命日の日に
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朝の長屋は、そこら中からたくさんの音が聞こえてくる。
遠くで新聞配達の自転車の音がして、共同水道からは、誰かが桶に水を汲む音が響く。隣の部屋からも朝食を作っているのだろう、包丁がまな板をリズムよくたたく音が聞こえた。
ちゃぶ台の上には、炊きたてのご飯、味噌汁、漬物、そして小さな卵焼き。湯気が立ちのぼり、部屋に朝の匂いが満ちていた。
「いただきます」
二人分の声が、重なって聞こえた。しげるは黙ってご飯を口に運び、うららは味噌汁を一口すすってから、少し間を置いた。
「……今日はね」
箸を置くほどではない、でもいつもより少しだけ慎重な声。
「仕事、休んだの」
しげるの箸が、ほんの一瞬止まる。
「体調、悪いんですか」
「ううん。そうじゃなくて」
うららは、視線をちゃぶ台の木目に落としたまま続けた。
「今日は、夫の命日なの。お墓参りに行こうと思って」
しげるはふうん、とだけ言って、もう一口ご飯を食べる。その仕草が、必要以上に踏み込まない距離を守っているのが分かって、すみれは少しだけ胸が楽になった。
「て言ってもいつも通り、夕方までには帰るから」
「はい」
味噌汁を飲み干し、しげるは茶碗を置いたあと、少しだけ迷うように視線を泳がせた。
「……あの」
「なあに?」
うららが顔を上げる。
「オレも、ついて行っていいですか」
思いがけない言葉にあっけにとられてしまった。
「邪魔なら、いいです」
しげるは顔色を変えず言う。無言の拒否に捉えられたようだ。
「邪魔なんて思わないわ……一緒に来てくれるなら、うれしい」
そう言って、笑った。
食後、うららは箪笥を開け、静かに着物を取り出す。選んだのは、紺に近い鼠色の無地の着物。光の当たり方で、ほんのり青みが見える。
帯は、焦げ茶の名古屋帯。鏡の前で髪をまとめ、白い半衿を整える。口紅は差さない。顔色を整える程度に、軽く粉をはたくだけ。
しげるは少し離れたところで、その様子を黙って見ていた。彼は学生服のまま、襟を正す。その姿が、今日はいつもより少し大人びて見えた。
箪笥の引き出しを閉める音、帯締めを引く小さな擦過音。それに呼応するように、しげるが畳の上で靴下を整える気配がする。
どちらも声を出さない。ただ、必要な動作だけを淡々とこなしていく。外からは、部屋の前を誰かが通る足音と、隣室の戸が開く音。遠くで子どもの笑い声がして、すぐに母親の呼ぶ声が追いかけてきた。
朝の生活音が、壁越しに、戸越しに、折り重なっている。
それから羽織に袖を通した。しげるは何も言わず、そっと戸口に立った。先に外へ出るでもなく、急かすでもなく、ただ待つという選択。その距離感が、なぜだか胸にやさしく沁みる。
「……行きましょうか」
そう声をかけると、しげるは小さく頷いた。
草履を履く音と、下駄箱の戸が閉まる音。鍵をかける金属音が、朝の空気に短く響く。
二人で並んで外に出ると、長屋の朝はもうすっかり動き出していた。洗濯物を干す音、洗い場の笑い声。
それらに溶け込むように、うららとしげるの足音も、同じ調子で刻まれていく。特別なことは何もない、そんな朝だった。
遠くで新聞配達の自転車の音がして、共同水道からは、誰かが桶に水を汲む音が響く。隣の部屋からも朝食を作っているのだろう、包丁がまな板をリズムよくたたく音が聞こえた。
ちゃぶ台の上には、炊きたてのご飯、味噌汁、漬物、そして小さな卵焼き。湯気が立ちのぼり、部屋に朝の匂いが満ちていた。
「いただきます」
二人分の声が、重なって聞こえた。しげるは黙ってご飯を口に運び、うららは味噌汁を一口すすってから、少し間を置いた。
「……今日はね」
箸を置くほどではない、でもいつもより少しだけ慎重な声。
「仕事、休んだの」
しげるの箸が、ほんの一瞬止まる。
「体調、悪いんですか」
「ううん。そうじゃなくて」
うららは、視線をちゃぶ台の木目に落としたまま続けた。
「今日は、夫の命日なの。お墓参りに行こうと思って」
しげるはふうん、とだけ言って、もう一口ご飯を食べる。その仕草が、必要以上に踏み込まない距離を守っているのが分かって、すみれは少しだけ胸が楽になった。
「て言ってもいつも通り、夕方までには帰るから」
「はい」
味噌汁を飲み干し、しげるは茶碗を置いたあと、少しだけ迷うように視線を泳がせた。
「……あの」
「なあに?」
うららが顔を上げる。
「オレも、ついて行っていいですか」
思いがけない言葉にあっけにとられてしまった。
「邪魔なら、いいです」
しげるは顔色を変えず言う。無言の拒否に捉えられたようだ。
「邪魔なんて思わないわ……一緒に来てくれるなら、うれしい」
そう言って、笑った。
食後、うららは箪笥を開け、静かに着物を取り出す。選んだのは、紺に近い鼠色の無地の着物。光の当たり方で、ほんのり青みが見える。
帯は、焦げ茶の名古屋帯。鏡の前で髪をまとめ、白い半衿を整える。口紅は差さない。顔色を整える程度に、軽く粉をはたくだけ。
しげるは少し離れたところで、その様子を黙って見ていた。彼は学生服のまま、襟を正す。その姿が、今日はいつもより少し大人びて見えた。
箪笥の引き出しを閉める音、帯締めを引く小さな擦過音。それに呼応するように、しげるが畳の上で靴下を整える気配がする。
どちらも声を出さない。ただ、必要な動作だけを淡々とこなしていく。外からは、部屋の前を誰かが通る足音と、隣室の戸が開く音。遠くで子どもの笑い声がして、すぐに母親の呼ぶ声が追いかけてきた。
朝の生活音が、壁越しに、戸越しに、折り重なっている。
それから羽織に袖を通した。しげるは何も言わず、そっと戸口に立った。先に外へ出るでもなく、急かすでもなく、ただ待つという選択。その距離感が、なぜだか胸にやさしく沁みる。
「……行きましょうか」
そう声をかけると、しげるは小さく頷いた。
草履を履く音と、下駄箱の戸が閉まる音。鍵をかける金属音が、朝の空気に短く響く。
二人で並んで外に出ると、長屋の朝はもうすっかり動き出していた。洗濯物を干す音、洗い場の笑い声。
それらに溶け込むように、うららとしげるの足音も、同じ調子で刻まれていく。特別なことは何もない、そんな朝だった。
