Short stories

 カシュリ。
 薄い磨りガラスのような膜が前歯で軽い音を立てた。
 床に直に座っていた新一の後ろ、ソファでスマホを触っていたはずの降谷が真横に降りてきた。
「不思議なものを食べているね」
「ああ、うん」
 残った半分を降谷に向ける。
「食べてみますか?」
 丁寧な口調は降谷の意向を尊重したいがため。案の定、彼は少しだけ戸惑ったように後ろに引いた。が、何かを決意したかのように眉をきりりと引き締めた。
「頂こう」
 まるで決死の覚悟と言わんばかりだ。思わず吹き出すと、それにムッとした降谷の方から手首を掴まれた。
 ぐい、と引き寄せられて指先にあった黄色のお菓子は彼の口の中へ。薄い唇の奥にある白い健康的な歯が、磨りガラスを噛み砕いた。カシュ、とシンプルな破砕音。
 珍しいことに降谷は一瞬の動揺を見せた。
「……グミ?」
 つい、また吹き出してしまった。
「園子に貰ったんだよ。これが今の流行りなのよ〜つって。グミ…グミナントカってやつ」
「グミッツェルか」
 知ってんのかよ、と内心で半笑いが漏れた。
 拳半分ほども残っていなかったグミッツェルはあっという間に降谷が食べ尽くしてしまった。ふわんと香るのはグレープフルーツの酸味。ただし無果汁なのでこれは香料なのだけど。
「若者の流行り廃りは常に把握しておかないとね」
 空になった袋を手に取り、裏側の成分表を見ながらそんなことを曰う降谷はそれでも、実物を見たのは初めてだけどねと付け足した。
 若者というカテゴリーに纏められてしまった新一としては面白くない気持ちの方が勝つ。
「降谷さんだってまだ若者の範疇だろ」
「三十超えたら若者とは言えないなぁ」
「そうでした。三十路の童貞オジサンでした」
「……君ね、」
「恋人がハタチんなって一月、未だに清いお付き合いを継続させているのは相手が童貞だからだ、というのが俺の周りの大多数意見です」
 ハジメテに尻込みしてる童貞そのものですと吐き捨てて、もう一つの個包装に手を伸ばした。青い色のグミッツェル。確かによく見ればプレッツェルの形をしている。青は何味なんだ。ブルーハワイか?
 切り口に力を加えようとしたところで、肩を掴まれぐいと後ろに倒された。
「あっぶな!」
「僕は童貞じゃない」
「気にするとこそこかよ!」
 そこまで煽られたことに拗ねはしても、こっちの気持ちは知らんぷりするのかと歯を剥いた。
 可愛くない面を拝んでやろうと目線を上に上げれば、予想に反してなんとも言えないしょんぼりとした顔がそこにはあった。タレ目の弱り顔もまた破壊力があるなと思ってみたり。
「君を今すぐに抱きたい気持ちと、大切にしたい気持ちもあるけれど……」
「お、おう」
 どんな事を言われるのだろう、と胸の前で握った拳に力を込めた。
「君を抱く時は最低でも三連休は必要だから、今その調整をするために巻きで仕事を倒している所なんだ。休みの目処が付いたら知らせるからそれまで待って欲しい」
「おう……ん?」
 首を傾げた。
 待ってこの人今何連休って言った?
「七月中か八月には取れそうだからぼちぼち始めていかないとね」
「ぼちぼち……?なにを……?」
 嫌な予感しかしない。
「一度抱いたらそこで終われる自信がない。少なくとも三回はしたい。朝は一緒に目覚めて、優雅にブランチ、昼間は軽くイチャつく程度に抑えて、夕方からは本気をだして君を抱く。これが連休一日目」
 降谷の右手親指が内側に折れた。
「二日目は明るいところで君を抱く。恥ずかしがる君の恥ずかしい処も全部、陽の光の中で余す所なく堪能したい。午後は君を抱き締めて午睡してもいい」
 人差し指も内側に折れていく。二日目はベッドに固定らしい。新一の頬がひくついた。
「連休最終日は僕の手料理をこれでもかと食べさせて餌付けして、僕の身体なしでは生きていけないようにしてやろうかなって」
「怖ぇよ!どこのホラー映画だ!」
 呆れ半分、怒り半分で降谷の両横髪を掴んで引き寄せた。吐息が触れる距離だけど、互い違いなのでキスはできない。
「下手に溜め込んでっからそんな変な妄想ばかりするんだろ。三連休もあったらどっか旅行とかホテルに泊まったりとかすりゃいいじゃねーか」
「それは考えたけど」
 降谷の顔が一旦遠ざかり、体勢を変えて同じ向きで横に寝転がってきた。
 ちゅ、とキスを落とされたのは唇ではなく、瞼の上。
「外だと君は有名人だし何かしら事件を引っ掛けてくるから。世界一安全なここで、新一くんを心ゆくまで味わいたいんだよ、僕は」
 そしたらたとえ数ヶ月多忙で少ししか会えなくても我慢できる、と言う顔は本気そのもの。
 降谷は視線をちらりと横に走らせると、その先にあったものに手を伸ばした。
 新一が倒れたはずみで手を放したグミッツェルの個包装。青色のそれはソーダ味らしい。目の前で開けられていく袋の裏面の文字をなんとなく拾った。原材料は意外とシンプルで、もしかしたらこの人なら作れちゃうんじゃないだろうか。なんて。
 カシュリと響いた音に目を見張る。自分が持ってきたものとはいえ、貰い物だし未開封だし自分が食べてみせた後でもないのに。
「うーん、やっぱ不思議な感覚だね」
 無遠慮に口の中に突っ込まれたそれを歯で噛み砕く。ぼり、ごりり、プレッツェル状のグミはすぐに消えて無くなった。
「そんなに気に入ったんなら、買ってこようか?」
「僕が用意したもの以外の食べ物があるのが許せなかっただけ」
「あ、ソウデスカ」
「ソウデスネ」
 それから、また触れるだけのキスをして。
 新一以上にむっつりな妄想を拗らせた男は、「君みたいなお菓子だ」なんて変なことを口走った。
「ガラスのように繊細で柔らかい心、という……?」
 あはは、と声を上げて笑う失礼な男の脇腹を蹴ってやった。
「見た目以上に難解で、一筋縄ではいかないってことさ」
「……意味分かんねえ」
 宥めるようなキス。それから、舌先で唇をなぞられた。
「もう子供のお菓子は卒業だよ」
 いや、ほぼ押し付けられたようなもんだし、さっきだってあんたが『若者の流行り』って言ってたじゃねーか。
 もちろん新一だって降谷の言いたいことは分かる。
 でも、何もかもをこの男に委ねるのはどうにも癪だから。
 がぶ、と首筋に甘く噛み付いてやった。
 目を丸くしている男を挑発的に見上げる。
「大人のお菓子お預けされて、こっちは物凄く飢えてんだっつーの。――拾い食いされたくなかったら、味見くらいさせろ」
 こっちのお菓子は柔らかくも甘くもなく、むしろほんのりと汗の味がしてしょっぱく感じた。
 それから、口の中のソーダ味がなくなるまでキスをして。
 ちょっと摘まみ食いするだけのはずが完食どころかおかわりまでされてしまった新一の身体は次の日当然使い物にならなかったという。

 
 
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