命日の日に
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駅から少し歩くと、空気が変わった。商店の呼び声も、車の音も、いつの間にか背中に置き去りにされている。
寺の山門は低く、古い木の色をしていた。潜った瞬間、音が一段落ちる。まるで、世間とこの場所のあいだに、薄い膜が張られているようだった。境内には緑が多い。杉や楓が影をつくり、地面にはまだ朝の湿り気が残っている。風が吹くと、葉と葉が触れ合って、さらさら、と擦れる音だけが耳に残った。遠くで、どこかの寺の鐘が一つ、低く鳴った。それきり、音は途切れる。
「静かですね」
しげるが、ぽつりと言う。
「ええ。ここに来ると、時間がゆっくりになるの」
うららの声も、自然と小さくなっていた。本堂の脇で、掃除をしていた住職に声をかける。年配の男性で、白い作務衣がよく似合っていた。
「今日は命日でして」
「ご苦労様です」
短いやり取りだけ。多くを聞かず、多くも語らない。そういう距離感が、この場所には合っている。
「お墓で水を使われますか」
「はい。お願いします」
桶を借り、柄杓を添えてもらう。
「持ちます」
しげるが自然に手を伸ばす。うららはすぐに、頷いた。
「ありがとう」
水を汲むと、桶の中で水が小さく揺れた。歩くたびに、ちゃぷ、と音がする。来る途中、降りた駅前の花屋で買った仏花は、白菊を中心とした控えめなもの。うららはその花たちを抱えてるためか淡く甘い香りが鼻腔をくすぐる。墓地は、本堂よりさらに奥にある。石の間を縫うように草が伸び、ところどころに苔がついていた。
「ここよ」
うららが立ち止まる。しげるは半歩、後ろに下がった位置で足を止めた。すみれはしげるから桶を受け取ると墓石近くに置き、柄杓で水をかける。石に当たった水が、音も立てずに流れ落ちる。
うららが布で墓石を拭き、しげるは黙って周囲の落ち葉を拾う。教えられたわけでもないのに、邪魔にならない位置で、必要なことだけをしていた。
「しげるくん、これにお水入れてきてもらえる?」
花筒を差し出すと小さく頷きながら受け取り、来た道を戻っていった。風が吹いた。木々が、ざわ、と一斉に息をする。葉擦れの音だけが、境内に長く残った。しげるの姿が見えなくなって、うららは改めて墓石の前に立った。
「……久しぶり」
誰に聞かせるでもない、小さな声。布で拭った石は、少しだけ色を取り戻している。そこに刻まれた名前を、指先でなぞる。
「今日はね、一人じゃないの」
答えが返ってこないことは、分かっている。それでも、言葉は自然と口をついて出た。
「あの子、不思議な子でね。なぜかほっとけないの」
風がまた、木々を揺らす。
「……今は寂しくないのよ。あなたには少し申し訳ないけどね」
指先に、落ち着かない感覚が残る。嬉しさと、後ろめたさと、少しの安堵が絡まり合った。
「あなたがいなくなってから、ずっと一人だったのよ」
責めるでもなく、泣き言でもなく。ただ事実を、並べるように話す。
「それでね……」
そこで言葉を止めた。これ以上は、言っていいのか分からなくなったからだ。うららは静かに手を合わせた。
数分後。
「こんなものかしらね」
墓石を磨き切り、額にうっすらとにじんだ汗を拭う。
「それにしてもしげるくん、遅いわね」
しばらく待ってみるが、気配はない。うららは一度、墓石に一礼してから、来た道を戻る。参道を少し下ったところで、しげるを見つけた。水場の前。花筒を手で遊びながら立ち尽くしている。
「しげるくん?」
呼びかけると、肩がわずかに揺れ、こちらを振り返った。
「どうしたの。迷った?」
すみれがそう言うと、しげるは一瞬だけ視線を逸らし、そして小さく首を振る。少し間を置いて、続けた。
「二人きりのほうが、いいかと思って」
その言い方は淡々としていたが、たしかに優しさが含まれていた。うららは、思わず息をのむ。
「……気、使わせちゃったのね」
「別に」
ぶっきらぼうで、照れもない。けれど、しげるはちゃんと考えていたのだと分かる。
「ありがとう」
そう言うと、しげるはわずかに肩をすくめた。
「……もういいの?」
「うん。もう大丈夫」
しげるは花筒に水を汲むと、先に歩き出す。その背中を見ながら、うららは胸の奥に温かさが広がるのを感じていた。
花筒に花を差し込むと、白が、緑の中で美しく浮かび上がる。線香を取り出し、火をつける。煙が、細く立ちのぼった。
「どうぞ」
うららは、一本、しげるに差し出した。一瞬だけ戸惑ったあと、しげるは受け取る。うららが先にしゃがみ、しげるも少し遅れて、隣に同じように腰を落とす。
線香を供え、二人並んで手を合わせる。しげるはうららの仕草をそのままなぞるように、そっと目を閉じた。願いごとはない。言葉もない。ただ、風の音と、線香の匂いだけが、そこにあった。
墓地を出ると、境内の空気はまだ静かなままだったが、さっきよりも肩の力が抜けているのを、うららは自分で感じていた。
足元の砂利を踏む音が、先ほどよりも柔らかく聞こえる。山門をくぐると、風の質が変わった。遠くで車の走る音が戻り、誰かの話し声が、かすかに混じる。しげるは何も言わない。
けれど、さっきまでよりも歩幅が揃っている気がした。
寺の山門は低く、古い木の色をしていた。潜った瞬間、音が一段落ちる。まるで、世間とこの場所のあいだに、薄い膜が張られているようだった。境内には緑が多い。杉や楓が影をつくり、地面にはまだ朝の湿り気が残っている。風が吹くと、葉と葉が触れ合って、さらさら、と擦れる音だけが耳に残った。遠くで、どこかの寺の鐘が一つ、低く鳴った。それきり、音は途切れる。
「静かですね」
しげるが、ぽつりと言う。
「ええ。ここに来ると、時間がゆっくりになるの」
うららの声も、自然と小さくなっていた。本堂の脇で、掃除をしていた住職に声をかける。年配の男性で、白い作務衣がよく似合っていた。
「今日は命日でして」
「ご苦労様です」
短いやり取りだけ。多くを聞かず、多くも語らない。そういう距離感が、この場所には合っている。
「お墓で水を使われますか」
「はい。お願いします」
桶を借り、柄杓を添えてもらう。
「持ちます」
しげるが自然に手を伸ばす。うららはすぐに、頷いた。
「ありがとう」
水を汲むと、桶の中で水が小さく揺れた。歩くたびに、ちゃぷ、と音がする。来る途中、降りた駅前の花屋で買った仏花は、白菊を中心とした控えめなもの。うららはその花たちを抱えてるためか淡く甘い香りが鼻腔をくすぐる。墓地は、本堂よりさらに奥にある。石の間を縫うように草が伸び、ところどころに苔がついていた。
「ここよ」
うららが立ち止まる。しげるは半歩、後ろに下がった位置で足を止めた。すみれはしげるから桶を受け取ると墓石近くに置き、柄杓で水をかける。石に当たった水が、音も立てずに流れ落ちる。
うららが布で墓石を拭き、しげるは黙って周囲の落ち葉を拾う。教えられたわけでもないのに、邪魔にならない位置で、必要なことだけをしていた。
「しげるくん、これにお水入れてきてもらえる?」
花筒を差し出すと小さく頷きながら受け取り、来た道を戻っていった。風が吹いた。木々が、ざわ、と一斉に息をする。葉擦れの音だけが、境内に長く残った。しげるの姿が見えなくなって、うららは改めて墓石の前に立った。
「……久しぶり」
誰に聞かせるでもない、小さな声。布で拭った石は、少しだけ色を取り戻している。そこに刻まれた名前を、指先でなぞる。
「今日はね、一人じゃないの」
答えが返ってこないことは、分かっている。それでも、言葉は自然と口をついて出た。
「あの子、不思議な子でね。なぜかほっとけないの」
風がまた、木々を揺らす。
「……今は寂しくないのよ。あなたには少し申し訳ないけどね」
指先に、落ち着かない感覚が残る。嬉しさと、後ろめたさと、少しの安堵が絡まり合った。
「あなたがいなくなってから、ずっと一人だったのよ」
責めるでもなく、泣き言でもなく。ただ事実を、並べるように話す。
「それでね……」
そこで言葉を止めた。これ以上は、言っていいのか分からなくなったからだ。うららは静かに手を合わせた。
数分後。
「こんなものかしらね」
墓石を磨き切り、額にうっすらとにじんだ汗を拭う。
「それにしてもしげるくん、遅いわね」
しばらく待ってみるが、気配はない。うららは一度、墓石に一礼してから、来た道を戻る。参道を少し下ったところで、しげるを見つけた。水場の前。花筒を手で遊びながら立ち尽くしている。
「しげるくん?」
呼びかけると、肩がわずかに揺れ、こちらを振り返った。
「どうしたの。迷った?」
すみれがそう言うと、しげるは一瞬だけ視線を逸らし、そして小さく首を振る。少し間を置いて、続けた。
「二人きりのほうが、いいかと思って」
その言い方は淡々としていたが、たしかに優しさが含まれていた。うららは、思わず息をのむ。
「……気、使わせちゃったのね」
「別に」
ぶっきらぼうで、照れもない。けれど、しげるはちゃんと考えていたのだと分かる。
「ありがとう」
そう言うと、しげるはわずかに肩をすくめた。
「……もういいの?」
「うん。もう大丈夫」
しげるは花筒に水を汲むと、先に歩き出す。その背中を見ながら、うららは胸の奥に温かさが広がるのを感じていた。
花筒に花を差し込むと、白が、緑の中で美しく浮かび上がる。線香を取り出し、火をつける。煙が、細く立ちのぼった。
「どうぞ」
うららは、一本、しげるに差し出した。一瞬だけ戸惑ったあと、しげるは受け取る。うららが先にしゃがみ、しげるも少し遅れて、隣に同じように腰を落とす。
線香を供え、二人並んで手を合わせる。しげるはうららの仕草をそのままなぞるように、そっと目を閉じた。願いごとはない。言葉もない。ただ、風の音と、線香の匂いだけが、そこにあった。
墓地を出ると、境内の空気はまだ静かなままだったが、さっきよりも肩の力が抜けているのを、うららは自分で感じていた。
足元の砂利を踏む音が、先ほどよりも柔らかく聞こえる。山門をくぐると、風の質が変わった。遠くで車の走る音が戻り、誰かの話し声が、かすかに混じる。しげるは何も言わない。
けれど、さっきまでよりも歩幅が揃っている気がした。
