き去りにされたままの時間を、今度は自分の目で、終わらせるために。
石川はその返答に、表情一つ変えなかった。短く頷くと、椅子から立ち上がり、迷いのない声で言う。
「もうすぐ終業時刻です。今から向かいましょう」
相談でも、確認でもない。はじめから決まっていたことを告げるだけの口調だった。
ある日の昼下がり。すみれは大きい建物が並んだ町へ来ていた。車通りが多く、自分の住む町とは大違いで臆してしまう。なぜこの町まで来たかというと、仕事の最中、南郷から電話がかかってきた。
“赤木しげる”のことで話がある、とだけ告げられ、とある喫茶店に呼び出された。すみれは居ても立ってもいられず仕事を早退し、乗り換えが一度必要なこの町までやってきたのだ。
あれから南郷とは、たまに顔を合わせる関係になっていた。最初に会ったのは、しげるの行方を尋ねられたときだ。そのときも、今回と同じように、喫茶店だった。それ以降、年に一、二度、近況を少し話す関係になっていた。仕事や生活のあれこれ。そして、話題が尽きると、決まって赤木しげるの話になる。
今どこにいると思うか。
生きているのか。
ああいう男は、どういう大人になるのか。
答えの出ない話ばかりだ。
すみれと南郷は、決して特別な関係にはならなかった。お互い、それを望んでいないことが、言葉にしなくても分かっていた。南郷は、しげるを知っている。すみれの家に、あの少年が確かにいたことを、覚えている。それだけで、十分だった。
——しげるは、確かに存在していた。
それを、すみれ以外の誰かが知っている。それが、すみれにとって何よりの救いだった。もしかしたら、ある日、ふらりと帰ってくるかもしれない。あのときのように、戸を開けて、何事もなかった顔で立っているかもしれない。そんな、根拠のない期待を、完全に捨てきれずにいる。南郷と関わり続けているのは、そのせいだと、すみれ自身が一番よく分かっていた。この細い糸が切れてしまったら、しげるのいた日々まで、遠い昔の出来事になってしまいそうで。それが、どうしようもなく、怖かったのだ。
たった数日、ほんの少しの時間を一緒に過ごしただけなのに赤木しげるという少年はすみれの心に居座り続けている。
カラン。
扉に取り付けられた鈴が、乾いた音を立てた。外の光から切り離された店内は、目が慣れるまでのほんの一瞬、ひどく暗く感じられる。焙煎した豆の匂いと、古い木の床が吸い込んだ時間の気配が、静かに鼻をくすぐった。
視線を奥へ向けると、ソファ席に南郷の姿が見える。だが、今日はそれだけではなかった。
南郷と向かい合うように、黒ずくめの男が一人、背筋を伸ばして座っている。細身の体躯に無駄のない姿勢。店内だというのにサングラスを外さず、その奥の視線を読むことはできない。そのせいか、場に馴染む気配がまるでなく、喫茶店の穏やかな空気から、ぽつりと浮いているようだった。すみれは一瞬、足を止めかける。だが、南郷が気づいて小さく手を上げたため、引き返すわけにもいかず、そのまま足を運んだ。
「お待たせしました」
できるだけ声を整えてそう言うと、南郷はどこか落ち着かない様子で、ぎこちなく笑った。その瞬間、黒ずくめの男の顔が、ほんのわずかにこちらを向く。視線が走る。値踏みするような、感情の読めない視線だった。
「南沢さん、わざわざすみません」
「いえ……あの、そちらの方は……?」
「申し遅れました。私は石川と申します」
低く、よく通る声だった。感情の起伏を感じさせない口調が、かえって耳に残る。
「まあ、座ってください。コーヒーでいいですか?」
「……はい。失礼します」
南郷が少し身をずらし、席を作る。すみれは遠慮がちに腰を下ろし、無意識に背中を丸めた。ソファがやけに柔らかく感じられ、落ち着かない。
「単刀直入に言います」
石川は、前置きもなく切り出した。
「私は赤木を探しています。……南郷さんに聞いたところ、赤木のことならあなたが一番詳しいだろう、と」
その瞬間、すみれのみぞおちが、きゅっと縮んだ。六年という時間が、音もなく巻き戻される。
「……はい」
返事をしながら、自分の声が少しだけ硬いことに気づく。石川は淡々と話を続けた。
「実は最近、赤木しげるらしき人物が、とある玩具工場で働いている、という話が入りまして」
——玩具工場。
あまりにも現実的で、拍子抜けするほど穏やかな言葉。だからこそ、不気味だった。あの子の名前が、そんな場所に結びつくこと自体が、どこか噛み合わない。
「ただ」
石川は、そこで一度言葉を切った。沈黙が、重くテーブルの上に落ちる。
「本人かどうか、確証がありません。……そこで」
視線が、まず南郷へ向けられ、次いで、ゆっくりとすみれへと移る。
「本当に赤木しげるかどうか、確かめてほしい」
すみれの指先が、無意識のうちに膝の上で強張る。逃げ場のない言葉だった。ざわりと何かが音を立てる。期待とも、恐怖ともつかない感情が、渦を巻いていた。
——探している人がいる。そして、その人は、生きて生活している。
その事実だけが、重く、確かに、そこにあった。南郷とすみれの視線が、ふと交わる。南郷の目は、問いかけていた。
——どうする。
すみれは、すぐには答えられなかった。六年、封じ込めてきた名前。もう会わないと、自分に言い聞かせてきた存在。それが今、「確かめてほしい」という形で、目の前に差し出されている。
喫茶店の時計が、かちり、と音を立てた。その音だけが、やけに大きく響いている。石川の言葉が、店内に落ちたまま、しばらく誰も動かなかった。
——確かめてほしい。
その一言が、すみれの頭の中で、何度も反響する。指先が冷たくなっているのに気づいて、すみれはそっと膝の上で手を組み直した。
……確かめる、って。
それはつまり、彼の“今”を知る、ということだ。六年前のあの朝が、否応なく思い出される。ちゃぶ台の上に置かれていた、二つの札束。そして、返された家の鍵。顔も見ず、声もかけず、ただ、置いていった。しげるは、きっと考え抜いた末に、ああした。
しげるがすみれと一緒にいれば、すみれが巻き込まれる。だからこそ、何も言わず、関係を断ち切ったのだとすみれはわかっていた。
……それなのに。
今さら、探しに行っていいのだろうか。すみれの胸に、重たい問いが落ちる。彼の覚悟を、彼なりの優しさを、無下にしてしまうことにならないだろうか。
——会いたい、なんて言える立場じゃない。
彼は、戻らないことを選んだ。すみれが泣いても、探しても、それでも戻らなかった。それは、しげるの“決断”だった。
……私は。
自分は、何をしに行くのだろう。もし、そこに本当にしげるがいたら。元気そうに、何事もなかったように働いていたら。あるいは、まるで別人のように、遠い目をしていたら。
——声をかける資格なんて、あるの?
すみれは唇を噛みしめる。口の中に、わずかな苦みが広がった。
「……南郷さん」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「もし……本当に、あの子」
言葉を選びながら、続ける。
「私が行くことで、あの子の邪魔になるかもしれない……。あの子は、しげるくんは、戻らないって、決めたから」
南郷は黙って聞いていた。遮らない。その沈黙が、かえって重い。
「……お金も、鍵も、全部置いていったの」
すみれは、目を伏せたまま言う。
「何も言わずに……それって、もう、関わるなって意味でしょう」
その言葉を口にした瞬間、腹の奥が冷えたような気がした。それでも……。
「それでも、あの子が、今どこにいるのか」
生きているのか。
ちゃんと、ご飯を食べているのか。
夜、眠れているのか。
それを知りたいと思う気持ちまで、なかったことにしていいのだろうか。探すことは、引き止めることとは違う。会いに行くことは、連れ戻すこととは違う。
「……私は、確かめたい」
しげるが選んだ道を、ちゃんと自分の足で歩いているのかどうかを。すみれは、ゆっくりと顔を上げた。
「……行きます」
声は、震えていなかった。
「でも……本人かどうか、確かめるだけです」
そう口に出してから、すみれは小さく息を吐いた。言葉にしたことで、自分に言い聞かせているのだと、はっきり分かる。すみれ自身、まだ迷いが残っている。行かなければよかったのでは、という声も確かにある。けれど同時に、長いあいだ凍りついていた何かが、ぎしりと音を立てて、わずかに動き出す感覚もあった。
——あの日。何も言わずに、顔も合わせることもなく去っていった人。
置き去りにされたままの時間を、今度は自分の目で、終わらせるために。
石川はその返答に、表情一つ変えなかった。短く頷くと、椅子から立ち上がり、迷いのない声で言う。
「もうすぐ終業時刻です。今から向かいましょう」
相談でも、確認でもない。はじめから決まっていたことを告げるだけの口調だった。
