1章
「おい、早乙女。この予算案の計算、3行目の数字がズレている。やり直せ」
「ごめーん、すぐ直すね」
放課後の生徒会室には、気分の悪くない活気と、小気味よいペンの音が響いていた。
先日の大惨事が嘘のように、室内は整然としている。
しかし、決定的に違うのは、あの日々のようにシンと冷え切ってはいないこと、そして――長机に、役員たちが全員揃っていることだった。
重い革張りの椅子に腰を下ろした俺は、手元に綺麗に仕分けられた書類の束を見つめ、微かに眉を顰めた。
自分でやった方が早い。自分でやった方が正確だ。
その考え自体が完全に消え去ったわけではない。
長年培ってきた「誰も信用しない、他人に期待しない」という性根は、そう簡単に霧散するものではなかった。他人に弱みを見せるのも、頼るのも、俺にとっては未だに酷く苦手なままだ。
だが。
『あなたが「やれ」と命令すれば、俺たちは喜んで犬のように働くんだ』
あの日の夕暮れ、保健室で九重から突きつけられた、痛烈で、けれどひどく真っ直ぐな言葉が、今も離れない。
「……水無瀬。こっちの資料の精査を任せる。15分で終わらせろ」
「わかりました、会長。お任せください」
命令という形でしか他人に仕事を振れない、不器用極まりないやり方。
それでも、水無瀬は嬉しそうに目を細め差し出された書類を恭しく受け取った。
役員たちはみんな、俺の不器用な歩み寄りを壊さないように大切に扱おうとしてくれている。それが、少しだけ面映ゆくて不快だった。
……やはり、理解できない。
他人に期待などしないはずだった。
なのに、任せた書類が戻ってくるのを待つ間、胸の奥がほんの少しだけ軽いのはなぜだ。
少し前まで頭を締めつけていた酷い頭痛は、随分と和らいでいた。
慢性的な不眠が治ったわけではない。今でも夜は浅い眠りを繰り返す。それでも、以前のように思考が鈍るほどではなくなっていた。
その時、コンコン、と聞き慣れた硬いノックの音が室内に響いた。
「失礼する」
低い声と共に扉を開けて入ってきたのは桐生だった。
あの日色々と世話になってしまった負い目がある俺としては、しばらく顔を合わせたくなかったのだが。
「……チッ、クソ風紀か。何の用だ」
「開口一番に舌打ちするな。一応、先日の食堂の件で、転入生の指導報告書を持ってきてやったんだ」
桐生はいつも通りの淡々とした足取りで俺のデスクへ近づくと、一枚の書面を差し出した。
瞬時に苦々しい記憶が思い出され眉間にシワが寄る。
転入生——日向は、食堂という公の場で生徒会長である俺を水浸しにし、全校生徒を騒然とさせたのだ。
風紀委員会としては、形だけでも「厳重注意として処理した」という記録を残す必要があったのだろう。
「あの転入生、日向悠陽だったか。……結論から言うと、あいつに悪意は一切ない。純度百パーセントの不注意と悪運の塊だ。一応、厳重注意処分に留めておいたが、文句はあるか? 生徒会長」
「妥当な判断だな。あいつの顔を見れば、わざとやるような度胸がないことくらい分かる。報告書はそこへ置いておけ」
俺はふんと鼻で笑い、書類を受け取ろうとした。
しかし、桐生は書類を持った手をわずかに引き、ニヤニヤとした意地の悪い笑みを浮かべ、俺をじっと見つめてきた。
「指導報告は以上だ。……で、それはそれとして、生徒会長。お前、あの日俺らが帰った後、保健室であの転入生を『今すぐ退学にしろ』って九重に怒鳴り散らしたらしいな?」
「……あ? なんでそれを」
あの発言は、せっかく着替えたシャツを今度は生クリームとイチゴで無惨に染め上げられた俺が、怒りと恥ずかしさのあまり口走ったただの八つ当たり――冗談だったはずだ。
現場にいたのは生徒会メンバーと日向だけで、桐生はその場にいなかった。
「これ」
桐生はブレザーのポケットからスマホを取り出すと、その画面を愉快そうに俺の目の前に突きつけた。
それを見て思わず目を見開く。
画面に映し出されていたのは、相川からのメッセージ画面。
『早乙女からめちゃくちゃ最高な写真送られてきたんだけど笑笑』という軽い文句と共に、一枚の写真が添付されていた。
そこには、頬や胸元に真っ白な生クリームをべっとりとつけ、怒りと羞恥で顔を真っ赤にして睨みつけている――見るも無惨で、無様な俺の姿が、最高に鮮明な画質で収められていた。
「さ、早乙女……!!!」
「あはは、ごめんカイチョー。あまりにもおもろ可愛いから共有したくなっちゃって」
後ろの席で早乙女がわざとらしくすまなそうに眉を下げながら笑う。
あいつ、お望み通り大量の仕事を与えてやろうか。
「随分と可愛い有様だったらしいな」
「黙れクソ風紀。早乙女も、相川も、あの転入生も全員まとめて俺が処分してやる」
ああクソ、顔が熱い。
こんな無様な弱みを完全に握られている今の状況では、何を言っても言葉にまるで説得力が出ない。
そんな俺を見ながら桐生はスマホをポケットにしまうと、呆れたようにため息をつき、それからふっと笑い声を漏らした。
「まぁ、冗談はそれくらいにしておいてやる。……だが、まぁ」
桐生はそこで一度言葉を切り、俺の後ろで騒がしく、けれど楽しそうにしている水無瀬たちへ視線を向けた。
「前よりは、いくらかマシな顔になったな」
「……何のことだ」
「今にも死にそうになってたバ会長が、少しは周りに八つ当たりする余裕ができたみたいだ、ってことだよ」
相変わらず、人を小馬鹿にしたような男だ。
だが、不思議とその言葉に刺々しい怒りは湧いてこなかった。
桐生はからかうように肩をすくめると、「じゃあな」と短く言い残して背を向けた。
「……待て、桐生」
扉に手をかけた桐生が、不思議そうに振り返る。
多分、名字で呼んだのは久しぶりだった。
決して本意ではない。
だが、それ以上に。
礼を言わなければ、この一件がいつまでも俺の中に引っ掛かり続ける気がした。
あの日、保健室で見せてしまった無様な姿も。
されるがままに世話を焼かれたことも。
そして、その全てを見たのが、よりにもよって桐生だったことも。
一番見透かされたくない男に、一番見られたくない姿を晒した。
それだけで十分最悪だというのに、借りまで作ったままでは気分が悪い。
俺は視線をデスクに落としたまま、酷く不機嫌そうな声で呟いた。
「……この前は、その」
喉で引っかかる一言を小さく、本当に小さく告げる。
「……助かった」
一瞬、生徒会室の空気がピキリと凍りついたような静寂が訪れた。
自分のプライドが、みっともなくきしむ音が聞こえるようだった。まさかこいつに礼を言う日が来るとはな。
後ろの席で、朝比奈が「えっ、今りんりんがありがとうって言った……!?」と声を漏らす。
桐生もまた、目を見開いたままドアノブを掴んだ手で硬直していた。
「……お前、本当に竜胆か? 生クリームが脳にまで回ったんじゃないだろうな」
「死ねクソ風紀。二度と言わねえ。早く出て行け」
クソが。だから言いたくなかったんだ。
顔が赤くなりながらも殺気すらこもった目で桐生を睨みつける。
桐生は一瞬呆気にとられた後、ふ、と小さく口元を緩めた。
「勘違いするな。お前が校内でぶっ倒れる方が、風紀の仕事が増えて面倒なだけだ」
その言葉は、あいつなりの気にするなという気遣いだと流石の俺でもわかり、口を強く引き結ぶ。
「じゃあな、バ会長。あと、あの写真は俺も保存させてもらったからな」
「は?! 消せ!!」
俺の絶叫を背に、今度こそ桐生は部屋を出て行った。
パタン、と閉まった扉の向こうから、何故か相川の「お〜、隼人、なんか良い雰囲気じゃん!」という冷やかしの声が微かに聞こえた気がして、ピキリと青筋を立てる。
「……おい、お前ら。何をニヤニヤしている。手を動かせ」
「すみません、今の会長が可愛かったのでつい」
「全員そんなに仕事を増やされたいか」
こいつら、どんどん生意気になってねえか。
睨みつけても全く怯む様子もなく笑っている役員達に、俺はため息をつくことしかできなかった。