命日の日に
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翌朝、目を覚ますと、長屋は妙に静寂に包まれていた。
いつもなら聞こえてくるはずの、隣の部屋の物音や、早起きの住人の足音もない。それもそのはずだった。目覚めた時計を見れば、いつもより一時間も早い。布団をたたみ、寝ぼけたまま机の方へ視線をやる。
そこにあったのは、きちんと揃えられた札束が二つ。そして、その横に——見慣れた鍵。しげるに貸していた、この家の鍵だった。一瞬、頭が追いつかなかった。息をすることすら忘れ、しばらくその場に立ち尽くす。そっと手に取ると、金属の冷たさが指先に伝わった。その感触だけで、十分だった。
——ああ、そうか。
言葉にしなくても、うららの中で、すとんと何かが落ちる。しげるくんは、もうここには来ない。もう、戻るつもりはないのだ。
うららは机の前に立ったまま、動けずにいた。鍵を握る手に、じわりと力がこもる。
ぽたり、と。気づかぬうちに、雫が畳に落ちた。
声は出なかった。
嗚咽もなかった。
ただ、静かに、涙だけが流れ続ける。
どれくらい、そうしていたのか分からない。やがて、机の上の札束と鍵を、何度か見比べる。札束に手を伸ばし、持ち上げた。するとタバコの匂いが鼻をかすめた。封筒に入れられることもなく、ただ揃えて置かれているだけの札束。ずしりとした重みだけが、手の中に残った。引き出しを開け、奥にしまってあった手ぬぐいを取り出し、札束を包み丁寧に畳む。そのまま、箪笥の一番下の段に、そっと収めた。
次に、鍵。掌の上で一度転がし、ぎゅっと握る。それから、引き出しを開け、もともと納めていた箱を取り出す。そして中へ入れた。引き出しを閉めると、部屋はまた物音一つなくなる。
うららは大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。涙は、もう止まっていた。顔を洗い、軽く化粧をする。いつもと同じように着替え、身支度を整える。鏡に映る自分は、少しだけ目が赤い。けれど、それ以外は、何も変わらない。
——仕事に行かなくちゃ。
そう思って戸口に向かいかけ、ふと足を止める。
炊事場の隅に、茶碗が二つ。昨夜、片づけそびれたままだった。うららはそれを手に取り、ひとつずつ洗う。水の音だけが、狭い台所で聞こえた。洗い終えた茶碗は、重ねずに棚へ戻す。それから、何事もなかったように戸を開ける。
朝の空気が、ひやりと頬に触れた。うららは背筋を伸ばし、いつもの道へ歩き出す。その背中を見送る者はいない。それでも、うららは歩き続ける。ヒールの音が、朝の道に規則正しく響く。角を曲がる前、ほんの一瞬だけ、立ち止まりそうになる。振り返れば、何かが変わるような気がして。
——けれど、振り返らなかった。
しげるがここにいた時間は、短かった。けれど確かに、この家で、同じ釜の飯を食べ、同じ夜を過ごした。それだけは、誰にも否定できない。もう、赤木しげるが、この戸を叩くことはない。そのことを、うららは分かっていた。
それでも。朝は来る。仕事もある。今日を終えれば、また明日が始まる。それが、彼と過ごした日々を、無駄にしない唯一の方法だと思った。
うららは小さく息を吸い、空を見上げる。雲ひとつない、よく晴れた朝だった。
「……行ってきます」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いて、歩き出す。背後で、長屋は静かに、いつもの朝を迎えていた。
いつもなら聞こえてくるはずの、隣の部屋の物音や、早起きの住人の足音もない。それもそのはずだった。目覚めた時計を見れば、いつもより一時間も早い。布団をたたみ、寝ぼけたまま机の方へ視線をやる。
そこにあったのは、きちんと揃えられた札束が二つ。そして、その横に——見慣れた鍵。しげるに貸していた、この家の鍵だった。一瞬、頭が追いつかなかった。息をすることすら忘れ、しばらくその場に立ち尽くす。そっと手に取ると、金属の冷たさが指先に伝わった。その感触だけで、十分だった。
——ああ、そうか。
言葉にしなくても、うららの中で、すとんと何かが落ちる。しげるくんは、もうここには来ない。もう、戻るつもりはないのだ。
うららは机の前に立ったまま、動けずにいた。鍵を握る手に、じわりと力がこもる。
ぽたり、と。気づかぬうちに、雫が畳に落ちた。
声は出なかった。
嗚咽もなかった。
ただ、静かに、涙だけが流れ続ける。
どれくらい、そうしていたのか分からない。やがて、机の上の札束と鍵を、何度か見比べる。札束に手を伸ばし、持ち上げた。するとタバコの匂いが鼻をかすめた。封筒に入れられることもなく、ただ揃えて置かれているだけの札束。ずしりとした重みだけが、手の中に残った。引き出しを開け、奥にしまってあった手ぬぐいを取り出し、札束を包み丁寧に畳む。そのまま、箪笥の一番下の段に、そっと収めた。
次に、鍵。掌の上で一度転がし、ぎゅっと握る。それから、引き出しを開け、もともと納めていた箱を取り出す。そして中へ入れた。引き出しを閉めると、部屋はまた物音一つなくなる。
うららは大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。涙は、もう止まっていた。顔を洗い、軽く化粧をする。いつもと同じように着替え、身支度を整える。鏡に映る自分は、少しだけ目が赤い。けれど、それ以外は、何も変わらない。
——仕事に行かなくちゃ。
そう思って戸口に向かいかけ、ふと足を止める。
炊事場の隅に、茶碗が二つ。昨夜、片づけそびれたままだった。うららはそれを手に取り、ひとつずつ洗う。水の音だけが、狭い台所で聞こえた。洗い終えた茶碗は、重ねずに棚へ戻す。それから、何事もなかったように戸を開ける。
朝の空気が、ひやりと頬に触れた。うららは背筋を伸ばし、いつもの道へ歩き出す。その背中を見送る者はいない。それでも、うららは歩き続ける。ヒールの音が、朝の道に規則正しく響く。角を曲がる前、ほんの一瞬だけ、立ち止まりそうになる。振り返れば、何かが変わるような気がして。
——けれど、振り返らなかった。
しげるがここにいた時間は、短かった。けれど確かに、この家で、同じ釜の飯を食べ、同じ夜を過ごした。それだけは、誰にも否定できない。もう、赤木しげるが、この戸を叩くことはない。そのことを、うららは分かっていた。
それでも。朝は来る。仕事もある。今日を終えれば、また明日が始まる。それが、彼と過ごした日々を、無駄にしない唯一の方法だと思った。
うららは小さく息を吸い、空を見上げる。雲ひとつない、よく晴れた朝だった。
「……行ってきます」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いて、歩き出す。背後で、長屋は静かに、いつもの朝を迎えていた。
