命日の日に
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朝の電車は、通勤客で少し混んでいた。木の床が、走るたびに低く軋む。革靴のかかとが床を叩く音、吊革が小さく揺れる音。車内には、石鹸と整髪料、それから煙草のにおいが入り混じっている。
背広姿の男たちは皆、同じ方向を向き、新聞を広げる者、目を閉じて立つ者、腕時計を気にする者。それぞれが朝の顔をしていた。
座席の端には、ランドセルを背負った小さな子どもが一人、つり革代わりに座席の縁をぎゅっと握って立っている。身体に比べてだいぶ大きなランドセルが、電車の揺れに合わせて、こくりこくりと揺れた。
すみれはその様子を、何とはなしに眺めていた。すみれの横には、しげるが立っている。
ドア横の手摺をにぎり、揺れに備えているが、表情は相変わらずの無表情である。電車が加速すると、車内の人の流れがわずかに傾く。肩と肩が触れ、また離れる。
そのたびに、誰かが小さく息を吐いた。その時、車体が大きく揺れた。すみれはその拍子にバランスを崩し、よろける。
「ッ……」
が、すみれが倒れることはなかった。しげるがとっさに一歩踏み出し、すみれの腰に手を回して体を支えたのだ。ぎゅっと掴んだわけでもない。けれど、逃がさない程度に、確かにそこに手があった。
「……平気?」
耳元で、低い声がした。思ったよりも、ずっと近い。すみれは、はっと息を呑む。着物越しに伝わる、他人の体温。支えられているのだと理解するまで、ほんの一瞬、頭が真っ白になった。
「……ええ。ありがとう」
そう答えると同時に、しげるの手が、すぐに離れた。何事もなかったかのように、元の位置へ戻る。けれど、腰のあたりに残った温もりだけが、なかなか消えなかった。
すみれは、後ろの男性に押され小さく一歩だけしげるの方へ寄った。それに気づいたのか、しげるは何も言わず少しだけ足の位置を変える。他人に見えないほどの距離で、けれど確かに、互いを支える位置だった。
窓の外を、低い家並みと干された洗濯物が、ゆっくりと後ろへ流れていく。朝の光がガラス越しに差し込み、車内に舞う埃を淡く浮かび上がらせた。ふと、窓にうっすらと映り込む影に気づく。立っている乗客たちの輪郭、その中に、並んで立つ自分としげるの姿もあった。
今はまだ、私のほうが少しだけ背が高い。けれど、それもきっと長くは続かない。数年もすれば、この子は私を追い越して、見下ろすようになるのだろう。声も、肩幅も、今とは違って。
やがて、もう”子ども”とは呼べない輪郭を持つ、大人の男になる。
――彼は、どんな大人になるのだろう。
そんなことを考えた瞬間、胸の奥に、言葉にならない感情が静かに広がった。懐かしさとも、寂しさとも違う。まだ見ぬ時間に、そっと手を伸ばしてしまったような、そんな気持ち。
――あんまり考えたこと、なかったけれど。
しげるくんって、結構、整った顔立ちをしている。涼しげな目元に、無駄のない表情。長屋のお姉さま方が、ひそひそと噂をするのも、無理はないのかもしれない。まあ、本人に言うことはないけれど。
そう思った、そのときだった。ガラス越しに、しげると視線がぶつかった。逃げ場のない距離で、ばっちりと。一瞬、心臓が跳ねる。しげるは、何も言わない。ただ、ほんのわずかに口の端を上げて、こちらを見た。まるで全部わかっている、とでも言うような、少しいじわるな笑み。
――見られてた?
頬が、じわりと熱を持つ。否定するほどでもない、けれど認めるには気恥ずかしい思いで心が揺れた。それからしばらくのあいだ。電車の揺れよりも、レールの音よりも。すみれには、自分の鼓動のほうが、ずっと大きく響いているように感じられた。
背広姿の男たちは皆、同じ方向を向き、新聞を広げる者、目を閉じて立つ者、腕時計を気にする者。それぞれが朝の顔をしていた。
座席の端には、ランドセルを背負った小さな子どもが一人、つり革代わりに座席の縁をぎゅっと握って立っている。身体に比べてだいぶ大きなランドセルが、電車の揺れに合わせて、こくりこくりと揺れた。
すみれはその様子を、何とはなしに眺めていた。すみれの横には、しげるが立っている。
ドア横の手摺をにぎり、揺れに備えているが、表情は相変わらずの無表情である。電車が加速すると、車内の人の流れがわずかに傾く。肩と肩が触れ、また離れる。
そのたびに、誰かが小さく息を吐いた。その時、車体が大きく揺れた。すみれはその拍子にバランスを崩し、よろける。
「ッ……」
が、すみれが倒れることはなかった。しげるがとっさに一歩踏み出し、すみれの腰に手を回して体を支えたのだ。ぎゅっと掴んだわけでもない。けれど、逃がさない程度に、確かにそこに手があった。
「……平気?」
耳元で、低い声がした。思ったよりも、ずっと近い。すみれは、はっと息を呑む。着物越しに伝わる、他人の体温。支えられているのだと理解するまで、ほんの一瞬、頭が真っ白になった。
「……ええ。ありがとう」
そう答えると同時に、しげるの手が、すぐに離れた。何事もなかったかのように、元の位置へ戻る。けれど、腰のあたりに残った温もりだけが、なかなか消えなかった。
すみれは、後ろの男性に押され小さく一歩だけしげるの方へ寄った。それに気づいたのか、しげるは何も言わず少しだけ足の位置を変える。他人に見えないほどの距離で、けれど確かに、互いを支える位置だった。
窓の外を、低い家並みと干された洗濯物が、ゆっくりと後ろへ流れていく。朝の光がガラス越しに差し込み、車内に舞う埃を淡く浮かび上がらせた。ふと、窓にうっすらと映り込む影に気づく。立っている乗客たちの輪郭、その中に、並んで立つ自分としげるの姿もあった。
今はまだ、私のほうが少しだけ背が高い。けれど、それもきっと長くは続かない。数年もすれば、この子は私を追い越して、見下ろすようになるのだろう。声も、肩幅も、今とは違って。
やがて、もう”子ども”とは呼べない輪郭を持つ、大人の男になる。
――彼は、どんな大人になるのだろう。
そんなことを考えた瞬間、胸の奥に、言葉にならない感情が静かに広がった。懐かしさとも、寂しさとも違う。まだ見ぬ時間に、そっと手を伸ばしてしまったような、そんな気持ち。
――あんまり考えたこと、なかったけれど。
しげるくんって、結構、整った顔立ちをしている。涼しげな目元に、無駄のない表情。長屋のお姉さま方が、ひそひそと噂をするのも、無理はないのかもしれない。まあ、本人に言うことはないけれど。
そう思った、そのときだった。ガラス越しに、しげると視線がぶつかった。逃げ場のない距離で、ばっちりと。一瞬、心臓が跳ねる。しげるは、何も言わない。ただ、ほんのわずかに口の端を上げて、こちらを見た。まるで全部わかっている、とでも言うような、少しいじわるな笑み。
――見られてた?
頬が、じわりと熱を持つ。否定するほどでもない、けれど認めるには気恥ずかしい思いで心が揺れた。それからしばらくのあいだ。電車の揺れよりも、レールの音よりも。すみれには、自分の鼓動のほうが、ずっと大きく響いているように感じられた。
