たぬきのお嫁さん

 交尾談義

 こたつの下に敷いていたマットは丸洗いを免れず、こたつ布団は部分洗いで済んだものの、縁側廊下で物干し作業をしている間、新一はずっと不満げな顔を隠しもしなかった。
「もう二度とこたつではしねぇからな」
「分かってるよ」
 初体験の場所に物言いを付けてるのかと思いきや、安息の地が奪われたことに対する抗議だった。八十センチ四方のかつての天国は脚と天板のみで、スイッチを入れても求める暖かさには程遠い。それでも悪足掻きで足を伸ばす新一の為にと、ブランケットをこたつ布団代わりに天板に挟んだり、座椅子の両脇に座布団を丸めて置いて、肘掛けにしたり。湯たんぽを作って足裏に当たるように設置したところで、ようやく新一の表情に緩みが出てきた。
「痛みとかはない?」
「ん。ヒリヒリした感じはまだあるけど……。全然平気」
 どこが、とは言わなくても伝わったのだろう。特に恥じらうでもなく言ってのけるのは、生立ちによるものだ。新一に、一般女性の当たり前を求めてはいけない。

 朝から盛り上がって、さっと体を洗った後に市役所へと婚姻届を出して。保証人の欄はは既に埋まっていた。降谷が頭を下げに行くよりも先に、新一の両親が用意しておいてくれたのだ。東都にある新一の生家に、海外土産と一緒に置いてあったのだ。これにはさすがの降谷も二の句が告げられず、ただもう項垂れて受け取るより他なかった。本当に、あの二人には頭が上がらない。
 ストーブの上のヤカンから、しゅんしゅんと湯気が立つ。外では静かに雪が降り積もり、出掛けるときに退けた雪道は足首丈まで埋まっていて、これは明日は一日中雪かきだなと少し遠い目になる。豪雪地帯だと知っていれば断ったのかと聞かれても、あの頃はそれでも移住を選んだのだろうけど。
 こんな寒い日は生姜を効かせた甘酒か、リラックスできるココアか。どちらがいいかとリクエストを聞いたら、「零さんのコーヒーがいい」なんて嬉しい答えが返ってきた。
 丁寧に淹れたコーヒーは薫り高く、新一の眦がさらにゆるゆるになっていく。サイコ〜、と天板に片頬を当ててマグカップをうっとりと眺めている様は平和そのものを体現しているようで、つられて頬が緩む。
「昨夜も今日も、無理をさせちゃったね」
 ぽつりとそう言うと、新一はぱちりと目を瞬かせた。
「無理なんてさせられてねぇよ?まぁ、最初はびっくりしたけどな」
 君はあの腫れて赤くなった場所を見ていないからそう言えるんだ、とは返せず。代わりに、後に続いた言葉に覚えた疑問をぶつけてみた。
「びっくりしてたのか?」
「おう、そりゃあモチロン。俺の知ってる交尾と違ってたからな」
 へぇー、と相槌を打った。交尾というからには、狸の性行為を指しているのだろうとは思ったが。
「狸なんかの四足動物は後背位しかしないから、真正面からだと確かに驚くだろうなな」
 ふうふうとマグカップに息を吹きかけていた新一が、また目を瞬かせた。
「こうはいい?」
「四つん這いになった状態で、後ろから挿入する体勢のこと」
 羞恥心が一切湧かないのは、保健体育の授業をしている気分のせいだ。この子は、知らない事柄があると真面目な顔で聞いてくるので。
 新一は、少し考え込んだあと、顔を上げて横に振った。
「そっちじゃねぇよ。他の生き物は知らねぇけど、狸は尻と尻を向かい合わせて交尾するんだ」
「尻……尻!?」
 素っ頓狂な声と同時に天板の脇に置いてあるタブレットで『狸 交尾』と打って検索をかけた。するとなんともエキセントリックな体勢の交尾図が出てきた。雄の生殖器が雌の中に入ったまま、文字通りお尻合わせになっている。
「――これは、うーん。人間にはそもそも瘤ができないからなぁ」
 抜けないという前提が必要になってくるし、上向きに勃っているものを根本から無理矢理折り曲げるなんて、想像しただけで玉が竦み上がる。
「そういや、そうだったっけ」
 新一の呑気な相槌が頭の上を素通りしていった。狸の生態に、一月から三月くらいが交尾の時期とあり、春先に産むのだと。数匹を。狸は多産型らしい。降谷の脳裏では高速で収入と貯蓄と、利用できる制度とが足し算引き算されていく。とりあえず今のままでは双子を育てていくのはギリギリといったところか。松茸以外の稼ぎ道を見つけなければ。
「だが待てよ。新一は一人っ子だったよね」
「そうだけど」
 たまたまなのか、人間の状態だったからなのか。それ以上は踏み込んではいけない神秘の領域だな、と降谷は考えるのを放棄した。とにかく、この冬も何かしら稼ぐ方法を見つけなければいけないことだけは分かった。所帯を持つというのは、なかなかに大変なことなんだなと改めて思う。
 避妊具問題も先延ばしにできない。いつか子供ができた時、新一のようにうっかり狸になってしまうかもしれない。いや待て、その前にこの集落内の家々に入籍の報告もしなければ。その他に何か、やらなければならないことがあっただろうか――。
「零さん、難しい顔してる」
 不意に伸びてきた新一の細い人差し指が、降谷の眉間をとんと突いた。たいした力でもないのに、くらりと後ろによろめいたのは完全に油断していたせい。さらに口の中に新一が剝いていたらしいみかん半玉も押し込まれかけて、窒息してしまう前にそれだけはと手で防いだ。なんとも可愛くない『あーん』だ。仮にも新婚夫婦だというのにこの仕打ち。
「先々の事を考えたって、しょうがねーだろ」
 ご近所には天気のいい日に挨拶回りすりゃいいし、うちの畑だけじゃ稼ぎが不安なら、俺がバイトでもなんでもすりゃあいい話だし。新一は、降谷が挙げた問題点を一つ一つ潰していく。
「零さんのそれは職業病か性格なのか知んないけどさ、俺としちゃ今一番解決しなきゃなんねぇのはこたつ布団の早期復活だけ。それ以外はそん時考えようぜ?」
 せっかく、めおとになれたのに。
 新一がこてんと首を傾げた。
「凄いな君は」
「環境適応能力が高ぇの。俺は」
 ふふん、と得意気にふんぞり反る姿に、生意気なと最後の一個のみかんを横取りしてやった。
「あーっ!俺の!」
「名前が書いてないからこれは先に取った僕のものだな」
「何だよそれぇ!?」
 手早く剝いて、さっきの仕返しだと半分を新一の口に放り込むつもりだったが、その口の小ささに結局一つに割って与えた。満面の笑みでそれを享受するのに覚えた感動は、言葉では言い表せない。あの野生の狸がここまでよく懐いてくれた。うっかり緩みかけた涙腺を引き締めて、意味もなく咳払いをした。
 それをにやにやとしながら見ていた新一が、もう一個大事なこと忘れてた、と口をもぐもぐとさせながらさらりと告げる。
「発情期っつーか、繁殖期っつーか。多分まだ終わりそうにもないから」
 ヨロシクな、と無邪気な笑顔に、降谷は今度こそ白目を剥いた。




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