2章
午後の授業が終わり、放課後の廊下を一人で歩いていると、前方から騒がしくも聞き覚えのある笑い声が耳に入ってきた。
声のする方へと視線を向けると、そこには数人の男子生徒たちが固まって歩いているのが見えた。いずれもジャージ姿にエナメルバッグを肩にかけた、サッカー部の連中だ。
「おい、いたいた」
「噂の“会長が頷いた男”じゃん」
「今日もやけに機嫌がいいなー?」
部員たちに小突かれながら、輪の中心で苦笑いを浮かべているのは、黒瀬だった。
「だから違ぇって! お前ら擦りすぎだろ!」
困ったように眉を下げながらも、どこか楽しげに否定している。その瞬間、黒瀬がふと視線を泳がせ、こちらを歩いてくる俺の存在に気がついた。
「……あ」
黒瀬は一瞬だけ丸く目を見開き、それからどこか照れくさそうに顔を綻ばせた。
「竜胆」
周囲の部員たちが息を呑むのも構わず、中等部の頃よりもいくらか親しげな響きで、俺の名を呼ぶ。
「ん」
俺が歩みを止めず、短く声を返す。すると。
「ほら見ろ!」
「またその顔かよ~」
「おい黒瀬、お前会長見つけると露骨に顔が違うじゃねぇか!」
「公衆の面前でデレデレすんなよ!」
「してねぇって!!」
黒瀬は顔を引き攣らせながら慌てて猛抗議するが、周囲の部員たちは逃がさないとばかりに囃し立てる。
「そんな顔してねぇよ!」
「いや、してるね」
「この前からお前、ずっと機嫌いいもんなぁ」
「だから違――」
あまりにも大騒ぎする彼らの様子に、俺はふと足を止め、少しだけ首を傾げた。
「……そうなのか?」
俺の一言で、黒瀬の動きが完全にピタリと止まる。
「え」
「俺と話したからか」
数秒の間、廊下に妙な沈黙が流れた。
周囲のサッカー部員たちの視線が一斉に黒瀬へと集中する。
針のむしろに座らされたような状態の黒瀬は、しばらく耳まで真っ赤にして口をごもごもと動かしていたが、やがて観念したようにがしがしと頭を掻いた。
そして、隠しきれない照れ笑いを浮かべて白状した。
「……まぁ」
少しだけ視線を落としながら、小さな声で言葉を紡ぐ。
「そりゃ、嬉しいよ。昔の竜胆ならさ、廊下ですれ違っても俺に話しかけたりしなかったし。ゴール決めた時のあれも賭けだったし」
その率直で真っ直ぐな言葉を聞いた瞬間、周囲の部員たちが一斉に大歓声を上げた。
「ほら認めた!!」
「やっぱりデレデレしてんじゃねぇか!」
「お前らうるせぇよ!!」
黒瀬が顔をゆでダコのように真っ赤にして叫ぶ。
俺はそんな男子高校生特有の騒がしいやり取りを、ただ静かに眺めていた。
嬉しい……そういうものなのか。
ほんの少し、あの日グラウンドで頷いただけだ。昨日今日で、二言三言、短い会話を交わしただけだ。
それだけで、ここまで素直に喜ぶ人間もいるらしい。
他人に期待もしない俺のすぐ近くで、こんなにも屈託なく笑う男がいる。
そこには奇妙な新鮮さがあった。
「ごめん、引き止めたわ。またな、竜胆」
黒瀬はこれ以上の追求を避けるように、照れ隠しの片手を上げた。
「ああ」
俺が短く返すと、すれ違いざま、また背後で部員たちの野太い歓声が上がる。
「また普通に話した!」
「おい黒瀬、調子乗るなよ!」
「よし、黒瀬だけ今日の練習メニューダッシュ10本追加な」
「なんでだよ!!」
冷やかしてくる部員たちの宣告に絶叫する黒瀬の悲痛な声を背中で聞きながら、その場を後にした。
サッカー部の笑い声が廊下の向こうへ遠ざかっていく。
そのまま階段を下り、体育祭の備品を確認するために資材置き場の前を通る。
「お、会長」
立てかけられたテント用のパイプの影から、体育委員長の遊馬がひょっこりと顔を出して片手を上げた。
そしてそのすぐ隣には、もう一人、瓶底メガネにアフロ姿の転入生が立っていた。
「転入生、か」
「今日から新しく体育委員に入ってもらうことになった、日向だ」
「……何?」
俺が怪訝そうに眉を顰めると、隣にいた日向が慌てて持っていた資料を脇に抱え、勢いよく頭を下げた。
「よ、よろしくお願いします!」
俺に水やらケーキやらをぶちまけてきた苦い思い出があるからだろうか。今は少し緊張した面持ちで直立不動になっている。
俺は遊馬へ冷淡な視線を向けた。
「どういうことだ。説明しろ」
「いや、俺が勧誘したんだよ」
「勧誘?」
「うん」
遊馬は悪びれる様子もなく、むしろ誇らしげに白い歯を見せて笑う。
「今年の体育祭は競技が増えるだろ? 正直、人手が全然足りなくて困ってたんだ。で、昨日たまたまこいつが荷運びを手伝ってくれたんだけどさ、思ったより力持ちで根性あるわけ。『お前面白いな、うちに入るか?』って聞いたらさ」
「入ります、と答えました!」
遊馬の言葉を繋ぐように、日向が分厚いレンズを貫通するキラキラした眼差しで割って入った。
「体育祭も近いし……その、僕のやらかしで色々とご迷惑をかけてしまったので、少しでも学園の役に立てたらと思って」
水をぶっかけたお詫びにケーキを持ってくるようなやつだ。埋め合わせをしたいという気持ちは本心なのだろう。
遊馬はそんな日向の生真面目な態度が気に入っているらしく、ぽんとその肩を叩いて笑う。
「ってことで、一応生徒会長にも報告。仕事への態度は俺が保証するからさ」
誰も寄せ付けないはずだった俺の周りで、どいつもこいつも勝手に繋がり、勝手に新しい輪を作っていく。
随分と騒がしくなったもんだ。
「好きにしろ。元々委員会の人事は俺じゃない……まあ、精々よく働け」
「はい! がんばります!」
俺はふんと鼻で笑うと、生徒会長としての言葉を投げかける。
それに日向が再び嬉しそうに頭を下げた。
「しゃあ! 日向、次はテント資材運ぶぞ!」
「はい!」
体育祭まで残された時間は少ない。
グラウンドにはテントや支柱、コーナーポール、ロープなど、大量の備品が山積みになっていた。
体育委員たちは慌ただしく持ち場へ散っていく。
不思議とその喧騒は耳障りではなかった。