たぬきのお嫁さん

 子狸は恋を自覚し、人間は家族愛に目覚める

 1.

 ひろという名前の人間がふるやさんを助け起こし、けいとらに乗せて山を下りていくのを、たぬきは草むらの陰からそっと見守った。もう大丈夫、と思いたいけれど、足を怪我していたようだったからもしかしたらもう歩けなくなるかもしれない。その時は自分がふるやさんの家まで山菜や木の実を運んであげなくちゃ、と決意する。魚はまだ上手に捕れないけど。ふるやさんがこの山でよく採るものくらいなら把握しているから、少しは役に立てるはず。
 あの人はふるやさんを、『びょういん』というやつに連れて行くと言っていた。それは遠い所にあるのだろうか。夜には、帰ってこれるのだろうか。
 けいとらの音が聞こえなくなってから、たぬきはようやく草むらから出た。砂利道の端っこの、雑草が生えている場所を小走りに下っていく。ふるやさんがどこかに出掛けている時、田畑は無防備状態になる。ひろの家みたいにうるさい犬を飼っているならまだしも、ここの家はにわとりすらいない。たぬきが代わりに守ってやらなくちゃいけない。
 木々からは蝉たちがこれでもかとミンミンしゃわしゃわ鳴き声を上げているのに、家主の気配が一切ない敷地はどことなく静かだ。今まで感じたことのない虚ろな寂しさはたぬきを一層臆病にさせる。縁側の下に潜り込み、ずっと溜め込んでいた息をそろそろと吐き出した。山中と違いここは夏の陽射しが痛すぎるのもある。天辺にあった太陽が少し傾くまで、たぬきはその場から動かずじっとしていた。
 しばらくの間バクバクとしていた胸の鼓動も落ち着いてきて、たぬきはようやく縁側の下からそろりと身を出した。勇気を絞り出す為に大きく体を震わせ、ひゃんと鳴くと畑へと一目散に駆けていく。屋根の上からカラスが一声鳴いて飛び立った。それだけでぴやっと飛び上がってしまうくらい、ふるやさんのいない庭はとても心許ない。あの人がいたからこそ、たぬきは安心して遊んでいられたのだ。
 畑にはトマトやとうもろこし、きゅうりなど色とりどりの野菜が大きな実を連ねていた。大きく畑をぐるりと囲んでいるのは頼りない紐のような網だけど、その向こうからはたぬきの嫌いな臭いがしてくる。地面に撒かれている薄茶色のふわふわしたもののせいだ。ふるやさんがひろから貰っていたあれは、羊の毛だ。自分たち獣はあの臭いが好きじゃない。たぬきはそもそもここに近寄らないから、あれがこんなにも臭いなんて思いもしなかった。
 臭いのを我慢しつつ網の周りを一周して、特になんの異常もないことを確認したら次は田んぼだ。青い実をたくさんつけた稲はまだ食べられないけど、イノシシにそれは通じない。やつらはたぬきと同じでなんでも食うし、たぬきよりも凶暴だからたちが悪い。
 ふんすふんすと鼻息荒く、二つある田んぼを見て回る。ひろの家の田んぼは見渡せないくらい広くて、ここの『じゅうばいいじょう』とかいう大きさらしい。ふるやさんは自分が食べられる分と、誰かに送る分とそれだけあればいいのだと言っていた。
 暑くて何度も用水路に入っては手足を濡らし、お腹が空けば虫を食う。時々木陰で休みながら田畑を見て回る。それを何度か繰り返し、お天道様が傾いて空が橙色に染まる頃、車が一台敷地内に入ってきた。
 見たことのない大きな、熊のようなやつだ。たぬきはぴゅんと縁側の下に潜り込んだ。隅っこに縮こまってぶるぶると震える。あんなのに勝てっこない。でも、ふるやさんのお家を壊そうとする悪いやつかもしれない。どうやって戦おうか、と勇気を奮い立たせて顔を出そうとしたところで、聞き慣れた声を拾った。
「ありがとう、ひろ」
「ここまでで良いとか言ったら怒るぞ。家の中まで付き添ってやるよ」
「悪い……」
 足音がいつもと違う。なんだかひょこん、ひょこんと飛び飛びだ。それに、ふるやさんの足じゃないような。
 ふるやさんとひろがこっちに向かって歩いてくる。たぬきは慌てて、縁側から出て角を曲がり身を潜めた。
「玄関の鍵はどれだ?」
「これだ。ほんとに何から何まで済まないな」
「言うなって。……それにほら、東都で俺が撃たれた時はぜろが面倒見てくれたろ?その恩返しだよ」
「それを出されたら何も言えないな」
「だろ?黙って甘えとけ」
 ひろの足音が遠ざかる。ということは、今そこに居るのはふるやさんだけだ。
 たぬきはそろりと顔を出した。ふるやさんは縁側に腰掛けて、どこか遠くの空の方を見ていた。右足の向こう側、ぴんと真っ直ぐに伸びた左の足は真っ白で一回り大きくなっていた。
「たったの三年で随分鈍ったなぁ……」
 それは初めて聞いた、ふるやさんの弱った声だった。ずっと強く握りしめていた拳がその形のまま固まって、弛めようとすると震えてしまうような。そんなとても微かな揺らぎは、たぬきの心を大きく揺さぶった。春に生まれたばかりの頃は両親が大切に育ててくれたが、秋になるとたぬきはひとり立ちして生きてきた。それでも時々、親を思い出して甘えたくなる。誰かに寄り添いたくなる。そんな時に感じる恋しさ、温もりを求める心。ふるやさんの声はそれを思い出させた。
 そっと顔を引っ込めた。
 ふるやさんが、いなくなってしまいそうな気がして。ここに来る前にいた所に、父と母と暮らしていた場所に、帰ってしまうんじゃないかと。
 胸がぎゅうと絞られるように痛くて、悲しくて。たぬきは小さく、きゅう、と鳴いた。


 2.

 ――たぬきの杞憂はあっけないほど杞憂に終わり、ふるやさんは相変わらずこの家に住んでいる。食事やちょっとした世話、それから田畑はひろが来て手伝ってくれていた。たぬきも変わらず、人間たちから距離を取ってちょこちょこ動き回っては遠目に様子を窺う。とりあえず、たぬきの出番は今のところないらしい。人間はタニシを食べないようなので、してやれる事が何一つ無くてただ眺める他ない。
 ふるやさんには、お父さんやお母さんと呼べる人間はいないのだろうか。ふと、そんなことを思った。もしくは番の雌――女の人間。動物や虫によっては同性で番うようなのもいるが、人間は大概雌雄で番っている。
 そんな余計な考え事をしたせいか、その日の昼過ぎにふるやさんの家に珍しくも若い女の人間が訪れた。同じ集落に住んでいるというその女は、手足全部見えるくらいの小さな服を着て、手には大きな袋とそして雨でもないのに傘を差していた。
「こんにちはぁ。お母さんが持ってけってぇ、これ夕飯にしてくださいってぇ」
 たぬきの鳴き声に匹敵する高い声。女は首を左右にこてんこてんと倒しながら、可愛らしく喋った。くるくると渦を巻いた栗色の髪がふさふさ揺れる。用水路にうっかり転げ落ちてずぶ濡れになり、畦畔で毛を乾かしていたところでの来訪に、その場から丸見えの玄関先の様子が気になって、丸い耳をぴくぴくと動かした。
 ふるやさんと、田畑の世話に来ていたひろは苦笑いで互いを見合った。
「さとうさん。わざわざいいのに」
「るりこちゃん、こんな集落の端っこまで来るの大変だろ?免許持ってなかったよね。自転車?歩き?」
 送っていくよ、とひろが袋を受け取って下駄箱の上に置くと、あっでも……と躊躇う女の鼻先で玄関を閉めた。磨りガラスの奥へとふるやさんが隠されてしまう。
「あいつはやめとけって、おばさんにも言っといてよ。どうせアレだろ?いつまでも彼氏も作らず家でダラダラしてるんだったらふるやさん落として来なさいとか言われたんだろ?」
 ひろの言葉に女は強く頷いて、協力してとかなんとか言いながらけいとらへと乗り込んでいく。たぬきはそれを眺めながら、呆然としていた。
 ふるやさんの周りで女の人を見たのは、これが二人目だった。一人目はひろのお母さん。お父さんと一緒に来て、季節外れに降った大雪の雪かきを手伝ってくれた。今日来たあの人は、とても若かった。しわしわじゃないし、おっぱいもでかかったし、お尻は上に上がっていた。ひろのお母さんと全然違う。
 たぬきはぽてんと座り、見下ろした。おっぱい……は、どこにあるかわからない。おしり、はどうだろうか。見たことがないからわからない。他から見て魅力的かどうかは分からないけど、あの山にいる他のたぬきから誘われたことは一度もない。
 というか、ふるやさんは人間なのだから、人間と番うのが当然で、たぬきがこんなことで悶々とする必要すらない。
 キュウン。フュウン。悲しみが喉を突いて溢れてくる。たぬきはもうずっと、ふるやさんという人間の男に心乱されてばかりいる。
 そうか。これが、好きになるってことなんだ。
 きゅううと喉が鳴った。まばたきをしたら、水がぽろりと零れ落ちた。四方八方からぐんぐんと押し寄せてくる息苦しさは寂しさなんて可愛らしいものでなく、自分をぺしゃんこに押し潰す大きな力。それは、自然の摂理。獣は、人間と番になれない。たぬきは、ふるやさんに恋をしても想いを伝えられない。
 たぬきはたぬきとしか、番えない。
 身を起こし山へととぼとぼ向かう。ふるやさんをもう一度見てしまったら、走り寄り泣き叫んでしまいそうで。そんな自分がなんだか怖くて、自分が何者なのか分からなくなりそうで。穴ぐらの中で一晩寝て、明日になればきっと、こんな気持も忘れるだろう。


「ふるやさぁん、これお母さんから〜」
 玄関の入り口に立ったるりこが、からからと戸を引いて可愛らしい声で呼ぶ。今日は一段と肌が見える服を着ている。盛夏は過ぎたといえど、朝晩は少しばかり涼しくなってきたというのに、夕方現れたるりこはうっかりすると乳が見えてしまいそうな、がばがばの首元を見せつけるかのように少し屈んでくねくねと首を揺らした。
 人間の女の求愛ダンスはああやるのか、とたぬきは離れにある物置小屋の陰から見ていた。真似してお尻をふりふり、首をこてんこてんとしてみたけれど、ちょっとよくわからない。人間の男はそれを見て発情するのだとしたら、なかなかに奇抜な生き物だと思う。
 中からちょっと待って下さい、とふるやさんが応えて、ややあってから姿を見せた。
「すみません、いつも悪いし自分でももうキッチンに立てるからあとは大丈夫ですよ。ギブスも明日には取れるし」
「そんな水くさいですよぉ。それに毎回出迎えてもらうのもなんだし、あたしキッチンまで――」
「いいえ、本当にもうこれ以上はいただけません。それに若い女性が一人でこんな所にくると、変な噂が立ちますからね。それだと僕が困るので」
 えっ、とるりこが一歩後ろに下がった。
「それ、って……」
「あなたのお母さんも変に焚き付けてきたんでしょうけど、僕には大切にしたい家族がいるんですよ。なので、下心の入ったものは受け取れません。申し訳ありませんと伝えておいて下さい」
 きっぱりと、低い声でふるやさんが言う。
 るりこは束の間沈黙して俯いていたけれど、顔を上げて、でも、と食い下がった。
「結婚してないですよね?遠恋ですか?それって虚しくないですか。私じゃ駄目ですか。外も暗くなってきたし、……お願い、今夜だけでいいの」
 るりこの手が服の襟元へと伸びて、むちむちの山を作った乳を突き出した。ふるやさんが「あのね、」と言った所で、たぬきは堪らず飛び出していた。ぽてっぽてっと近づいて行くと、ふるやさんとるりこが気付いてこちらを向く。
「きっ、ぎゃあああ!タヌキ!齧られる!」
 咄嗟に側にいたふるやさんにしがみつこうとしたるりこだったが、スイと避けられたせいで玄関の土間につんのめって転んだ。
「いったぁい!」
「お前、どうしたんだ……?」
 ふるやさんがしゃがんで、たぬきの顔を覗き込んでくる。けがでもしたのか、熊でも出たか。問いかけてくる言葉は柔らかく、優しい。反対にるりこは金切り声で叫んだ。
「害獣!駆除!」
「この子は害獣なんかじゃない!」
 ふるやさんも負けじと声を張り上げた。吊り上がった眉と、怒りに揺れる灰色の瞳。
 怒鳴られたことに怯えたのか、ぱぱに言うからね!と喚き、るりこは走って出ていった。ふるやさんはそれに構わず、たぬきへと手を伸ばす。
「ごめん、大きな声にびっくりさせちゃって。それより、どうしたんだ?お前は滅多な事じゃ僕らに近寄らないだろう」
 外は夕闇、玄関の明かりがふるやさんの顔に影を作る。大きな大きな手のひらがたぬきの視界いっぱいに広がる。その五本の長い指がたぬきとは違う生き物なのだと思い知らされるようで。
 バッと後ろに飛び退いた。ぽかんとしたふるやさんの顔は、いつもの穏やかな雰囲気を取り戻していたけれど。
「――あっ、おい!」
 たぬきのなけなしの勇気は、とっくにぽしゃんと弾けて消えていた。制止する声を振り切って、闇の帳が降り始めた山へと駆け戻っていく。
 害獣なんかじゃない、と言い返してくれた嬉しさよりも、それでも結局たぬきは獣でしかないのだという現実。
 恋。なんて。しなければよかった。あの人に、懐いたりなんかしなければ――なんて。
 そんなこと、口が裂けても言えない。
 こんなにも胸が苦しいのに、明日になればまたたぬきは性懲りもせずにふるやさんのもとへと会いに行ってしまうのだろう。それでもいい、とねぐらにしている巣穴に潜り丸くなって目を閉じる。顔に寄せた尻尾に触れて、下に敷き詰めている乾いた葉が音を立てた。外から流れてくる空気はまだ温《ぬく》く重たい。けれどもその中に微かに混じる細く薄い冷気。秋の訪れはもう、すぐそこまできていた。

 朝、山を下りて恐る恐るとふるやさんの敷地に顔を出すと、どこかへ行くようでひろがまたあの熊のような車に乗ってやってきていた。
「お、ぜろの出待ちか?」
 うっかりと目が合ってしまい、物置小屋の陰から顔だけ出して固まる。ひろはにこにことしながら、「聞いたぞ、恋のらいばるを蹴散らしたんだって?」と何故か上機嫌だ。
 ふるやさんが玄関に鍵をかけて、車まで歩いてきた。まつばづえ、と呼ばれる木の枝を車の中に入れると、たぬきに向かって手を振ってきた。
「病院に行ってくるよ。お留守番、よろしくね」
 昨日と同じように、ふるやさんの声も顔も熟れた桃のように柔らかくて甘い。たぬきはヒェンと鳴いて陰に隠れた。
「フラレっぱなしだな、ぜろ」
「うるさい」
 ブルン、と車が唸る。ふるやさんを乗せて、出ていく熊はどこか偉そうで、誇らしげで。隠れて見ているしかできないたぬきには、一生かかっても真似できない。前足を持ち上げ、二足歩行をしてみようとしたけれど、一歩後ろ足を踏み出したところでバランスを崩してぽてんと腹這いになった。舞い上がる土埃にぶひゃん!とくしゃみをする。
 しょげ返りながらもふるやさんからの大切なお願い事を実行するため、たぬきは起き上がりぷるぷると体を揺らすと埃を振るい落として歩き出した。さあ、田畑の見回りへ出発だ。

 敷地の入り口近くにはいちじくの木があり、夏の終わり頃から濃い赤い色の実をつける。ふるやさんはそれを見るとなぜか口をへの字に曲げるので、きっといちじくは好きじゃないんだろう。落ちた実を食べたことがあるけど、とても甘くて美味しかった。一度だけふるやさんがもぎたてを差し出してきたことがあったが、たぬきは決して手を出さなかった。それ以来、ふるやさんもたぬきの為に果実や作物をもぐ事はしなかった。
 まだ落果には早い時期なので、ほんのり漂う匂いに鼻をひくつかせて胸いっぱいに甘味のある香りを堪能する。じゅるりと湧いた涎を飲み込んで、水場にしている用水路へと向かおうとしたその時。遠くから車の音が聞こえてきた。
 ふるやさんが帰ってきたのかと思い、耳をそばだてる。だが、それはひろの車のものではなかった。
 お手紙を届ける人かな、と思いつつ敷地の奥へと向かう。田んぼに行くには、畑の横を通っていくのが一番の近道だ。嫌な臭いを我慢しつつ横目に見た畑では、青々とした夏野菜が明日の収穫を待っている。秋の野菜も順調に育っていて、このところふるやさんはいつも畑でにこにことしていたなと思い出した。
 足を止めて脳裏に浮かんだその笑顔にうっとりしていると、突然後ろから人の声がした。
「るりこの言ったとおりだ」
 低くしゃがれた声だ。びっくりして振り向くと、頭上から突然網が降ってきた。なんだこれは、と一瞬体が固まったが、ゴワゴワした網が肌に擦れて痛いと感じたところでやっと人間に捕まったのだと理解した。足全部を掻いてはねつけようとしても、目の細かい四角の隙間に指や鼻が絡まって上手く逃げられない。目の前の黒い蛇みたいな網が、視界を大きく遮る。男の怒鳴り声がたぬきに何か文句を言っているのか、一度脇腹を何かで殴られた。蹴られたのかもしれない。そこから、ひ、ひ、と呼吸が上手くできなくなって、たぬきは恐慌状態の頂点に達した。そして。
 ――ぱたり、と。仰向けになって両足をぴんとつっぱったまま、固まり気を失った。擬死、つまり死んだふりと人間は呼ぶが、たぬきにしてみればそれは生き延びるための生存本能。けれども、獣相手ではなく人間相手の場合は悪手であることを、たぬきは知らなかった。
「うちの娘を怖がらせやがって。ふるやさんもこんな害獣手懐けたって、迷惑なんだよな」
 後ろ足を捕まえ、引きずられる先は男が乗ってきた軽トラックで、その先たぬきを待ち受ける運命は一つしかない。だが、たぬきは硬直したまま。
「見たとここれから繁殖期か……やれやれ、山ン中でおとなしくしてりゃいいものを」
 逆さに吊るしあげられて、荷台へと音を立てて放り込まれた。ゴン、と頭部が鈍い音を立てたところでやっとたぬきは目が覚めた。
「大丈夫だ、苦しまずに死なせてやっから」
 今夜はたぬき汁だな、とどうでもいい事のようにぼやいた男の、無表情な真っ黒い瞳。振り上げた手にはとんかちのようなものが見えて、たぬきはありったけの力で叫んだ。


 3.

 一面の真っ青な空を背に、男がとんかちを振り上げる。あれはぶつかると痛いやつだ。突然の雨風にふるやさんの農具小屋へと駆け込んで、勢い余って棚にぶつかり上から落ちてきたそれにおでこをぶつけた時は、二日くらい痛くて泣いた事がある。男は「苦しまずに死なせてやる」と言った。けど、そんな痛いものをぶつけられたら苦しいに決まってる。そんな死に方を、たぬきはこれから迎えてしまうのか。
 ギャ、と叫んだ。
 冗談じゃない。なんでお前なんかに殺されなきゃいけないんだ。悪いことなんて、何一つとしてしていないのに!牙を剥き出し威嚇の唸り声を上げると、男は一瞬ビクリとして躊躇った。その一瞬が、たぬきの命を救った。
「あのぉ。その子、うちのこなんですけど」
 なんとも場違いな、歌うような美しい女の声がした。男の気が逸れたのを見て、たぬきは今度こそ死にものぐるいで網から脱出を図った。車の荷台から脇目も振らず飛び降りた所を捕まえたのはまた別の人間だった。
「危なかったなぁ、新一」
 のほほんとした男の声だ。見上げると眼鏡と口ひげが真っ先に目に入ってきた。けれどたぬきはとんかち男以外の人間の登場に吃驚するよりも、聞き覚えのある名前に大きく目を見開いた。人間が発したのは自分の名前だと、唐突に思い出したのだ。生まれてからほんの少しの間だけ一緒に暮らした、父と母がたぬきをそう呼んでいた……気がする。
「ふるやさんの知り合いか……オメェさん方、都会から来たのか?そいつは犬ころじゃねぇ、狸っていう田畑を荒らす獣だ。チッ、まったく……すっかり人里に懐いちまって。繁殖する前に殺さねぇといけねぇってのに」
 とんかち男は荷台から地面に下りて、たぬきを抱いた眼鏡男に向かって手を伸ばす。グゥゥ、と低く唸るととんかち男はさらに目を吊り上げた。
「佐藤さん」
 たぬきを抱いたまま、眼鏡がとんかち男の名前を呼んだ。
「……アンタなんで俺の名前」
「ご存知でしたか?狸という動物は、縄張り争いをしないんです。何故なら雑食故に、野山の動物たちにとって貴重な木の実を奪い合う必要はないから。果実だけでなく虫や爬虫類、両生類……小さい生き物ならほとんど食べられますね。だからわざわざこんな人間に襲われやすい場所まで降りてこなくても、山の中で十分生きていけるんですよ」
「ハッ、学者さんか?頭でっかちなのか知らねぇけどな、一度人間の作ったモン口にしたら獣ってのはそっちのがウメェって分かっちまうんだ。そいつはしょっちゅうここいらを彷徨《うろつ》いてるらしいじゃねぇか」
 たぬきはふるやさんの作ったものに、手を出したことはない。収穫後の田んぼに落ちている米――は、食べていいやつだってふるやさんが言ってたし。
「新ちゃんはふるやさんが大好きだから、あの人の言う事ちゃんと聞くし、多分この敷地から出たこともないんじゃないかしら」
 たぬきを抱いた眼鏡男の横に並んだ女は、首を傾げてたぬきと目を合わせた。栗色のくるんとした髪の毛が揺れる。ふんわりと漂った匂いの懐かしさにきゅううと喉が鳴った。
「ほら、この子もそう言ってるわ」
「奥さん、でたらめを言っちゃいけねぇよ。獣に人間の言葉が通じるわけがねぇ。それにな、ゆうべ家の娘がそいつに襲われたって言ってんだよ」
 とんかち男が頭を振ってやれやれ、と大袈裟なくらいの大きな溜息を吐いた。それにムッとしたのはたぬきだ。なんなんだこのとんかち男。勝手にふるやさんの敷地に入ってきて好き勝手したのはそっちだし、るりこが来るたびふるやさんはもう来なくていいと言い続けたのに、毎日押しかけてきたのはあの女の方なのに。昨日だって、ただ近寄っただけで勝手に転んだのだ。ここの主は、ふるやさんだ。ふるやさんの許し無く縄張りを犯していたのは、こいつらの方だ。
 唸りながら、そう主張した。眼鏡はふむ、と頷く。
「成程。新一の主張は分かった。とは言え、不法侵入というのはこの田舎では適用が難しいから使えない。覚えておきなさい、新一。このようなコミュニティでは何が一番効くのかを」
 ひそりと囁かれて、たぬきは眼鏡男をもう一度見上げた。口ひげの下にある唇は、余裕の笑みを湛えている。とんかち男を見る瞳には、智力が宿っていた。
「申し遅れました、私は工藤優作と申します。……こちらの以前の家主である守屋さんとは旧知の仲でして」
「守屋さんの?」
「ええ。昨日お見舞いに。あと『まみづかさん』とも長い付き合いを。昨夜はそちらに泊めさせてもらいましてね」
「あ……郷長さんの知り合いでしたか……」
 たぬきは今日何度目か分からない驚きに、ついとんかち男を二度見してしまった。ついさっきまでの苦々しい顔が一転して、目尻は垂れて口角が上がり、そびやかしていた肩は内側に丸くなっている。男はしどろもどろになりながらも、敷地内に勝手に入ったことを詫びると最後に「たぬきも無事だったし、どうかこのことはあまり人に言いふらさないでくれ」と念を押して挨拶もそこそこに、けいとらに乗り込んだ。
 無事ってなんだ。打ち付けた頭は痛いし、殺されかけた怖さは忘れられそうにもない。せめて屁の一つでもくれてやりたいのに、眼鏡男はぎっちりとたぬきを抱き込んでいたからそれもできやしない。
 けいとらがぶぉん、と唸った。
「守屋さんは……」
 開けっ放しの窓から、とんかちが眼鏡に訊ねる。元気だったろうか、と。眼鏡男は「ええ、」と頷いた。
「ホームで元気に過ごされてました。まだまだボケるには早いと仰って、足腰さえ動けばまだまだ畑いじりもできると」
「そうか……。あのじいさん身寄りがねぇからな。寂しくしてなきゃいいがと思っとったが」
「たまには顔を出してあげて下さい。いつも来るのはここの若者たちばかりで、昔話を語り合える奴らがいないと嘆いてましたよ」
 とんかちがくしゃりと笑った。
「あのじーさん、話しだすと長えんだわ」
 手を上げて合図すると、けいとらが走り出した。もうんと上がった黒い煙と土埃に、たぬきはぶひゅん!とくしゃみをした。
「――ここだけでなく隣の諸伏さんの家の辺りも、昔は守屋さんの土地だったんだよ」
 工藤優作と名乗った男はたぬきを抱いたまま、道路向こうに広がる薄黄色がかってきた田んぼを見渡した。つい、つい、と空を切るとんぼが穂先に止まり、翅を休める。うずうずしてしまうのは仕方ない。でもたぬきはどんなにお腹が空いていようとも、『ここにいる生き物に手を出してはいけない』ことが分かっていた。
「諸伏さん一家がここに来たのは三十年程。佐藤さんにしてみれば、付き合いの長さからして守屋さんの土地に余所者がふた家族居るようなものだ……。この田畑は自分が守らなければ、と気負ってしまったが故の暴走だ。赦せとは言わないが、人間たちの行動にもそれなりの理由があるということだ」
 ふんすと鼻を鳴らした。殺そうとしたことは絶対に許さないが、今度会ったら屁を食らわすだけで済ませてやろうと。本当は髪の毛をむしり食ってやるつもりだったけど。


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