たぬきのお嫁さん

 4.

 長野に引越してきたのは一昨年の五月。それまでは東京という大都会で国家公務員なんてものをしていたが、諸事情で脱サラを決意した。同期入庁で似たような部署に就いていた親友は別な事情から一足先に退職し田舎に帰郷していた。
 その親友――諸伏景光の実家の隣(隣とはいえゆうに一キロは離れているのだが)が空き家になっているから農業をしてみないか、と誘われて二つ返事で引き受けた。都会は無職が食っていくには厳しい世界だったし、料理上手な親友のせいで自炊に目覚めてしまったのも一因。貯金全てはたいて、土地家屋とついでに裏山の一部も買ってしまった。
 住めば都、とは言ったもので、降谷にとって新たなスローライフは思いのほか自分に合っていた。早朝に起きて田畑仕事に精を出し、朝一番で産直に野菜を卸した後は仮眠。それから昼食と、山や田畑の手入れ、家屋の整備。やる事はむしろ公務員時代よりも多岐に渡っているのに、あの頃よりも明らかに生き生きとしてきていたし、目の下に陣取っていた隈もいつの間にか消えていた。
 一国一城の主となった降谷は、昔ながらの日本家屋に一人で住んでいたが寂しいと思うことはなかった。ここはとにかく、音に溢れていた。日中は鳥が囀り、木々がざわめき、風が鳴いて雨が打つ。夜には草葉の間で虫たちや蛙のリサイタルが開かれるし、夜行性の動物たちの鳴き声なんかも時々聞かれた。
 見様見真似で始めた農業も冬には一旦落ち着くのだが、今度はしんしんと降り積もる雪が降谷を右へ左へと引っ張り回した。なんなら上に登って屋根から雪を下ろすことだってした。ここに来る前、親友のヒロは「田舎けっこう退屈だぞ?」なんて言っていたのに。むしろ都会にいた頃のほうが時間を持て余していた気がする。不眠気味は変わらなかったが、体が訴えてくる疲労に負けて短時間でも熟睡できる日が増えていった。

 そんな降谷のもとに、いつからか小さな子狸が姿を見せるようになった。越してきて一年が経ったけれど畑作業は相変わらず四苦八苦しつつ悩みながらの手探り状態だったのもあって、子狸が田んぼの端っこからこちらをそっと遠巻きに覗っているのを見つけても実害がなければいいと放置していた。六月も終わりの頃だったと記憶している。
 夏の名残と秋の前触れ。昼夜の寒暖差が見られるようになった九月の初め頃には、小さな子犬のようだった子狸もしっかり見た目は大人と同じになっていて。賢いのか人間を恐れているのか、降谷がした忠告は言葉通り受け止められたかのように、罠を仕掛けてある畑にも降谷の操縦する農機にも近付かない。餌もそう。降谷が縁側で干している梅や、軒下に吊るした柿や餅に手を出す素振りは一切見せなかった。とても奇特な狸だな、と降谷は殊更にその生き物を気にかけるようになっていった。


 5.

「オスかな」
「いやぁ、絶対にメスだろ。ゼロを見る目が完全にハートになってる」
「ばぁか、言ってろ」
 稲刈りも終わり、寂しくなった田んぼの脇。水を引くための小さな用水路からはぱちゃぱちゃと撥ねる水の音、それと見え隠れするのは獣の丸い耳とふさふさの尻尾。ダークグレー一色だったのが、いつの間にか薄茶焦げ茶と黒が入り混じったお馴染みの毛色に変わっていた。
 場所によっては水遊びをする姿が丸見えだったりするのだが、今降谷とヒロが立つ畦からは残念ながら体の一部しか見えない。
「メスだと大変だぞ?そのうち子連れでぞろぞろやってきて、ここで子育て始めるかも」
「あー……」
 それはそれで可愛いかもとは思ったが、そうなると野生動物たちがどんどんと人里に降りてきてしまう可能性がある。降谷一人だけの問題ならいいが、近隣の田畑を荒らされる原因にも繋がりかねない。
「うちにある罠貸すか?情が湧く前にどうにかした方がいいぞ」
「ああ……」
 狸はせせらぎに何かを見つけたのか、一際大きな音を立てて飛びついた。立ち上がり、両前足で小さなものを挟み持っている。
「なんだあれ」
 ヒロが目をこらした。降谷もまた同じようにしながら、黒い小さな前足の中にあるものを視認しようとする。
「……タニシ?」
 降谷が呟いた途端、それは狸の口の中へ。うげ、と唸ったヒロは苦笑いをして新米農家に忠告した。
「可愛いけど、ああいうの見るとやっぱり動物だなぁとは思うな。罠が嫌なら、俺のとこみたいに犬飼えよ。番犬。小動物らへんなら寄り付かなくなるぜ」
 狸はもしゃもしゃと口を動かしたあと、こちらをちらりと見てから用水路から畦道へと上がり、今度は蝶を追いかけ始める。人間たちが話す内容が自分のことだとはきっと思いもしないだろう。無邪気に戯れる姿は、人間による迫害を恐れる様子もない。
 その様子をぼんやりと眺めながら、降谷は生返事を返すだけに留めた。


 降谷と狸にとって急展開となったのは、移住して三年目の夏。狸との付かず離れずな交流はひと冬を越えても続いていた。
 その日は朝から空気が澄んでいて、ひと仕事終えてふと思い出したのは育ったわらびの群生地。あの足元に数日前、小さな芽を見つけたのだった。そろそろ食べ頃に育っているかもしれない。
 三年目で気が大きくなっていたのか、油断していたとは大きな声で言えないが、そんな気持ちも少しはあったと思う。
 少しばかりひんやりとしたような、湿り気を帯びた山の空気を胸いっぱいに吸い込んで、目的地を目指して歩く。乗ってきた車を少し手前に置いてきたのは、足腰の鍛錬とこの辺りに生息する動物たちを刺激しないため。動物たち、と言いながら思い浮かべるのは一匹の狸なのだが、降谷は山中では一度も見かけた事がなかった。
 砂利道を音を立てて進む。やがて見えてきたわらびの藪にほっとした。さて、どのくらい生え育っているだろうか。
 斜面を下りてしゃがみ込むと、生い茂った草を掻き分けた。ちらちらと見える独特な頭に口元が綻む。どれ、と片足を前にずり出そうとして、ずるりと靴底が滑った。昨晩に降った小雨で落ち葉や枯れ枝が湿っていたのだ。
 うわ、と声が上がる。一見なだらかでも、山の斜面は急勾配だ。尻もちを着いた弾みでそのまま一回転し、体勢を崩したままにゴロゴロと揉みくちゃになりながら転がり落ちた。
 大きく生えていた木に腹部を強打し一瞬気が遠のく。だがすぐに襲いかかってきた膝の痛みに呻いて手を当てた。途中にあった大きめの石で左膝を強打していたせいだ。
 膝の皿が欠けたか、割れたか。そう判断は出来たが、その骨が引き裂かれるような激痛のせいでまともに思考回路が働かない。助けを呼ばなくては、と思うのに、思うように声が出ない。くそ、と舌打ちしたくとも、食いしばった歯がぎりりと鳴るばかり。辛うじて探れたヒップポケットにスマートフォンはなく、霞む視界、見渡した限りではどこにあるのかも見つけられず。痛みに慣れるまで耐えるしかないと、歯を食いしばったその時。
 何かの鳴き声が聞こえたような気がした。と意識が痛みから逸れたそのすぐ後。
 眉間を押され、薄っすらと目を開いた。視界いっぱいに広がった獣の顔にぎょっとして息を呑む
 熊。じゃない。
 いつも遊びに来ていた狸だ。他の狸は見ても区別はつかないが、降谷はこの子だけは見分けられる自信がある。後頭部からぴょこんと飛び出した逆毛の小さな房が、山の上から吹きおろしてくる涼風に煽られる。狸はキュウン、と啼いて、降谷の頬をぐりぐりと押してきた。それから、顔を覗き込んでくる。こんなに至近距離で狸を見たのは初めてだ。つぶらな瞳は、海のような深い青色をしていた。
「いま、たすけをよんでくるからな」
 ――そう、聞こえたような気がした。
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