心の距離
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今日の夕方の風は湿っている。街灯のオレンジ色がにじんで見えた。うららは、風呂敷を腕から提げ、早足で歩いていた。風呂敷がうららの歩みで揺れるたび、そわそわと落ち着かなくなる。
――いけない、急がないと。
今日は仕事が長引いてしまった。時計を何度も気にしては「遅くなる」と思いながら働いていたけれど、結局帰りはこの時間だ。夕食の準備が遅くなるのも気がかりだった。が、それ以上に昨日は待っていてくれた、しげるが門の前にいなかったのだ。
――しげるくんが家で待っている。
その事実が、歩調を自然と速めていく。”誰かが家で待っている”なんて、ここ数年のうららにはなかった感覚だった。ほんの少し胸が浮き立つ。家の鍵を開けたとき、しげるがどんな顔で「お帰り」と言うのだろう。そんな馬鹿みたいな想像までしてしまって、自分で自分に苦笑した。
近道をしようと、商店街から一本はずれた飲み屋街に足を踏み入れたときだった。薄暗い路地の奥、古びたスナックの看板の前で、見覚えのある背中が立ち止まった。白く柔らかな髪、細い肩、少し大きめのシャツと学生服のズボン。赤木しげる。うららは思わず手を上げかけた。
「しげ―」
声をかけようとした瞬間、彼は飲み屋の扉を押し開け、迷いなく中へ入ってしまった。
「ちょ、ちょっと……! なにやってるの、あの子……!」
十三歳が行く場所じゃない。胸がどきんと跳ね、嫌な汗が背中を伝った。うららは飲み屋街のざわめきのなか、一瞬だけ立ち尽くしたが――
「……入るしかない」
覚悟を決め、震える指でスナックの扉に触れた。押し開ければ、チリン、と乾いたベルの音が転がった。店内は薄暗く、タバコの煙が漂い、どこか湿り気を帯びている。
うららは鼻をつまみたくなるような匂いの中を、目を細めてきょろきょろと見回した。そして――ソファ席。しげるが座っていた。安心したのも束の間、うららは一瞬で目を疑った。しげるの目の前には、チェック柄のジャケットを着た中年の男。その男が、グラスに――ビールを注いでいる。しげるは凍りそうなほどの無表情であった。その瞳は鋭く、どこか挑むように光っていた。昨日、味噌汁をすすって「うまい」と言った少年と同じとは思えない雰囲気だ。
「ちょっとー!!」
うららは思わず叫んでいた。店内の空気が一瞬、固まる。
「何飲ませようとしてるんですかー!!」
男たちがぎょっとした顔でこちらを向く。客のひとりが「なんだよ」と眉をひそめた。だが、そんなものは視界にすら入らない。うららはズカズカとソファへ向かった。彼女の歩みが煙たい空気を切り裂く。頭の中は怒りと不安でぐらぐらしている。”母親”でも”保護者”でもない。たった二日と少ししか一緒にいない。
――だからって、しげるくんを放っておけるわけない!
彼の隣まで歩み寄った瞬間、風呂敷が揺れて中の小瓶が小さく音を立てた。うららの頬は熱く、息は上がり、心臓はまだどきどきと落ち着かない。スナックの薄暗い光の中で、しげるがゆっくりと顔を上げた。その表情が、険しいことに気づいた瞬間、うららの胸は、さらに強くしめつけられた。
「いやね、お母さん」
チェック柄のジャケットを着た中年男が、両手を胸のあたりまで上げて“まあまあ”といった仕草をする。
「母親じゃない」
しげるが鋭い声で切り捨てた。その瞬間、空気がピン、と張りつめる。隣に座るガタイの良い男が、体格にそぐわないほどおろおろと目を泳がせているのがわかった。
「……なにしているの、こんなところで」
うららはできるだけ落ち着いた声を出した。しかし、しげるはその瞳を見ようとしない。薄闇の中、白い髪だけが淡く光っている。
「野暮用でね。終わったらすぐ帰ります。南沢さんは先に帰ってよ」
その声は、朝や昼間に見せる柔らかな少年のものではなかった。優しく、うららさんと呼ぶしげるとは別人なのではないか、そう思うほど冷たく、どこか遠い。“この先には踏み込んじゃいけない”とでも言うように、見えない線が引かれている。
「そういうわけにはいかないわ」
しげるがゆっくりと横目でうららを見た。その目に浮かぶのは、計算されたかのような無表情。人を寄せつけない、固く閉じた扉のようだった。
「どうして?」
その問いにうららは試されていると感じた。まるで“あなたの答え次第で、ここから先は切り捨てるよ”と言われているようで、みぞおち辺りがひゅっと冷える。
「どうしてって……私は、は、母親じゃないけど……あなたを心配しているのよ」
心の内を絞り出すように言った瞬間、チェック柄の男が口を挟んだ。
「それならご安心を。私は刑事ですから」
「十三歳にビールを注ぐ刑事なら、なおのこと心配です」
うららがキッとにらみ返すと、刑事は肩をすくめる。
「大丈夫、ちゃんと帰しますから! な、赤木」
大柄な男がしげるの肩をポン、と軽くたたく。しげるは、ほんの少しだけ首を縦に振った。そのうなずきは、うららを安心させるためのものではない。“これは僕の問題だ。口を出さないでほしい”そんな拒絶が、静かに、しかし確かににじんでいた。うららは、その硬さに胸が締めつけられた。話しても届かない。言葉がしげるの前で、ぽろぽろと地面に落ちてしまうような感覚。
――ああ。この子、絶対に譲らない。
そう悟った。
「……わかったわ」
絞り出すような言葉だった。観念というよりも、痛みを飲み込むような静かな諦め。
「夕食、作って待ってるから。……ちゃんと帰ってくるのよ」
うららの声は、自分でも驚くほど小さく震えていた。
――いけない、急がないと。
今日は仕事が長引いてしまった。時計を何度も気にしては「遅くなる」と思いながら働いていたけれど、結局帰りはこの時間だ。夕食の準備が遅くなるのも気がかりだった。が、それ以上に昨日は待っていてくれた、しげるが門の前にいなかったのだ。
――しげるくんが家で待っている。
その事実が、歩調を自然と速めていく。”誰かが家で待っている”なんて、ここ数年のうららにはなかった感覚だった。ほんの少し胸が浮き立つ。家の鍵を開けたとき、しげるがどんな顔で「お帰り」と言うのだろう。そんな馬鹿みたいな想像までしてしまって、自分で自分に苦笑した。
近道をしようと、商店街から一本はずれた飲み屋街に足を踏み入れたときだった。薄暗い路地の奥、古びたスナックの看板の前で、見覚えのある背中が立ち止まった。白く柔らかな髪、細い肩、少し大きめのシャツと学生服のズボン。赤木しげる。うららは思わず手を上げかけた。
「しげ―」
声をかけようとした瞬間、彼は飲み屋の扉を押し開け、迷いなく中へ入ってしまった。
「ちょ、ちょっと……! なにやってるの、あの子……!」
十三歳が行く場所じゃない。胸がどきんと跳ね、嫌な汗が背中を伝った。うららは飲み屋街のざわめきのなか、一瞬だけ立ち尽くしたが――
「……入るしかない」
覚悟を決め、震える指でスナックの扉に触れた。押し開ければ、チリン、と乾いたベルの音が転がった。店内は薄暗く、タバコの煙が漂い、どこか湿り気を帯びている。
うららは鼻をつまみたくなるような匂いの中を、目を細めてきょろきょろと見回した。そして――ソファ席。しげるが座っていた。安心したのも束の間、うららは一瞬で目を疑った。しげるの目の前には、チェック柄のジャケットを着た中年の男。その男が、グラスに――ビールを注いでいる。しげるは凍りそうなほどの無表情であった。その瞳は鋭く、どこか挑むように光っていた。昨日、味噌汁をすすって「うまい」と言った少年と同じとは思えない雰囲気だ。
「ちょっとー!!」
うららは思わず叫んでいた。店内の空気が一瞬、固まる。
「何飲ませようとしてるんですかー!!」
男たちがぎょっとした顔でこちらを向く。客のひとりが「なんだよ」と眉をひそめた。だが、そんなものは視界にすら入らない。うららはズカズカとソファへ向かった。彼女の歩みが煙たい空気を切り裂く。頭の中は怒りと不安でぐらぐらしている。”母親”でも”保護者”でもない。たった二日と少ししか一緒にいない。
――だからって、しげるくんを放っておけるわけない!
彼の隣まで歩み寄った瞬間、風呂敷が揺れて中の小瓶が小さく音を立てた。うららの頬は熱く、息は上がり、心臓はまだどきどきと落ち着かない。スナックの薄暗い光の中で、しげるがゆっくりと顔を上げた。その表情が、険しいことに気づいた瞬間、うららの胸は、さらに強くしめつけられた。
「いやね、お母さん」
チェック柄のジャケットを着た中年男が、両手を胸のあたりまで上げて“まあまあ”といった仕草をする。
「母親じゃない」
しげるが鋭い声で切り捨てた。その瞬間、空気がピン、と張りつめる。隣に座るガタイの良い男が、体格にそぐわないほどおろおろと目を泳がせているのがわかった。
「……なにしているの、こんなところで」
うららはできるだけ落ち着いた声を出した。しかし、しげるはその瞳を見ようとしない。薄闇の中、白い髪だけが淡く光っている。
「野暮用でね。終わったらすぐ帰ります。南沢さんは先に帰ってよ」
その声は、朝や昼間に見せる柔らかな少年のものではなかった。優しく、うららさんと呼ぶしげるとは別人なのではないか、そう思うほど冷たく、どこか遠い。“この先には踏み込んじゃいけない”とでも言うように、見えない線が引かれている。
「そういうわけにはいかないわ」
しげるがゆっくりと横目でうららを見た。その目に浮かぶのは、計算されたかのような無表情。人を寄せつけない、固く閉じた扉のようだった。
「どうして?」
その問いにうららは試されていると感じた。まるで“あなたの答え次第で、ここから先は切り捨てるよ”と言われているようで、みぞおち辺りがひゅっと冷える。
「どうしてって……私は、は、母親じゃないけど……あなたを心配しているのよ」
心の内を絞り出すように言った瞬間、チェック柄の男が口を挟んだ。
「それならご安心を。私は刑事ですから」
「十三歳にビールを注ぐ刑事なら、なおのこと心配です」
うららがキッとにらみ返すと、刑事は肩をすくめる。
「大丈夫、ちゃんと帰しますから! な、赤木」
大柄な男がしげるの肩をポン、と軽くたたく。しげるは、ほんの少しだけ首を縦に振った。そのうなずきは、うららを安心させるためのものではない。“これは僕の問題だ。口を出さないでほしい”そんな拒絶が、静かに、しかし確かににじんでいた。うららは、その硬さに胸が締めつけられた。話しても届かない。言葉がしげるの前で、ぽろぽろと地面に落ちてしまうような感覚。
――ああ。この子、絶対に譲らない。
そう悟った。
「……わかったわ」
絞り出すような言葉だった。観念というよりも、痛みを飲み込むような静かな諦め。
「夕食、作って待ってるから。……ちゃんと帰ってくるのよ」
うららの声は、自分でも驚くほど小さく震えていた。
