命日の日に
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電車を降り、改札を抜ける。人の流れから外れ、いつもの道へ足を向けると、町の音が少しだけ遠のいた。着物の裾が、歩調に合わせて揺れる。草履の裏が舗道に触れる、乾いた音。さっきまでの喫茶店の余韻が、まだ指先に残っていた。
そのときだった。
「見つけたぞ!」
背後から怒鳴り声が飛んできた。反射的に振り向くより早く、手首に強い力がかかる。
「来て」
低く、短い声。しげるだった。有無を言わせない握り方で、うららの手を引く。
「え、ちょっ……!」
抗議の言葉は、走り出した衝撃で途切れた。着物の裾をたくし上げる暇もないまま、路地へ、さらに細い裏道へと引きずり込まれる。背後では先ほどとは別の声、怒号が聞こえる。
「てめぇ、待て!!」
「野郎、逃げる気だ」
「追え!!」
足音。荒い息。何かがぶつかる音。しげるは一瞬も振り返らない。曲がり角を二つ、三つ。そして、板塀と建物の隙間――人一人がやっと入れる暗がりに、うららを押し込んだ。
「ここ」
しげる自身も身を寄せ、息を殺す。二人の肩が触れるほど近い。うららの鼓動が、耳の奥でうるさい。通り過ぎる足音。舌打ち。悪態。それが遠ざかっていくまで、しげるは動かなかった。しばらくして。しげるが、ふっと力を抜く。
「……大丈夫です」
それから、ほんの一瞬だけ、目を伏せた。
「……ごめんなさい」
その声は、とても小さかった。
「え?」
うららが言葉の意味を理解する前に、しげるは一歩、後ろへ下がる。
「オレが引きつけるから。うららさんは先に帰って」
淡々とした口調。さっきまでと同じはずなのに、どこか線を引く響きがあった。
「ちょ、ちょっと待って!」
うららの声を遮るように、しげるは視線を逸らし、路地の出口を見る。
「……大丈夫」
そう言い残して、身を翻した。
「しげるくん!」
伸ばした手は、空を掴む。次の瞬間、彼は路地から飛び出していった。足音。誰かの怒鳴り声。それがまた、遠ざかっていく。残された暗がり。
「……行かないで……!」
叫びは、細い路地に吸い込まれ、外には届かなかった。うららは、その場から動けずに立ち尽くす。体の芯が絞られたように気持ちが悪い。さっきまで、隣にいたはずなのに。同じ道を歩いていたはずなのに。
風が、路地を抜けていく。着物の裾が、かすかに揺れた。待つしかない。そう思った瞬間、ひとりでいることの怖さが、遅れて押し寄せてきた。
しげるが走り去ってから、どれくらい経ったのかわからなかった。数分のはずなのに、妙に長い。息を止めていた時間が、まだ続いているような気がする。路地は狭く、まだ昼過ぎだというのに薄暗い。湿った土の匂い。板塀の節目に溜まった埃。どこかで水が垂れる音が、一定の間隔で響いている。
―ぽた。
―ぽた。
その一つ一つが、やけに大きく感じられた。さっきまで隣にあった体温が、もうない。肩に触れていたはずの距離が、急に遠い。
……大丈夫、ってあの子はそう言った。
あまりにも穏やかな声で。すみれは、両手を胸の前で握りしめる。指先が、少し冷たい。
追いつかれたらどうしよう。
怪我をしたら。
戻ってこなかったら。
考えないようにしても、思考は勝手に先へ進んでしまう。草履の鼻緒を、無意識に踏み直す。足元が、妙に頼りない。遠くで、声のようなものが聞こえた気がして、息を止める。けれど、それが誰のものかはわからない。
時計はない。
時間を測るものが、何もない。
ただ、心臓が脈打つ鼓動だけが、確実に刻まれている。
遅い。
そう思った瞬間、また不安が膨らむ。「遅い」と思うこと自体が、怖かった。
ここを出たら、探しに行くべきか。
でも、どこへ。
足が、動かない。
……行かないで。
そう言ったはずなのに。
声に出したはずなのに。
それでも、あの子は行ってしまった。
風が、路地を抜ける。板塀が、かすかに鳴る。着物の裾を押さえる手に、じんわりと汗がにじんだ。うららは意を決して路地を出る。
昼間の通りは、何事もなかったかのように明るい。行き交う人の声。店先から漂う油の匂い。さっきまでの息の詰まる静けさが、嘘のようだった。
そのとき。
「おっ」
聞き覚えのある声がした。
「赤木の!」
振り向くと、スナックでしげるの隣に座っていた大柄の男、南郷がいた。筋肉質な厳つい体に似合わず屈託のない笑顔で、片手を軽く上げている。
「どうしたんですか、こんなとこで」
言いかけて、南郷の表情が変わった。うららの手は、小刻みに震えていた。指先から血の気が引いていくのがわかる。唇も、うまく動かない。
「……おい」
南郷は慌てて距離を詰め、うららの前に立つ。
「大丈夫か? どっか具合悪いのか」
声の調子が、一段低くなる。うららは、うまく言葉が出てこなかった。喉が、ひりつく。
「……ちょっと……」
それだけ言って、視線が落ちる。南郷はうららの様子を見て、深くは聞かなかった。代わりに、肩を支える位置に手を添える。
「座れ。無理すんな」
近くの店先の箱に腰を下ろさせると、南郷はしゃがみ込み、顔を覗き込んだ。
「赤木は?」
その名前に、うららの肩がわずかに揺れる。
「……先に……帰って、って」
南郷は一瞬だけ、目を伏せた。そして、短く息を吐く。
「……そっか。……赤木がそう言ったなら、今はそのほうがいい」
うららが、はっと顔を上げる。
「でも……」
「無理だろ。今のお前さん」
南郷は、きっぱりと言った。けれど声は、柔らかい。
「赤木はな、自分が引き受けたほうがいいと思ったら、絶対そうする奴だ」
一拍置いてから、続ける。
「それに、お前さんが倒れたら、あいつ、余計に後悔する」
うららの手の震えが、少しずつ弱まっていく。南郷は立ち上がり、自然な仕草で歩調を合わせる位置に立った。
「家まで送る。立てるかい?」
拒む隙を与えない、でも押しつけがましくない声。うららは喉がつっかえ言葉が出ない。通りを歩き出すと、南郷は世間話のように、あえて軽く話しかける。
「このへん、昼は案外うるさいだろ。夜になると、また別だけどな」
うららは、小さく頷いた。背後で、路地の影が遠ざかる。さっきまで閉じ込められていた時間が、ようやく動き出した気がした。
……帰ろう。
しげるが戻る場所へ。何もなかった顔をして、帰ろう。そう思いながら、うららは南郷に支えられる形でゆっくり歩いた。
長屋の前まで来ると、井戸のまわりがいつものように賑やかだった。桶を並べ、腰に手を当てた近所のおばさんたちが、ひと固まりになって話している。水を汲む音。笑い声。噂話に、相槌。その輪が、ふっと静まった。
「……あら?」
一人が気づいて、目を細める。
「南沢さん?」
次の瞬間、何人かが一斉にこちらを見た。
「どうしたの、その顔色」
「大丈夫?」
南郷が一歩前に出て、軽く会釈をする。
「道端で、具合悪そうにしてたんでね。ここまで連れてきました」
どうやらさも何でもないことのように言ったおかげで、おばさんたちの警戒はやわらいだらしい。
「まあ、それは……」
「今日暑いしねぇ」
うららは、南郷の腕からそっと手を離した。
「すみません……ちょっと、立ちくらみがして」
声は小さいが、もう震えてはいない。
「大丈夫? こっち、涼しいわよ」
「ほら、座りなさい」
言いながら、二人がかりでうららの腕を取る。その手は、遠慮がなくて、温かい。南郷は一歩引き、うららをおばさんたちに委ねた。
「じゃ、オレはここで」
「ありがとうねえ」
「助かりました」
口々に礼を言われ、南郷は軽く手を上げる。
「いえいえ。無理しないように」
その視線が、一瞬だけ、うららに向く。「大丈夫だな」とでも言うように。うららは、小さく頭を下げた。
南郷が背を向け、路地の向こうへ消えていく。その背中を見送りながら、うららは気づく。
長屋の音が、すっかり元の調子に戻ってきている。桶に水を注ぐ音。また始まるおしゃべり。日常の中に、すぐに馴染む。大丈夫。ここは、帰ってくる場所だ。
そう思えるだけの力が、ようやく体に満ちてきていた。
そのときだった。
「見つけたぞ!」
背後から怒鳴り声が飛んできた。反射的に振り向くより早く、手首に強い力がかかる。
「来て」
低く、短い声。しげるだった。有無を言わせない握り方で、うららの手を引く。
「え、ちょっ……!」
抗議の言葉は、走り出した衝撃で途切れた。着物の裾をたくし上げる暇もないまま、路地へ、さらに細い裏道へと引きずり込まれる。背後では先ほどとは別の声、怒号が聞こえる。
「てめぇ、待て!!」
「野郎、逃げる気だ」
「追え!!」
足音。荒い息。何かがぶつかる音。しげるは一瞬も振り返らない。曲がり角を二つ、三つ。そして、板塀と建物の隙間――人一人がやっと入れる暗がりに、うららを押し込んだ。
「ここ」
しげる自身も身を寄せ、息を殺す。二人の肩が触れるほど近い。うららの鼓動が、耳の奥でうるさい。通り過ぎる足音。舌打ち。悪態。それが遠ざかっていくまで、しげるは動かなかった。しばらくして。しげるが、ふっと力を抜く。
「……大丈夫です」
それから、ほんの一瞬だけ、目を伏せた。
「……ごめんなさい」
その声は、とても小さかった。
「え?」
うららが言葉の意味を理解する前に、しげるは一歩、後ろへ下がる。
「オレが引きつけるから。うららさんは先に帰って」
淡々とした口調。さっきまでと同じはずなのに、どこか線を引く響きがあった。
「ちょ、ちょっと待って!」
うららの声を遮るように、しげるは視線を逸らし、路地の出口を見る。
「……大丈夫」
そう言い残して、身を翻した。
「しげるくん!」
伸ばした手は、空を掴む。次の瞬間、彼は路地から飛び出していった。足音。誰かの怒鳴り声。それがまた、遠ざかっていく。残された暗がり。
「……行かないで……!」
叫びは、細い路地に吸い込まれ、外には届かなかった。うららは、その場から動けずに立ち尽くす。体の芯が絞られたように気持ちが悪い。さっきまで、隣にいたはずなのに。同じ道を歩いていたはずなのに。
風が、路地を抜けていく。着物の裾が、かすかに揺れた。待つしかない。そう思った瞬間、ひとりでいることの怖さが、遅れて押し寄せてきた。
しげるが走り去ってから、どれくらい経ったのかわからなかった。数分のはずなのに、妙に長い。息を止めていた時間が、まだ続いているような気がする。路地は狭く、まだ昼過ぎだというのに薄暗い。湿った土の匂い。板塀の節目に溜まった埃。どこかで水が垂れる音が、一定の間隔で響いている。
―ぽた。
―ぽた。
その一つ一つが、やけに大きく感じられた。さっきまで隣にあった体温が、もうない。肩に触れていたはずの距離が、急に遠い。
……大丈夫、ってあの子はそう言った。
あまりにも穏やかな声で。すみれは、両手を胸の前で握りしめる。指先が、少し冷たい。
追いつかれたらどうしよう。
怪我をしたら。
戻ってこなかったら。
考えないようにしても、思考は勝手に先へ進んでしまう。草履の鼻緒を、無意識に踏み直す。足元が、妙に頼りない。遠くで、声のようなものが聞こえた気がして、息を止める。けれど、それが誰のものかはわからない。
時計はない。
時間を測るものが、何もない。
ただ、心臓が脈打つ鼓動だけが、確実に刻まれている。
遅い。
そう思った瞬間、また不安が膨らむ。「遅い」と思うこと自体が、怖かった。
ここを出たら、探しに行くべきか。
でも、どこへ。
足が、動かない。
……行かないで。
そう言ったはずなのに。
声に出したはずなのに。
それでも、あの子は行ってしまった。
風が、路地を抜ける。板塀が、かすかに鳴る。着物の裾を押さえる手に、じんわりと汗がにじんだ。うららは意を決して路地を出る。
昼間の通りは、何事もなかったかのように明るい。行き交う人の声。店先から漂う油の匂い。さっきまでの息の詰まる静けさが、嘘のようだった。
そのとき。
「おっ」
聞き覚えのある声がした。
「赤木の!」
振り向くと、スナックでしげるの隣に座っていた大柄の男、南郷がいた。筋肉質な厳つい体に似合わず屈託のない笑顔で、片手を軽く上げている。
「どうしたんですか、こんなとこで」
言いかけて、南郷の表情が変わった。うららの手は、小刻みに震えていた。指先から血の気が引いていくのがわかる。唇も、うまく動かない。
「……おい」
南郷は慌てて距離を詰め、うららの前に立つ。
「大丈夫か? どっか具合悪いのか」
声の調子が、一段低くなる。うららは、うまく言葉が出てこなかった。喉が、ひりつく。
「……ちょっと……」
それだけ言って、視線が落ちる。南郷はうららの様子を見て、深くは聞かなかった。代わりに、肩を支える位置に手を添える。
「座れ。無理すんな」
近くの店先の箱に腰を下ろさせると、南郷はしゃがみ込み、顔を覗き込んだ。
「赤木は?」
その名前に、うららの肩がわずかに揺れる。
「……先に……帰って、って」
南郷は一瞬だけ、目を伏せた。そして、短く息を吐く。
「……そっか。……赤木がそう言ったなら、今はそのほうがいい」
うららが、はっと顔を上げる。
「でも……」
「無理だろ。今のお前さん」
南郷は、きっぱりと言った。けれど声は、柔らかい。
「赤木はな、自分が引き受けたほうがいいと思ったら、絶対そうする奴だ」
一拍置いてから、続ける。
「それに、お前さんが倒れたら、あいつ、余計に後悔する」
うららの手の震えが、少しずつ弱まっていく。南郷は立ち上がり、自然な仕草で歩調を合わせる位置に立った。
「家まで送る。立てるかい?」
拒む隙を与えない、でも押しつけがましくない声。うららは喉がつっかえ言葉が出ない。通りを歩き出すと、南郷は世間話のように、あえて軽く話しかける。
「このへん、昼は案外うるさいだろ。夜になると、また別だけどな」
うららは、小さく頷いた。背後で、路地の影が遠ざかる。さっきまで閉じ込められていた時間が、ようやく動き出した気がした。
……帰ろう。
しげるが戻る場所へ。何もなかった顔をして、帰ろう。そう思いながら、うららは南郷に支えられる形でゆっくり歩いた。
長屋の前まで来ると、井戸のまわりがいつものように賑やかだった。桶を並べ、腰に手を当てた近所のおばさんたちが、ひと固まりになって話している。水を汲む音。笑い声。噂話に、相槌。その輪が、ふっと静まった。
「……あら?」
一人が気づいて、目を細める。
「南沢さん?」
次の瞬間、何人かが一斉にこちらを見た。
「どうしたの、その顔色」
「大丈夫?」
南郷が一歩前に出て、軽く会釈をする。
「道端で、具合悪そうにしてたんでね。ここまで連れてきました」
どうやらさも何でもないことのように言ったおかげで、おばさんたちの警戒はやわらいだらしい。
「まあ、それは……」
「今日暑いしねぇ」
うららは、南郷の腕からそっと手を離した。
「すみません……ちょっと、立ちくらみがして」
声は小さいが、もう震えてはいない。
「大丈夫? こっち、涼しいわよ」
「ほら、座りなさい」
言いながら、二人がかりでうららの腕を取る。その手は、遠慮がなくて、温かい。南郷は一歩引き、うららをおばさんたちに委ねた。
「じゃ、オレはここで」
「ありがとうねえ」
「助かりました」
口々に礼を言われ、南郷は軽く手を上げる。
「いえいえ。無理しないように」
その視線が、一瞬だけ、うららに向く。「大丈夫だな」とでも言うように。うららは、小さく頭を下げた。
南郷が背を向け、路地の向こうへ消えていく。その背中を見送りながら、うららは気づく。
長屋の音が、すっかり元の調子に戻ってきている。桶に水を注ぐ音。また始まるおしゃべり。日常の中に、すぐに馴染む。大丈夫。ここは、帰ってくる場所だ。
そう思えるだけの力が、ようやく体に満ちてきていた。
