1章




(桐生side)


『……待て、桐生』
 
 
久しぶりに、竜胆に名字で呼ばれた。

いつ以来だろうな。
少なくとも中等部の一年の頃は普通に呼ばれていたような気がする。


いつも「クソ風紀」と棘だらけの言葉しか吐かない男が、あの時ばかりはどこか居心地の悪そうな顔をしてそっぽを向いていた。
おまけに、真っ赤になった顔を隠しきれないまま、蚊の泣くような声で『……助かった』などと礼まで口にした。
 
プライドの塊のようなあいつが、屈辱だと顔を顰めいかにも不本意そうに視線を彷徨わせていた、あのひどく人間臭い顔。
普段の張り付いたような無表情はどこにもなく、そこにいたのは年相応の高校生だった。

少しは、人間らしくなったじゃないか。



騒がしい生徒会室から離れ、ようやく戻ってきた風紀委員室は委員達が出払っていて静まり返っていた。


「そういえばさ」
「なんだ」
「今回、一番びっくりしたことあるんだけど」
「……転入生が会長に水ぶっかけたこと以上か?」
「いや、それもだけどさ」


相川は頬杖をつきながら首を傾げる。


「親衛隊。あれだけ会長がひどい目に遭ったのに、誰も転入生に詰め寄らなかったじゃん」


そう言われて、書類をペラペラとめくっていた音が止まる。

確かに妙だった。
親衛隊といえば親衛対象を神格化している連中だ。本来なら一人くらい暴走しても不思議じゃなかった。


「普通なら日向くんはあの場で囲まれててもおかしくなかったよね」
「ああ」
「でも誰も動かなかった」


相川は腕を組んで、記憶を辿るように考え込む。


「会長の親衛隊って統率取れてるとは思ってたけど、あそこまで徹底してるとは思わなかったなぁ」


その時だった。


「失礼します」


静かに扉を開けて入ってきた男を見て、相川がひらひらと手を振った。


「あ、桔梗くん。ちょうど今噂してたところ」
「こんにちは」


柔らかく目を細め穏やかな笑みを浮かべる青年は、手にした封筒を俺の机へ置いた。

整った目鼻立ちに、穏やかな物腰。
どこぞの国の王子かと思わせる品のある雰囲気は、学園でもよく知られている。

桔梗誠士郎。竜胆の親衛隊隊長を務める男だ。

親衛隊を束ねる立場でありながらも、高圧的なところは一切なく誰にでも分け隔てなく接する。教師からの信頼も厚く、人望もある。
そのせいか、学園では「なぜ桔梗が竜胆の親衛隊隊長なのか」と首を傾げる者も少なくなかった。


「親衛隊側の報告書です。先日の騒動に関する記録をまとめておきました」
「悪いな」


短く礼を言ってそれを受け取った。
だが、視線を書類には落とさず、そのまま桔梗と目を合わせたまま口を開く。


「一つ聞きたい。食堂であれだけの騒ぎが起きておきながら、お前たちの隊は誰一人として動かなかったな」

問いかけられた桔梗は、ほんの一瞬だけ、睫毛の影を落とすように視線を伏せた。


「僕が止めたんだ」
「…そうか」


相川が「え?」と背もたれから身を乗り出す。


「なんで? 親衛隊なら真っ先に飛んでいきそうなのに」


桔梗は相変わらず穏やかな表情を崩さない。


「あの方のご意向だよ」
「会長の?」



桔梗は淡々とした、けれど敬愛を隠さない響きを含んだ声音で言葉を続ける。


「うん。以前から親衛隊に厳しく言われているんだ。勝手な制裁や報復はするな、と」
「……理由は?」
「食堂で乱闘でも起きれば風紀案件になる。親衛隊の評判が落ちる。それは結果として、生徒会長であるご自身の統率力まで疑われる」


桔梗はそこで言葉を区切り、ふっと悪戯っぽく微笑んでみせた。


「『俺の顔に泥を塗る真似はするな』――そう仰っているよ」
「……なるほど。会長って感じだー」


その口ぶりは会長の言葉をそのままなぞっているようだった。
ただ命令を伝えているだけじゃない。何度も聞いてきた者だけが持つ自然さがあった。


可哀想だからとか、暴力を許さないからといった感情論じゃない。
どこまでも合理的だ。
あいつらしいなと腑に落ちた。


「あの日も、僕はその方針に従っただけなんだ」


それ以上は話さない。
まるで、必要以上を語るつもりはないと言わんばかりだった。

沈黙が落ちる。

桔梗という男は、不思議だ。
親衛隊隊長でありながら、威圧感はない。
目立つことも好まない。
だが、生徒会長に関わる話になると、僅かに空気が変わる。
忠誠、と言えば近い。
だが、それだけとも違う気がした。


「それじゃあ、失礼します」


綺麗に一礼し、桔梗は風紀委員室を後にした。
静かに扉が閉まると、相川がソファに背を預けながらぽつりと呟いた。


「桔梗くんってさぁ、ほんと不思議だよね」
「何がだ」
「だってさ。桔梗くん、自分でも十分人気あるじゃん? 普通なら自分が中心に立っててもおかしくないのに、あくまで会長の後ろにいるでしょ」


俺は閉じられた扉へ目を向けた。

確かにそうだ。
本人が望めば、親衛隊を率いるだけでなく、自ら人を惹きつける側にもなれたはずだ。
それでも桔梗は、一歩下がった位置を選び続けている。


「……単に竜胆のことが好きなんだろ」
「それだけかなぁ」


相川は小さく笑う。


「好きだけじゃない、なんかもっと別の理由がありそうなんだよね」
「考えても分からねえだろ」


俺は手元の報告書を開き、綺麗に羅列された文章を眺めた。

分かっていることは一つだけだ。
桔梗誠士郎は、竜胆の意志を何より第一にして動く。
その理由だけが、まだ霧の中だった。
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