心の距離
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夜の長屋は、ひどく静かだった。昼間あれほど賑やかだった物音はすっかり引いて、聞こえるのは遠くを走る電車の音と、どこかの家で水を使う、かすかな気配だけ。
うららは、ちゃぶ台の前に座っていた。茶碗の中のご飯は、もう冷たい。半分ほど減っている。”冷めちゃう”そう思って、待つのをやめた。黙々と、ひとり分の夕飯を口に運ぶ。味は、ちゃんとしていた。いつも通りの味噌汁、少し甘めの煮物、焼き魚。どれも失敗していない。なのに、喉を通るのに妙に時間がかかる。ちゃぶ台の向かい側は、空いたままだ。箸を置いたとき、何かが、行き場を失ったまま沈んだ。
――また、ひとり。
その言葉が浮かんだ瞬間、堪えていたものが一気に押し寄せる。結婚して、夫ができて、一人ではなくなった。けれど、それも長くは続かなかった。そしてまた、こうして一人でご飯を食べる夜が戻ってきた。しげると出会って、忘れていたはずだった、”一人でいる”という感覚。それがどれほど静かで、心細くて、じわじわと胸を削るものかを。
「……何してるんだろ、私」
小さく呟いて、立ち上がる。鍋にふたをして、茶碗を重ねる。やることをやっていないと、気持ちが保てなかった。それでも、しげるの顔が浮かぶ。ちゃんと帰ってくる、と言っていた。でも、今どこにいるのかは分からない。待つ、という状態そのものが、こんなにも心を削るなんて。
うららは畳に座り込み、背中を壁に預けたまま、そっと目を閉じた。見ず知らずで、しかもつい最近出会ったばかりの少年。それほど薄い関係のはずなのに、どうしてここまで心が揺れるのか、自分でも分からない。”心配している”それは嘘じゃない。けれど、それだけじゃない。しげるが、どこか遠くへ行ってしまうのではないか。自分の元から、消えてしまうのではないか。その恐怖が、胸いっぱいに広がっていく。あの二人組。あの冷たい空気。しげるが、あちら側へ連れて行かれてしまう気がしてならなかった。
「……はあ」
小さく息を吐く。
「バカみたい」
あの子は、私のものじゃない。守る義務も、引き止める権利もない。そう分かっているのに。ぽろり、と畳に雫が落ちた。気づいたときには、涙が頬を伝っていた。袖で拭っても、次から次へと滲んでくる。夜の静けさが、その音さえも包み込む。うららは声を殺したまま、ただ一人、涙をこぼした。
カタン。
戸の開く音。はっと目を開けると、視界が一瞬、ぼやけた。眠っていたのだと気づくまで、少し時間がかかる。戸口に立っていたのは、しげるだった。夜気と一緒に入り込んできた、はっきりとした煙草のにおい。
「あ……」
声にならない声が漏れる。
「……帰りました」
小さく、控えめな声。
「おかえり」
返事をした自分の声が、思っていたより掠れていて、うららは一瞬、視線を逸らした。しげるの視線が、うららの瞳を凝視する。
「泣いたの?」
「……そう見える?」
「はい」
うららはしげるの言葉には答えず、立ち上がると、足元が少しふらついた。そんな自分に気づいて、うららは苦笑する。
「ご飯食べるでしょ?」
「はい」
「……温めなおすから待ってね」
「そのままでいいです」
「お味噌汁だけでもあったかいのを食べて」
鍋に火を入れながら、背中越しに思う。
ひとりで食べた夜は、やっぱり、寂しい。それでも今は、もう完全なひとりじゃない。煙草の匂いの向こう側に、確かに“帰ってきた気配”がある。それだけで、今夜はよしとしよう。
うららは、そう自分に言い聞かせながら、鍋の中の味噌汁を静かに温め直した。湯気が立ちのぼり、部屋に味噌と出汁の匂いが戻ってくる。うららは鍋を見つめたまま、しげるに背を向けていた。振り返れば、きっと余計なことを言ってしまう。だから、あえて声だけを投げる。
「今日は焼き魚だけじゃなくて煮物も作ってみたの」
しげるからの返事は小さな「はい」の二文字だけ。うららもそれ以上何も言わなかった。
ちゃぶ台に、焼き魚と煮物そして温めなおした味噌汁を並べる。うららは戸棚からおむすびの乗った皿を取り出すとしげるの前へ差し出す。
「どうぞ。ご飯は食べやすいように、おむすびにしたの」
「はい」
しげるはそれ以上何も言わず、黙って手を合わせた。
「いただきます」
焼き魚は冷え切っていたが、箸を入れると身はちゃんとほぐれた。味噌汁を一口含んだしげるの喉が、こくりと動く。
「……うまいです」
その一言に、うららの肩の力が抜けた。
「それなら、よかった」
それだけ言って、うららはお湯を沸かす。
数分後湯呑みを手に取り熱いお茶を注いだ。温かさが指先からじわりと染みる。二人の間に、箸の音と、外を走る電車の低い音だけが流れた。しげるの煙草の匂いは、少しずつ薄れていく。代わりに、煮物の甘さと、畳の匂いが部屋に戻ってくる。うららは、それを確かめるように、静かに息を吸った。
「……心配、かけましたか」
ぽつりと落ちた言葉に、うららは一瞬、答えに迷う。
「心配しないわけないでしょう」
「そうですか」
それだけで、話は終わった。言い訳も、説明もない。けれど、しげるはそのまま黙々と食べ続ける。その背中は、さっきの店で見た硬さより、少しだけ柔らいで見えた。
「遅くなって、ごめんなさい」
食べ終わり、箸をそろえてから言う。その順番が、この子らしいと思う。
「いいのよ。ちゃんと帰ってきたんだから」
そう言いながら、うららは自分でも驚くほど、穏やかな声をしていた。ちゃぶ台の上には空の皿。
今夜は“帰ってきた夜”だ。戸の向こうで、また風が鳴る。うららは、静かに思う。寂しさは消えない。でも、分け合える夜は、確かに増えている。その事実だけ確かめながら、うららは、空になった鍋にふたをかぶせた。
うららは、ちゃぶ台の前に座っていた。茶碗の中のご飯は、もう冷たい。半分ほど減っている。”冷めちゃう”そう思って、待つのをやめた。黙々と、ひとり分の夕飯を口に運ぶ。味は、ちゃんとしていた。いつも通りの味噌汁、少し甘めの煮物、焼き魚。どれも失敗していない。なのに、喉を通るのに妙に時間がかかる。ちゃぶ台の向かい側は、空いたままだ。箸を置いたとき、何かが、行き場を失ったまま沈んだ。
――また、ひとり。
その言葉が浮かんだ瞬間、堪えていたものが一気に押し寄せる。結婚して、夫ができて、一人ではなくなった。けれど、それも長くは続かなかった。そしてまた、こうして一人でご飯を食べる夜が戻ってきた。しげると出会って、忘れていたはずだった、”一人でいる”という感覚。それがどれほど静かで、心細くて、じわじわと胸を削るものかを。
「……何してるんだろ、私」
小さく呟いて、立ち上がる。鍋にふたをして、茶碗を重ねる。やることをやっていないと、気持ちが保てなかった。それでも、しげるの顔が浮かぶ。ちゃんと帰ってくる、と言っていた。でも、今どこにいるのかは分からない。待つ、という状態そのものが、こんなにも心を削るなんて。
うららは畳に座り込み、背中を壁に預けたまま、そっと目を閉じた。見ず知らずで、しかもつい最近出会ったばかりの少年。それほど薄い関係のはずなのに、どうしてここまで心が揺れるのか、自分でも分からない。”心配している”それは嘘じゃない。けれど、それだけじゃない。しげるが、どこか遠くへ行ってしまうのではないか。自分の元から、消えてしまうのではないか。その恐怖が、胸いっぱいに広がっていく。あの二人組。あの冷たい空気。しげるが、あちら側へ連れて行かれてしまう気がしてならなかった。
「……はあ」
小さく息を吐く。
「バカみたい」
あの子は、私のものじゃない。守る義務も、引き止める権利もない。そう分かっているのに。ぽろり、と畳に雫が落ちた。気づいたときには、涙が頬を伝っていた。袖で拭っても、次から次へと滲んでくる。夜の静けさが、その音さえも包み込む。うららは声を殺したまま、ただ一人、涙をこぼした。
カタン。
戸の開く音。はっと目を開けると、視界が一瞬、ぼやけた。眠っていたのだと気づくまで、少し時間がかかる。戸口に立っていたのは、しげるだった。夜気と一緒に入り込んできた、はっきりとした煙草のにおい。
「あ……」
声にならない声が漏れる。
「……帰りました」
小さく、控えめな声。
「おかえり」
返事をした自分の声が、思っていたより掠れていて、うららは一瞬、視線を逸らした。しげるの視線が、うららの瞳を凝視する。
「泣いたの?」
「……そう見える?」
「はい」
うららはしげるの言葉には答えず、立ち上がると、足元が少しふらついた。そんな自分に気づいて、うららは苦笑する。
「ご飯食べるでしょ?」
「はい」
「……温めなおすから待ってね」
「そのままでいいです」
「お味噌汁だけでもあったかいのを食べて」
鍋に火を入れながら、背中越しに思う。
ひとりで食べた夜は、やっぱり、寂しい。それでも今は、もう完全なひとりじゃない。煙草の匂いの向こう側に、確かに“帰ってきた気配”がある。それだけで、今夜はよしとしよう。
うららは、そう自分に言い聞かせながら、鍋の中の味噌汁を静かに温め直した。湯気が立ちのぼり、部屋に味噌と出汁の匂いが戻ってくる。うららは鍋を見つめたまま、しげるに背を向けていた。振り返れば、きっと余計なことを言ってしまう。だから、あえて声だけを投げる。
「今日は焼き魚だけじゃなくて煮物も作ってみたの」
しげるからの返事は小さな「はい」の二文字だけ。うららもそれ以上何も言わなかった。
ちゃぶ台に、焼き魚と煮物そして温めなおした味噌汁を並べる。うららは戸棚からおむすびの乗った皿を取り出すとしげるの前へ差し出す。
「どうぞ。ご飯は食べやすいように、おむすびにしたの」
「はい」
しげるはそれ以上何も言わず、黙って手を合わせた。
「いただきます」
焼き魚は冷え切っていたが、箸を入れると身はちゃんとほぐれた。味噌汁を一口含んだしげるの喉が、こくりと動く。
「……うまいです」
その一言に、うららの肩の力が抜けた。
「それなら、よかった」
それだけ言って、うららはお湯を沸かす。
数分後湯呑みを手に取り熱いお茶を注いだ。温かさが指先からじわりと染みる。二人の間に、箸の音と、外を走る電車の低い音だけが流れた。しげるの煙草の匂いは、少しずつ薄れていく。代わりに、煮物の甘さと、畳の匂いが部屋に戻ってくる。うららは、それを確かめるように、静かに息を吸った。
「……心配、かけましたか」
ぽつりと落ちた言葉に、うららは一瞬、答えに迷う。
「心配しないわけないでしょう」
「そうですか」
それだけで、話は終わった。言い訳も、説明もない。けれど、しげるはそのまま黙々と食べ続ける。その背中は、さっきの店で見た硬さより、少しだけ柔らいで見えた。
「遅くなって、ごめんなさい」
食べ終わり、箸をそろえてから言う。その順番が、この子らしいと思う。
「いいのよ。ちゃんと帰ってきたんだから」
そう言いながら、うららは自分でも驚くほど、穏やかな声をしていた。ちゃぶ台の上には空の皿。
今夜は“帰ってきた夜”だ。戸の向こうで、また風が鳴る。うららは、静かに思う。寂しさは消えない。でも、分け合える夜は、確かに増えている。その事実だけ確かめながら、うららは、空になった鍋にふたをかぶせた。
