たぬきのお嫁さん

たぬきの友情と名誉の負傷

 1.

 初夏の珍事の始まりは、梅雨明け宣言間近の七月半ばのこと。その日はまさに梅雨明けかと思うくらいにからりと晴れていて、田畑仕事がようやくやり易くなるなと縁側の雨戸を全開にしながら空を見上げた。湿気混じりの暑さは朝からじわりと肌着を湿らせる。気の早いクマゼミが早朝からシャワシャワとどこかで鳴き出した。今日は久しぶりに外に洗濯物を干せそうだ、と目を細めて見遣った山の方角、田んぼと畑の間にある砂利道をこちらに向かってやって来る珍客に今度は大きく目を見開いた。
 ――狸だ。だが、それは降谷が待ち望んでいる個体ではなかった。
「ひい、ふう、みい……五匹!?」
 ぞろぞろと列をなして現れたのは、五匹の狸たち。面白いことにそれぞれにどこかしら撥ね毛などの特徴があるのが面白い。いや、面白がっている場合ではない。
 縁側の沓脱石の前に整列した狸たちの光景は異様というか非日常過ぎて、降谷は驚きを通り越して逆にスンと心が落ち着き払ってしまった。狸が夫婦揃って人間に化けるくらいだ。この狸たちだって人語を喋りだしてもおかしくは無い。ただ、どうせなら怪現象大好きな親友の家でやってほしい。首都近郊で育った生粋の都会っ子である自分には、この手のファンタジーはあの狸の少女だけで手一杯なのだから。
 狸たちはそれぞれに身振り手振り、時には鳴き声や威嚇音まで出して何かを伝えてきた。それらを纏めると。
「あれからあの人間に化ける子狸は、一人前のレディになるべく特訓をしてきた――と」
 フゥン、と懇願するように一匹の雌狸が鳴いた。頭にとさかのような山があるその狸はこの中で一番雌らしい振る舞いをしていたので、多分雌なのだろう。
「ええと?それからナイスバディに磨きをかけたって?」
 全体的に黄色っぽい毛並みの狸がブンブンと頭を上下に振る。甲高い鳴き声でよく喋っていたのはこの子だ。身振り手振りも大袈裟なくらいで、豊満な胸とふくよかなお尻を強調するジェスチャーについ吹き出してしまい、牙を剝いて威嚇されたが。
「人間の言葉を上手に話せるようにもなり……」
「おう」
 頷いたのはあの子に似た毛模様の狸だ。最初は人語を喋った!と驚いたが、この狸は「おう」しか言えないようだ。いや、それだけでも十分に凄いのだが。
「生活の基本的な知識もバッチリやで……と」
 後ろ足で立ち、腕(前足?)を組み、一番真っ黒に近い狸が鷹揚に頷く。どうしてかこの狸のジェスチャーや鳴き声が脳内で関西弁に変換される。隣の番らしき狸に向かってたまに裏拳でツッコミを入れるからかもしれないが。
 ナァーウ、と猫のような鳴き声を上げて、とさかの狸がくるりと後ろを向いた。それに合わせて他の狸もこちらに背を向けてぞろぞろと歩き出す。「おい」と最後尾の狸が振り向いて顎をしゃくった。
「付いてこい、と言うのか……」
 畑仕事がまだ手付かずなんだけどな、とぼやいたら全員一斉に振り向いた。怖――くはないが、後々復讐とかされても嫌なので、大人しく従うことにした。

 狸の群れの後ろを歩き続け、山の三合目辺りまで来た。山に入るときは必ず長袖を着用しているのだが、この時期はとにかく蒸し暑くて大変だ。脱ぐわけにもいかず袖で汗を拭いながら、一番後ろにいた小柄な狸に声をかけた。
「なぁ、まだなのか?そろそろ畑で採れた野菜を産直に卸しに行かなきゃいけないんだが」
 漫才夫婦の片割れと認識していたその狸は、ちらりと振り向きフンフンと鳴いた。
「……うん。分からないな」
 きゅうう。きゅうう。その鳴き声には若干の焦りも感じられ。降谷は、ん、と眉間に皺を寄せる。何か、良からぬことが起きているのかはたまた起きようとしているのか。さらに問重ねようとしたところで、先頭を小走りに進んでいたとさかの狸が大きな威嚇音を発した。途端に全員が短い手足ながらも全速力で駆け出す。
「お、おい!」
 勾配は緩やかでも、砂利道を駆け上がるのは少々きつい。トレッキングシューズでなかったらやばかったな、と草むらの獣道を掻き分け走りながら思った。最後尾の狸はこちらが見失ってしまわないよう、時折立ち止まり振り返り、「早く、早く!」と言うように鳴き声を上げて急かしてくる。しかし狸と違ってこちらは百八十センチの人間だ。低木の枝を払い、腰をかがめて潜りと思うように早くは進めない。一体何をそんなに急ぐのかと浮かんだ疑問は、やがて聞こえてきた獣同士の争う声に、答えを出すより早く体が反応した。
「――狸ッ!」
 低く唸り、吠える嗄《しゃが》れ声に相対するように高く威嚇する声が響く。ぎゃう!ガウウウ!激しく地を蹴り、草や枝が大きく擦れる音。喧嘩、だろうか。斜面を大股で突き進み藪を抜け、勾配のない平地になった所に出た。そこでは少し小柄な狸と、一回り大きな狸が取っ組み合いの喧嘩をしていた――というより。
 交尾されそうになっていた。
 小柄なたぬきの項に噛みつきマウンティングを取る雄らしき狸は、降谷を連れてきた狸たちの必死の攻撃にびくともしない。下になっているたぬきも必死に藻掻くが、立派な体格をした大きな狸から逃れられないでいる。
 しんいち、と空気と共に口からこぼれ出た言葉は無意識のこと。
 それでもたぬきは、降谷に気付いた。一声大きく唸ると、渾身の力で片方の前足を振り上げる。裏拳が大狸の目を掠った。噛む力が弱まった隙に這い出ると、一目散にこちらへと駆けてきた。
「たぬ、――ッ」
 その後ろを、大狸が追いかけてくる。己の尻尾に噛み付いている黄色狸を引きずったままでも力強く、素早い走りに降谷はたぬきを腕の中に匿い身を攀《よ》じるのが精一杯だった。
 ぶつ、と腕に食い込む牙の痛みに喉の奥で呻く。この、と振り払うよりも早く動いたのはとさかの狸だ。大狸の懐近くに飛び込むと、短くも靭やかな鞭のように後ろ足が大狸の顎に入った。
「ま、回し蹴り……ッ!?」
 続け様にもう一発、前足を軸にしたまま今度は反対側の後ろ足が大狸の後頭部に直撃する。痛みも忘れて呆気に取られた降谷の腕から抜け出し、肩へと飛び乗ったたぬきがとどめとばかりにジャンプして飛びかかり、鼻先に大きく噛み付いた。ぎゃうん!と悲鳴を上げた大狸は血を流しながら後退していく。そこにたぬきがさらに一歩大きく踏み出しシーッ!と威嚇すると、流石に不利を悟ったのかぎゃんぎゃんと吠えながら逃げていった。
 遠くに消えていた蝉の大合唱が戻り、シャワシャワ、ミーミーと煩いくらいに降谷の頭上に降り注ぐ。太陽はかなり上まで登ってきていて、忘れかけていた暑さが木漏れ日と共に肌を焦がした。降谷は知らず詰めていた息をふうと吐き出した。狸は縄張り争いをしないのではなかったか。そんな疑問が生まれたものの、それよりも最初に見た衝撃的な光景が強烈すぎて何も言葉が出てこない。呆然とする降谷を現実に戻したのは、足に何度も突っかかってくるたぬきの存在だった。
 ひゃうん。ふぅん。悲しげに鳴きながら見上げてくるたぬきを降谷はそっと抱き上げた。
「お前、怪我してるじゃないか」
 首の後ろのぬるりとした感触に手を広げると血がべっとりと付いていた。毛並みも土まみれでぼさぼさ、よほど激しく暴れたのか毛抜けも見られる。降谷が受けた噛み傷も早急に処置しなければならない。足早に下山しながら親友に連絡を取ったのは、不肖ながら狸たちの手当を頼むため。
 全員の傷をざっと検めたヒロは迷わず降谷の病院送りを優先事項と定めた。降谷が持つ車のキーを奪い取り、自分の車に乗れと顎でしゃくる親友の表情は思ったよりも深刻で。
「その腕失いたくなかったら、つべこべ言わずにさっさとするんだな」
 狸たちは大丈夫だからと言うヒロの後ろで、当の獣たちが一斉に頷いたので。ぼんやりしだした頭で降谷も頷き返した。
「君たちは日差しが強くなる前に家の中に入ってて。今の時期は東の土間の所が風も吹き抜けて涼しいから……」
 土間に続く外の戸は基本的に施錠はしていない。狸なら開けられるだろうと伝えると、そんなことはいいから早く乗ってと言わんばかりに、鼻先で降谷の踵をぐいぐいと押してきた。車のドアを開け乗り込む間も心配そうに見上げてくるたぬきは、今にも泣きそうな顔をしていたから。降谷は大丈夫、と笑ってみせた。
「すぐに戻るから」
 出すぞ、とヒロが声を掛けた。動き出す車から距離を取り、たぬきが後を付いてくる。敷地に面した道路の上で立ち止まり、その場からじっと降谷を乗せた車を見送る姿をサイドミラー越しに眺めて思った。
 ああ、――なんだかこそばゆいな、と。
 それは、昔、自分がまだ少年だった頃の。玄関に立ち「いってらっしゃい」と手を振り見送る母の姿と重なって、ぼやけていく。
 腕の痛みは我慢できないほどにまで強くなっていた。


 2.

 野生の動物には人間にとってよくない雑菌をたくさん持っていて、特に爪や牙は引っ掛けないように注意すること。親や教育係になってくれた友らが教えてくれた言葉を思い出す。遠ざかる熊みたいな車をざわざわした気持ちで見送るのはこれが二回目。得体の知れない怪我に胸騒ぎした一回目よりも、今度のはどういった症状が出るのか知っているだけに新一の心は落ち着かない。
 フゥン、と後方で自分を見守っていた幼馴染がそっと促す。あまりここに留まっていては、またいつ他所の人間に目に留まるか分からない。道路は狸などの動物にとってとても危険な場所なのだ。
 降谷さんが指定した場所で体を休め、怪我の痛みに耐えて待つ。磨り硝子越しで和らいだ夏の日差しと、コンクリートの床のひんやりとした冷たさが気持ちいい。
「にしても、あのエロボケ狸。実力行使に出るとは思わんかったなぁ。なぁ、平次?」
 沈みがちな空気を蹴散らすように口を開いたのは、この中で唯一つがいとなっている狸の片割れの雌である和葉だ。大阪というここから遠く何山も越えた土地に住んでいたが、変化できる仲間の狸を探してあちこち転々としてここに流れ着いた。平次はそのつがいの片割れ。目の周りや手足、尻尾の先が黒いのが狸の特徴だけど、こいつはほぼ黒い。というか、毛色が薄い所がない。あと何故か新一のことを両親が名乗る名字の「工藤」で呼んでくる。
「いや、俺は近いうちにプッツンくるやろなぁ思っとったわ。発情期終わってもウロウロしとったんがその証拠や」
 けどまさか、俺らがいなくなるのを虎視眈々……いや、狸視眈々と狙っとったとは。平次がげんなりとして言う。それを聞いて、黄色みがかった狸の園子が両前足で頬を押さえぷるぷる震えた。
「キモいわねマジで!知ってる?ああいうのストーカーって言うのよ」
「園子ちゃんはホンマに物知りやなぁ」
「狸塚《まみづか》のおばあさまとは仲良しなの。人間と昼ドラを見る狸なんて、アタシくらいなもんでしょ」
 ふふん、と得意げに園子は顎をそらした。代々、郷長の家と園子の家族は深い付き合いをしてきている。だからか、この中で一番人間の生態や街に詳しい。るりこの父親が煩く言わなくなったのも、新一の両親の力だけでなく園子が郷長に口利きをしてくれたおかげだ。
「また来たら今度こそこてんぱんにしてやるんだから!新一も、一匹でふらふらしちゃ駄目よ?今日だって巣穴で大人しくしててって言ったのに」
 幼馴染の蘭がふんふんと鼻息荒くする。
「ばーろー、アイツが乗り込んで来たんだっつの」
 朝っぱらから何やら企み顔の皆に「絶対ここにいろ」と念を押され、巣穴でじっとしていたところに突然飛び込んできた一匹の雄狸。冬にこの山に流れ着いたかと思えば自分を番にしようと何度も襲ってきた奴だった。若々しい雄ならまだしも、六年以上は生きているだろう老狸だ。いくらなんでもそれはないと、何度も何度も突っぱねてきたというのに、この雄狸は懲りもせずに時期外れの夏だろうと構わず交尾に及ぼうとしてきた。
「俺だけじゃ勝てないって分かってたから、時間稼ぎに暴れまわってたってのに、オメーらは降谷さんと仲良くしてやがって」
「ハァ?仲良くなんかしてねぇよ」
 面倒くさそうに答えたのは快斗という、新一に毛並み模様が似ている狸。狸のくせに人間より頭がいい。人語を体得していて、時々それでちょっとした悪戯をしている……らしい。警察沙汰にはしてねぇぜ、というのは彼の談。
「むしろおめーがいつまでもウジウジとぺちゃパイなのを引き摺ってるから、俺らがこうしてお膳立てして連れてきてやったんだぜ?ハイ新一ちゃーん、『ありがとう』は?」
 意地悪い口調にカチンと来て、後ろ足で立ち上がり、前足でファイティングポーズを取った。売られた喧嘩は買うの一択だ。
「俺のは発展途上なだけだろ!つーか、オメーらが連れてきたせいで降谷さんが怪我したんじゃねーか!」
 あぁ?と立ち上がる快斗と反対に、やめなよと制止した蘭はしょんぼりと項垂れた。とさかもへにょりと後ろに垂れている。
「ごめんね、新一……。あの大狸を私が最初の一撃で仕留めていれば」
 幼馴染の涙に、新一はとても弱い。あわあわと前足を振って、「いや、蘭は充分強かった!」とフォローした。
 マジであの時は貞操の危機だった。首の後ろの痛みと共にあの時の恐怖が蘇る。蘭の不意打ち頭突きにもびくともしなかった大狸の下から抜け出せたのは奇跡に近い。唸り声や威嚇声の中、降谷さんが自分の名を呟く声だけがはっきりと聞こえてきた。彼は山中に自分の姿を探す時、いつだって「たぬき」としか呼ばなかったくせに。あれはズリぃだろ、と心の中でこっそり呟いた。思い出すだけで尻尾がぶんぶん揺れてしまうのはもうしょうがない。周りも慣れたものか、「ああまたフルヤサンのこと考えてるな」としらけ顔をされてしまったけど。
「降谷さん、無事だといいね」
 蘭がそっと寄り添う。新一では届かない首の後ろの傷を舐めながら、くぅん、と鳴いた。静けさが訪れた土間にも届く蝉の鳴き声だけが延々と続き、時間の経過も分からなくなってくる。こんな永遠を過ごすくらいなら、いっそ走って追いかければよかった。あちこちに残る降谷さんの残り香が、喉をきゅうと締め付けてくる。胸の中に生まれた不安はぐるんぐるんと渦を描いて、どうにもできない気持ち悪さがどんどんとお腹の中に溜まっていく。
 そんな重苦しい沈黙に耐えかねて、お見舞いに行こうと言い出したのは和葉だった。
「みんなで行くんはダメやけど、新ちゃんと蘭ちゃんで」
「え、あたし!?」
「だっておっきい街やし、新ちゃんだけで行かせたら絶対に悪い人間に誘拐されてまうで?」
「あ、そっか、そうだよね」
「オイ」
 強く言い返せないのは、人間の世界に馴染むために化けてこっそりと街を歩いて見たときに何回も呼び止められた前科があるからで。こんな田舎からも連れ出して働かせるくらい、東京は女が不足しているらしい。降谷さんも番を探して都会を離れたのかな、とあのとき蘭に問い尋ねたら頭を抱えられてしまったけど。
 そうこうしているうちにヒロの車の、ぐうううんと鳴る音が聞こえてきた。土間の出入り口の前に陣取って、戸が開くのを今か今かと待ち構える。車の音が聞こえる間は敷地の広いところに近づいてはいけない――降谷さんが教えてくれたことだ。そわそわと落ち着かない心が、飛び出していきたい気持ちを駆り立てる。車から降りたのはひとり分の足音だけしかなく、それだけで胸がざわざわしてしまう。ヒロはこちらへと真っ直ぐに向かってきた。
「お前ら、大人しくしてたかー?」
 ガラガラと開いた木戸の、一歩入ってきた足元に擦り寄った。フゥンフゥンと鼻を鳴らして具合を訊ねながら見上げると、ヒロが抱き上げてくれた。
「痛かっただろ。首の後ろんとこ、手当てしてやるよ」
 違う。そうじゃなくて、と身を捩る。降谷さんはどうなったのかを今すぐに知りたいのに。狸の言葉を理解できない人間に軽く苛立つ。
「わっこら!暴れるな」
 腕の中から伸び上がって脱出し、地面に飛び降りながら一回転。地に着けた足の裏でしっかりと踏みしめて、ヒロを睨み上げた。
「ひろ!俺は――、」
「うわぁあああああ!!」
「キィエエエエエエ!!」
 ヒロの悲鳴と園子の威嚇が重なって思わず耳を塞いだ。背中を向けたヒロは「見てない!俺は見てないぞ!成長してるのに成長してないとこも何も!」と喚いているし、園子は園子で「彼氏でもない男に裸を見せないの!」と説教しだす。
「どっちもうるせ」
「ッシャァァァァ!!」
 脛に強烈な一打を和葉から食らって踞った。痛え!と叫んだ顔にバシンとぶつけられたのは白いタオルで、石鹸の匂いの奥に降谷さんの匂いを感じて思わずスハスハする。快斗のうげ、という声がしたのは気のせいだ。
「それは匂いを嗅ぐ為じゃなくて裸を隠すためなんだってば新一!」
 蘭が慌てて言うので、そうなのかと従う。というか、どこを隠せばいいんだろう。腹だろうか。
「胸と股や!アホかお前は!」
「平次も見たらアカン!」
 ぎゃあぎゃあとうるさくしている間に、ヒロが降谷さんの部屋から服を持ってきてくれた。とりあえずこれを着ろと言うので大人しく従う。降谷さんが一番仲良くて、一番信頼している人だから、この人の言う事は信じてもいいと思った。

 そうしてやっと落ち着いて、ヒロは降谷さんの怪我について教えてくれた。
「処置が早かったからね。明日には退院して帰ってこれるよ」
 君の怪我も深いものではないようだし、良かったよ。と。撫でてくる手のひらに頭をこすりつけて、けれどやっぱり淋しいし不安なものは不安なのだ。
「俺も付いて行きたかった」
「明日まで我慢しろよ。そうだ、どうせなら可愛い服着てお出迎えしてやればいいじゃないか」
 可愛い服、とは。これじゃダメなのだろうか。見下ろした降谷の箪笥からヒロが勝手に拝借した青い色の服――Tシャツは、去年初めて人間に化けた時に着せられた服より大きくて、肘の所まですっぽり隠れてしまうから暑くて暑くて脱いでしまいたくなる。「はーふぱんつ」も腰からすぐに落ちてしまうから、洗濯ばさみで留めてもらった。なんだか格好いいな、と鏡の前でくるくる踊っていたらヒロが小さな四角い板をこっちに向けて笑っていたっけ。
 やはり、新一としてはこれが一番いいのだが。
「うーん、萌えるとしたら確かにそっちなんだけど……」
「るりこみたいな服の方が可愛いってことか?」
 いやあれは、とひろは口を濁した。ゼロの趣味じゃないな、とかなんとか。
「白ワンピみたいなド定番があいつのストライクゾーンなんだけどな」
 しろわんぴ。すとらいくぞーん。新一の知らない言葉が出てきたので、首を傾げた。おしゃれに関しては蘭たちがいないとさっぱり分からない。困ってしまって、無意識に眺めた縁側の硝子戸の向こう、まさに胸中で助けを求めた園子と蘭が人間に化けて立って、笑って手を振っていた。
 ひろも気付いて飛び上がった。そうか、あの姿で会うのは初めてだった。
「髪の長いのが蘭で、短いのが園子。俺の幼馴染だから大丈夫」
 からからと戸を開けて、蘭と園子が「どうもー」と会釈した。
「新一に服を届けに来たんです。降谷さん、きっと女の子の服なんて持ってないでしょうから」
「私の経験と勘からするにあの手の男は清楚好きだと踏んで、超ド定番だしダサくはあるけど、白のノースリワンピをチョイスしたわ」
「……わぁ読まれてるぅ」
 早速着替えましょ、と家の中に上がったふたりに背中を押され、ひろも「可愛く変身してこいよ」と空いている部屋を案内してくる。おれ、こっちの服のほうがいいんだけどなぁ……というぼやきは蝉の大合唱に掻き消された。

「降谷さん、明日になんねぇと帰ってこれねえって」
「アラそうなの?真さんはトラに噛まれてもケロリとしていたけど。ちょっと!ブラの着け方教えたでしょ!?寄せて寄せて!上げる!!」
「腕は肩から上には上げないこと、お肉が逃げちゃうから。……京極さんは人間の中でも特に強いから、一緒にしちゃダメだよ園子」
 脇にくっつけた左腕の肘を右手で掴むポーズ。これをするとそれなりにおっぱいが盛れて見えるのだと教わった。ちなみに、園子の彼氏である京極真は世界中を放浪しながら武者修行しているとかいう、とんでもなく強い人間だと新一は記憶している。
「っていうか、この服どうしたんだ?買ったのか?」
 脇の下がすーすーして気持ちいい。でも元々狸は服を着ない生き物だから、このブラジャーやショーツも本当は着たくないのだけど。これがないと人間は外を歩いてはいけないというから大変だ。
「狸塚のおばさまにお願いして買ってきておいてもらったのよん。いつかあんたが人間デビューして、あの男に迫る時に着る勝負服が必要になると思って」
「ナイス園子!明日降谷さんが帰ってきたら、その格好でお迎えしなよ。きっと喜ぶよ!」
 人間の番になったお嫁さんって、玄関で座って指を三本床に付けてお辞儀するんだって!『おかえりなさいませだんな様』って言うらしいよ、と蘭が教えてくれた。
 へえ、と相槌をうった。今度それ、やってみよう。降谷さんもめろめろになるに違いない。


 3.

 脳味噌どころか全身がぐらぐらと沸騰しているかのように自身を苛んでいた高熱が一気に霧散した。看護師が引き留め、医者が渋い顔をするのに目もくれず、毎日通院の約束を交換条件にタクシーを呼んでもらう。体の節々は痛むし頭はガンガンしている。それでも今すぐに帰りたい――否、帰らなければならない理由ができた。
「あれは反則だろ……」
 スマートフォンを見下ろして、口に出たのは無意識のことだった。ぼんやりした意識ではその言葉もすぐに言ったか言ってないか定かでなくなる。ぐるぐるかき混ぜられる思考回路と、視界と、青いTシャツとカーキ色のハーフパンツから伸びるすらりとした細い足。男の子みたいに短い頭髪の上にぴょんと跳ねた旋毛だけが瞼の裏にこびりついて離れない。
「――お客さん、大丈夫?着いたよ」
 運転手の声にはっとして顔を上げた。いつの間にか到着していた自宅前で、精算して下車すれば玄関からヒロが顔を出した。遠目でも分かるしかめっ面に肩を縮こませる。だってヒロが悪いんだ、あんな衝撃的な画像を送られたら、ゆっくりベッドで養生なんてしていられない。
「ゼロ、お前なぁ……!」
「大声出さないでくれ……頭に響く」
「どアホ!新一ちゃんは逃げも隠れもしないから、ゆっくり寝て治せって言っただろ?」
 自分の覚束ない足元が玄関の敷居を跨いだのを見てから、のろのろと重たい頭を上げた。三和土の玉砂利模様の先、上がり框前に揃えられた三人分の女物のサンダル。その上、スリッパを履いた二人分の足と、獣の足が一頭分。
 …………うん?
 眉間を抓んで、束の間思案した。
「ヒロ、俺にはあの子がたぬきに見えるんだが」
「安心しろよ。まごう事なく狸だ」
「そんなバカな」
 たぬきはお尻を床に付けて後ろ足を前に出し、座っていた。前足の爪先だけで上半身を支えて前屈姿勢を取る不自然な格好で。もしゃもしゃと何か言っているが如何せん、狸の言葉は人間に伝わらない。傍らの長い髪をした高校生くらいの女の子が「新一、そうじゃないんだけどな……」と苦笑しているので、このたぬきはやはりあの子なんだと確信する。
 どこか張り詰めていた糸がぷつんと切れて、がっくりと項垂れてしゃがみこんだ。いや、期待していたとかそんなものじゃなくて単純に、あの幼かった少女がどのように成長したのかが楽しみだっただけで。数年ぶりに会った親戚のおじさんおばさんが「大きくなったなぁ」としみじみ語るようなあんな感覚。熱でぐらぐらと歪む視界に、たぬきがそっと入り込む。キュゥンと気遣う声が可愛らしい。親戚のおじさんというより、気持ちは父親に近いかもしれない。どこぞの馬の骨……狸に攫われるなんて耐えられない。この子にはしっかりとした真面目な好青年の元に嫁いでほしい。変な遊び人や、後ろ暗い過去のある男になんか引っかかってほしくない。ああ、もう駄目だ。
 地面がぐにゃりとたわんだ。
 君は、僕にとって大切な家族で、妹のようなもので。ご両親は君を僕のお嫁さんにしたがっていたけれど、親愛の情以外のものを君に抱けそうになくて。こんなの、可哀相じゃないか。そうだろう?文字通りの飼い殺しだ。
「――俺は、降谷さんのお嫁さんになれなくてもいいよ。……だから、家族のままでいさせてくれよ」
 柔らかな、しっとりとした指が、熱を持つ自分の手のひらに添えられた。細い指先の、少し冷えた体温が心地よい。
 うん、と頷いたかどうかは定かではないけれど。小さく聞こえた「ありがとう」の声は微かに震えていた。

 三日もすれば熱は下がり、この部屋を封印していた『絶対安静』の貼り紙も剥がされてようやく自由に外を出歩ける許しを得られた。家主が臥せっている間に実権を握った新たな家族は、今日も今日とて元気な足音を家中に響かせる。
「降谷さん、おはよう」
 着替え終わったタイミングでノックと同時に開く襖に、降谷はもう咎める気力もなく頷いて「おはよう」と返した。
 そもそもが動物だから、聴力に優れた彼女の耳は室内の動向を把握している。降谷が起床、布団上げ、着替えが終わったタイミングで顔を出すのはいつもの事。朝の四時なんてまだまだ寝ていたい時間だろうに、降谷の行動を見張る為かはたまた片時も離れたくないからなのか、新一自身もしっかりと着替えまで済ませていた。
「今日から農作業解禁だろ?」
 半袖のTシャツと、ジーンズと。軍手に麦わら帽子まで手にした新一は、降谷の前を率先して歩く。寝込んでいた間の田畑の世話は全部ヒロと新一がしてくれていたから、任せろと言わんばかりの得意げな笑みに降谷もついつられてしまった。
「ああ。フォローは任せるよ」
 ぱちくりと紺碧の目を瞬かせて、それからふいと前を向く瞬間の桃色に染まった頬と、耳朶に。降谷はしまったと内心で額を押さえた。自分の顔面偏差値というやつをつい忘れがちになる。つかず離れずの距離を保つ暗黙の了解と、些細なことで簡単に傾いてしまう微妙なバランス。そのせいか、去年両親と一緒だった時に見せてくれた人懐こい態度は鳴りを潜め、人間の姿で過ごす新一はどこか一歩引いたような空気を纏っていた。
「そうだ、今日産直に卸した足で医者に行ってくるから」
「お、おう。分かった」
「昼は僕が作るよ。何がいい?」
 キッチンにすら立たせてもらえなかった反動か、今とても自炊したい欲が高まっている。ヒロの作るお粥もうどんも美味しいが、そろそろがっつりとしたものが食べたくなっていた。
「ん〜、うどん?かな?」
 首を傾げて答える姿に迷いが見えた。考えてみれば、同じものを食べていたとしたらこの子もお粥とうどんの日々だったのかもしれない。獣だった頃は木の実に野生の果物と、そこらへんのもので生きてきたから、『何がいい』と聞かれても困るだろう。狸は基本、雑食だ。魚を焼いて、あとは野菜炒めでもあれば栄養は取れるだろう。
「デザートも付けようか」
 でざーと。大きな瞳が聞いたこともない単語だと雄弁に物語る。大概の女の子は甘いものに目がない。あんみつか、わらび餅か。アイスクリームなんてどうだろうか、と彼女がどう反応するか想像を巡らす降谷は、根本的な所で間違っていた。

 数時間後、お腹を抱え青褪めた顔をして唸りながら布団に横になる新一と、それ以上に真っ青な降谷と。駆けつけたヒロが郷長の奥さんに電話で聞いた所でようやく原因が分かった。
「まずは味付け一切ナシのお粥から、だって」
 つまりは離乳食から、ということか。降谷は新一の額に手をかざした。血の気が失せてひんやりとした額は夏だというのに汗一つかいていない。眉間に寄った皺が苦しみの重さを表していて、それが一層に罪悪感を掻き立てた。
「それにしても、これまで何を食べていたんだ?」
 てっきり親友が作って食べさせているものだと思ったが、それに対して首を横に振って「わからん」と彼は答えた。
「ずっと一緒にいたわけじゃないからな。一度訊ねた時は果物と答えたから、そういうもんなのかなと思っていたけど」
 うう、と新一がか細い声を唇の隙間から零した。お腹を抱えていた右腕が、緩慢に上がって畳の上に落ちる。人差し指は外を指していた。
「……、……」
 薄いまぶたの下から覗いた深い青玉が降谷を捉える。吸い込まれていくような間隔に抗えず顔を寄せた。
「…………、」
 何かを、伝えようとしている。
 空気と共に吐き出される音を、一つたりとも逃すまいと耳を澄ませた。
「……に、…、たに、し……たべて……た」
 …………。絶句。
 うん、とヒロが頷いた。なるほど。大好きだもんなぁ。ここらへんは水も綺麗だから、きっとえぐみも少ないんだろうなぁ。いやぁ、……うん。最後にもう一度頷いて、立ち上がる。
「うちの親ども、夕方から映画観に行くって言ってたし。留守番しないとだから帰るな」
 肩をぽんと叩かれた。
「頑張れ、ゼロ。お前が為すべきことはサリバン先生なんかじゃない――分かるな?」
「マイ・フェア・レディか……」
 ヒロが親指を立てて満面の笑みを浮かべた。健闘を祈る、だなんて完全に他人事だと思っている。いや、明らかに面倒くさい案件だと察知して一人先に離脱しやがった。
「大丈夫!凶悪犯を相手にするよりは楽なハズだ」
 空笑いになってしまうのはどうしようもない。けれど、先々を思っても嫌だとか面倒くさそうだとか、そんなマイナスな感情はうまれてこず、ただこの子が幸せであればそれでいいと願うのみ。国の安寧よりも、目の前にいるたった一人の未来を守りたいだなんて今までになかった想いだけを胸に抱く。数年前までは想像すらできなかった、ささやかな幸せを。
「責任重大だな……」
 新しい家族はもぞもぞと身動いで、小さく「狸に戻ってもいい?」と可愛らしくお伺いを立ててきた。手足が時々邪魔だと感じる、と時々零していたから、恐らく丸くなりたいのだろうとは推測できるが。
 狸は人を化かすというが、この子の場合化かすというより人間の姿で無邪気に振り撒く愛嬌で、人を誑かしているのではと思う。人間として降谷と一緒に生きたいと(番云々はさておき)言い放ったからには、修行のつもりでいろんな事に慣れていかなければならないのだけれど。
「――痛みが治まるまでだよ。あと、トイレはちゃんと人の姿でする事」
 ええ……と嫌そうな顔を見せた新一に、やはりなと呆れてこめかみを揉む。ヒロが立ち上がり帰り支度をしながら笑った。降谷が高熱から微熱になるまでの二日間、コソコソと立ち回って人間の生活様式の煩わしさから逃げ回っていた新一と、それを知っていながら黙認していたという親友と。じろりと半目で睨み上げるもどこ吹く風と、ヒロはにこにこするのみ。
「新ちゃん頑張れ。どうしてもダメだったら、俺のお嫁さんになればいい。たくさん甘やかしてやるよ」
「オイ」
「ううう……ぜってえ、やだ」
 ため息を飲み込み、四つん這いで居間を出ていこうとする所を抱き上げた。トイレのドアの前に降ろすと観念したのか項垂れながら入っていく。倒れる前に呼ぶようにと伝え、次いで玄関でヒロを見送った。
「なんにせよ、お前が復活してくれて良かった」
「ヒロには世話になりっぱなしだな」
「俺とお前の仲だろ。……あ、そうそう」
 ちょいちょいと指で招かれて、右の瞼ががぴくりと動いた。薄い笑みを佩くヒロの表情と、内緒話のポーズに片眉が跳ね上がる。こういうときの親友の話は大概禄なものじゃないのを知っているだけに。
「なんだよ」
「狸とはいえ今は立派な女のコなんだから――狼になるなよ、ゼロ」
 無言で回し蹴りをした。ジョーダンだって!と笑う親友を早く帰れと締め出した所で、トイレから出てくる音に気持ちを切り替えた。本当に、笑えない冗談だ。家族同然の子に手を出すなんてありえない。素っ裸でも反応しない自信だってある。
 少女、というのはか弱い存在である。つい先日の大立ち回りを忘れた訳じゃない。けれど、降谷は新一を守るべき、一人前に育てていくべき存在と認識してから、敢えて意識の外に置いてしまっていた。
 新一は女の子でも、もとは野山で生きてきた獣なのだ。彼女の芯の太さを、その強かさ、逞しさがどれほどのものなのかを――降谷は見誤っていた。


 4.

 手負いの野獣が後ろ足でびっこを引きながらよたよたと山の方へと消えていく。その姿が見えなくなるまで吐き出された喉の奥から絞り出すようなたぬきの唸り声は、体のあちこちから流す血の臭いの濃さと比例するかのように大きく響き渡っていく。
「もういい!新一、もういいんだ……!」
 一迅の木枯らしが揺らした笹の囀りに毛を逆立てて、今にも追いかけていきそうな体を全身で抱え込んだ。ぬるりと滑る手のひらにまとわりつくものがなんなのか、新月の夜であっても降谷には嫌というほどよく分かる。
 根菜が実り始めた畑がさほど荒らされずに済んだのは、新一が猪の接近にいち早く気付けたからこその功名である。十月に入り米の収穫に忙しい日々の中、遅くなった二人の晩飯時を狙ったかのようにそいつは夜、現れた。農作業で疲弊した体は新一の突然の動きに遅れを取り、立ち上がり縁側から回転しながらたぬきに変化し走り出したのを呆気に取られて見送ってしまった。二頭の獣が吠え合う声で我に返り、卓袱台からこぼれ落ちていた新一の分の味噌汁に目もくれず、慌てて外へと飛び出した降谷が畑の柵の向こうに見たもの。
 それは、自身の一回りもふた回りも大きい野生の猪に勇猛果敢に噛み付いている小柄なたぬきの姿だった。
 噛まれても、蹴られても、たぬきは猪の首に食らいつき、目を掻き、喉を蹴る。的確な攻撃に猪が徐々に及び腰になっていく中、降谷は獣同士の激しい争いに手も足も出せなかった。薪割り斧を手にしてはみたものの、攻防戦はたぬきが上に下にと入れ替わるのでむやみに振り回せない。もしここに銃があればと思わなくもなかったが、それでもこの状況下では撃てないと脳が冷静な判断を下す。
 ギャッ!と上がった悲鳴がどちらのものか判じかねて心臓が縮み上がった。――大きく飛び退いたのは、猪の方だった。見事、猪に深い傷を食らわせたのだ。振り落とされて直ぐに起き上がり威嚇を発するたぬきに駆け寄る。その前に立ちはだかり、斧を掲げた。熊に効くという自分の姿を大きく見せる方法は、幸いにも猪にも効いたようで。降谷が鋭く一喝すると、獣は森の中へと鼻面を向けた。
 それは一時間にも満たない間の出来事。だが降谷には長い、永遠に続きそうな闇夜に思えた。夜間にも関わらず対応してくれた動物病院で夜を明かし、帰り途中、変化する狸について詳しい郷長に話を聞き。怪我の具合から暫くは獣姿のままで過ごしたほうがよいとアドバイスを貰って帰宅したのは翌日の昼過ぎてから。痛み止めの薬が効いているのかずっと眠り続けるたぬきの世話をしながら、降谷はふと顔を上げて自分たちがいる居間を見回した。
「ここは……こんなにも、」
 静かだったろうか。
 外からの木々の葉擦れや、壁掛け時計の振子の音以外何もしないこの家は。――沈黙ばかりが沼のように深く重く、広がっている。
 ふるやさん、と笑顔で障子戸から覗く新一の瞳がきらきらと好奇心に煌めいていたのを覚えている。狸は視力がそんなに良くないと知った降谷が夜寝る時間になっても廊下の電気を消さずにいたところ、最初はそんな必要なんてないと強がっていた新一が縁側から足を滑らせギャア!と女の子にあるまじき悲鳴を上げて転がり落ち、不覚にもたぬきに戻ってしまったのがプライドに触ったのか、その場で延々と言い訳らしきものをギィギィ並べ立てた事もあった。
 足音を立てずに歩く習性があったのに、それで近づかれる度に背中に警戒が走る降谷を見て何かを感じたのか、いつからかとたとたと可愛らしい音を家中に響かせるようになった。
 ふるやさん、この本面白ぇ!スゲードキドキした!いつぞや鼻息荒く走ってきた新一が手にしていたのは、小学生向けの推理小説。文字と言葉の練習にと、いくつか見繕った本の中には恋愛ものもあったのに、新一が選んだのはコナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズで。文字を読む楽しさを知った彼女はそこから一気に語彙力や知識量を増やしていった。選書はあっという間に大人向けのものになったし、静かに読書に集中したあとは怒涛の感想を降谷に向かって際限なく語った。上気した頬と熱を持った瞳で熱く語る新一の快活な声は、降谷の心に不思議と安寧をもたらした。
 時計が午後一時の鐘をぼぉんと鳴らす。たった一つしかない音は余韻も短く直ぐに振子に掻き消されてしまう。
 子供の頃、一人でお留守番していた時。面白いテレビ番組もなく、町内会から母親が戻ってくるのを部屋の隅で膝を抱えてひたすら待ち続けていたあの夜が蘇る。ぼわんと膨らむ聴覚。一点に吸い込まれてゆく視界と意識。沈黙に押しつぶされて、怖くて、ただ怖くて。どこに逃げたらいいか分からなくて両親のベッドの下に潜り、隠れて泣いた。あの感覚が再び降谷に襲いかかってきたけれど、もう自分は子供じゃない。訳のわからないものに振り回される歳じゃない。
 傍らの、包帯だらけの毛鞠を見おろした。この小さな勇者は、降谷が大切にしているものを守ったのだ。――けど。
「名誉の負傷、なんてものは好きじゃない」
 君もまた僕にとって大切な、守りたいものなんだよと呟いた。家族愛は、いつの間にか姿を変えて色を変えていた。ほんの数ヶ月。夏から秋に移り変わっただけの間に、新一は降谷の心の極小さなへこみに上手くすっぽりと収まっていた。無邪気な笑みで、鋼の鎧を柔らかく溶かして、目に見えないくらいの穴を開け。降谷の、一番大事とカテゴライズされた部屋の中に更に一段高く敷いた真綿の上で、新一は。降谷に向かって蒼碧の瞳を瞬かせて、とびきりの笑顔を見せて、高らかに宣うのだ。
 俺が、降谷さんの一番になるんだ。――と。
 初めてこの手に抱いた時の温もりを覚えている。走るような鼓動は小さな心臓が生きている証。皮膚の下の血流は溶岩のように熱く燃え滾り、命の在処を叫んでいた。今、目の前に横たわる小さな命は致命傷こそ免れたものの、あちこちに巻かれた包帯や傷を覆う保護シートが痛々しい。獣の姿でさえこんなにも心を痛めているのに、もし人間の姿であったなら降谷は発狂してしまいそうで怖くなる。
 目を覚ましてしまわぬよう、触れかけた手を引っ込めた。暫くは収穫の手伝いもない。書斎から数冊の本を選び取って居間に戻り、室温を下げぬよう雪見障子を下げ、こんこんと眠り続けるたぬきの傍に腰を下ろした。胡座をかき柱に背を預け、手にした本を開く。時計の振子、風の音と時折揺れる障子。家鳴り。鳥の鳴き声。それから狸の微かな寝息。
 やがて微睡みに誘われるまま、たぬきの前にごろんと寝転んだ。腕枕をすると毛布の上で眠るたぬきと目線の高さが揃う。夢でも見ているのか、にゃうにゃうと口の中で何か寝言を言っている。もぐもぐ咀嚼したあと、ぺろりと口の周りを舐める仕草につい吹き出した。
「元気になったらたくさん作ってやるよ」
 だから早く、怪我を治せ。
 我慢できず、指の背で小さな頬を撫でた。慈しむように優しく、毛の流れに沿っていく。フゥン、狸が顔を押し付けて小さく鳴いた。その瞼を閉じた横顔が、少女の顔とオーバーラップする。
「……ああ、認めるさ。僕は、」
 本当の家族になる覚悟から逃げていた。失いたくないものを増やすのが、怖かったんだと。――でも、それはもうやめだ。
 瞳を閉じ、心の中で自問自答を繰り返す。行き着く答えが同じものしか出てこないことで、降谷は遂に腹を括った。
 君が目を覚ましたら、最初に伝えたい言葉が出来たんだ。それを聞いたら君は、どんな顔をしてくれるだろうか。
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