たぬきのお嫁さん

 獣の仔は里の人間に興味を持ち、都落ちした降谷は山の子狸に懐かれる

 1.

 ものごころついた時には既に、こたぬきは山にすんでいた。大粒の雨が葉傘を揺らし、木々の隙間から見える空は灰色ばかり。たまに見られる晴れ間に、母や父と野山を駆け回るのが唯一の楽しみだった。
 それから雨の日よりも晴れの日が増えてくると、ほら穴から出て遠いところまで歩いていけるようになった。こたぬきはお腹を木の実で満たすと、毎日決まって山を下りていた。山の麓の、小さな田んぼと小さな畑を持つ一人の人間に会いに行くため。
 その人間は、よく見かける人間と違った肌の色と髪の色をしていたが、話す言葉はたぬきにもわかる『にほんご』というやつだった。ただ、丁寧な語り口調はここら一帯の人間が使うものとは違うけど。『とうと』の育ちかな、とかつて親は言っていた。
 この人間は、他の誰よりもこたぬきに優しかった。こたぬきはこの男の人間を怖いと思ったことは一度もなかった。この男は、周りの人間から「ふるやさん」「ぜろ」「れいくん」と呼ばれていた。名前がありすぎてどれが本当の名前なのか分からないから、こたぬきは彼のことをふるやさん、と心の中で呼んでいた。その名で呼ぶ人のほうが多かったので。


 2.

 夏の今は暑さの盛り、水田に張られた水が太陽を反射してキラキラと眩しい。殆どの獣たちは夜に動き回るが、たぬきはふるやさんの姿をみたいが為に、夜に寝て朝に起きる。彼が田畑で作業しているのを遠目に見るのが好きだった。あまり近づきすぎると、他の人間に見つかって石を投げられてしまう。ふるやさんは獣を見てもそんなことはしないが、それでも人間たちに追い払われるのは胸がずきずきと痛い。たぬきは決して、人間が手をかけて育てた作物に手を出したりなんかしなかったから。
 ふるやさんの姿を探すと、彼は畑の方で何やら作業をしているようで、とうもろこしの畑がガサガサと揺れていた。時折緑の隙間から見えるのは麦わら帽子だ。つばが広い分沢山できた影の下、首筋の汗を布で拭っている彼の肌は濡れた土と同じ色。しかも帽子の下にある毛髪は麦わら帽子と似たような薄茶色なので、たぬきは畑の中のふるやさんを探すのに時々苦労する。
 たぬきは、ふるやさんが畑仕事をしている時だけは決して近寄らない。小さい頃に一度だけ、人間に対して警戒心を抱く前の無邪気だった時に、畑の側まで行ったことがある。あの時ふるやさんは玄関から出てきた所で、「決して畑に近付いてはいけないよ。獣よけの罠がたくさん仕掛けてあるから」と言った。人語を理解できる獣などまずいない。なのに、この人は動物相手にそう忠告してきた。なんだかそれが可笑しくて、たぬきは初めてこの人間に興味を持ったのだ。
 田んぼは許容範囲なのか、それともたぬきがふるやさんの敷地の田畑を荒らさないと知っているのか。水田の脇を流れる水路で水浴びをしても目を向けるだけで追い払ったりしてこない。稲刈りの後の、田んぼにこぼれ落ちた籾を拾って食べても怒らない。
 こんなに心地良い場所を、たぬきは他に知らない。
 他の人間がいない時を見計らって、天気の良い日は特に、山を下りて田んぼの近くで遊ぶ日々。そこは幼かったたぬきの安全な場所となっていった。
 黒っぽかった毛の色も、成獣の毛色に近づいて、だいぶたぬきらしくなってきた頃だった。ふと気づくと、大切に育ててくれた父と母はこだぬきの安住の地を見つけたことに安心したのか、いつの間にか姿を消していた。そうして、これからは自分だけで生きていかなくてはならないと悟ったのだった。


 3.

 それは、季節が一巡りして、生まれてから二度目の夏のこと。たぬきは一歳三ヶ月になっていた。
 野山を駆けて遊んでいたたぬきは、車の轍の付いた砂利道を歩いて登ってくる足音を耳にした。獣道を音を立てずに走り、道路脇の下り斜面の手前で足を止める。
 ふるやさんだ。草むらの間に鼻を突っ込みふすふすと匂いを嗅ぐ。目の前を通っていく姿を草葉の隙間から見守りながら、行く先にあるものを思い出す。確か、さらに下の斜面に生えている育ちきったわらびの群生の影に、数日前から小さなわらびが芽を出していた。ちょうど収穫の頃合い。数こそ少ないが、人間一人が食べるには丁度良い量だ。
 昨夜少しだけ降った霧雨の余韻でまだしっとりとした空気は、木々の匂いも強めだ。それでも、たぬきはふるやさんの匂いなら間違いなく嗅ぎ分けられる自信があった。たぬきはここでは自分がふるやさんを守るのだと、滅多に現れない熊や猪相手でも怯むもんかと鼻息荒くしながらこそこそと彼の後を付いていく。
 やがて例の場所に着いたふるやさんは、足元を踏みしめ確認しながら斜面を下っていった。予想したとおり、夏わらびが目当てだったとたぬきは小躍りする。野草や山菜は、ものによってはえぐみが強い為、たぬきはあんまり好きじゃないけれど。ふるやさんの帽子がどんどんと下に下りていき道の縁から消えたのを確認してから、車道に出た。この道はふるやさんとその仲間しか使わないから撥ねられる危険もない。
「――う、わっ」
 そろそろと横切っていたたぬきは、ふるやさんの慌てたような声と、続けて草むらを何か大きな物が滑り落ちる大きな音を聞いた。
 ザザザザザ、ガツッ、ドサッ、ガサガサガサ!大きな男の人間の体は、熊のように大きい。派手な草音を立てて転がり落ちて行ったのは間違いなくふるやさんだ。
 木の上のリスや、野鼠がチョロチョロと走り回って逃げていく中、たぬきだけが斜面へと飛び込んでいった。
 なだらかではあるが、木立の下は湿気が残っているから足元の草花は滑りやすくなっている。きっとそれで足を滑らせたのだろうことは想像に難くない。
 ふるやさんはかなり下に下った所に片膝を抱え芋虫のように丸くなっていた。
(――ふるやさん!)
 ヴヴ……と唸る。警戒して辺りを見回し、弱った生き物を狙おうとする野生動物がいないかを確かめた。近くの木立ではギャアギャアとカラスが鳴いている。この人だけは、絶対に守らなくては。
 激しい痛みを堪えようと目を閉じ歯を食いしばっているふるやさんはたぬきが近くに来ているのにも気付かない。元いた場所を見上げれば、その途中にたぬきの頭ほどの岩が地面から顔を覗かせていた。あれにぶつけたのだろうか。
 苦悶の表情に心がざわざわと騒ぎ立てる。立てるのか、歩けるのか。他に怪我したところはないか。キュンキュンと鳴いてみたけれど、ふるやさんは真っ青な顔で呻き声を上げるばかりで気付かない。
 勇気を振り絞って、更に近付いた。手を伸ばせば捕まってしまうくらいの距離だ。
 フュウン、と鳴いて、深く皺が刻まれた目と目の間を鼻先で突く。
「……っ、く、……!?」
 薄目を開けたふるやさんがたぬきを見て僅かに息を飲んだ。たぬきはもう一度慰めるように小さく鳴くと、今度は頬に鼻をくっつけた。
 いま、たすけをよんでくるからな。
 たぬきの言葉が人間に伝わるはずもない。けれどもふるやさんは眉間の皺をやや浅くして、気丈にも笑ってみせた。
「……ありがとう」
 キュウンと頷くように鳴いてみせ、たぬきは斜面を一目散に駆け下りた。

 この近くに住む、しょっちゅう顔を出しに来るふるやさんの友達の家の敷地に飛び込んで。番犬が吠えるのにも怯まずにたぬきは高い声で鳴き続けた。異変に気付いたその人が敷地の奥から顔を出したところで甲高く鳴くと、たぬきのことを知っていたからか血相を変えて駆け寄ってきた。
「ゼロに何かあったのか!?」
 もう一度ヒャァン!と鳴いた。踵を返し、もと来た道をひた走る。後ろでは人間がけいとらとか言う乗り物に乗り込んで付いてきていた。低い唸り声を上げるあいつがたぬきは嫌いだし、背後に迫りくるのがとても怖かったけれど、それでも気を失いそうになるのを堪えて走り続けた。こんなもの、ふるやさんがカラスに食べられる恐怖に比べれば、どうってことない、と自分を叱咤して。


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