1章
翌日の昼。
学園の広大な食堂は、腹を空かせた男子生徒たちの喧騒と熱気で満ちていた。
頭が痛い。
こめかみの奥で、心臓の鼓動に合わせるように鈍い痛みが波打っている。
結局、昨夜も一睡もできなかった。机に向かったまま、気づけば朝を迎えていたのだ。限界なのは自覚している。
だが、ここでペンを置けば、それこそあいつらの思う壺だ。
性根がこれなのだから、俺が俺の意思で降参するなんて選択肢はない。
俺は思考を振り切るように息を吐いた。
鉛のように重たい体に白米は入らない。
今日も麺類でいいか。
食事なんて動けなくなるのを防ぐための燃料補給だ。さっさと胃に流し込んで、生徒会室に戻る。それだけを考えていた。
その時だった。
「うわああああっ!? 危ない、どいてくださいぃぃ!」
突如、食堂の喧騒を切り裂くような、情けない悲鳴が響いた。
声のした方へ目を向けるより早く、視界の端から「何か」が猛スピードで突っ込んでくる。
瓶底眼鏡に、妙にボリュームのあるアフロヘア。
なんだこいつは。
……ああ、転入生か。
資料で顔だけは見た。
瓶底眼鏡に、アフロ。
一度見れば忘れようがない。
名前は知らん。
転入生は、なぜか派手に足を絡ませ、漫画のように盛大に前のめりに転倒しかけていた。その両手には、なみなみと冷水が注がれた巨大なピッチャーが握られている。
「あ」
避ける隙などなかった。
転入生の身体が俺の目の前で宙を舞い、彼が手放したピッチャーが、放物線を描いて俺の胸元へと直撃する。
激しい水音と共に、冷たい衝撃が全身を襲った。
「……っ!?」
心臓が跳ね上がる。あまりの冷たさに、一瞬息が止まった。
ピッチャーが床に虚しい音を立てて転がる。
俺の白い制服のシャツは、胸元から腹部にかけて、容赦なく大量の水を吸い込んで、ぐっしょりと肌に張り付いていた。
「ひ、ひえええええっ!? ご、ごめんなさい! わざとじゃないんです、床が滑って、あの、その……っ!」
床にスライディングする形で突っ伏した転入生が、涙目で眼鏡を直しながら、ちぎれんばかりに頭を下げている。
周囲の喧騒が、嘘のようにピタリと止んだ。
誰もが息を呑み、硬直している。あの冷酷無比な生徒会長が、見るも無惨に水をぶちまけられたのだ。
食堂全体に、張り詰めたような緊張感が走る。
水滴が髪の毛先から顎を伝って床へボタボタと落ちていく。
濡れた白シャツは完全に透け、下に隠された肌の輪郭や、細い身体のラインが生々しく露出していた。
周囲の視線が、どこか戸惑ったように、あるいは妙に熱を帯びて俺の身体に注がれるのが分かった。
不快だ。
冷たさよりも、この状況よりも、他人の視線が、何よりも不快でたまらない。
「か、会長!」
真っ先に駆け寄ってきたのは副会長の水無瀬だった。
いつも柔和な顔が珍しく顔青くなっている。
顔を上げると、生徒会全員が俺の周りに集まっていた。
「りんりん大丈夫?!」
なぜか庶務の朝比奈は今にも泣きそうだ。
「この床にカレーをこぼした自覚のある生徒は申告してくるように」
書記の九重はこんな時でも冷静な声をしている。
「カイチョー、冷たいよね。風邪ひいちゃうよ」
会計の早乙女が跪いてハンカチを差し出してくる。
……理解できない。
俺を放っておくためのボイコットだろうが。
俺のことが気に入らないくせに気遣ってくる役員たちが何を考えてるのか分からなくて、ただでさえ回っていない頭がくらくらしてくる。
「触るな」
低く、地を這うような声で拒絶した。
ピクリ、と全員の動きが止まる。
俺は涙目で謝り倒している転入生を一瞥すらせず、差し伸べられた早乙女の手を無視して自力で立ち上がった。
寝不足の頭痛が最悪の形でスパークし、視界がぐわりと明滅する。
「……どけ」
それだけを言い捨てると、俺は水浸しの身体のまま、踵を返して食堂を後にした。
背後から「会長!」と引き留める声が聞こえたが、振り返る気力すら残っていない。
誰もいない場所へ。
濡れて冷え切った身体を引きずりながら、俺はただ、逃げるように廊下を歩いていく。
制服が濡れたことなど、風邪を引くことも、どうでもいい。
こんな無様な姿を、大勢の前に晒した。
それだけが、耐え難かった。