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優しい虎と瑠璃色の林檎

いつも通り、有碍書の浄化が終わり、文豪たちが戻ってくる。

「みんな、お疲れ様。あとは自由にしてていいのよ。」

「じゃあ、司書さんの取材をしていいのかな?」

「司書に迷惑をかけるなよ。ほら行くぞ。」

帰ってくるなり擦り寄ってくる島崎藤村を、徳田秋声はため息つきながら手を引っ張って連れて行った。

彼らを横目に、私はある人の影を探している。

「司書さん、中島さんなら補修室に行ったよ。ごんが見たって。」

一番最後に有碍書から出てきた新美南吉が、鋭く私が探していた人を言い当てた。

「南吉さん、ありがとう。行ってくるね。」

「いってらっしゃい!」



補修室。

洋墨の匂いが優しく部屋中を漂う。三つのベッドのうちの一つに、暗い水色の髪をした青年が胡座をかいて座っている。

「敦さん!やっと会えた!敦さんの裏人格!」

青年──敦さんは普段とは違って、眼鏡を掛けず、髪が掻き上げられ、目付きが鋭くなっている。彼は今耗弱状態にあり、戦っている姿のまま戻らない。

「お前は…あのばか女だな。何の用だ。」

「もう、ばか女とは失礼ね。普段の敦さんとは大違いよ!そうね…きみは敦『さん』じゃなくて敦『くん』ね!」

だんだんと敦くんが座ってるベッドに歩みを進め、彼の隣に座った。

「おい、ばか、近寄るな!」

敦くんが後ずさり、私は彼に向かって前のめりになる。

「だって、こんな敦さん、じゃなくて敦くん、見たことないもの!ねぇ、その髪型どうやったの?目が良く見えてるの?」

だんだん近づき、彼を壁際まで押し込む。

「鬱陶しい!」

すると咄嗟に彼は私の仮面に手を伸ばし、乱暴な手付きで剥ぎ取った。きゃ、と、思わず悲鳴をあげてしまった。

仮面を剥ぎ取った勢いで、彼は私をベッドに押し倒し、私は彼に組み敷かれた。

仮面が剥ぎ取られ、彼の顔が至近距離。頬が熱くなって思わず顔を手で被ってしまった。

「顔を隠しやがって、人に見せられないような醜女か?」

彼が私の手を無理やりどかそうと、力強く、乱暴に私の両手を掴んで頭の上に片手で固定した。

隠す手段がなくなって、もう涙ぐんで目を瞑るしか為す術もない。

「…へぇ、案外可愛いじゃないか…」

もう何にも反応できない。恥ずかしさで頭が一杯だ。今自分の顔はきっと、林檎のように真っ赤にしてるに違いない。

「仮面を…返して…」

「そんなに顔見られたくないのか?思い通りにはさせない。いつも奴をいじめていた罰だ。」

「悪気があってやってるわけじゃないのぉ…ごめんなさぁい…許してぇ…」

「知ってる。だがそれを許すほどオレは奴みたいに甘くない。」

にやけた顔で敦くんは鋭い眼光で私を見つめる。その眼光にやられて私は思わず目を瞑った。

しばらく考える素振りを見せたあと、敦くんはまた口を開いた。

「オレの前だけは顔を見せろ。これぐらいしてもらわないとオレの気が済まない。」

「やだよぉ…」

「お前に拒否権はないぞ、司書ちゃん。」

司書ちゃん。

声色こそ違うが敦さんの声で司書ちゃんって呼ばれるのは、ものすごく恥ずかしい。穴があったら入りたいくらいだ。

「ダメ!顔見ちゃダメ!司書ちゃんって呼ぶのもダメ!」

「お前の意思は関係ない。これはバツだからな。」

もう諦めるしかない。諦めなければ、会話が延々と繰り返していくだけだ。もう、諦めよう。

「わかったのよ…だから離して、お願い…。」

満足気な表情を見せて、彼は悪態をつきながらも離してくれた。

上半身を起こして一息つく。顔を遮る何かがなくなって、すごく不安な気持ちになる。何より他の誰かにも見られたら恥ずかしい。この顔、まだ人に見られるのに慣れてない。

ベッドに座り直す敦くんはを見て、私は不思議に思った。耗弱した敦さんは敦くんに変わってしまうのなら、補修が終わったら敦さんが戻って来るはずでは?ベッドから立って見てみると、タイマーに刻まれた数字は全部0になってる。

「ねえ、敦さんはいつ帰ってくるの…かしら?」

「補修が終わればオレの役目も終わるはずだ。」

「もう、終わってるのよ…?」

「は?」

敦くんはベッドから降りて、私の後に立って少し屈んでタイマーを確認する。彼の胸板がすぐ後に迫って来るのに、思わずドキドキしてしまった。

敦くんは困った人だけど、決して嫌ってはいない。彼もまた、中島敦だから。

「終わってるな。おかしい。奴が戻ってくるはずだが。」

「そ、そうね…」

敦さんが戻ってこないということは、今日は助手を他に任命しないといけない。でも敦さんほど私の仕事のペースに合う文豪はいない。そもそもほかの文豪だと私が緊張してしまう。

「はぁ…仕方ない。バカの相手をするのはオレの仕事じゃないのだが、しばらくは我慢しよう。」

「ってことは!助手になってくれるのね?」

思いがけない言葉に驚きながらも、素直に喜んでしまう。てっきり敦くんは仕事を放っておくつもりだと思ってた。

「ああ、そうなるな。めんどくさいが…」

「わーい!敦くん優しいのね!」

思わず敦くんの両手を掴み、握りしめた。そこで気づいた。自分の手に真っ赤な跡が残されてる。きっとさっき束縛された時に敦くんが残したのだろう。まぁいいか。

「はしゃぐな!離せ!」

「ごめん…」

そっと敦くんの手を離して、あることを思い出した。

「敦くんその…他の文豪たちの前で仮面しても…いいかしら?」

「別にいい。他の奴に見せたい訳でもないからな。」

ちょっと不機嫌な表情を見せると、彼は頭を掻きながらそっけなく答えた。

やった、と小さく呟きながら、愛しい仮面を顔に付け直した。

「それじゃ行こう、敦くん。敦さんの記憶があるってことは、彼の仕事もできるのよね?」

「お面つけた途端すぐ強気になったな…ポンコツのくせに生意気だ。もちろん出来る。」

「一言余計よ。じゃあ、まずは本の整理から始めようかしら。」

こうして私達は補修室をあとにし、図書館に戻った。



「ひぃ…裏の方の中島だ…」

本棚の整理をしていると、何故か通りかかった中原中也が悲鳴をあげてそそくさと逃げていった。

「中也さんに何をしたのかしら?」

「この前奴が眼鏡を奪われてな。オレが一発脅かしてやっただけだ。」

「もう、乱暴なことするね。喧嘩しちゃいけないよ。」

「お前は母か?」

「言ってしまえば、私はみんなの母よ。みんな私の力で転生してるもの!」

「こんな小さくてばかな女が母なんて、笑わせるな。」

「もう!ばかはそっちよ!」

本の整理をしながら、敦くんと談笑する。

苦笑いばかりで控えめの敦さんと違って、ズバズバとものを言う敦くんとの会話は、また楽しい。

まるで普通の女の子になれたような気がする。

「ふふっ…」

「何笑っている。気持ち悪い。」

「敦くんのこと、最初は怖いひとかなって思ってたけど、案外優しくて、面白いのね。」

「意味がわからん。」

敦くんが不機嫌そうにそっぽ向いた。照れてるのかしらね。意外といじめてみると面白いかも。

でも後で自分の身に返ってくるのが怖いなのよね。



敦くんのおかげで、一日のお仕事がいつもより早く終わった。人のことは言えないけど、ちょっとドジな敦さんと違って、敦くんはテキパキと仕事をこなしてくれる。

しかし私がドジを踏んだ時には敦さんのように慰めてくれず、ただじっとバカを見るように見つめてくれるだけなのが、玉に瑕。

そんなこと考えながら、今日の報告書を書き終えた。ソファで寛いでる敦くんに目をやると、すやすやと眠ってることに気づいた。

そっとソファに近づいて、彼の寝顔を覗く。この目、この鼻、この口、彼のすべてのパーツは敦さんそのもの。当たり前のことだけど、やはりふたつの人格がひとつの体を共有してるのは、錬金術に浸ってる身にとっても珍しいことだ。

「司書…さん…?」

マジマジと見ていたら、敦くんの目が薄く開いた。

「あら、起きたのね、敦くん。」

「くん…?」

状況を飲み込めてない様子と、柔らかい口調から察するに、目の前にいるのは敦さんだ。

「あ、敦さん、おはよう。」

「おはようございます…もう外真っ暗ですけどね。」

敦さんが苦く微笑む。やはりいつもの敦さんに戻ってるようだ。

ポケットからメガネケースを取り出し、中にある眼鏡を掛けた。敦くん、眼鏡はちゃんと閉まってるのねと、ちょっと感心してしまった。

「彼が…お世話になったようですね…。」

「いいえ、敦さんよりは役に立ってるのよ。」

「え、司書さんひどいです。」

「冗談よ、冗談。」

やはり敦さんは敦さんでからかうのが楽しい。

「あの、司書さん、その手の跡はなんですか?」

ふと敦さんの視線が私の手首に落とした。

「これね、敦くんがやったのよ。もう乱暴なんだから。」

手首を擦りながら大丈夫と言ったら、敦さんは私の手を優しく掴んだ。

「こんなに赤くなって…本当に大丈夫ですか!?」

「大丈夫よ、もう痛まないし、大袈裟ね…」

敦さんの過剰反応に流石にちょっと困った。

「こ、怖いです…。彼が…あなたを傷つけてしまうのが、怖いです。」

急にいつもの敦さんがどこか行ったみたいで、険しい表情を見せた。

次の瞬間、私は彼の腕に包まれた。

「私は彼のことが全くわかりません。だから…とても怖いです…。」

敦さんの苦しみがひしひしと伝わってくる。

今は肌が触れ合ってるのに、恥ずかしい気持ちにならない。

このまま、彼を抱き返した。

「大丈夫よ…。彼は優しいの。敦さんと同じ。だって彼もきみも同じ、中島敦だから。」

彼は体重を私に預けた。私はそのまま彼を受け止める。

私は知ってる。彼は静かに泣いている。もう一人の彼と分かり合えず、きっとずっと悩み続けていたのだろう。

これから私は、中島敦おもてとうらを繋ぐ橋になると誓う。

そう思いながら、敦さんを抱きしめた。



あの夜のことを思い返してみると、なんだか複雑な気持ちになってくる。

冷静になってみると、急に抱きしめられて、体重を預かって…。

頬が暑くなってしまう。

「司書くん、どうしたんだい?」

今日の助手の永井荷風——荷風先生は、穏やかな声で尋ねてきた。

「いいえ、ちょっと考え事。この前敦さんとちょっとあってね。」

敦さんのことが頭の中でぐるぐる回る。敦さんのことしか頭に入らない。

「——恋の煩い…だね。」

荷風先生は笑う。

<続く>
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