2章




 
 
放課後。
広い会議室の重厚な長机の上には、来月に迫った体育祭関連の膨大な資料が整然と並べられていた。
今日は生徒会と体育委員会が集まる合同会議だ。

本来なら多少は緊張感があって然るべき場だが、その気配はない。
体育委員会の面々が、開始前から好き勝手に笑い合っているせいだ。


「それでは、本日の体育祭実行会議を始めます」
 
副会長である水無瀬の、おっとりとしつつも芯のある声を合図に、各々が資料をめくる音が部屋に響き渡った。

競技日程の微調整、予算の配分、必要な備品の数、そして万が一に備えた救護体制――それらの確認事項を一つずつ確実に潰していく。
 

「じゃあ次! 新競技について提案させてくれ」
 
 
会議の終盤、その場をさらに明るくしたのは、まさに太陽のような男——体育委員長の遊馬大晴だった。
短く刈り込まれた黒髪に、快活で人懐っこい笑顔。運動部特有の引き締まった体を持つ男で、誰とでもすぐに打ち解ける、「陽」を体現したような奴だ。


「今年は体育委員会から、ちょっと新しい試みとして一種目追加で提案してる」


朝比奈が「おっ、例の仮装競走だ!」と嬉しそうに声を弾ませた。
遊馬は白い歯を見せて笑いながら説明を続ける。


「参加者は12人。ランキング入りしている者からくじ引きして決定。着用する衣装は、演劇部と被服部が総力を挙げて製作する。一番懸念されてた安全性に関しては、体育委員の精鋭で試走済みだ」


体育委員会は騒がしい奴らだが、提案そのものはよく練られており思いつきで持ち込んだ企画ではないことはすぐに分かった。


「衣装の詳細は?」


俺が口を開くと、遊馬の視線が真っ直ぐにこちらを射抜いた。


「本番まで一切非公開」
「理由は」
「公平性を期すため、だな」


遊馬は淀みなく即答した。


「事前にどんな衣装か分かっちゃうと、『これは嫌だ』とか『あっちがいい』って交換の希望が出るかもしれないだろ? だから、当日に完全抽選で決めて、更衣室のロッカーを開けて初めて自分の衣装とご対面、って形にしたい」
「なるほど、それは合理的だ」


九重が眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら、いかにも面白がりそうな笑みを噛み殺して頷く。


「事前準備の段階での安全面も、資料を見る限り問題ありません」


水無瀬も穏やかに資料から顔を上げ、俺の方を見た。

そのようだな。指摘するような点はない。
俺は手元の書類の最後の1行まで目を通し、パタンと静かに、けれど厳かにそれを閉じた。


「……問題ない」


一言、淡々と言い放つ。


「承認する。このまま進めろ」
 

その瞬間。


「まじで?!」


遊馬が勢い良く椅子を蹴立てるようにして立ち上がり、その漆黒の瞳をらんらんと輝かせた。


「やったーー!!」
「……何だ、その大声は。見苦しいぞ」
「いや、だってさ! 絶対に一発却下されると思ってたから!」


遊馬は緊張が解けた様子で、がしがしと大きな手で頭を掻きながら笑った。


「体育委員の連中もみんな言ってたんだよ。『あの会長が、こんな悪ふざけみたいな新競技、絶対に首を縦に振るわけないだろ』ってさ」


俺は閉じた資料を机の真ん中へ滑らせる。


「勘違いするな。その競技が俺個人の好みに合うか、嫌いかどうかは承認の基準に関係ない」
「そうかそうか!」


遊馬はまた豪快に笑った。


「ちなみに会長。言うまでもなく、くじの結果によってはお前も参加する可能性あるからな」


思わず渋い顔になる。
それは理解している。


「それでも、筋が通ってりゃ通すんだな、会長は」


真っ直ぐにぶつけられる感心の視線を、俺は傲然と見下ろすようにして短く返した。


「競技として成立していて、生徒の要望と安全性が担保されてる。なら生徒会長として通す。それだけだ」


遊馬は一瞬だけ、その凛々しい目を丸くした。だが、すぐにこれまでで一番大きな破顔を見せる。


「はははっ! やっぱ会長、おもしれぇや! 今年の体育祭、めちゃくちゃ楽しくなりそうだ!」
 
 
 
***

「じゃ、お疲れさまでしたー」


各委員長たちが一礼してぞろぞろと退室し、生徒会の面々も片付けを終えて部屋を出ていく。俺もようやく席を立とうとした、その時だった。


「会長」


振り返ると、入り口の扉の手前で、遊馬が資料を腕に抱えたまま佇んでいた。


「まだ何か残っているのか。仕事の話なら手短にしろ」
「いや、仕事じゃないんだ」


そう言って、遊馬は悪戯っぽく笑う。


「帰る前に一つだけ」
 

大きく切り取られた窓から差し込む西日が、広い会議室を濃い橙色に染め上げていた。その逆光の中で、遊馬は少しだけ、俺の顔をじっと見つめる。


「最近さ、生徒会の雰囲気明るくなったな。いい感じじゃん」
「……そう見えるか」
「うん。理由は会長だと思う」


遊馬は迷いなく深く頷いた。


「竜胆ってさ、前はなんて言うか、もっと遠くて、全然近寄りづらかったんだよ。バリア張ってるっていうか、氷みたいだった」


その例えに俺は否定を返さなかった。
事実、以前の俺はそうやって周囲を拒絶し、完璧な壁を築いていたし、今もそのつもりだ。


「今も大して変わらないだろ」
「前なら俺がこんな話しかけても、一言で終わってた」
「……」
「だから俺さ、今の方が好き」
 

目尻を緩ませながら発した遊馬の言葉は、あまりにも自然な飾らない一言だった。
お世辞を言うような取り繕う様子も、生徒会長相手への気を遣う様子もない。ただ、自分の心に浮かんだ率直な感想を、そのまま言葉にして差し出してきた。そんな、真っ直ぐな声音だった。

 
「……物好きだな」
「よく言われるよ」

 
そう言って、相棒に向けるような親しげな笑みを残した。


「それだけだ、引き止めて悪かったな。お疲れ、会長」


軽く片手を挙げると、体育委員長は今度こそ風のように生徒会室を後にした。
 
パタン、と静かに閉まった扉。

今の方が好き、か。

先程の屈託のない笑みを思い返す。


「……言いたいことだけ言って帰りやがって」

 
ぽつりと誰もいなくなった空間に呟きを落とした。


 
 
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