たぬきのお嫁さん

 初めて尽くしの小旅行

 1.

「また君は!そんなとこにそんな格好で!」
 捲り上げられた所から冷たい空気が入り込んできて、新一はもぞりと後退った。せっかく気持ちよく微睡んでいたのに、なんて無粋なやつだ。
「文句があるなら聞くけど、まずはそこから出てくるんだ」
 いやいやと首を振ったら、空間を暖かく照らしていた明かりが消えた。それから四方の布団が一気に上がって、新一の視界の中に降谷の足が飛び込んでくる。信じられないことに、こんな寒さなのに裸足である。せめて靴下くらい履いてくれないと見ているだけで霜焼けになりそうだ。
 温まっていた空気は一瞬で流れ去り、それでも最後の砦と中央部、ヒーターの下で余熱の余波を浴びていると。
「――いいのか?本当に、その場から動くつもりはないんだな?」
 カチリ。ギュォオオオオ!新一の嫌いな音がけたたましく鳴り出して、全身の毛を逆立てた。あいつ!あいつが来た!グゥウ……と唸り、爪を立てる。降谷の足元でそいつは、我こそが彼の相棒に相応しいと言わんばかりの存在感と轟音で、新一の足先に鼻先を伸ばしてくる。
 ばーろー、こちとら相棒よりも更に上の立場にあるんだぜ?なにしろ家主の妹様なんだからな。こき使われるだけの下僕なオメーがすっこめ。
 爪を出さないように気を付けながら、カーペットの上で威嚇のポーズを取る新一に、降谷の自称相棒は容赦なく襲いかかってくる。
「シーーーーッ!!」
 歯を剥き出して振り上げた前足が、天井の板にぶつかって鈍い音を立てた。地味に痛くてヒィヒィ泣いていると、轟音が止んで降谷が覗き込んできた。
「ほら言わんこっちゃない。こたつの中にいつまでもいるからだろ」
 にゅうと伸びてきた大きな手が新一の脇腹を捕まえて、あっけなく我が城の外へと引っ張り出されてしまった。
「極力人間の姿で過ごす約束はどこに行ったんだろうな?」
 降谷のジト目も痛くて、つい目をそらしてしまった。獣としては負けだが、相手は人間だからこれは負けじゃない。新一は必死に言い訳を考えたが、結局「だって寒いんだもん」の一言しか浮かばなくて早々に白旗を上げた。よいしょと降谷の手を土台にして伸び上がり肩に手をかけ、飛び降りると同時に変化する。
「っ!こら、いきなり変化するなっていつも言っているだろう」
 顰めっ面の降谷は、新一の裸にも全く動じない。さっさと服を着ないと風邪引くぞ、なんてお決まりの文句の後は背を向けて再び掃除を始めてしまった。むう、と頬を膨らませても抱きついても効果がないのは実証済み。それにこのままだと確かに寒いし、傷跡からも皮膚が突っ張るような痛みを訴えてくるので、新一はさっさと退散することにした。
「ちゃんと温かい服を着るんだよ」
「へいへい」
 おざなりに返した返事に降谷が目くじらを立てる前に、居間からぴゅうと退散する。まったく、とぼやく彼の声に新一は心の中で舌を大きく出した。

 秋の半ばに猪と格闘して負った傷はほとんどがきれいに治ったけど、脇腹に一つ、猪の下顎から大きく生えた牙で穿たれた穴だけは跡が残ってしまった。動物病院で完治の太鼓判を貰い、それでもそこだけ毛が生えずに引攣れているままなのを見て、降谷が「これは人間になっても残るだろうな……」と悲しげに目を伏せたのはひと月前のこと。案の定、新一の薄い腹の脇にできた歪なクレーターは、降谷を更に落ち込ませた。いや、なんでそこであの人が落ち込むのか分からないけれど。俺がもっと強けりゃこんな怪我しなかったんだから、降谷さんは気にするなよと言っても無駄で。せめて少しでも薄まるようにと毎日保湿剤を塗る彼の瞳は真剣で、目の前に若い女の裸があるというのに発情する気配もない。
「やっぱ……胸か」
 自分の部屋にある全身を映す鏡の前に仁王立ちする。手のひらにすっぽりと納まるささやかな丘陵は、いつになっても理想の大きさまで膨らんでくれなくて。蘭や園子と下着を買いに行った時、立って選んでいた新一の足元で蘭が「やっぱサイズないかぁ……このデザイン可愛いのに」としゃがんで項垂れていたのを覚えている。
 降谷に「君は大事な家族で、それ以上の感情なんて持てない」と言われてしまった夏の大狸強襲事件からこっち、新一はそれに頷いてはみせたけど実のところ完全に諦めたわけじゃない。自称恋愛の大先輩園子や、降谷の性格を把握しているヒロからのアドバイスにより「まずは懐に潜り込め。存在に慣れさせろ」というところから地道に始めた攻略。新一に対して屈託のない笑顔を見せてくれるようになったあたりで、新一なりに色仕掛けをしているのだがこれが全く効果無し。その理由は火を見るよりも明らかだった。
「色仕掛けしようにも、色気がねぇんじゃしょうがねぇ……」
 るりこみたいにおっぱいの谷間があればせめて、ちょっとくらい鼻の下伸びてくれたりするかもしれないのに。ぎゅむうと寄せて上げても痛いだけで、谷は作れず。はぁ、と知らずこぼれたため息が胸元に触れてぶるりと震えた。続けて二回飛び出したくしゃみで慌てて服を着る。ブラジャーを着けるのも慣れたもので、背中から腹からとなけなしの脂肪を掻き集めて小山を作った。
「お。これならいけるか……?」
 前屈みになって、両手を膝につく。鏡に映る自分の胸元には、短いけれど確かに一本線が出来ていた。

 ぽふん、ぽふん。降谷が買ってくれたもこもこのスリッパはとても暖かくて、冷え切った廊下を歩くのにとても重宝している。歩きづらいし走り難いのが難点だけど、降谷が選んでくれた事のほうがよっぽど大事だ。今着ている服だって、おしゃれに無頓着な新一の代わりにこの年頃の女の子のファッションをリサーチして降谷が選んだものだ。一緒に買いに行った新一本人はといえば、大きな本屋に目を煌めかせてばかりいたけれど。
 角を曲がると長く続く縁側の真ん中あたりに、降谷は佇んでいた。こ憎たらしいあの相棒はとっくに納戸に仕舞われて、彼の手はズボンのポケットの中。ガラス戸の向こうを眺める横顔は頬を張り詰めさせ、どこか遠くを見つめていた。その青灰色の瞳が新一を捉えると、途端に柔和な雰囲気を醸し出す。この人が心の底から笑うときは眦が一層下がるので、格好良さより可愛さが際立つ。勿論、そんなこと本人には言えない。せっかく縮めた距離が離されてしまわないように。
「その服、着てくれたんだ。とてもよく似合ってる」
「お、おう……。そりゃー、こんな時でもなきゃ着れねーし」
 くるぶし丈のひらひらしたスカートを見下ろして、赤らむ顔を隠した。細かいチェック模様は新一の大好きなシャーロック・ホームズのコートと同じ柄をしている。蘭から押し付けられたファッション雑誌でモデルが着ていたのを、こんなやつなら履いてみたいと思って見ていたら降谷がその場でネット通販で取り寄せたものだ。上の服はこれまた袖がふんわり膨らんでいて、手首できゅっとしぼまっている。農作業するには向かないデザインだから、今日が初お披露目だった。
 収穫期も終わり、本格的な冬支度に入る前にと、今日はこれから降谷と一緒に小旅行だ。隣県にある有名な温泉郷で一泊し、そこからまた足を伸ばして大阪のテーマパークへ。一年のうちで旅行に出られるのは今時期しかないから、とこれまで新一が手伝ってくれた労を労いたいと降谷が計画を立ててくれた。
 車庫にある、ヒロとは真逆の真っ白な、まるで白鳥のようにスラリとした車が降谷の愛車だ。狭い後部座席に荷物を詰め込み、座席を戻してシートに収まると、家中の戸締まりを確認してきた降谷も運転席に乗り込んだ。意図せず同じタイミングになったシートベルトを着ける手が、こつんと軽くぶつかる。
 あれ、もしかして。肩にかかるベルトの位置を調整しながら新一はふと思った。
 ――これって、デートじゃねえ?
 いやそんなまさかな、と直ぐに打ち消したけれど、なんとなく意識しだした心はそわそわと落ち着きをなくして、新一の口数も減っていく。裸になった田んぼを横目に田舎道を走り抜け、市街地手前で高速道路へと逸れる道を上りながら、降谷が「大丈夫?」と聞いてきたときには既に手遅れ状態になっていた。
「……きもちわる……」
「ここで!?」
 車に酔った新一はそれからずっと窓を開けて遠くの景色ばかりを無言で眺めるしかなかった。想像していた楽しい会話も、格好いい降谷の運転姿を堪能する余裕もなく。それでも、「帰ろうか?」という降谷の言葉だけは意地でも断り続けた。なに寝ぼけたこと言ってんだ、温泉といえば湯上がりで火照った躰、精のつく豪華な料理で高まるパッション、二つくっつけて並べられた布団、「寒いから……そっち行っても、……いい?」からの絡み合う素足と視線(注・全て園子の受け売り)。ここでモノにできなきゃ狸が廃るってもんだ。
「その為にはまず、車酔いを攻略しねーとな」
 パーキングエリアでトイレ休憩を取ってスッキリはしたものの、この先も同じ調子では旅行気分どころじゃない。建物から出て大きく深呼吸をして、胸一杯に木々の香りを含んだ新鮮な空気を取り込んだ。よし、と気合を入れて乗り込んだ車内で待っていたのは、鼻を擽る豆を燻した匂い。
「自販機……じゃない」
 新一の大好きな、降谷のコーヒーの香りだ。水筒から紙コップに注いで飲んでいた降谷が、新一の表情を確かめてから「飲めそう?」と聞いてきた。即座に頷いた新一は、どうぞと彼が手にしていたそれを受け取って口を付けてから、『これは……いわゆる間接キスというやつでは?』と気付いてしまった。この位置は降谷が口を付けた場所なのか?しかし今口を離して確認したらバレバレだろうし、意識していると思われてしまう。というかもう唇が紙コップに触れてしまっているから、手遅れなのは手遅れだ。
「そんなに熱くないよ」
「あっ、うん!はい!いただきます!!」
 それでも一応ふうふうと吹きかけて、一口飲んだ。降谷の淹れたコーヒーのおかげで、気持ちがリラックスできたからだろうか。残りの道中は弾んだ会話に揺れを気にすることもなく。なにせ、これまた大好きなホームズの話を振られた新一は、得意になって立て板に水の如く喋り倒したから。彼が如何に素晴らしいか、その冴えた頭脳、洞察力。なにより彼の知識量とそこから推測する閃きの凄さが。そんな彼に憧れて、日々色んなものから情報を摂取しているが、やはりホームズのようになるにはまだまだ修行が足りない。――等々。
 着いたよ、の一言を降谷が発して初めて、新一は後半全く車酔いしていなかったことに気付いた。いやむしろ、延々と新一のホームズ語りを聞かせてしまっていた。しりとりをしたり、降谷の思い出話をせがんだり。そんな甘々な(カップルのドライブはこういうものなのよん、という園子の教えによるものである)雰囲気を目指すつもりだったのに!
 呆然としていると、外から助手席のドアを開けた降谷が屈んで覗き込んできた。
「大丈夫?長距離で車に乗ったの初めてだったしな……疲れたかい?」
 おでこに触れた手は温かくて、新一はついうっとりと目を閉じた。降谷の手のひらはいつだって新一を安心させてくれる。
「平気……」
 実際のところ、降谷の言う通り数時間も車に揺られるのは初めてだし高速道路なんて鉄の猪がびゅんびゅんと追い越して走っていくものだから怖くてしかたなかったけど。話すことに夢中になっていたし、知らず溜まっていた疲れもこの温もりで一気に霧散した感じだ。
「そ、……う。良かった。それじゃ、旅館に荷物を置いたら、少し温泉街を散策してみよう」
 離れていった熱を追いかけるように瞼を上げれば、降谷はなんとも言えない顔で下唇を噛んでいた。
「……降谷さん?トイレ行きてぇの?」
「うーん?うん、まぁそうだね」
 そういうことにしておいてくれ――なんて、変なの。荷物を車から下ろして旅館へと向かう後ろ姿に着いていく。あたりに立ち込める独特なにおいは温泉特有のものだ。それに鼻をくんくんとさせて、キョロキョロと色んなものに目を留めて。疼く好奇心から足があっちこっちへと行きそうになるけれど、降谷が数歩先で振り返って立ち止まっているから慌てて追いついた。
「一瞬でも目を離せないな」
「えへへ……」
 もはや口癖となった降谷の「まったく」に肩を小さく竦めた。するとあろうことか、彼は新一の手を握ってきた。ヒ、と喉から変な声が出た。
「迷子防止だ」
「まいごぼうし」
 手を繋ぐなんて初めてのことだ。家族でも手を握ったりするのか?以前妹みたいなものだと言われたけれど、人間の兄妹は手を繋いで歩くものなのか?戸惑う新一の後方から、同じ旅館を目指して歩いてくるらしき家族連れの賑やかな声が響いた。チラリと振り返ると、そこに幼い兄妹が仲良く手を繋いでいるのが見えた。ああ、繋ぐんだな、とホッとして――がっかりもした。やっぱり他意はないんだな、と。
「つーか、むしろ掃除機と同レベルじゃねーか?」
「なにか言った?」
「や、別に!?」
 この温泉旅館は創業ウン百年で、と語っていた降谷の話に慌てて耳を傾けた。離れを予約してあるから、と言った降谷に、離れの意味を訊ねる。人間は本当に沢山の言葉を使うので、分からない単語が降谷の口から飛び出すとついその場で聞いてしまう。いつもは根気よく教えてくれるのだが、この時ばかりは反応が少し違った。
「あー……。ええとね、そんな深い意味はないんだ。君がうっかり狸になっちゃっても大丈夫なように、と思って」
 新一の手からするりと抜けた降谷の手。そちらに気を取られて、ふぅんと生返事を返してしまった。すうすうと吹き抜けていく冬の風に寒さを感じて、アウターのポケットに手を突っ込んだ。結局、離れの意味は分からずじまいだった。


 2.

 野生の狸相手に邪険にすることなく、屈託なく笑いかけてくれる顔が好きだった。灰色がかった青は雪の日の空のようで、その中で静かに哀しさを湛える孤独な瞳に――新一は囚われるように恋をした。


 ほんわり湯気を立てるお饅頭に大きく口を開いて齧りつく。鼻腔を抜けていく小豆餡の香りと、口の中から喉へと広がる温かさ。あまりの美味しさに目を見開いて、温泉饅頭を咥えたまま降谷を見上げた。ピピッ、と鳴る音と、構えられていたレンズに新一の姿が捕らえられる。
 クッ。我慢できずにといった感じで降谷が喉の奥で笑いをこらえた。
「そんなに美味しかった?」
 見せられたディスプレイにアップで映し出されていた、なんとも間抜けな自分の顔。
「〜〜っ、ふるやさん!」
「ごめんごめんって」
 証拠を消そうと饅頭を持っていない方の手を伸ばした。けれど、逆に降谷から饅頭を奪われてしまった。それも、予想もしないやり方で。
「あっ」
「……うん、美味い」
 もぐもぐもぐ、ごくん。新一はたったの一口しか食べてなかったのに。降谷の大きな一口は、残りすべてをかっ攫っていってしまった。
 ――というか。右手首を掴まれたままなんだけど!?
 はくはくと戦慄く唇は、悲鳴を上げたらいいのか罵声を浴びせるべきなのか、生じた混乱のせいで何も紡げない。とにかくまず、その手を離していただきたい。
「――あれヤバ。めちゃラブラブじゃん」
 脇を通り過ぎていった女子二人組がヒソヒソ話す声が新一の耳に飛び込んできて、大きく手を振り払った。
「おっ……俺!とととトイレ!」
 引き留める声が聞こえた気がしたけれど、新一は走った。とにかく、走った。休日の観光地は人が沢山いて、けれど障害になることなくその行き交う中をすいすいと縫うように走る。ばくばくと音を立てて一緒に走る心臓と、鏡を見なくても分かる自分の顔の火照り。何故だか無性に泣きたくて、叫びたくて。脳裡にチラついて離れない先程のやり取りに、堪らず叫びそうになる。
 もうこれ以上は感情が追いつかないと、心が悲鳴を上げだして。
「や、ば――ッ」
 スカートの中で、変化が解けた尻尾がショーツを押しのけ飛び出した。続いて頭と鼻がムズムズとしてくる。慌てて両手で頭を押さえたけれど、新一は軽くパニックに陥ってしまった。それでもこんな人通りのある所で狸になってしまうわけにはいかないと、俯きがちの視界で必死に物陰になりそうなところを探しまくる。
「――新一、こっちだ」
 突如上からばさりと何かをかけられて、訪れた暗がりと降谷の匂いに包まれ、新一の胸に安堵が広がった。肩を抱かれ誘導されるままに早足で歩を進め、降谷の足が止まったところで新一も立ち止まった。
「ここなら大丈夫」
 布越しに降ってきた声が、安心させようとしている言葉と裏腹に少しばかり張っている。それが返って新一を冷静にさせた。目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をひとつ。頭と鼻のムズムズ感も、腿に沿って垂れていた尻尾も消えてなくなって、どっと疲れが押し寄せた。脱力してしゃがんだ足元に溜まる布が降谷のジャケットだと気付いたのはこの時。
「ごめん、降谷さんの服……」
 襟を掴んで顔を出しながら目線を地面から上げようとして。傍らに立っていたはずの降谷まで同じように片膝を付き、こちらをじっと見ていたのか、至近距離でばっちりと目が合ってしまった。濃灰に青みがかった彼の瞳の奥にちりりと焔が揺らめいた――気がした。
「新一」
 薄い唇が紡いだ名に心拍数が一気に跳ね上がる。滅多に口にしないどころか最後に聞いたのはいつだったか思い出せないくらい激レアなやつ。その降谷の声色に強い意志を感じる。――いや違う。さっき。さっきも呼んでいた。新一がパニックになっていた時、降谷の低いけれどよく通る声が。
『――新一、こっちだ』
 たくましい腕が、新一の肩を抱き寄せていたのを思い出してしまった。自分の体を包むこの服が、彼がついさっきまでずっと羽織っていたものなのだと、思い至ってしまった。
「君に、伝えたいことがある」
 降谷が何かを言いかけている。のに、新一はもう何もかもがいっぱいいっぱいで。
 ぽん!と尻尾が再び現れた。ぽん、ぽぽん!と耳が、そして鼻が。降谷が驚きの声を発するより早く、新一はその身すべてを狸へと変化させていた。
 ごめん、ふるやさん。何もこんなところで。謝りながらも自分が着ていた服の中で脚がもたついて、抜け出せなくて「なぁん」と鳴いた。降谷は十数秒ほどぽかんとしていたけれど、やがて眉をハの字にして参ったな、と呟いた。
「焦りは最大のトラップ……てことか」
 その言葉が何を意味するのか分からず、首を傾げた。降谷は何でもないよと笑って、肩に下げていたショルダーバッグから折りたたみのボストンバッグを広げた。
「そのままでは大騒ぎになるから、ひとまずここに入って。旅館のチェックイン時間まで、どこかで適当に時間を潰そうか」
 路地裏とはいえ、ここは立ち並ぶ店の裏側なだけで人が来ないとも言えない。促されるままそそくさとバッグの中に収まった。
「コンビニだとカメラがあるからな……小さな茶店ならいけるか」
 ぶつぶつと降谷の独り言がバッグの中にも聞こえてくる。喧騒を逃れるように歩くことしばし、人の気配がまばらになってきた辺りで降谷は一軒の店に入ったようだ。お店の人らしい老婆と短いやり取りをして、また揺られ。着いたよ、と降ろされたトイレで新一は人間に変化して服を着た。
「ばれねぇ?」
「すぐに連れが来ると言ってあるし、この店はおばあさん一人でやってるようだから。頼んだものが出来上がるまで店内は無人。カメラも無し。さ、行こう」
 美味しそうなお汁粉だったよ。体も冷えただろう。そう言って、またしても当たり前のように手を取って歩き出す降谷の後を着いて行きながら新一はむううと唇を尖らせた。
 着席して間もなく、割烹着を着たおばあさんが店の奥から出てきた。木のお椀の中にはとろとろのあんこ汁と、焼き目の付いた小さなお餅。降谷が手振りで新一の方に、と誘導した。それからコーヒーが二つ。おばあさんは「ごゆっくりどうぞ」と頭を下げて、再び店の奥へと戻っていった。
「うまそう」
「召し上がれ」 
 木の匙で掬った漉し餡が湯気を立てて、なんとも言えない香ばしさが新一の食欲を刺激する。ふうふうと吹きかけて啜ると、さっき食べた温泉饅頭とはまた違ったあんこの風味に頬が溶け落ちそうになっ――
「じゃなくて!」
 うっかりと流されるところだった。居住まいを正して新一は降谷に改めて向き直った。そして、深々と頭を下げた。
「降谷さん、迷惑ばっかかけてごめん」
「……どうしたんだい、急に。それに僕は全然迷惑をかけられた覚えはないよ?」
 ハの字に下がる眉。この一時間ほどで何度も見た表情。すごく気を遣わせている、と新一の直感が告げていた。
「だって、街中で変化解けちまったり」
「それも想定内で用意していたから何のことはないさ」
「俺ばっか食べまくってて、降谷さんほとんど口にしてねぇじゃん。……その、ここに来るのにもお金たくさんかかっただろ。俺一人養って、ホントはそんな贅沢できねぇんじゃ……」
 降谷の肩ががくりと傾いだ。
「そこ気にしてたのか。むしろ僕が気を遣わせてしまったみたいだな、ごめん」
 それから組んだ両手を顎の下にして、さっきの困り顔はどこへやら、にっこりと余裕の笑みを湛えると。
「でもね、心配はご無用。君がこの間教えてくれた例のアレ……。あれで家計がかなり潤ったからね」
 意味深に潜めた声のトーンは二人だけの内緒話を意味している。何のことだと眉を顰めた新一だったが、まとまったお金になるほどのものといえば、と記憶を振り返って刮目した。
「松茸……?」
「そう。まさかうちの山にあんなお宝が眠っているとは思わなかった」
 へぇ、とおざなりに相槌を打つ。正直なところ、降谷がそんなに目を輝かせるほどの値打ちがあるとは思えなかった。だって、たかがきのこじゃないか。あの時は十個以上見つけたっけか。降谷が終始ご機嫌だったのだけは覚えている。
 促されるまま、今度は遠慮なくお汁粉を堪能した。初めて食べたお餅に戸惑ったけれど、あんこの甘さと餅の風味が絡み合って生まれた味わいに、新一は一瞬で転がり落ちた。
「あつっ、うま、はふっ」
 あまりの美味しさに夢中になり、新一はすっかり忘れ去ってしまっていた。路地裏にて降谷が真剣な眼差しで何かを伝えようとしていたのを。それを思い出したのは、温泉街を散策しそろそろ時間だと旅館に向かい、海の幸山の幸をふんだんに使った会席料理に腹を満たし、大浴場に一人で向かっていた時だった。離れに備え付けてある露天風呂を降谷は勧めてきたが、それこそ一番の働き者であり今回の旅行の資金を全て出した彼が一番に入るべきだと押し切って、新一は大浴場でやっているという変わり風呂を堪能しに来た。今月はみかん風呂らしい。浮足立って向かう新一の後ろに、同じように大浴場へと向かうらしい若い女性二人組が角を曲がって合流してきた。
「ハァー、これが最後の地元湯かぁ」
「いつでも帰ってきたらいいじゃん。隣県のおばあちゃん家に引っ越すだけでしょ?」
「そうだけどさー。実家暮らし最高だったのに……兄貴夫婦さえ戻ってこなけりゃなー」
「あぁ……。気ぃ遣っちゃうもんね。兄嫁さんと妹が反り合わないと兄も大変だろうし」
「それなー」
 徐々にペースを落としていく新一を、二人組は喋りながら追い越していった。
 ぱたん、ぺたん……ぴたり。絨毯敷の廊下の真ん中でついに立ち止まり、新一は両腕に抱えた荷物をぎゅうと抱き締めた。
 降谷からの大切な話とは――――まさか。
 いやいや、ないない。と打ち消すように強く一歩踏み出した。だって、これまでも彼女がいるとか全然そんな気配も素振りもなかったし。女湯の暖簾をくぐって脱衣籠にぽいぽいと着ていた服を脱ぎ入れていく。自分にこれでもかというくらいに服やら本やらを貢ぎまくって、彼女とのデートに充てる資金があるのかさえ怪しいというのに。体をせっせと洗い、備え付けのシャンプーを少量手のひらに垂らして。
 ――でも、松茸でひと儲けしたって、言ってた。農業以外にもちょっとした収入源も確保してるって、この前いつぞや言っていた。それって、人間たちの所で言うところの『結婚資金』というやつでは……?
 リンスもちょっぴりだけ出して手のひらで伸ばして、髪に絡めていく。ショートヘアの方が楽ちんなのと、長い髪は意識して維持しないと直ぐに変化が解けてしまう。母や蘭は『慣れ』だと簡単に言うけれど、誰よりも好奇心旺盛な新一はそこに集中する手間を惜しんだ。
 この、女っぽさの欠片もない見た目十七か八の歳だから、降谷が全く意識してくれないのだろうと思っていた。けれど実は番候補の女がいたとしたら。
「……ありうる」
 人間世界で様々な男女を見てきたが、降谷以上に格好いいと思える人はいなかった。顔がいいのは勿論、背は高いし生殖能力も強そうだし。優しいし、声は聞いてて気持ち良い。そう、まるでこの温泉の湯のように柔らかく、温かく新一を包み込むような。
 出ていかなければならないのだろうか。新一としては失恋のダメージでしばらく山籠りはするだろうけど、降谷のお仕事の手伝いくらいは続けさせてほしいのだが。でも、自分の番の周りによその女がうろついていたら、たとえそれが名目上は妹であったとしても良い気はしないだろう。
 この旅行は、降谷から新一への最後のプレゼントだったのだ。楽しい思い出を作って、これからは一人で頑張れという餞別。ああ、いやだな。降谷の口からそんな言葉、聞きたくない。視界がどんどんと狭まっていく。あまりの気持ち悪さに、新一は強く目をぎゅうと瞑った。


 3.

 この旅行に下心などない、と言ったら嘘になる。
 けれどもそれよりも新しく増えた家族に人間としての楽しみをたくさん教えてあげたくて。共に暮らし始めたのが夏の終わりだったのもあり、そこからは収穫、収穫、収穫の日々。自分の敷地内のことなら数日もあれば終わるのだが、集落内は若手不足で猫の手も借りたい忙しさ。実際に貸してるのは狸の手なのだが、新一を郷長の知人の娘で訳あって預かることになりました、と紹介しながらあちこち助っ人に入った。
 己の恋心を自覚してからというもの、自問自答を繰り返す夜を幾つも越えてきた。生涯かけてただ一人(半分たぬきだが)の女を愛しぬく覚悟を定め、そうと決まればあとは想いを告げるのみ。だがそこでシチュエーションというものに拘りたくなるのは何も恋に夢見る乙女だけの特権じゃない。男だって、決める時はキメたいものなのだ。
 自宅で告白するよりは、記憶と思い出に残る場所で――ホテルのセミスイートを押さえて夜景の見えるレストランか、遊園地ではしゃいだ後の観覧車で二人きりの世界を作るか。いきなりそんな場所に連れて行って告白をしても、青天の霹靂とばかりに徒に驚かせるだけだろう。
 もちろん、自分が告白するまでに心変わりなんかされないようにと、新一をあの手この手で惹きつけたり躱したり。決して弄んでるわけじゃないけれど、この旅行中もくるくると万華鏡のように変わる彼女の表情が可愛くて堪らなくて、ちょっといじめすぎたかな、なんて振り返っては年甲斐もなく一人残った離れでにやけた顔を戒めた。

 だからだろうか、こんなにも痛いしっぺ返しを食らったのは。
 旅館の女将に呼ばれ、大浴場近くの一室にてくったりと横たわる彼女の姿を見たときは血の気が引いた。軽い湯あたりです、と聞かされ胸をなでおろしたものの、抱き上げて離れに連れ帰っても新一はずっと塞ぎ込んだままだった。
「水かお茶でも――」
「いい。……いらねえ」
 寝室に二つ並んだダブルサイズのローベッドに潜ってしまった新一の、布団からはみ出した旋毛をこよりのようにくるくると弄ってみたけれど、やんわりと除けられてしまう。どう見てもこれは、具合が悪いとかバツが悪いとか、そんな問題じゃない。明らかに彼女は機嫌を損ねていた。
「どうして怒っているのか、聞いてもいいかな」
「…………」
 怒ってねぇ。ぽそぽそと布団の中から聞こえた不機嫌丸出しな言葉に、零れかけた溜息を飲み込んだ。
 まだ付き合いの浅い自分たちだからこそ、同じ屋根の下で暮らしていても全てを知り尽くすにはまだまだ時間がかかる。さっきまではあんなにはしゃいでいたのに、御馳走だってこんな小さなお腹のどこに入ったのか、見事に全部平らげて「もうムリ……」なんて悩ましげな吐息を吐いていたのに。
 同性の前とはいえ公衆の面前で全裸で倒れたのがそんなに恥ずかしかったのかと推測してみたが、そもそも元が野生の生き物だからそこに羞恥などほとんどないと降谷は知っている。
「言ってくれなきゃ、分からないよ」
 どれだけ考えても原因が見当たらない。早々に白旗を上げると、新一は潜ったまま「言ってくんなきゃわかんねぇのはこっちの方だっての」とぼそり呟いた。
「……どういう事かな」
 降谷の気持ちが筒抜けだった――とは思えない。何しろこれまでさんざん好きアピールをしてきたのにこの鈍感狸は悉《ことごと》くを気のせいで片付けてきたのだ。直球で言っても伝わるかどうかと危ぶんでいる降谷の気持ちなどお構いなしに、煽るだけ煽っておいて、だ。
 それに、これはそういった類の拗ね方ではないような気がする。降谷はもう少し詳しく言ってくれと畳み掛けた。
「けっ、けっこん……すんだろ。――俺に、邪魔だから出てってほしいって……この旅行も今までありがとう的なやつ、なんだろ」
 ずび、と鼻を啜る音がして、思わず自分の頭を掻きむしった。
「――どうしてそうなる!?」
 君は馬鹿なのか!?本気で叫んで、布団を剥いだ。突然の外気にぴやっと縮こまる新一の両手首を掴んで頭の横に縫い留める。目と鼻の頭を赤くした彼女を真上から見据えた。
「よそに女を作るような暇なんてなかったのは、君が一番よく知っているはずだが?」
 何しろ朝から晩まで一緒に居たし、とにかく多忙な日々だったのだ。土曜日曜など関係なく肉体労働に明け暮れた収穫の秋、そのどこに新一の目を盗んでデートしたり電話をしたりメッセージのやり取りをする暇があったのか。むしろ空き時間はすべて、「そうだっけ?」と言わんばかりに目を真ん丸にしているこの少女に注いできたというのに。
 新一の呆然とした顔から、不安の色が消えていく。
「俺……出ていかなくていい?」
「誰も出ていけなんて言ってない」
「でも降谷さん、いつかは結婚すんだろ?そんとき俺のコト、どう説明すんだよ」
 ――ああ、もう。今度こそ空に向かって大きく息を吐き出した。体を下にずらすと同時に組敷いていた身体を引き起こす。冷静に考えるととんでもなく際どい体勢だったが、幸いなことに彼女にそんな意識は全くなかったようだ。……いや、それはそれで悲しいが。
 ベッドの上で胡座をかいて、対する新一は三角座りをして。浴衣の乱れた裾から覗く滑らかな脛から気を逸しながら、降谷は掴んだままの手に心持ち強めに力を入れた。新一の黒く長い睫毛が揺れ、眦に朱が走る。
「は、離せよ」
 震えながらも拒絶する言葉とは裏腹に、手を引く力は微弱で。いっそのことこのまま引っ張って胸の中に囲ってやろうか、厭を言う唇を塞いでやろうかと、沸き上がった欲を既のところで押しとどめた。怖がらせたくない。大切にしたい。恋心を打ち明ける絶好の機会だとしても、通じ合った勢いで抱いてしまえば、もとからそのつもりでこの離れを予約したみたいに捉えられそうだし、何よりも彼女の全てを手に入れるのはご両親への挨拶を済ませ婚約してからと降谷は決めている。キスくらいなら、と思わなくもないがこの場所でその先を自制出来るかといえばあまり自信がないと言い切る自信ならある。
「……離してもいいけど、ちゃんと聞いてくれるかな」
「聞く!聞きます!」
 ぶんぶんと頭を上下に振った勢いで裾と袂が崩れ、太腿の際どいところまでが露わになる。楽にする為に元から緩めに着付けていたから、胸元なんて下着を着けていないのが分かるくらいに大きく開いてしまっていた。
 目に毒だ。――だが、眼福でもある。
 新一は気付いていない。教えるべきかと悩んだのは一瞬で、降谷は黙っていることにした。聖人君子を名乗った覚えはない。田舎に引っ込みはしたが涸れたわけじゃなく、それなりに欲もある一人の男なのだ。これは所謂ラッキースケベの一つとして有難く頂戴しておこう。
「ええと、まず大前提として君はあの家から出ていかなくていい」
「降谷さんが出て行くってことか……」
「いや違うから。まず人の話は最後までちゃんと聞きなさい」
 指先に感じる、新一のしっとりとした手汗。緊張しているのだろうか。上昇する体温が、湯の香を仄かに漂わせる。うん、これは良くないなと血の巡りが活発化しかける箇所に強く自制を強いた。深く息を吸って、吐いて。吸って、吐く。
「もう一つの大前提の話をするよ。つまりは、僕は、君が――新一のことが好きだから。好きになったひとを追い出すなんてことはしないし、むしろこの先もずっと一緒にいて欲しいとそう思っている」
 新一の瞳はいつだって誠実で、真っ直ぐで。晴れ渡った日の南中の空のように蒼く、雲一つない大空の下の凪いだ海面のように碧い。この青に包まれたら、きっと幸せになれる。疑いようもない確信が、不確かな未来さえ希望の花で彩っていくのを感じる。愛が色と形を纏うとしたら、今降谷の目の前にある姿こそがそれだった。彼女は決して弱くない。降谷に守られ、甘えるだけの存在じゃない。少女であろうと小柄な動物だろうと、どんな姿形でいても誰にも怯まず臆せず屈せず。凛とした強さで、何かを守ろうとするその心根に、降谷は惚れた。命を賭して一生涯をかけて、愛し抜きたいと心から思える存在ができたことを奇跡と呼ばずしてなんと呼ぼう。
 真意を探る彼女の眼差しから決してそらさず、まっすぐに。新一の心に届くように、一生忘れられることの無いように。祈りにも似た気持ちで、だが力強く。降谷は――渾身の想いで愛を告げた。
「好きです。僕と結婚してください」

 新一は。潤んだ硝子玉を燦めかせて、笑った。


 4.

 高鳴る鼓動、重なる視線。ほんの少しだけ開いていた唇がきゅうと閉じて、何かを堪えるような切なさを滲ませて新一は瞼を伏せた。
 ――これは、キス待ち顔……でいいのか?
 ごくりと喉が鳴った。脳内で据え膳コールが沸き立つ。俯き加減の顔を覗きこみ、まだ少女の柔らかさが残る頬にそっと右手で触れた。ぎゅ、と柳のような眉頭に力が入り――
「やっぱりそういうことか……。見損なったぜ、降谷さん」
 可愛らしい桜色の唇から発せられた言葉に、「……うん?」とこちらも同じく眉根を寄せた。自分は新一に、愛の告白をしたはずなのだが。しかも少々気持ちが走りプロポーズまでやってしまった。『やっぱりそういうことか』?『見損なったぜ』?おかしい。ここにいるのは晴れて両想いとなった恋人たちではないのか。何故糾弾されなければならないのか。
「旅行前に園子や蘭から聞いてたんだよ。『ベッドの上で告白してくるような奴は身体だけが目当てだから絶対頷くな』ってな!」
 キッと睨みあげてくる瞳は怒りに燃えていた。

 一世一代のプロポーズから小一時間。恋人同士になれるはずだった男女は何故かベッドの上であーだこーだと互いの主張を繰り広げていた。
「何度も言うけどね……、君の言うそれは一般論であって、僕は告白してOK貰えたからと言って即ベッドインなんかしない」
「とか言って未だにここに居座ってんじゃん。あわよくば〜とか思ってんだろ?『据え膳食わぬは男の恥』とか謂うもんな。……ほら、体温がちょっと上がった」
 内心の動揺を隠せても、野生育ちのこの子には通じない。繋いだままだった左手を得意気に掲げて、新一はドヤ顔で言い切った。
「脈拍も早くなってるぜ?さしずめ今のは図星だった、てとこかな」
 く、と反対の手で顔を覆った降谷はそれでも苦し紛れの反論を試みる。誠意だけでもちゃんとしているところを見せなければ。
「それでも、ここでは手を出さないよ。まぁ、キスくらいなら……とは思わなくもなかったけど」
「まぁったまたぁ〜。交尾する気満々なクセしてよぉ」
 へらりと笑って、新一が手を伸ばした。むぎゅ、と掴まれたのはまさかの場所で、悲鳴を上げたのは降谷ではなく新一の方。
「マジで臨戦態勢!!」
「――本気で失礼だな!?」
 平素時の状態を指して臨戦態勢とはこれ如何に。さすがの降谷もプライドが耐えられなくて言い返した。
「そのまま触っていれば当然ながら膨らむし、二倍とは言わないけどそれなりにあるからな!――覚悟してろよ」
「ヒッ」
 振りほどき胸元へと怯えて逃げた新一の両手をもう一度捕まえて、今度は明確な意図で押し倒した。遂に露わになってしまった胸元を見てギャアと叫んだ新一に今更かと呆れる。これまで散々惜しげもなく披露してきたくせに、降谷がひとりの『雄』だと知った途端に恥じらう。そのギャップに堪らなく興奮する。
「ちょっ、タンマ!待って――」
「あんまり暴れると下も見えちゃうよ」
「え、エッチ!スケベ!へ、変態!えーと、なんだっけそうだロリ!ロリコン!」
 ありとあらゆる言葉で罵ってくるけれど、明らかにあのお仲間たちの入れ知恵だと分かるだけに可愛らしくてむしろ嗤いさえこみ上げてくる。降谷の下でどうにかして逃げようと藻掻けば藻掻くほど、その姿は男にとって扇情的で淫らにしか見えないというのに。ふ、と鼻で笑った。
「いい眺めだな」
「〜〜〜〜っ!」
 硬直した新一の口がはくはくと戦慄く。と、目の周りと鼻が一気に赤らんで、水面を張る瞳。
 あ、まずい。咄嗟に手を離すと、新一は素早く身を捻った。毛毬はコロンと転がってベッドから落ち、部屋の隅へと飛んでいく。尻尾を中に抱きかかえて壁を向き、ふるふると震える後ろ姿に罪悪感がどっと押し寄せた。
「し、新一……。ごめん。今のはさすがに調子に乗りすぎた」
 ベッドから降りて、1メートル手前で膝をつく。背中が総毛立ち、振り向いた新一は威嚇を歯の隙間から発しながら――泣いていた。つぶらな瞳から雫がぽろりと零れ落ちる。その瞬間、降谷は思いっきり土下座した。
「っごめん!そんなに怖がらせるつもりはなかったんだ!」
「シャーッ!!」
「あ、うん。怖がってなんかない、滅茶苦茶怒ってるんだよね」
「グルルルルル」
「本当に、ごめん……。ごめんね、新一」
 尾先が黒い尻尾がびたんびたんと床を強打した。これはかなりのご立腹だ。降谷は改めて正座をして腿に手を付き、深々と頭を下げた。
「誓って、この旅行では君にふしだらな事はしない。ただ、――ただ、新一に僕の気持ちを知って欲しかったんだ。去年と、今年の夏と。君が僕に向けてくれていた想いがまだ残っているなら、それを今度こそ隠さずに、僕にぶつけてほしくて」
 新一の全てを受け止めたいんだ――そう言って、伸ばした背筋と広げた腕。降谷の方に向き直った新一は上体をくっと屈め、前脚でカシュカシュと床を掻き。一つ大きく鼻を鳴らすと、頭をぐっとお腹の方に入れ込んだ。勢いで下肢が上がり、ぐるんと一回転。
 降谷の視界には妙齢の女性の丸いお尻と、普段は隠された大事なところ、続いてお臍の窪み、ささやかな乳房と中心部のピンク色が――動体視力が良すぎるのも考えものである。それから最後に飛び込んできたのは、今にも泣きそうな顔をしながら笑う新一の顔だった。
「きゅぅっ!!」
 狸の時と同じような喉の奥で鳴く声がした。ぶつかった弾みで後ろに傾ぐ体を右腕を後ろ手にして支える。もう片方は新一の身体を支えようとして、意味もなく宙に掲げた。たった一枚の浴衣越しに伝わる柔さと体温に生唾を飲み込む。正直、生殺しもいいところである。
 視線を部屋の壁からちょっと下にずらすだけで、色白だけれど健康的な滑らかな丸い双丘が降谷を誘うように揺れているのが見える。これはいけない、と慌てて天井を見上げた。自分の中心部までもが上を向きそうに熱を帯び始める。己の、どんな色仕掛けにも靡かない鋼の理性なんてものは、この子の前では紙切れ同然。喉の下の窪みにおでこをぐりぐりと擦り付ける可愛い仕草が降谷を苦行へと追い立てる。
 確かに新一の想いを遠慮なくぶつけてくれとは言ったが、こんな体当たりで密着しろとは言っていない。新一は分かっているのだろうか。さっきまでこの男に半分冗談とはいえ、襲われかけていたことを。
「……俺、降谷さんのこと好きでいていいんだ」
 ぽつりと零れた新一の言葉は安堵と喜びに溢れていた。――ああ、もう無理だ。
 今度こそ降谷はそのいじらしい存在を抱き締めた。細い肢体はほんの少しの力でも折れそうで怖くて、けれど緩めたら腕の隙間から逃げていきそうで。その素肌に触れたいと、だが指先で触れてしまえば呆気なく脆く瓦解してしまう理性という名の壁を前にして握り締めた拳の中、食い込む爪の痛みで保つ自我。こんなにも必死に己と戦っているというのに、新一ときたら降谷の背中に腕をまわしてくる始末。食いしばった奥の歯がぎしりと鳴った。
「しん、いち……一回、離れてくれないか」
「なんで?」
「何でって、」
 そんなの分かるだろう!と喚きたい気持ちを堪える。新一にも伝わっているはずだ。己の欲望が顕れてきているのを。この場で押し倒して貪りたくなる凶暴な心をギリギリで押しとどめている状態なのに、この鈍感狸が!と胸の中で悪態をついた。
「いいよ、降谷さん。――交尾、しよ」
 面を上げて、新一が頬を染めながら言った。背伸びで擦れる胸の頂の感覚にくらくらと目眩がして、不意を突いて唇に触れた柔らかなものの余韻に浸る余裕もなくて。
 離れていく熱を追いかけ、捕えた。何度も、何度も重ねて、食んで。頭の奥が痺れる感覚に酔いしれる。もっと、もっとと叫ぶ本能に抗えず、閉ざされたその先へと舌先を差込もうとしたところで。
「っ、……!!」
 新一が全身をびくりと震わせて硬直した。唇を味わうのに夢中でいつの間にか押し倒していた床の上、口を真一文字に結び、固く目を瞑る姿に冷静な自分が舞い戻ってきた。危うく流されるところだった。何もかもがおぼこい新一には、性急さよりも一つ一つ丁寧に教えていくことが大事だ。あの仲間たちの余計な入れ知恵じゃなく、降谷と新一だけで築きあげていく絆と愛があるのだと。
 急きすぎたな、と押し寄せる罪悪感に凹みそうになりながら、降谷は新一を驚かさないようにそっと起こした。ぱしぱしと瞬きを繰り返す彼女はきっとまだ混乱の最中なのだろう。ベッドから浴衣と下着を持ってきてショーツを履かせると、おとなしく降谷の手に従った。浴衣の前を合わせ、帯を締める。最後にやんわりと抱き寄せて、頭をぽんぽんと撫でた。
「吃驚させちゃったね。明日はたくさん遊ぶ予定だから、セッ……交尾はそのうち、追々とね。だから安心して、もうおやすみ」
「ん、うん……。おう」
 背中を押されるままにベッドにもぞもぞと潜り込む姿を見届けて、布団を肩まで引き上げた。見上げてくる蒼玉が不安げに揺れる。安心して眠れるようにと、瞼にキスを落としてやれば新一は「へへ、」とはにかんで笑った。
「おやすみなさい、降谷さん」
「うん。おやすみ、新一」
 小さく頷いて、新一は文字通り布団の中へ。狸の習性なのか、全身を隠さないと眠れないのだと知ったのはいつの頃だったか。寒くなり始めたあたりから、異性だとか思春期だとかそんなの関係なしに、疲れていようがなんだろうが早朝に部屋に押し入り叩き起こす日が続いていた。布団を捲れば狸の姿になっていた日もあった。日の光で目が覚めるリズムを作らないとと言うと新一はぷりぷりと怒って、顔だけ出して寝るなんて警戒心がなさ過ぎる!と抗議してきた。むしろ潜る方が考えられないのだけど、人間と狸では警戒するものが違うのだろう。今では布団の隙間からこっそり新一の寝顔を覗くのが日課といってもいい。
 ものの数分も経たないうちに聞こえてきた寝息に熟睡を読み取ると、降谷は部屋の灯りを落として寝室から出た。内風呂で欲を排出しても、到底同室で寝ようという気にはなれない。もう一つのベッドから布団を拝借して居間で浅い眠りを取り、朝の気配が強くなってきた頃に空いたベッドに横たわりさもそこで寝ていましたよと言う体で新一の目覚めを待った。
 昨夜のことを、新一は寝惚けて夢だと思うだろうか。もしそうだったら、もう一度口付けで知らしめてやれるのに。いたずらを仕掛けた子供みたいに、わくわくと踊る胸は年甲斐もなくはしゃいでいる。
 太陽の光が室内を刺す頃には夜の闇はすっかり取り払われ、こんもりとした布団の山がもぞりと動く。もぞ、もぞもぞ。「ん、んん……」中で伸びをして、それから。
 きょろきょろしながら出てきた新一を上から覆い被さり捕まえて、その桜色の唇に一日の始まりを祝して口付けた。
「おはよう。――僕のお嫁さん」
 驚嘆のあまり直後に狸に戻ってしまった新一を見て、腹の底からこみ上げてきた笑いを我慢しなかったが為に。降谷は損ねてしまった新一の機嫌を取り戻すのに半日を費やしたのだった。


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