たぬきのお嫁さん

 4.

 ギブスは外れたが、まだしばらくはリハビリに専念するようにと強く念を押されたのは、農家にとってはこれからが収穫期で、猫の手も借りたいくらい忙しくなるからだ。降谷も毎年他家の収穫作業手伝いに猫の手宜しく駆り出されていたが、今年はどうやら何もできなさそうである。助手席で肩を落とした降谷をヒロが肩を叩いて慰めた。
「まぁまぁ、カカシみたいに立ってるだけでも母さんたちには効果覿面だし」
「……それ、何の慰めにもなってないぞ」
「ヒビも浅かったんだろ?ゼロならすぐ治るって。それに田んぼだけじゃなく林檎だってこれからだからな。ホント、お前が来てくれて助かってるって父さんも言ってたぞ」
 そうか?とちょっと照れ臭くて鼻の下を掻いた。公務員をしていた頃はその他大勢の為に身をやつして働いていたが、こうして身近にいる誰かの為に頑張って、しかも褒め言葉を貰うことなんてのも今まで無かったから。それがとても新鮮だし少々面映く感じる。
 窓の外に目をやると、景色は街中から郊外へと差し掛かっていた。木々や田畑が家屋の数よりも増えていき、集落群を抜けるとずっと山の麓まで薄黄色がかってきた稲の絨毯が広がる。やがて一際大きな日本家屋が見えてきた。地元の人たちが「郷長さん」と呼ぶ、町長の家だ。子どもたちは狸御殿、なんてからかって呼んでいるが、それは敷地の奥の方に立派な狸の置物があるからだ。
「……そういえば、名前も狸塚(まみづか)だな」
「郷長さんか?」
「ああ。随分と狸に縁のあるような家だなと思って」
 ヒロが降谷の呟きに反応したので、なんとなく気になっていた事を聞いてみる。
「まぁ、ここいらの山は昔、たぬき山って呼ばれてたらしいし……。狸がめちゃくちゃ多かったんじゃないか?」
「日本昔ばなしにありそうだな、それ」
「人間と狸が争っていた話よりも、仲良くしてた線かもな」
「夜な夜な踊っていたとか?」
 ありうる!とヒロが笑って相槌を打つ。それから今しがた通り過ぎた家をルームミラーで一瞥した。
「ところでゼロ。るりこちゃん追い返したって、本当か?」
 いきなりの方向転換に面食らいながらも、降谷は正直に頷いた。
「田舎の情報網は怖いな」
「昨夜は婦人会の集まりがあってさ、母さんが目を輝かせながら帰ってきた」
 あんたんとこのグータラ娘に、都会で公務員してた人のヨメが務まるかいな!と大盛り上がりだったらしい。佐藤さんの奥さんは無理だろうなと知ってて焚き付けたらしく、るりこも同じように「顔だけならメチャ好みだけど、なんか結婚したらあれこれ煩く言いそう」となんとも失礼な負け惜しみを吐いたとか。
「親父さんはカンカンに怒ったらしいけどな」
 ヒロが笑い、降谷も苦笑いで返す。
「未だに新参者扱いされるのは仕方ないが、娘さんの事になると周りが見えなくなるのがなぁ……」
「ああ……」
 ――ふ、と。車内に沈黙が降りた。
「……ヒロ悪い。お前の家で昼食の予定だったが、」
「ゼロの家に直行だろ?少し飛ばすぞ」
 センターラインもない道路は三速でのんびりと走っていても、煽るどころかすれ違う車すらいない長閑な田舎道。過疎化激しいドが付くこの田舎町は、飛び出してくるのは獣と蛙くらいなものだ。一気にトップギアまで持っていくと、エアコンの効きが悪くて開け放していた窓から轟々と風が吹き入ってくる。帰ったらまず洗車だな、とぼやくヒロの目の前ではまたバツンと音がしてフロントウインドに虫の体液が付着する。いつもなら一緒に馬鹿笑いするところだが、そんな余裕もない程に降谷の心は焦燥に急かされていた。

 路肩に停めた車から降りて、南の玄関から外をぐるりと周って東の縁側へ。そこから田んぼを見遣るが、獣の姿は見当たらない。いつもならその辺りが狸の遊び場になっているのだが、気配すら感じられないのはどういう事だろう。
 不思議な話ではあるが、あの狸は知能が高いのかこちらの話を理解している節がある。今朝、降谷が「留守番を頼む」と言ったのをきちんと守っているものだとばかり思っていたが。農具をしまった小屋の中や、危ないから入らないようにと教えた車庫の中を覗いてみても、あの可愛らしい丸っとした姿はどこにもなかった。
「ゼロ、走るなって」
 背後からヒロの注意が飛んできたが、降谷の耳には届かない。畑へと小走りで向かい、辺りをくまなく見て回る。ある一点で、その足が止まった。ヒロがどうした、と訊ねてくる。
「ここ……何かを引きずった跡がある」
 土には降谷のものではない足跡と、ロープか網のような跡、それと。
「獣の毛だ」
 しゃがんでつぶさに観察すると、茶色っぽい毛がいくつも散らばっていた。体中の血が冷えてしまったかのように、降り注ぐ夏の暑さが消えていく。引き摺った跡は道路へと続いていた。
 網に絡まりながらも暴れる狸。軽トラの荷台に放り投げられ、金槌かスタンガンで気絶させられ。そのまま山奥に捨てられるかあるいは――。
 走りだそうとする降谷をヒロが全力で抑えた。
「落ち着け、まだそうと決まった訳じゃない!」
「ゲソ痕がある!照合して合致すれば――」
「こんなド田舎じゃ不法侵入なんてものは通用しないんだよ、分かるだろ!?」
「あの子は俺の家族も同然だったんだぞ!?」
 カッとなって叫んだ。黙って見殺しにしろというのか、と強く瞳で訴える。大都会の中心で、疑心暗鬼の世界で、法と秩序と善悪の天秤を担いで。降谷は己の人生を賭け、戦い抜いてきた。ここはようやく見つけた終の住処であり、永遠の楽園であり、第二の人生を捧げるに値する場所だった。この小さな世界を守ることこそが、自分の中に生まれた新たな使命なのだと。あの小さき獣は――降谷にとって同じ世界に生きる仲間であり、守るべき大切な家族だったのに。
「村八分だろうがなんだろうが、そんなものが怖くて命を蔑ろにするような奴に……僕はなりたくはない」
 共に死線をくぐり抜けた友にしか分からない、命の重み。男だとか女だとか、人間だとか動物だとかそんなものは関係ない。心が近ければ近いほどに、重みを増していくもの。かけがえのない、何にも比べられようもないもの。暗闇の中で互いに命綱を握り合って突き進んできたからこそ、理解できる命の価値観。
 ややあってから、ヒロは腕から力を抜いた。
「分かったよ。まぁ、俺にもここにお前を引っ張りこんだ責任もあるしな。とことん付き合ってや――」
 顔を上げたヒロの口が「や」の形のまま固まった。驚愕に見開いた目が降谷の後ろ、山から続く林道を捉えている。この辺りに熊は出ないのだが、気紛れに降りてきたのかと焦りを覚えて振り向いた降谷が見たものは。
 三十代後半か、四十代……には見えないが、そのくらいの年代の夫婦と思わしき男女二人が林道をこちらに向かって歩いていた。一応私有地ではあるものの特に看板を立てているわけでも無いし、山菜採りも度を越していなければ目を瞑っていた降谷だが、彼らは軽旅行にでも行くような格好をしていた。つまり、山登りには不向きな服装なのだ。――だが、問題なのはそこじゃなく。
 男は狸を抱っこしていた。それは、降谷が血眼になって探していた狸だった。こちらに背を向ける形で大人しく男の腕に臀部を預け、肩には両前足を揃えてその上に顎を乗せている。顔は見えなくとも、リラックスしているのはゆらゆらと揺れる尻尾からして一目瞭然。
 警戒心がとても強く、人間に懐かない生き物だと。降谷の言葉を解しながらも、手招きしても決して近寄らなかったのに、たったの一度至近距離まで来た時だって触られる前に逃げ出したのに。つまらない焼きもちだと言えばそれまでだが、狸が一番懐いているのは、親のように思われているのは自分だという密かな自負は粉々に砕け散った。それと同時に、どうしたって目の前の男女二人組に警戒心が湧く。舗装されてもいない砂利道で、ヒールのある靴を履く女性はワンピースの裾を揺らし真っ直ぐと歩いてくる。明らかに、只者ではない。
「こんにちは」
 眼鏡をかけた男の、口ひげの下にある唇が笑みの形を作る。朗らかな、ゆったりとした穏やかな声だ。レンズの奥に光る瞳は叡智を宿しているかのように思慮深い青色をしていた。
「警戒させてしまったかな」
「私たち、怪しい者じゃないのよ……って言う方が怪しいわね」
 隣に立つ女性もまた笑みを湛え、小首を傾げた。陽に当たった栗色の巻き髪と、猫のような目。芸能人に引けを取らない美貌はとても華やかだ。だからこそ、この場ではかなり異様に映る。
「私たち、新ちゃんは元気にしてるからしら、って見に来ただけなの。驚かせちゃったかしら」
 しんちゃんとは誰だ、と思わなくもなかったが、降谷は動揺を引っ込めて二人と対峙する。人間は大きく分けるとまっとうなタイプと悪人のタイプの二つに分かれるが、目の前にいるのはそのどちらでもないと己の勘が告げていた。――というか、
「人間……じゃない?」
 人としての気配が希薄だと言うべきか。どこにもカテゴライズされない存在を、この国ではなんと言ったか。汗一つかいていない男は、ほうと僅かに目を大きくした。
「半分当たりかな。化け物、化け狸、好きなように呼んでくれて構わないよ」
 たぬき、と空気の抜けた声でヒロが反応した。この地で生まれ育ったからか、狸はとても身近な存在なのだろう――が、しかし。
「ヒロ、狸じゃなく化け狸だ」
「そこにツッコむ!?」
 とりあえず、まず。今一番優先されるべき行動に移すことにした。
「立ち話もなんですし、僕に用がお有りのようで……。お茶でもいかがでしょうか」
 上から照りつける太陽が地味に痛い。子供と同じように狸もまた小さな体をしているから、多量の発汗は宜しくないだろうという一心での提案だった。化け物だろうが化け狸だろうが、人間を取って食ったりはしないだろう。……化かされることはあるかもしれないが。目が覚めたら自分の家が実はあばら家でした、なんて結末が一瞬過ぎったが、光の速さで打ち消した。この人たちの言う事がどこまで本当なのか、まずそれを見極めなければ、と。


 5.

 たぬきは慄いていた。自らの置かれている状況に。目を瞑ったまま、聞こえてくる声に耳を傾けようとするけれど、呼吸するたびどうしたって嗅いでしまう匂いに心臓がばくばくと鳴り止まない。なんで、どうして、いつの間に。たぬきは、ひたすら目を瞑って固まり続けるしかなかった。――山にある自分の巣穴の近くで、久しぶりに再会した両親と楽しくお話していたはずなのに。

 人の形をしていた父は、「ここならもう大丈夫」と山中の砂利道で突然くるんと宙返りしたかと思うと、たぬきの姿になった。足元にくしゃくしゃと山を作った服から這い出して、母を見上げてくぅんと鳴く。
「ハイハイ!もう、足場悪い所でされるよりはマシだけどもせめて家の中でしてちょうだい」
 服を拾い上げる母は人間の姿のままだ。じっと見上げるたぬきに、母が髪を大きく揺らして言った。
「これでたぬきに戻ったら、自慢のヘアスタイルが崩れちゃうのよ。あと、人間になった時の事を考えて時と場所は選ばなくちゃ」
 なるほど、と頷いた。着ている服はたぬきの一部じゃないから、たぬきから人間に戻るとすっぽんぽんになってしまうのか。たぬきが今まで見てきた人間は全員必ず服を着ていた。あのるりこだって、おっぱいと股を隠していた。……ヘソは丸出しだったけど。
 父が鼻をすんすんと擦り寄せてきた。たぬきも同じように擦り返す。きゅうん、ふん、ふん、なぁん、と言葉をやり取りしながら、たぬきは父母と別れてからのここでの日々を教えた。ふるやさんの話ばかりだったけれど、父と母は相槌を打ちながら最後まで耳を傾けてくれた。
「新ちゃんは、ふるやさんの居場所を守ってくれたのね。偉いわ」
 母がたぬきの頭を撫でる。
「守り手がいなくなってしまってどうなるかと思ったが、どうやらこの先も安泰のようだ」
 父もたぬきの首を撫でた。いつの間にか人間の姿に戻っている。耳の後ろをぐりぐりと撫でられた。そこはとても気持ちが良くて、たぬきはうっとりと目を細めた。
「新一、この山が好きか?」
 好きだよ、と答えた。
「新ちゃん、ふるやさんの事も好き?」
 うん、大好き。
 力強い手で抱きあげられ、父の匂いのする服に身を擦り寄せる。うとうとしながら、あれ、と遠くで思った。どうして父と母は人間に化けられるんだろう。山にたぬきは沢山いるけれど、そんな話は一度も聞いたことがないし、見たこともない。
 背中を一定の感覚でぽんぽんされるうちに、ころころ転がり夢の中。大好きなふるやさんの家の縁側で、仲良く並んで腰掛けてお月さまを見上げる夢を見た。まあるいお月さまと、まあるいお団子と。飾られたすすきのような、ふるやさんの髪の毛が目の前にあって、たぬきは念願叶ったとその房の中に鼻を突っ込んだ。甘くて、けどちょっぴり辛《から》いような、とても、とてもいい匂いがした。

 ――なんて。呑気にいい夢だなぁなんてほわんほわんと目を覚ましてみれば、たぬきはどうしてかふるやさんの腕に抱かれていた。父の肩に預けていた筈の頭は何故かふるやさんの後頭部に鼻先を突っ込んで、いい匂いの原因はこれだったのかと一気に現実へと意識が戻ってくる。お尻をすっぽりと覆うような大きな手のひらの温かさと、首から背中へと撫でる優しい手つき。
 うっとり……と夢見心地になりかけては、ハッと我に返りを繰り返し。もういっそこのまま寝たふりを続けていれば、ふるやさんも飽きてくれるだろうかと。たぬきはもう自分ではどうしたら良いのか分からなくなって、思考を放棄した。
「……起きたみたいですね」
 ところが現実はそんなに甘くなく。ふるやさんの声がして、ぬくもりから引き剥がされた。ああ、いい匂いが遠ざかる。
「まぁだ寝ぼけてるのかしらね?こら、新ちゃん」
 ぽすん、と今度は誰かの膝の上へ。その反動で目を開いてしまったたぬきは、座卓の向こうにちょうど腰を下ろしたばかりのふるやさんと目が合ってしまった。お尻をつけてお腹を見せて座る姿勢になったたぬきは、何故だかとても恥ずかしく思った。だって、全部丸見えなのだ。自分のあるのかないのか分からないおっぱいも、股も。動物相手に臭いの嗅ぎあいだってするのに、どうしてかふるやさんを目の前にすると恥じらいというものが生まれてきた。
 ばたばたと前後の足を振って転げるように落ちたのは母の膝からだった。勢いそのままに父の背中に隠れる。尻尾が隠しきれていないとも気付かず、父の臀部に鼻先を突っ込み頭を隠した。
「こら、新一。ちゃんとしなさい。降谷さんの前だぞ」
「あの……一応、俺もいるんですけど」
 ひろの声だ。ふるやさんの隣にいたのに全く気付かなかった。
「新ちゃんは降谷さんしか見えてないもの、仕方ないわ」
 ぴ、と今日一日で何回固まったかわからない。おずおずと父の陰から顔を出すと、またしてもふるやさんと目が合って「ぴゃっ」と変な声が出た。ふるやさんもまた変な顔をしていた。
「やれやれ、これでは話が進まない」
 父が立ち上がり、ふるやさんとひろがいる方を向いて話しだす。
「先程も話した通り、我々は代々この辺りの山を、そして麓に住む人々の暮らしを守り続けてきた。人と交わり、人と寄り添い、人を支え。人は土地を耕し、潤し、山では木々を整え、災害を防ぎ。私達は大きな獣が里に下りないようにして、お互いに助け合うことで、いつの時代も大きな不自由なく生き延びてこれたのだ」
 たぬきは首を傾げた。幼い頃から毎日聞かされてきた話をなぜ今、ここでするのだろう。
「連綿と続いてきた人と私達狸の繋がりの中で、ある長生きした狸が人の姿に化ける事を覚えた。そして人と想いを通わせ、人との間に子を成し。狸の中でも我ら一族が人に化けられるのは、先祖に人混じりがいるからである――と、私は幼い頃より親から聞かされ育ってきた」
 へぇえ、と驚嘆の声がふるやさんとひろの口から漏れ出た。たぬきもそれは初めて聞いた話だった。半ば疑いも混ざっていたそれに、父はふむと当然だと言わんばかりに頷き、「これからその証拠をご覧に入れよう」と言うやいなや、くるん!とその場で宙返りをした。
 その時の人間たちの顔といったら。父よりもふるやさんに見惚れていたたぬきは、疑心暗鬼に目を眇めていた彼の瞳があっという間に大きく見開いて、めんたまがこぼれ落ちそう吃驚した表情に思わずぷひゃと吹き出した。ひろなんてお口がぽかんと開いている。
 ふん、ふむん、と父がしたり顔で語るのを、母が人間の言葉に通訳する。「これで納得いただけたかしら?」
 ふるやさんとひろは、無言でゆっくりと首を縦に振った。それから右手を上げて、あの、と言ったのはひろの方。
「服はそのまま……ということは、」
 母は重々しく頷いた。
「今人間に変化すると、ナントカ陳列罪になって逮捕されちゃいます」
「おお……」
 ひろの目がきらきらと輝き出した。なんだかとても楽しそうだ。
「もしかして、お子さんであるそのたぬこちゃんも人間に!?」
 ぐぁ、と小さく威嚇した。たぬこちゃんって変な名前で呼ぶんじゃねぇ。
「この子は新一っていうのよ」
「オスでしたか……」
 ひろが肩を落とす。隣の部屋を借りて元に戻り、服を着た父が隣に来てたぬきの背中をよしよしと撫でた。
「新一はこう見えて女の子なので、レディ扱いで頼むよ」
 こう見えて、とはなんだ。ふんふんと鼻息荒く抗議したけれど、誰も取り合っちゃくれない。ひろなんて「タニシを食う女の子かぁ……」と失礼な事まで言っている。タニシ、美味しいのに。時々砂を噛むのが難点だけど。
 今度はふるやさんが手を上げた。
「それで、その、新一……ちゃんも人間に変化できたりするのでしょうか」
 オスメス問題で流されかけた疑問を再度投げられ、たぬきはこてんと首を倒した。そもそも人間に化けられるなんて知らなかったし、どうすればできるのかも分からない。第一、人間なんかに化けてどうするんだとまで考えたところで。
 …………人間になれたら、ふるやさんと番える?
 その可能性に、気付いてしまった。
 たぬきはしゃん!と四肢を伸ばして身を起こした。父母とひろ、そしてふるやさんが一斉にこちらを見て固唾を飲む。父が「人になる気持ちを強く持って、宙返りだ」と教えてくれた。ふん!と気合を入れて、足に力を込め、強く畳を蹴った。
 ぴょん!
 前足が、それから後ろ足が。小さく跳ね上がって、地につく。――あれれ?
 ぴょんとまた飛んでみたけれど、父のように上手くくるんと回れない。ただその場でかえるみたいに飛び上がってるだけ。なんで?と父を見上げた。父はもう一度「新一、こうだ」とその場で飛んで宙返りしてたぬきに変化して見せてくれた。それを真似してみても、上手く体が前にくるんと回らない。父が再びくるんと跳ねてみせる。ようし、と力んだら後ろ足が強すぎて座卓に頭から突っ込んだ。
「たぬっ……」
 痛みのあまりにふぃんと鳴いたら、座卓を引いたふるやさんが覗きこんできた。たぬきは畳の上に這いつくばったままで見上げる。ふるやさんも泣きそうな顔をしていた。大丈夫かと聞かれても、痛くて痛くて、目からぽろりと水が出た。ぶつけたおでこよりも、胸が痛い。じんじんとして、ぎゅうぎゅうに苦しい。
 ひろみたいにふるやさんを助けてあげられない。
 ひろのお母さんみたいにふるやさんにご飯を作ってあげられない。
 るりこみたいにふるやさんに交尾を迫れない。
 ぷひぇん、と泣いた。
「あー、新ちゃん、ほら、ねっ。今すぐできなくても、練習すればいいから!」
 母が宥めてくれたけど。たぬきはどうしても今、人間になりたかった。人の姿になって、ふるやさんに一人前だと認めてもらいたかった。母にもるりこにも負けないくらいのむちむちぼよんぼよんなおっぱいとおしりになって、ふるやさんのお嫁さんになりたかった、のに。
 そもそも、跳んで宙返りなんてたぬきの芸じゃない。あれはバッタやかえるがやるものだ。くるりと回ればいいのなら、跳ばなくたってもいいんじゃないのか。
 たぬきはもう一度、強く願った。人になる。人になれ。
 そして、体全体を使って回転した――横に、ごろんと。
「あらっ――まぁ、まぁ!」
「ほぉ……。考えたな、新一」
 父と母が、喜びの声を上げた。目の前に伸びるのは、人間の腕と、手。それは自分の体から生えている。腕を曲げて自分の顔に触れてみた。毛もじゃじゃない。鼻が湿っていない。耳が頭の上じゃなく、横にある。体を起こした。自分の体を見下ろして。がん、と頭を殴られたような衝撃が走った。
「おっぱいが…………ない」
 ぶふぁっと誰かの吹き出す声がした。けれども今のたぬき――改め新一には、とてもとても重要な問題だ。ぺたぺたと触ってみても、あるのかないのか分からないよりかはちょっとあるかなぐらいの、ささやかな何か。腕だって足だって、なんか想像してたより細くてがっかりした。こんなんだから、山でも他のたぬきが寄ってこなかったんだ。子どもをいっぱい産めそうなふくよかさが全くないから。母ほどじゃなくても、せめてるりこには負けたくなかった。この部屋にいる全員の中で、自分はどう見ても『こども』だった。
 しょんぼりと俯いたままだった新一は、そこにいきなり上から布を被せられたことに驚いた。
「わっ、わ」
「とりあえずこれ着てて」
 ふるやさんの声だ。あと、この布からもふるやさんの匂いがする。ほんのりと湿った汗の匂いに包まれて、きゅうと喉が鳴った。目を開けると視界いっぱいにさっきまでふるやさんが着ていた服の色が。もしゃもしゃと藻掻いたら頭だけは布から脱出できたけど、この手はどこをどうすれば。ふるやさん聞こうとしたら、廊下を走り去っていく足音に体が反応した。ふるやさんの足音だ。最近全然聞けなかった、元気で力強くて軽やかな、新一が大好きなふるやさんの。
 追いかけてしまうのは、もう習性みたいなものだ。どこでもその姿を見ていたいと思う気持ちは、好きになってしまってからはさらに強くなり自分ではもう抑えられない。障子戸を開け、足音が消えたほうへと足を踏み出す。一歩、二歩。かつて後ろ足だけで立とうとして無様にへちゃぶれたあの時と違って、この足は地にしっかりと踏みしめ真っ直ぐに立つことができる。これが、人間というやつか。
 わくわくと胸が踊った。なんて楽しいのだろう。右、左と足をどんどん前に出していくと体がふわりふわりと跳ねて、心も軽くなる。あはは、と笑い声まで出てきて、新一は自分の口から人間の話す言葉が飛び出したのも可笑しくて楽しくて――突き当りの壁に頭から激突した。


 6.

 人も獣も虫も皆、誰もが持っている一つきりの命。その命に貴賤も価値の差も無いけれど、降谷が以前勤めていた所では最も優先されるべき事項にその名はなかった。重責から解き放たれ、自分自身の意思でそこに順列をつけられるようになってから己の中で少しずつ存在感を増していった存在が、今この腕の中にある。
 薄い皮膚の下には熱いくらいの血脈が走り、降谷の拳程もなさそうな小さな心臓がどくどくと忙しなく脈打つ。腕と肩にのしかかる五キログラムあるかないかの、人間の赤ん坊と同じような体重と温もりは、まさに命の重みそのものだった。

 招き入れた我が家の玄関にて男からぐっすり眠っていた狸を靴を脱ぐためにと預けられてから、起こしたら可哀想だからと言われるままに抱っこし続け。縁側に面した座敷に客人を通し、座布団やお茶出しなんかは全て親友が取り仕切った。小さい頃はよくここの爺さんに遊んで貰ったんだと、勝手知ったる我が家のようにテキパキと動くヒロは「ゼロはその子のお守りしてろよ」と座布団から立たせてもくれない。
「景光くんは相変わらず働き者だな」
 目を細め、まるで我が子を見るような眼差しの男を凝視する。
「……知り合いですか?」
 呼びかけようとして、名前をまだ聞かされていないのだと思い至り愕然とする。この男は、場を支配するのに慣れている。降谷は完全に転がされていた。
「うーん、知り合いとはまたちょっと違うかな。名乗ったところでこの姿で会うのは初めてだから」
 申し遅れましたが、と男は名刺を出してきた。小さな紙片には『工藤優作』と印字されている。――作家、とはまた胡散臭そうな肩書である。だが、降谷はその名前に引っかかった記憶を探り起こした。書斎に詰め込んだ本の中の一冊、野草や山菜を網羅した図鑑の最後、監修のところにあった名と同じだった気がする。それを何とはなしに呟いたら、よく覚えてますねと感嘆された。
 人は、偉大なる人物や憧れの人を目の前にするとまず本物かを疑うし、縁のない生活をしていれば本人だとは思いもしないものである。名刺にある名前が、日本だけでなく海外でも高評価を得ている新進気鋭のミステリー作家と同じものだと気付くのに、降谷は数分を要した。野草を調べるうちに毒草に興味を持ち、そこから殺人トリックを思いついたのだと書いてあったデビュー作のプロフィール欄。脳裏に浮かんだ書斎の本棚に数冊並んだ背表紙の光景。最近購入した新刊の帯には『ハリウッド映画化』の文字が大きく載っていたような――。
「……工藤先生御本人!?」
 しー、と隣の女性が人差し指を立てた。たぬきが一瞬もぞりと動いたが、降谷の項に鼻先を突っ込んでそのまま再び動かなくなった。
 お茶出しを終えたヒロも降谷の隣に腰を下ろし、改めて挨拶を交わす。工藤優作とその妻有希子は、その整った面立ちと人好きのする笑みからは想像のつかない言葉を発した。
「景光くんが中学に入学するまではこの山に棲んでいたんだ」
「でもせっかく人間になれるなら、こっちの生活も楽しみたいじゃない?」
「狸時代に得た知識で本を出したところ、編集長が文才を買ってくれてね、いやぁ運が良かったとしか」
 待ってください、と手を上げたのはヒロだった。
「戸籍、とか色々と必要なものが人間にはあるんですがそれは……?」
 夫妻は顔を見合わせ。
「それは、企業……いや、狸秘密かなぁ」
「オホホ〜」
 もし降谷が職を抜けていなければ、権限で以て調べることも出来ただろうが、今はただの農夫だ。一体どんな手を使ったのやらと頭が痛くなる。
「長くこの地を離れて暮らしていたのだが、守屋氏が家を手放すと知ってね。山のものが悪さをしないよう見張らなければならないと思っていた矢先に」
「新ちゃんを身籠ったの。それで戻れないでいるうちにおじいちゃんは施設に入っちゃうし、新しい住民が住み着いちゃうし」
 うん、と優作氏は頷いた。
「新一は我々が何も言わずとも、守屋氏の後ここに入居した君に懐いた。山や自然を愛する心を嗅ぎとったのか、はたまた一目惚れでもしたのかは定かでないが……。この子の中に流れる血がそうさせたのかも分からない。千年以上続いてきた盟約の元、山は君を選んだのだよ」
 理解が追いつかない、とはこのことか。数年前まで堅物の代名詞のような職に就いていたというのに、突然のファンタジーな展開に思考回路がフリーズしてしまいたいと悲鳴を上げる。親友の方がまだこういった出来事には柔軟なようなので、助けを求めるべく横を向けばヒロは顎に手を当てて何やら思案顔をしている。伏せ気味だった切れ長の目がついと上がり、向かいの夫婦を鋭く射抜いた。
「メスなのになぜ『新一』ちゃんなのですか?」
「聞くとこそこか!?」
 ――確かにちょっとばかり気にはかかったが!
 うむ、と頷いたのは優作氏。口髭を人差し指で撫でつつ、重々しく口を開いた。
「去年の春、産婦人科で生まれたときは人間だったんだが……。退院して自宅に戻った直後、何故か狸の姿に戻ってしまってね」
 大都会で狸を育てるのは無理ではないにしても、新生児がいる筈の家にいないとなると、何かと不都合な所ばかりが目立ってしまう。一旦里山に帰郷しようと慌ただしく仕度をする中で出生届の名前を間違えて届け出てしまったのだという。
「当初のエコーでは男の子かもしれないと言われていたから、僕も気が逸ってお腹の子に新一と呼びかけていた癖が抜けなくてね」
「女の子なら『新』であらたちゃんと呼ぶつもりだったから、私も気付かなかったのよ……。お互い殆ど寝ていなかったし。性別だけは間違わなかったのはファインプレーだったわ」
 とにかくよく泣く子だった、と両親は顔を見合わせ苦笑いをこぼした。
 そしてこの山に戻り、狸本来の姿で育児をする事数か月。狸の子は独り立ちが早い。秋には親そっちのけで降谷の元へと通うようになった我が子の姿を見て、夫妻は都会に戻る時が来たと判断した。……なにしろ次に執筆すべき本の締切が迫っていたので。
 なるほど、とヒロが納得して頷いた。「それで新一ちゃんなんですね」
 話が一区切りついたところで、降谷はずっと気にかかっていた事をようやく口にした。腕の中の小さき獣が起きているのに寝たふりをしている……つまり、狸寝入りをしていると。ぴく、力が入った体はいつまた跳ね起きてこの手から逃げ出すか分からない。するりと身を躱されたときのあの寂しさがフッと蘇り、降谷は自ら狸を母親の元へと返した。
 膝の上、降谷の方に向かって座らせられた狸はお腹が丸見えというレアな姿勢をしており、先が黒くなったふさふさのしっぽが大事なところを隠すように前に出ているのがなんだか悩ましげで、女の子だと知ってしまったせいか相手は野生動物だというのに目のやりどころに困ってしまう。
 だが座り心地が悪かったのか、すぐに狸は暴れて父親の後ろへと身を隠してしまった。ああ、やっぱり自分たちにはそこまで懐いてはくれないのだなと内心がっかりもしたし、自称化け狸とはいえ親を名乗るだけあって見せる親密さは降谷の比ではない。とはいえ、最初に出会ったのは去年の六月。ちょくちょく顔を見せるようになったのだって秋頃だ。まだ自分たちはようやく一年経つくらいの期間しか関わりを持っていない。
 ――いや、だけどよく言うじゃないか。遠くの親類より近くの他人、と。座卓の陰で拳を握りしめる。なんとしても心通わせてみせようじゃないか。

 そんな降谷の決意は数分後、少女の姿を目の当たりにした事で早々に揺らいでしまうのだが。


 7.

 自室の箪笥から未使用の下着とあまり着ていない夏服を手早く出しながら、脳内は混乱を極めていた。
 変化するための宙返りが上手くできず座卓に鼻から突っ込んで、大粒の涙をぽろりとこぼした狸は確かに稚《いとけな》く可愛いとすら思った。あれでは庇護欲だって湧きもする。しかしそれは丸くてもふっとした狸の姿だからだ。あんな、
「あんな義務教育真っ只中の少女相手じゃ……」
 はあ、と自分に呆れて溜息が漏れる。どう見たってお巡りさん案件じゃないか。あんな子供の女の子を自宅敷地内に誘い込む三十路の独身男性……佐藤家の独身女性を家に上げるよりも質が悪い。
 狸は横回転する機転を見せ、見事人間の姿へと変化した。柳の枝のような腕や脚、両手で囲えそうなくらいに細い腰。ぺたんこなお尻と、起き上がった拍子に見てしまった絶壁な胸……あれはあくまでも事故だと主張しておく。
 短い髪は黒く、後頭部の旋毛が寝癖のようにぴょこんと一房跳ねていて、そういえば狸にも同じ箇所に変な癖毛があったなと今更に思い出す。その年頃にしてはほっそりとして肉付きが良くないせいか、目がやたらと大きく見えた。長い睫毛がぱしぱしと瞬いて、その奥にある青い瞳に影を作る。晴天の下で覗き込んだらきっと、空と同じくらい真っ青な色が拝めるんじゃないだろうかと現実逃避しかけた。
 それを引き戻したのは、こちらに向かってくる足音だった。とても軽く、ぺたん、ぺったん、とっ、とったっと少しずつスピードと歩幅を上げてくる。あの面子の中で該当するのは一匹いや一人しかいない。くすくす笑いまで上げて、何がそんなに楽しいのだろう、と降谷は立ち上がり自室から出ようと引き戸に手を掛けた。
 ――ごん!
 自室前にある廊下突き当りの壁に何かがぶつかる音と、戸に伝わる振動にぎょっとした。何か、というかこの場合原因は一つしかない。
「狸!」
 慌てて開いた戸の先には、額を両手で押さえてぽろぽろと涙を零す少女がいた。降谷がかぶせたTシャツは袖を通せなかったのか全部めくれて丸見え状態。悲鳴を上げなかった自分が偉い。というか、いつか捕まりそうな気がして頭が痛くなる。己は無実だと誰に向かうでもなく叫んでみるが、見るからに分が悪いのは降谷の方である。
 とにかくこれは宜しくないと、上がっていた少女の腕を下げさせて服を下まで下ろした。
「……腕はここ」
 袖のホールを広げて誘導してやり、どうにか見た目六割を隠して。降谷の胸元にも届かない小柄な背丈の少女の、その小さな背中をそっと押して元いた座敷まで引き返した。人の目の無いところで、ほんの数分とはいえ二人きりになるのは恐ろしすぎて。今訴えられたら負ける自信しかない。不意打ちとはいえ裸を見ただけでも後ろ指を指される時代なのだ。
「すみません……。お嬢さん、突き当りに追突したようで。着替えさせるついでに見てもらえますか」
 生憎と女性下着なんてものはこの家にはない――当然だが。それを侘びつつサイズが合わないだろうボクサーパンツは新品未開封だからと袋入りのまま服と一緒に母親に渡して、隣室に案内する。そして、父親の横に正座して頭を下げた。親友がぎょっとして立ち上がりかける。
「ぜ、ゼロ!?」
「申し訳ありません。お宅のお嬢様の裸を事故とはいえ見てしまいました」
 彼女が涙目だったのは壁に自分から激突したからだし、後で裸を見られたと少女が親に申告した場合、それでも自分に非は無いのだと今のうちに言っておかねばならない。退職したとしても新聞には『元』が付く、そんな職務に就いていただけに。それで全国の同職に就いている仲間たちが迷惑を被るのだけは避けなければならない。
 ……と言うのは建前で、こうして謝った事実を残しておかないと未成年の親相手は何かと面倒事が起きやすい。それを見越しての謝罪だったのだが、それも相手には全部見透かされていた。
「いやいや。君も元が付くとはいえ大層なご職業に就いていた身なのはこちらも重々承知しているよ。構わないから、顔を上げなさい」
 それについてはこちらが問い詰めたい気持ちはあるものの、大人しく従った。
「ちなみに工藤さん。お嬢様はおいくつで……?」
「去年の五月に生まれたから、狸で数えれば一才と三ヶ月かな」
 ヒロが素早くスマートフォンを叩いて、さっと顔を青褪めさせた。
「ゼロ、大変だ。狸の寿命は凡そ六から八年……人間に換算すると一才三ヶ月は――約十才だ」
「……どうりで、」
 どうりでぺったんこだった訳だ――その言葉を意志の力で飲み込んで。降谷は顰め面をそのまま工藤氏に向けた。
「貴方の口ぶりではあの子を僕に託したい様子でしたが、流石にあの年頃の異性と交流というのは難しいものがありますね。狸の姿のままではまた佐藤さんや、他所から山菜取りに来た人間に迫害される恐れもある……ご存知でしょうが、路上で車に轢かれて亡くなる野生動物の半数近くは狸です。この辺りは田舎ですが、田舎だからこそ道を飛ばして通り過ぎていく車も多い」
「佐藤さんなんかそれこそガンガン飛ばすよな」
 人間さえ轢かなきゃいいと普段から豪語するような人間だ。さらにはキャンプが流行りだからかシーズンになるとSUV車が休日のたび行き交うことも多くなった。降谷としても、そろそろ狸に車の危険性を教えておかなければと思っていた矢先の、今回の出来事だったのだ。
 隣室の襖が開き、母子が顔を出した。
「独身男性の一人住まいが駄目なら、ひろくんの家は?」
「い、いや……。うち、犬飼ってるんで」
 それに、新一ちゃんどう見てもやっぱり小学生じゃないですか、とヒロが両手を振って固辞した。戸籍があるということは、ここに転入して色々と踏まなければならない手続きがある。ヒロの両親にもどう説明をつけたものかと悩みは尽きない。
 母親の後ろに隠れるようにしてこちらをジト目で窺う少女は喉をグゥウと鳴らした。
「仕方がない、あっちに一緒に連れて行くしかないか」
「そうね。ロスで狸にさえ戻らなければ、新ちゃんでもなんとか生きていけるでしょう」
 ちょっと待ったと声を上げるよりも早く、少女が動くほうが早かった。ピャッと飛び出した影は降谷の後ろに回り込み、服の裾をぎゅうと引っ張る。ううう、と唸っているのは拒絶の証だった。うぐ、と首元が締まって変な声が出た。
「あのね、唸っていないで嫌なら嫌と言ってくれ」
「グゥゥゥゥ……」
「君、もしかして喋れないのか?」
 後ろを覗き込むと、水面を張った瞳と視線がぶつかる。少女はもう一度小さく唸ったあと、首をふるふると横に振る。なんてこった、と天を仰いだ。
「僕はサリバン先生にはなれませんよ……」
「ははは、いい例えだ」
「からかわないでください」
 降谷の服は当然ながらぶかぶかで、野生時でさえ人間の食べ物を口にしていないから肉付きも悪い体はまるで欠食児童のようだ。さらには日本語を解してはいるものの一切喋れない、そして人間の生活仕様にまったく慣れていない。どう考えても、これは親の育成責任の範疇ではないだろうか。そう指摘すると、生みの親であるはずの二人は顔を見合わせた。
「うーん、だがしかし我々は狸だからなぁ」
「この歳で独り立ちは当たり前だし、新ちゃんも冬になれば発情して交尾するお年頃なのよ?」
 ヒロが空で人間年齢に換算して「十六、七なら……確かに、可能ではある」と納得仕掛けたので白目を剥いて反論した。
「二〇二二年四月から結婚可能年齢は男女とも十八だ!」
 少女が今現在十歳であるならば、あと八年。彼女が適齢期を迎える頃には降谷は四十路目前。……駄目だろう。いや、駄目ではないが、アウトだ。なんというか、心情的にキツイ。
「ご両親のどちらかが日本に残ったらいいじゃないですか!」
 言いながらふと思った。なんかこれ、遺された子供の親権の押し付け合いみたいじゃないかと。大体こういった場面に於いて当事者であるはずの子供の意志は尊重されず、大人の諍いの間で傷つき心を閉ざすケースが多い。
「私も妻も、あちらに仕事を抱えていてね。君が保護しないというならば、この子は野生に戻るだけさ」
 野に交じり、人間の言葉を忘れ。君のことも忘れていく。ただの狸になるだけだと、工藤氏は言った。
 それは嫌だ、というのは自分のエゴでしかないと分かっていても。降谷はじゃあどうしたらいいんだ、と自問自答を繰り返す。そもそも、なぜ自分はここまでこの存在に執着しているのだろう。何故、どこにも誰にも渡したくないと思ってしまうのだろう。
「降谷くん。新一は、君がこれまで守りきれなかった被害者たちとは違うよ」
 工藤氏が、降谷を真っ直ぐに見つめて言った。
「この子にはこの子の生があり、心がある。守れたかもしれない命と、目の前の命を同一視してはいけない――分かるね?」
 人が一人で住むにはやや大きい一軒家と、猫の額ほどの畑と、田んぼと、自分で手入れできる範囲の山。ここが降谷の城であり、陣地であり、領土だった。この中で生きとし生けるものは皆、降谷の手のひらの中で守られるべき存在だった。だがそれらは人間社会の理とはまた違う理で動いている。異なる世界のものを、人間の世界に持ち込めば歪が生じる。
「新一は強いよ。それに、我慢もできるし賢さに於いては人間に引けを取らない」
「なんたって私達のこですもの。人間の世界に馴染むのもあっという間よ」
 きゅう、と背面の布地を握り締めてくる存在を想う。想って、降谷は首を横に振った。
「でしたら尚更分かるでしょう。……人間には、世間体というものがあるんです。僕にこの子を育成することはできません」
「ゼロ、」
 何かを言いかけたヒロを視線で黙らせた。いや違うくて、と手を振る親友の言いたいことは直後に尻を襲った衝撃で身を以て知った。
「ぃだっ!」
 小さな体の、細い足。そのどこにそんな力があったのか。片足一本で降谷の尻を蹴飛ばした少女は、大粒の涙をぽろぽろと沢山溢れさせて、口を大きく開いた。
「あ、――ば・ばぁぁっぁぁぁろぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
 四つん這いで振り向きぽかんとしたままの降谷に向かって少女は、最後に歯をむき出して「シーッ!」と威嚇した。そして。
「あっ」
 降谷が手を伸ばすより早く。その身を翻し、座敷から縁側へ、そして外へと。ぴょんと床板を蹴って空中で一回転、たちまち見慣れた獣の姿へと戻り、いつもの鈍臭そうな歩き方とはかけ離れた俊足で、裏山へと走り去ってしまった。
 たぬき、と大声で呼びかけ追いかけるも草叢の中に入られてしまえば、降谷には見つけられるはずもない。何故なら今までだって一度も見つけられた試しがないのだ。山の中では人間は、一番無力な存在になる。田んぼの手前で、降谷は追いかけるのを早々に諦めた。

 そのうちまた顔を出しに来るだろう、という彼女の親と親友の慰めに反し、狸はそれからさっぱりと姿を現さなくなった。
 山から吹き降りる風に冷たさが増し、木々が紅葉で赤く染まり、稲刈りを終えた田んぼは地肌の色を見せ。薄く澄んだ空を冬の使者である渡り鳥が群れをなし飛んでいく。朝晩に霧が立ち込める十月が終わり、枯葉舞う十一月、山茶花の花の匂いに鼻をすんすんとさせる姿はどこにもなく、霰《あられ》が、そして初雪が、地面をしんしんと凍らせていく。霜柱を踏みしめて山を歩けど、ほら穴一つさえ探せない降谷にはどうしたって見つけられようがない。年の瀬を迎え、初日の出。去年はまるで新年の挨拶と言わんばかりに姿を見せた縁側前も、今年は獣の足跡一つとなく。寒雷鳴り響く夜も、風雪吹きすさぶ昼も。しんしんと静かに雪が降り積もる朝も、降谷はたった一人でその景色を眺めた。
 狸は冬ごもりをする獣ではない。だからこそ、たった一つの小さな生き物の不在がもたらす孤独の闇は、不安を連れて降谷を苛む。今頃、どこかで野垂れ死んではいないか。餌を求めて山向こうまで足を伸ばし、猟師の罠にかかってしまっていないか。今年は木の実が不作で熊がいつもより多く人里に姿を見せているところもある。その牙に捕らえられてしまったのではないか、と。
 どんなに部屋を温めても、心の中に感じる寒さは消え失せない。――春になればきっと、という無言の願いはしかし、日差しが柔らかくなるにつれて罅が入りやがて打ち砕かれることになる。
 雪解け水がせせらぎの嵩を増す四月になっても、桜が散り緑生い茂る五月になっても。あの丸くてぽてんとした体全身で田んぼの近くを駆け回る姿はどこにもなかった。

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