2章



 
 
昼休みが終わり、午後の授業も滞りなくすべて終了した。
終礼のチャイムが鳴り響くと同時に、俺は教科書を鞄に納めて席を立つ。そのまま生徒会室へ向かうはずだった。
 

「会長!」

 
廊下に出たところで、息を切らした体育委員の男子生徒がこちらに駆け寄ってきた。


「少しお時間いいですか? 体育祭のグラウンド設営について、現場で会長に確認していただきたいことがありまして」
「分かった。案内しろ」
 


体育祭まで、あと二週間。
今年は新競技が追加される関係で、校庭のトラック配置やテントの設置場所も例年とは勝手が違う。書類上では承認したものの、最終確認は生徒会長としての必須業務だった。
 
 
 
初夏の風が吹き抜けるグラウンドでは、体育委員たちが白いラインを引きながら、あちこちでメジャーを手に話し合っている。


「障害物競走のネットとハードルは、この位置で」
「借り人競走は走者が入り乱れるから、直線を長めに取った方が安全ですね」
「仮装競走は……やっぱり、観客席側を走らせた方が盛り上がるかなと」
「……観客席側、だと」


俺の低い声に、説明していた委員が少しだけ身を縮めながらも、熱心に頷く。


「はい。本部席や一般生徒の観客席から一番見えやすいルートなので、演出効果としては最適なんです」


……要するに、一番目立つということか。
当日の抽選で万が一にも悪趣味な衣装を引き当ててしまえば、全校生徒の前で晒し者になるのは目に見えている。
だが、観客の動線や見やすさを重視する競技レイアウトとしては、極めて理にかなっているのも事実だった。
それに、そもそも俺が出るとは決まった訳ではないしな。


「問題ない。その配置で進めろ」
 

そう短く答えた、その時だった。
 

「おい、危ねぇ! ……すみませーん!」

 
グラウンドの奥、サッカー部の練習エリアの方から、警告を帯びた声が飛んできた。
直後、芝生の上をコロコロと不規則な回転で転がってきたサッカーボールが、俺の足元へと滑り込んでくる。俺は視線を落とすと、革靴のつま先でピタリとそれをトラップして止めた。
 

「悪い! 大丈夫だったか?」

 
慌てた様子でこちらへ駆けてきたのは、一人の男子生徒だった。
短く刈り揃えられた黒髪に、健康的に日に焼けた肌。額には汗が光り、いかにも運動部らしい快活で爽やかな雰囲気を全身から放っている。
俺の目の前まで来ると、男はボールを拾い上げようとして、ふと動きを止めた。


「あ……」


きまずそうに、けれど懐かしむように小さく笑う。


「……久しぶり。でもないか?」
 
 
黒瀬星那。
中等部の頃、寮で同室だった男だ。

いつも騒がしい体育会系でありながら、不思議と空気が読める奴だった。冷めきっていた当時の俺に対しても、必要以上に干渉してくることがなかった。
だからこそ、俺もこいつの存在を嫌いではなかった。
 

「……部活中か」


俺がそう言葉を返すと、黒瀬は弾かれたように一瞬だけ目を丸くした。


「お、おう。まぁな」


そして少し照れくさそうに、手で首を触った。

昔の俺なら、向けられた言葉に小さく頷くだけで、自分から問いかけるような真似は絶対にしなかった。重苦しい沈黙が部屋を支配していても、それが俺たちの普通だったのだ。
だからこそ、今の俺の何気ない問いかけに、黒瀬は少し戸惑っているようだった。


「体育祭の準備か? 会長も大変だな」
「ああ。今年から少し仕様が変わるからな」
「そっか」


黒瀬がボールを脇に抱え直したその時、遠くからサッカー部員の大きな声が飛んだ。


「黒瀬ー! 何突っ立ってんだ! 早く戻れ!」
「悪い、今行く!」


仲間に向かって怒鳴り返した黒瀬は、もう一度こちらに向き直り、歯並びの良い口元を見せて笑う。


「じゃあな」
「ああ」


黒瀬はどこか嬉しそうにグラウンドへと走り去っていった。
 

 ***

 
体育委員との現地確認も無事に終わり、俺はグラウンドの脇を通って校舎へ戻ろうとした。

ちょうどその時、ピッチの方から鋭いホイッスルの音が響く。
ミニゲームの最中だろうか。流れるような美しいパスワークから、一気に前線へとボールが送られる。ディフェンダーの裏へ鮮やかに抜け出したのは、黒瀬だった。
完璧なトラップから放たれた鋭いシュートは、一直線にゴール左隅のネットを激しく揺らした。
 

「っしゃあああ!」

 
部員たちの歓声がグラウンドに響き渡る。

ハイタッチを交わしながら戻ろうとした黒瀬が、ふと、グラウンド脇に立ち止まっている俺の姿に気づいた。

西日に照らされる中、ばちりと目が合う。

黒瀬は何かを逡巡するように一瞬だけ口ごもったが、意を決したように、大きく両手を振った。
 

「竜胆ーー!」

 
グラウンド中に響き渡るような、大きな声だった。


「今のゴール、見てたかーー!?」

 
周囲のサッカー部員たちが「おい、相手は生徒会長だぞ……」と焦ったように黒瀬を止めようとする。


あれだけ真っ直ぐに聞かれて、無視する理由もない。

俺は足を止めたままその騒ぎをじっと見つめてから——黒瀬に向かって、静かに、けれど確かに小さく頷いてみせた。
 
その瞬間。


「え……」
「今、頷いたか?」
「会長が?」
「嘘だろ?!」


サッカー部の連中が天地がひっくり返ったかのようにざわつき始める。
当の黒瀬も、まさか俺がまともに反応するとは思っていなかったのか、一瞬ぽかんと硬直した。それから、じわじわと状況を理解したように、耳の裏まで真っ赤に染めていく。
 
「……っ!」
 
数秒後、黒瀬は少年のように顔を綻ばせた。


「よっしゃあ!」


照れ隠しのようにがしがしと頭を掻き、冷やかす仲間に肩を小突かれながらも、その笑顔は隠しきれていない。
 

素直な男だ。
 
ふっと息を吐いた。


 
 
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