1章
ガラガラ、と保健室の引き戸が乱暴に開け放たれる。
「失礼しまーす。……よし、先生は不在っと。会長、とりあえず座って!」
相川に促されるまま、俺は力なくベッドの端へ腰を下ろした。
途端に、張り詰めていた緊張の糸が切れたように、どっと重い疲労感が押し寄せる。指先ひとつ動かすのすら億劫だった。
「予備のシャツ発見。サイズ適当だけど、今の会長ならブカブカでも何でも着ないと風邪引いちゃう」
「竜胆、さっさとそれへ着替えろ」
桐生が相川から受け取ったシャツを俺の膝の上に無造作に放り投げた。
そうだ。着替えないといけない。
だが、俺はそれをほうけたように見るだけで、どうしても手が動かない。
ここまで来たら認めざるを得ない。
さすがに疲れた。もうこのままベッドに倒れ込んで休みたい。
濡れたボタンに指先をかけることすら、今の麻痺しきった脳と体には気の遠くなるような大仕事に思えた。
「おい。何ぼーっとしてる。自分で脱げないくらい弱ってんのか?」
「うる、せえ……。すぐ、着替える……」
かすれた声で言い返したが、頭痛は激しさを増すばかりだ。視界の端がぐにゃりと歪み、桐生の顔が二重にも三重にもなって見える。
「……おい相川、ちょっと後ろ向いてろ」
「あ、はーい」
桐生は迷いのない手つきで俺の前に膝をつくと、俺の胸元へ手を伸ばしてきた。
「な、に――」
「大人しくしてろ。のろのろしてたら本当に風邪引くぞ」
拒絶する気力も奪われた俺の目の前で、桐生が服のボタンを器用に、だがどこか焦ったような手つきで外していく。
濡れて肌に張り付いた白シャツが左右に開かれ冷気に晒された途端、身体が小さく震えた。
「ほら、震えてる」
至近距離で落とされる桐生の低音は、どこかひどく痛ましいものを見るような響きを帯びていた。
目の前の手が、俺の濡れたシャツの袖を乱暴に、けれど傷つけないような絶妙な加減で引き抜いていく。
俺はもはや普段のような憎まれ口は出てこなくて、ただゆっくり瞬きしながら、やけに面倒見の良い男を眺めていた。
「あとは自分で着ろ」
桐生がパッと手を離し、背を向けた。
数秒、その背中をぼんやりと見つめる。
そうしていると、何も物音がしないことに気づいた桐生が振り返って眉を下げた。
「着替えるんだろ」
子供に言い聞かせるような声色。
困ったような顔をした桐生に、目を瞬かせようやく意識が浮上する。
……ああ、思考停止していたのか。
その後、緩慢な動作で冷え切った身体にその布切れを纏っていく。
全身の衣服が乾いたものに変わった瞬間、張り詰めていた何かが、完全にぷつりと途切れた。
座っていることすらできず、そのままベッドへと倒れ込む。
ボタンは、もういいだろ。
「ふぅ……」
小さく、熱い吐息が唇から漏れた。
眠い。
今なら、眠れる。
柔らかい枕に頭が沈んだ瞬間、頭痛の波がすうっと遠のいていくような感覚がした。
「おい、竜胆。着替え終わったなら――」
桐生が再び振り返り、何かを言いかける気配がした。
けれど、その声はもう、俺の耳には届かない。
ここ数日、ずっと脳を支配していた焦燥も、生徒会役員への苛立ちも、クソ風紀への対抗心も、すべてが深い泥のような眠りの中に溶けていく。
俺は抗うすべもなく、深い意識の底へと沈んでいった。
(桐生side)
「おい。何ぼーっとしてる。自分で脱げないくらい弱ってんのか?」
そう声をかけても、竜胆からの返言は掠れた消え入りそうなものだった。
膝の上の予備のシャツを呆然と見つめたまま、濡れたボタンに指先をかけることすら億劫そうにしている。
完全にキャパ超えて思考が停止してるな、こいつ。
「……おい相川、ちょっと後ろ向いてろ」
「あ、はーい」
素直にそばを離れた相川を確認し、俺はベッドの端に腰掛ける竜胆の前に、迷わず膝をついた。
多分見られたくないだろうから。
「な、に――」
「大人しくしてろ。のろのろしてたら風邪引くぞ」
抗議の声を無視して、俺は目の前にある濡れてしまっている胸元へ手を伸ばした。
普段の傲慢で冷酷な生徒会長の面影はどこにもない。触れば簡単に壊れてしまいそうなほど、今のこいつは脆かった。
俺が世話を焼いている間、竜胆は抵抗するでもなく、ただぼんやりと俺の顔を見つめていた。その切れ上がった瞳は、いつもの鋭い光を失って、熱に浮かされたようにどこか潤んでいる。
……正直居心地が悪い。
「あとは自分で着ろ」
俺は手を離し、逃げるように背を向けた。
だが、背後からは衣服の擦れる音が一切聞こえてこない。
数秒の不自然な沈黙に眉をひそめ、俺は仕方なく振り返った。案の定、竜胆は裸の肩にただシャツを羽織っただけの姿で、ぽかんと座り込んでいた。
「着替えるんだろ」
子供に言い聞かせるような声で促す俺を数秒見つめ、ようやく意識を浮上させたようだった。
再び後ろを向きしばらく待っていると布切れの音が止む。
「おい、竜胆。着替え終わったなら――」
そう言いかけた俺の言葉は、小さな寝息にかき消された。
「……すー……、…………」
――って、結局ボタンも留めてねえじゃねえか。
振り返った俺は、シャツのフロントを完全に開いたままベッドの上で丸くなるようにして一瞬で深い眠りに落ちた竜胆を見て大きく息をついた。
いつもなら、こちらを刺し殺さんばかりの鋭い光を宿している瞳が今は完全に閉じられている。
濡れて少し湿った赤髪が白い枕に散らばり、ボタンのかけられていないシャツからは肌が大きくはだけていた。
「うわ……。一瞬で寝ちゃったね、会長」
相川が足音を殺してベッドに近づき、上からその寝顔を覗き込む。
「……相当、限界だったんだな。本当にぶっ倒れるまでやりやがった」
予想した通りだった。
本当に風邪を引かれては困る。
仕方ねえな、と心の中で小さく舌打ちをしながら、俺は再びベッドの横に屈み込んだ。穏やかに胸を上下させている体に手を伸ばし、今度は新しいシャツのボタンを、下から順に留めていってやる。
「ごめん、不謹慎かもだけど、今の隼人ちょっといけないことしてるみたい」
「うるせえな、静かにしてろ」
眠っている竜胆の顔は、別人みたいだった。
普段のあの傲慢で人を見下したような態度はすべて抜け落ちて、ただただ、無防備で、純粋だった。
「今生徒会に連絡したよ。ボイコットなんて忘れて、今頃みんなで探し回ってるだろうし」
相川はスマホをポケットにしまうと、腕を組んで、まじまじとベッドの上の竜胆を見つめた。
「それにしてもさ……会長の顔、改めて見るとすっげー綺麗だね。彫刻じゃん。これはネコの方にも入ってんの納得だわ」
「……」
ボタンを留める俺の指先が、一瞬だけ止まる。
俺の沈黙をどう受け取ったのか、相川はニヤニヤとした意地の悪い笑みを深めた。
「え、何その反応。気になるんだけど」
「別に」
「んんー?? 怪しい。隼人も実はそっちの目で見てたりしてー?」
「くだらないことを言うな」
タイミング良く、廊下から複数の走ってくる音が聞こえたと同時に、ドアが勢いよく開かれた。
随分と早い到着だ。
「あはは、みんな会長のこと大好きじゃん」