入学式
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家の近くのコンビニに、ひときわ愛想のない人がいる。夜でも昼でも、レジに立っているのはだいたいその人だった。名札には「伊藤」とだけ、黒い文字で簡素に記されている。
肩まで伸びた髪は手入れを諦めたみたいにもっさりと垂れ、その奥からのぞく鼻梁はやけに高い。鋭い目つきでひとたび見据えられたら、きっと蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れなくなるだろう。そんな想像を、私は彼の手元を見つめながらしていた。
無機質な音を立てて、バーコードが読み取られる。長い指が、慣れた動きで飲み物を袋に滑らせる。その手だけは、目つきとは裏腹に驚くほど丁寧だった。
今日は高校の入学式だ。真新しい制服はまだ布の硬さを残していて、袖を通すたびにくすぐったい。鏡に映る自分は、昨日までよりほんの少しだけ大人びて見えた。そのことが、どうしようもなく嬉しくて、胸の奥が弾んでいる。
財布から小銭を取り出しながら、このあとの予定を思い返す。クラス分け、式典、初めてのホームルーム。期待と不安が、炭酸の泡みたいに胸の中で弾けていた。
そのときだった。
「あんた、佐波高校の人?」
不意に降ってきた声に、私ははっと顔を上げる。視線の先には、あの鋭い目。けれど今は、どこか探るような色を帯びている。
「あ、はい。……今日、入学式で」
「そっか」
それだけ。たったそれだけのやりとりだった。
差し出された飲み物を受け取り、軽く会釈をして店を出る。自動ドアが閉まる瞬間、ガラス越しに見えた彼の横顔は、いつもより少しだけ柔らかく見えた気がした。
――まさか、また顔を合わせることになるなんて、そのときの私は想像もしていなかった。
*
校舎の廊下は、新しい制服の群れで埋め尽くされていた。教室前の張り紙にできた人だかりの隙間から、私は背伸びをして名簿を探す。
自分の名前を見つけた瞬間、胸の奥がほっと緩む。さらにそのすぐ近くに、見慣れた名前を見つけて思わず笑みがこぼれた。
「見て。同じクラス」
「ああ」
気のない返事が隣から落ちる。あくびを噛み殺しながら立っているのは、幼なじみの赤木しげるだ。昔から、世界がどう変わろうと自分の歩幅を崩さない人だった。
彼がどのクラスにいようと、きっと同じように過ごすのだろう。それでも、知っている顔があるというだけで、心はずいぶん軽くなる。
*
退屈な式典をどうにかやり過ごし、初めてのホームルームのために教室へ向かう。
自分の席を見つけて腰を下ろすと、教室にはまだ誰のものでもない匂いが満ちていた。新しい机の木の匂い、ワックスの光沢、まだ折り目のない教科書。
落ち着かなくて、私は意味もなく机の端を指先でなぞる。つるりとした感触が、やけに現実味を帯びている。
がた、と隣の椅子が引かれる音がした。
朝は空いていたはずの席。何気なく視線を向けた私は、そこで時間ごと固まった。家の近くのコンビニで、いつもレジに立っている、あの不愛想な人。もっさりとした長髪も、鋭い目つきも、見間違えるはずがない。
一瞬、目が合う。
けれど彼はすぐに顔をそらした。まるで、最初からこちらなど視界に入っていなかったかのように。胸の奥が、どくん、と鳴る。
「あの……あなたも同じ高校だったんですね!」
気づけば、声に出していた。今度は私から。
彼はゆっくりとこちらを見た。けれどその瞳は、コンビニで見るそれとは違う。鋭さよりも、どこか居心地の悪さが滲んでいる。視線が重なったのはほんの一瞬。すぐに逸らされ、彼の指先が所在なさげに机の端をいじり始める。
「あ……うん」
か細い返事。
あの無愛想で近寄りがたい雰囲気は影も形もなく、むしろこちらが戸惑うほど頼りなげだった。同じ人物だと、頭ではわかっているのに、どこか信じきれない。
「誰? 知り合い?」
前の席から、しげるが身体だけをこちらに向ける。頬杖をついたまま、遠慮のない視線をまっすぐ彼に向けた。
「近くのコンビニでバイトしてる人」
私がそう答えると、しげるは「ふーん」と短く息を漏らし、値踏みするように彼を眺める。そして、何の前触れもなく言った。
「あんた、伊藤カイジだろ?」
びくり、と彼の肩が跳ねたのがわかった。
「なんで俺の名前……」
教室のざわめきとは別に、ここだけ空気がぴんと張りつめる。私は思わず息を呑んだ。しげるの口元が、ゆるやかに歪む。
「簡単な話だ。オレの後ろの席。名簿の次の名前が、あんただったからな」
数秒の沈黙。
「……なんだよ……。てっきりオレは、ダブってるのバレたかと……」
「ダブってるんだ」
「あ」
間の抜けた声が、春の匂いの残る教室に落ちる。
しげるは楽しそうに目を細めた。その様子を見て、私は思わず苦笑する。伊藤くんは、ますます肩をすくめて小さくなる。コンビニで見せるあの鋭さはどこへやら、今はただ、年相応の少年の顔をしていた。
私は、しげるのペースにあっけなく巻き込まれていく彼を少しだけ不憫に思う。けれど同時に、胸の奥が、かすかにあたたかく灯るのを感じていた。
不愛想なレジ越しの距離ではなく、隣の席という近さで、これから彼を知っていくのだと思うと新しい教室の匂いが、急に甘く感じられた。
肩まで伸びた髪は手入れを諦めたみたいにもっさりと垂れ、その奥からのぞく鼻梁はやけに高い。鋭い目つきでひとたび見据えられたら、きっと蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れなくなるだろう。そんな想像を、私は彼の手元を見つめながらしていた。
無機質な音を立てて、バーコードが読み取られる。長い指が、慣れた動きで飲み物を袋に滑らせる。その手だけは、目つきとは裏腹に驚くほど丁寧だった。
今日は高校の入学式だ。真新しい制服はまだ布の硬さを残していて、袖を通すたびにくすぐったい。鏡に映る自分は、昨日までよりほんの少しだけ大人びて見えた。そのことが、どうしようもなく嬉しくて、胸の奥が弾んでいる。
財布から小銭を取り出しながら、このあとの予定を思い返す。クラス分け、式典、初めてのホームルーム。期待と不安が、炭酸の泡みたいに胸の中で弾けていた。
そのときだった。
「あんた、佐波高校の人?」
不意に降ってきた声に、私ははっと顔を上げる。視線の先には、あの鋭い目。けれど今は、どこか探るような色を帯びている。
「あ、はい。……今日、入学式で」
「そっか」
それだけ。たったそれだけのやりとりだった。
差し出された飲み物を受け取り、軽く会釈をして店を出る。自動ドアが閉まる瞬間、ガラス越しに見えた彼の横顔は、いつもより少しだけ柔らかく見えた気がした。
――まさか、また顔を合わせることになるなんて、そのときの私は想像もしていなかった。
*
校舎の廊下は、新しい制服の群れで埋め尽くされていた。教室前の張り紙にできた人だかりの隙間から、私は背伸びをして名簿を探す。
自分の名前を見つけた瞬間、胸の奥がほっと緩む。さらにそのすぐ近くに、見慣れた名前を見つけて思わず笑みがこぼれた。
「見て。同じクラス」
「ああ」
気のない返事が隣から落ちる。あくびを噛み殺しながら立っているのは、幼なじみの赤木しげるだ。昔から、世界がどう変わろうと自分の歩幅を崩さない人だった。
彼がどのクラスにいようと、きっと同じように過ごすのだろう。それでも、知っている顔があるというだけで、心はずいぶん軽くなる。
*
退屈な式典をどうにかやり過ごし、初めてのホームルームのために教室へ向かう。
自分の席を見つけて腰を下ろすと、教室にはまだ誰のものでもない匂いが満ちていた。新しい机の木の匂い、ワックスの光沢、まだ折り目のない教科書。
落ち着かなくて、私は意味もなく机の端を指先でなぞる。つるりとした感触が、やけに現実味を帯びている。
がた、と隣の椅子が引かれる音がした。
朝は空いていたはずの席。何気なく視線を向けた私は、そこで時間ごと固まった。家の近くのコンビニで、いつもレジに立っている、あの不愛想な人。もっさりとした長髪も、鋭い目つきも、見間違えるはずがない。
一瞬、目が合う。
けれど彼はすぐに顔をそらした。まるで、最初からこちらなど視界に入っていなかったかのように。胸の奥が、どくん、と鳴る。
「あの……あなたも同じ高校だったんですね!」
気づけば、声に出していた。今度は私から。
彼はゆっくりとこちらを見た。けれどその瞳は、コンビニで見るそれとは違う。鋭さよりも、どこか居心地の悪さが滲んでいる。視線が重なったのはほんの一瞬。すぐに逸らされ、彼の指先が所在なさげに机の端をいじり始める。
「あ……うん」
か細い返事。
あの無愛想で近寄りがたい雰囲気は影も形もなく、むしろこちらが戸惑うほど頼りなげだった。同じ人物だと、頭ではわかっているのに、どこか信じきれない。
「誰? 知り合い?」
前の席から、しげるが身体だけをこちらに向ける。頬杖をついたまま、遠慮のない視線をまっすぐ彼に向けた。
「近くのコンビニでバイトしてる人」
私がそう答えると、しげるは「ふーん」と短く息を漏らし、値踏みするように彼を眺める。そして、何の前触れもなく言った。
「あんた、伊藤カイジだろ?」
びくり、と彼の肩が跳ねたのがわかった。
「なんで俺の名前……」
教室のざわめきとは別に、ここだけ空気がぴんと張りつめる。私は思わず息を呑んだ。しげるの口元が、ゆるやかに歪む。
「簡単な話だ。オレの後ろの席。名簿の次の名前が、あんただったからな」
数秒の沈黙。
「……なんだよ……。てっきりオレは、ダブってるのバレたかと……」
「ダブってるんだ」
「あ」
間の抜けた声が、春の匂いの残る教室に落ちる。
しげるは楽しそうに目を細めた。その様子を見て、私は思わず苦笑する。伊藤くんは、ますます肩をすくめて小さくなる。コンビニで見せるあの鋭さはどこへやら、今はただ、年相応の少年の顔をしていた。
私は、しげるのペースにあっけなく巻き込まれていく彼を少しだけ不憫に思う。けれど同時に、胸の奥が、かすかにあたたかく灯るのを感じていた。
不愛想なレジ越しの距離ではなく、隣の席という近さで、これから彼を知っていくのだと思うと新しい教室の匂いが、急に甘く感じられた。
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