たぬきのお嫁さん

 5.

「新一、大丈夫。大丈夫だから落ち着くんだ」
「降谷さん、頼む……お願い、とめて」
 床板に敷かれた鉄の板一枚があまりにも頼りなくて、座る場所の上に乗り上げて丸くなった。ゆったりシルエットのフレアパンツの中で尻尾がきゅうと縮む。ほんの少しでも顔を上げればプラスチックの透明な板の向こう、目に飛び込んでくるのは遠くまで続く広大な景色。あんなにごった返していたはずの地上の人間たちは、ここからだと疎らに映り、皆が笑いながらここを目指して歩いてくる。騙されるな!こいつはただの乗り物じゃねぇ!そう叫びたいのに、歯の根が合わずカチカチと鳴った。
「きゅうぅ……」
 ガコン!と縦に揺れるゴンドラ。それから左右に、ゆら、ゆら、と。ぴょん!と頭の上に耳が、それから鼻も。両目を覆っていた手を頭の上に這わせ抱えた。落っこちる、落っこちると泣きたいのを堪えているうちに、あれよあれよという間に狸へと変化が解けてしまっていた。
「ぷぇぇん」
 情けない。悔しい。目を見張るくらい大きなアトラクションとかいうやつにも平気な顔をして乗って、こんなの山に比べればなんのその、なんて豪語してみせたのに。びゅんびゅんと風を切って進む乗り物はあっという間でむしろ野山を駆けているみたいで楽しめたが、この観覧車とかいう乗り物は全く逆のものだった。
 ゆっくりじわじわと上がっていく箱。少し動いただけで大きく揺れる不安定さ。なにより密閉された空間は逃げ場がない。立ち上がれないくらいに低い天井が圧迫感を与えてくる。
 ――これは、嫌いなやつだ。
 ぶるぶると震え、心臓がどっどっと速くなっていく。早く終われ、早く終われと唱えていると、不意に明るさが消えた。それから暖かいものにすっぽりと覆われる。嗅ぎ慣れた匂いは降谷のもの。降ってきた声は悲痛に塗れていた。
「ごめん。動物にとってこの状況はストレスでしかないのに……。僕の配慮が足りなかった」
 降谷のジャケットは土草と、い草、それからほんのりコーヒー豆を炒った匂いがする。新一の一番好きな匂い。強張っていた四肢からそっと力を抜くと、椅子から降谷の腿の上へと移された。それだけなのに、世界で一番安全な場所に思えるから現金なものだ。けれどやっぱ悔しいから、腹に向かってマズルをぐりぐりと押し付けた。降谷はまたしても謝ってきたが、先程よりいくらか軽くなっていて。調子に乗んなよ、とまたつっついた。
「ちょっと元気でたかな?できたら人間になってもらいたいんだけど、大丈夫かい」
 このゴンドラから狸が降りてきたら、さすがに騒ぎになりそうだからと降谷が困ったように言うので。仕方がねぇなと新一は降谷の足の上から横にころんと転がり落ちた。狭い足場に上手く収まったところに上からまた上着を被せられた。
 できあがった空間で、もそもそと着替えて。終わったと合図をすると、降谷は新一を自身の隣に座らせた。大人二人が並べばぴったりとくっつく幅しかない座席の上で、降谷は「もっとこっち」とさらに新一の体を抱き寄せる。安心感と緊張感がせめぎ合う新一の胸中などお構いなしに、だ。
 膝の上でぎゅうと握り締めた拳を凝視していると、降谷が新一の名を呼んだ。顔を向けると、そこには急接近降谷の顔が。
「ふる――――」
 ちゅ、と音を立てて。閉ざされていた瞳が離れていくにつれてゆるゆると開いていき、青灰色がこちらをじっと見つめてくる。
「キスの時は目を閉じて」
 なんで、と聞くよりも先にまた視界いっぱいに降谷で埋め尽くされそうになって、慌てて目を瞑った。唇に何度も押し付けられるそれはかさかさに乾いていて、外気のせいで少し冷えていて。昨夜のあの熱と潤みのあるキスと正反対なのに、ぞくぞくと背中を何かが駆け上る。降谷の熱が離れたすきに息を吸おうと唇を開いたら、たちまち塞がれ今度はぐにゅんとした熱いものが新一の口内に入ってきた。
 それは新一の舌の上側をさりさりと舐め、上顎を擦ってくる。その度に腰の辺りがぞわりと震え、押し出された空気が鼻から抜けて喉がくぅと鳴った。
「ん、ふ、ぁ……っ」
 舌を絡め取ったり、下に潜って奥を突いたり。降谷の舌は分身のように器用に動き回る。すっかり翻弄されっぱなしで、新一は為されるがまま。熱を帯びていく二人の唇は唾液でべっとり濡れていて、くっついたり離れたりする度に上がる音がなんだかとても恥ずかしい事の様に思えてくる。
 新一のより大きな降谷の舌が、ついに全部入ってきた。開いた口の中を埋め尽くす勢いで来たかと思うと、すぐに引っ込む。それを何度も何度も繰り返されてしまうと息も絶え絶えになっていく。
「あ、ん、あっ」
 降谷の鼻息も荒くなっていく。腕から肩へ、肩から頬へ。耳を弄られると堪らない気分になって身を捩った。腰どころかお尻も股もじんじん、じくじくと痺れている。どうしたらいいのか分からなくて、涙目のまま新一は目を開けて助けを請おうとした。
「――っ」
 野生の生き物のように鋭い眼差しとぶつかり、息を呑む。ついうっかり防衛本能から、降谷の舌を軽く噛んでしまった。
「あ、ごめ――」
 バッと離れて口元を押さえた。降谷の眼光に凶暴さが宿る。だがそこに対する恐怖よりも、噛んだ感触に既視感を覚えた新一は。脳内に浮かんだ単語をそのままするんと口に出してしまっていた。
「降谷さんのべろ……。タニシみてぇだ」
「タニ……」
 剣呑さを孕ませていた目元がゆるゆると和らいでいき、ついには「ハァァ」と溜め息まで洩らして降谷はがくりと項垂れた。
「あっワリ!タニシは言いすぎだったか!?」
 むしろ最上級の褒め言葉だったんだけど、と慌てて付け足した。前屈みになったままの降谷が頭を軽く振った。
「いや……。まぁ、色々収まったから結果オーライだよ。ちょっと僕もヤバかった」
 ガコン!とゴンドラが揺れて、降谷にしがみついた新一は、顔を上げた事によってそれまで遮られていた外の景色を目の当たりにした。いつの間に天辺を越えていたのか、自分たちが乗ったこの箱は残り四分の一を切っていた。地上はもうすぐそこだ。
 もしかして、と項垂れたままの降谷を見下ろす。高所を感知させないように、恐怖を紛らわせるために。降谷は、新一の気をそらしてくれたのだろうか。
「……降谷さん、」
「うん?」
 自分もだけど、顔だけこちらに向けた降谷の頬も上気している。なんだかそれがとても嬉しくて。新一は、心の赴くままに、まだ熱を持ったままの唇をそっと重ねた。降谷のそこもまた同じく熱く潤んでいて。
 蕩けて零れ落ちそうなくらいに甘い降谷の眼差しに、新一はやっとで想いが通じあえたことを実感したのだった。

 コーヒーショップでそれぞれホットコーヒーを買い、バゲットサンドとフライドポテトを二人で半分こする。とはいっても新一は観覧車から降り立った途端に腰が砕けていたせいでぺしゃんと座り込んでしまい、慌てたスタッフに降谷が「高いところ苦手だったみたいで」と言い訳したのが許せなくて、バゲットサンドを一人で半分以上平らげた。怖いから腰が抜けたんじゃない。あれは降谷のキスのせいだと睨めつけながら。
「まだ怒ってる?」
「は?怒ってませんが?」
「機嫌直してよ。それ全部あげるから」
 美味しい?なんて余裕で聞いてくる姿が恨めしい。まるで自分が食いしん坊みたいじゃないか。新一はポテトを摘む降谷に「ん」と残りを差し出した。きょとんとしたのは一瞬で、降谷は躊躇うことなくその手元のサンドに齧りついた。
「ん。……美味いな」
「降谷さんも腹減ってんだろ。ちゃんと食べろよ」
「食べた食べた。君の方こそ育ち盛りなんだから……。ほら、これも」
 差し出されたポテトをぱくりと咥え、もぐもぐしていたら「これが餌付けか」と一人納得していたので、つま先で脛を蹴ってやった。降谷は痛いなぁなんて言いながら、にこにこと笑っていた。

「これ以上機嫌を損ねる前に、君に良いものを見せてあげよう」
 ダストボックスにゴミを捨て、トレーを回収棚に乗せて歩き出した降谷に付いていく。新一は良いものって何だと何回も尋ねたが、降谷は「当ててごらん」と笑って教えてくれない。乗ってきたアトラクションを浮かべながら思いつくままに並べてみたが、そのどれもがハズレの答え。
「ヒント。乗り物ではない」
「乗り物ではない……?分かった!世界中のタニシが食べられるお店!」
「……まずタニシから離れようか」
 君が名探偵になれる日はまだまだ先かな、と降谷はからかいながら手で指し示した先を見て。新一は言葉を無くして立ち尽くした。
「ここ……って、」
「思ってた反応と違うな。そんなに好きじゃなかった?」
 三ヶ月くらいしかやってない期間限定の展示会で、たまたま知ったからこのテーマパークにしたんだけどな。そう言って眉をハの字にした降谷に、新一は全力で抱きついた。
「好き!!大好き!!もうめっちゃくちゃ大好き!!」
「そ、そう。良かった……ちなみにそれはホームズ?それとも僕?」
「もちろんホームズ!!」
 即答で叫んで手を離し、入り口へと突進していく。看板には『シャーロック・ホームズの世界展』と文字が踊る。それを見て新一の心も弾む。入場チケットを求められ、のんびりと歩いてくる降谷に早く早くと手招きした。
 新一が愛読書としているコナンドイルの推理小説の世界が目の前に開けている。ホームズの書斎、ホームズのコート、ホームズのあれやそれや。当時の記事のレプリカが掲示してあり、だが英語が読めない新一は降谷に和訳してもらってその度に興奮して天を仰いだ。コスプレして写真撮影ができる簡易ブースでコートを羽織り、キャップをかぶり。ポーズをキメて撮ってもらった写真の中の新一はこれ以上ないくらいのドヤ顔をしていた。
「新一、物販もあるよ」
「ぶっぱん?」
 こっちこっちと手を引かれて行った先にはこれまた数多のホームズグッズが所狭しと並べられていた。
「ほっ、ホァッ、ホームズがいっぱいいる……!」
「ある、ね」
 降谷の訂正など耳にも入らない。タペストリーやハンカチ、栞なんかの他にイギリスらしくクマのヌイグルミもあるし、中には布団カバーや枕カバーなんてものもある。
 あれも欲しいこれも欲しいと物色していた新一はだが、ここにきて重大な事を思い出した。そう、新一にはお金がない。降谷から労働の対価としてお給金を貰ってはいたけれど、それはほとんど本に費やしてしまっていた。手元にあるにはあるけれど、これは蘭や園子たちに買っていくお土産の分。恋愛レクチャー旅行編の報酬としてアレソレ買ってきて、とつけられた注文の分のお金なのだ。
 目の前の数え切れないくらいのホームズたちが、新一に微笑みかけているのに。ああ、何故こんなにも己は無力なのか。絶望に打ちひしがれる新一に、降谷がそっと声を掛けてくる。
「新一……」
「降谷さん……。俺、もっとちゃんと働く。それで、貰ったお給料すぐに本に使わないで少しずつ貯めることにする。降谷さんが全部使い切るな、っていつも言ってたのはこういう不足の事態に備える為だったんだな」
「方向性としてはどうかと思うがまぁ概ね当たっているかな」
「アイツらにお土産買ってく分しか持ってねぇから諦めるけど、でもこういった物も世の中にはあるんだって知れただけでもいいかなって思うことにした」
 本当はすんごく未練タラタラなんだけど、と心の中で付け足して。最後にホームズの横顔シルエットがワンポイントで刺繍されたTシャツを見上げた。さようなら、我が愛しのホームズ。今度は本場ロンドンでお会いしましょう――その頃には、ホームズの弟子と名乗れるくらいの頭脳と才能を身に着けていられるように。
 狸のままではできなかっただろう夢が、ここにきてなんとなくその輪郭を曖昧ながらも現れ始めている。人間になれば、どこにでも行ける。なんにでもなれる。たくさんの可能性が、夢が目の前に拓けている。なんて、なんて楽しいのだろう。
 目を輝かせていると、隣で「んん、」と軽い咳払い。降谷は妬けるな、と笑って、それからこう言った。
「ここにあるものから、……そうだな、三点までなら買ってあげてもいいかな」
 まじで、と叫びそうになるのをぐっと堪えて。新一は唇を尖らせた。
「いや……いい」
「なんで?お財布の心配ならしなくてもいいぞ」
 今日の僕はお大尽だよとヒップポケットを叩く降谷は確かに頼もしい。けれども気軽に頷けない信念が新一にはあった。
「俺は、俺のお金でホームズ達をお迎えしたい」
「――拗らせオタクか!」
 
 結局、『人間社会には夏と冬に一回、ボーナスという月々の給与とは別の賞与があってこれはその現物支給』と説き伏せられた。金額は見ないで、新一が本当に欲しいものだけを選べばいいと言ってくれたので、お言葉に甘えて買ってもらったものを胸に大切に抱えて園内を歩く。
「本当に、それだけで良かったのか?」
「おう!」
「君は欲がないなぁ」
「なぁに言ってんだよ。人のこと言えねぇくせに」
 一番大きな欲しいものが目の前にあるというのに。人間というものは番になると決めたら即繁殖行為に移るとは限らないようで、新一の両親への報告が先だと言って譲らない頑固者を横目でじとりと睨む。こういう時ばかりは狸のほうが楽だなぁと思ってしまうので、半人半狸は少々面倒くさい。
「このあとは静岡県で一泊して、明日長野に帰るよ」
 足回りを確認した後、車に乗り込んでシートベルトをして。寝てていいよと言われたけれど、新一は温泉宿に着くまでずっと降谷とおしゃべりを楽しんだ。好きだった人が、恋人になったのに隣で眠ってなんかいられない。この人のことをもっと知りたいから。田舎に来るまでのことだって気になるけれど、降谷は一度だって口にしたことが無かったのでそこはぐっと堪えて。農業のこと、山のこと。新一も仲間のことやなんやかんやで仲良しになったるり子やヒロの母のこと。たくさん、話した。
 静岡でもひときわ有名だという温泉地で疲れを流し、夜はまた唇を触れ合わせ。その時躊躇いがちに胸に添えられた降谷の手に驚いて狸に戻ってしまうまで、新一は気持ちの良いキスをたくさんした。心に満ちた充足感から寝落ちた新一は、その後の降谷の辛く切ない状況など知るはずもなく。後から二人の間で初デートの話になったときに初めて聞かされて、「俺って、大事にされてんだなぁ」ととても嬉しくなったのは別の話。


「あー、つっかれたぁ」
 久しぶりの我が家の玄関をガラガラと開けて、上がり框に大の字になって寝転んだ。ひんやりとした木の床板がたまらなく懐かしい。
「こら、新一も荷物入れるの手伝え」
「へいへーい」
 二泊三日の旅行で買ったお土産や、自分たちで食べる地元名産品や、着替えなど。居間に運び入れるとそこから二人で仕分けをした。
「あ、それヒロのお母さんに持ってくやつ」
「君のご両親へのお土産より豪華じゃないか?」
「そりゃだって、ヒロのお母さんにはいろいろ貰ってるからな」
「そうなんだ……?」
「クッキーとか、クレープとか、プリンとか……あと鯛のお刺身のときもあったっけな」
 初耳だが!?と驚く降谷に、新一は笑って誤魔化した。回覧板を貰うたびに「うちの子のお嫁さんにならない?」と賄賂付きで誘われていたことを、降谷もヒロも知らない。そしてその度に賄賂はしっかり受け取りながら、降谷さんのご飯が美味しいから、と丁寧に断っていたことも。
 それももうお終いになるのはちょっと――いやかなり、残念だけれど。ちゃんと言わなくちゃな、と新一はお土産の温泉饅頭と木彫りのコロンとした可愛らしい小さな狸の置物を見て思った。ヒロやヒロのお母さんの料理やお菓子も美味しいけれど、やっぱり降谷のご飯が一番好きだ。なにより、降谷と一緒にいる時の心の温かさは他の何物にも替えがたい。
「……これはヒロに事情聴取だな」
 苦々しく降谷が呟いたのを半笑いで見守って。降谷が手にしていた蘭へのお土産に言葉を紡ごうと開きかけた口は鼻腔を掠めた臭いに瞬時に歯を剥き出しにして唸り声を発する。
「し、新一!?どうし、」
「降谷さんはそこにいて!」
 膝上の衣類を床に投げ捨て、廊下へと回転しながら躍り出た。長い縁側を駆け抜けて玄関へ。後ろを付いてきた降谷が何事かと身構える。やがて外の砂利を踏む足音が聞こえてきて、新一はより一層大きく唸り声を上げた。
「この歩き方は……。新一、多分大丈夫だ」
 横で膝をついた降谷が新一の逆立つ背中を撫でて宥めてくるが、新一には到底信じられなかった。だって、物凄く臭うのだ。獣が嫌う、あの臭い。降谷の部屋でも時折嗅ぐことがあるから、嫌でも忘れない。鉛と錆、そして火薬が混ざりあったような、あの臭いが。
 玄関の摺りガラスの向こうに立つ大柄な影に新一はびくりとしたけれど、決して後ろに下がらない。影は長い手を上げて、玄関扉脇へ。
 ――ピンポーン。
 緊迫した空気に似つかわしくない音が家の中に響き渡る。
「なんか獰猛なわんこがいるっぽいな……」
 咬まれたりしたら嫌だなぁ、となんとも間延びした呑気な声がした。降谷は溜め息をついて、新一の背中をもう一度強めに撫でた。
「新一、彼なら大丈夫。僕の元……部下だ。戻って服を着て待ってて」
 お尻のあたりを押され、最初は抵抗してみせた。けれども「新一」と名を呼んだ降谷の顔を見たら引っ込まざるを得ず。マズルを脇腹に押し付けてぐりぐりとしてから離れた。何も言わなくても分かってしまった。降谷はこの招かれざる客と二人きりで話す何かがあるのだと。
 居間の障子戸を開け放っていても、新一の耳をもってしても。彼らの話す声は入ってこない。時折聞こえる相槌に、きっとスマートフォン等の端末でメッセージのやり取りをしているのだろう。つまは、新一に知られたくない類の話なのか。
 降谷が前に働いていた場所に関することなんだろうな、と聞き耳を立てるのを諦めて畳に寝転がった。木彫りの狸がつぶらな瞳で新一を見つめている。ヒロなら、知っているかもしれない。彼もまた降谷と同じ空気を纏っているから。けれどきっと、何も教えてはくれないのだろう。
 新一は山育ちで、世間知らずで、弱い生き物だから。
 同じ屋根の下で、一緒に生きていくと決めたけれど――それは降谷に衣食住を確保してもらいたいからなんかじゃない。
 同じ目の高さで、同じものを見て。同じ方向に共に向かって行くことの難しさを。重苦しく降りる沈黙の中、ただ冷静に時を刻み続ける振り子時計の音を追いかけながら瞳を閉じる。ただの狸から人間になって、恋人の距離にまで近づけたのに。再び遠ざかってしまったのか、そもそも近く感じたのは気のせいだったのか。
 もどかしい想いを抱えたまま、新一は降谷の戻りを待ち続けた。楽しかった旅行の思い出すら、新一を元気づけるものにはならなくて。畳の目を爪で弄っているとやがて訪れた睡魔と戦ううちに、招かれざる客は帰っていった。今度ばかりは、降谷は新一のご機嫌を取ろうとはしてこなかった。
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