たぬきのお嫁さん


 新一の慧眼と、降谷の過去

 1.

 右を向けば人。左を向いても人。前も、後ろも。人、人、人、人人人人――――。
「ほ……」
 方角が、分からねぇ。
 米花駅から一歩外に出て、新一は立ち尽くした。
 都会がこんなに人間ばかりだなんて。聞いていたより凄い。スマートフォンの地図アプリを開いて、現在地を確認しようとしたら後ろから来た人がぶつかって舌打ちして去っていった。立ち止まる場所を求めて隅へ隅へと移動してくと今度は二人組の中年女性に声をかけられた。ホッとして胸をなでおろす。良かった、この人たちに道を聞――。
「お嬢さん、何か迷い事があるのね?私達が話を聞いてあげる」
「一人で悩まないで。私達と、そして神があなたを優しく見守ってくださっています」
 ずい、ずずいと。壁際まで追い込まれ、不気味な笑顔を作る中年女性に背筋が凍る。なんだこいつら。ヒロのお母さんと同じくらいの年代だけど、目が明らかに死んでいる。新一の知っている人間の女達のどれにも当てはまらない人種がいることに驚き、そして対処方も分からずどうしたら良いかと辺りを見回す。けれど誰もが他人に無関心で、まるで新一達のことなど見えてないかのように通り過ぎていく。
 田舎では、少しでもおかしなことがあれば声を掛け合っていた。郵便受けに新聞が挟まったままだよ、と玄関先で声をあげて家人であるご老人が出てくると安心したり、見知らぬ人間たちがうろついていれば山菜泥棒かと隣近所で目配せし合ったり。街なかでも、見知らぬ誰かでも困っていたら進んで手を貸していた。謂わば地方の田舎特有のコミュニティが出来上がっていたのだ。
 都会には、それがないというのか。こんな所でかつて仕事をしていた降谷もまた、同じように他人のトラブルには知らん振りをしてきたのだろうか。いやいや、そんなはずがない。だってあの人は、最初から新一に対して優しかった。
 二人は尚も言い続ける。神の御手を受け取れば、必ず幸せの地へと導いて下さる。孤独から解放されるの。あなたの不安も悲しみも、全て神はご存知でいらっしゃる――等々。
 生憎と新一は狸なので、神という拠り所を必要としたことなど一度もない。それに、孤独だと感じたこともないし、不安も悲しみも他人任せで解決しようとも思わない。
 とりあえずここは逃げとくか、と体を横にずらしたら、女性の片方が新一の手首を掴んできた。
「えっ怖!」
「ちょっと話を聞くだけでいいの」
「すぐそこのビルだから。お話が終わったら帰っていいから」
 何言ってんだこいつら……と首をイヤイヤ振るが、女達の完全にイってる目が怖い。このまま連れて行かれたらどんな怖い目に遭うかわからない。脳裏を『狸汁』の二文字が過った。と、
「しーんちゃん」
 自分の名を呼ぶ軽快な男の声に、ぐるぐる回っていた目がぱちくりと瞬いた。こんな大都会で、そんな馴れ馴れしくしてくる知り合いなどいない。おっかなびっくりで声のしたほうを見遣れば、女達の後ろに見知った姿。
「っ!ヒロ!」
 知ってるぞ、こういうのを『天の助け』というんだ。嬉しさとありがたさに声を上げた。サッと女達が顔を強張らせる。
「うちのツレに、何か用?」
 手を左右に振りイエイエと否定する能面二人組の間に立ち、ヒロが手を差し伸べてきた。
「待たせてごめんね」
 ううん、と首を振り、躊躇うことなくその手を取る。女達はホホホ……と謎の笑いを残して早足に去っていった。


「ったく……。俺が行かなかったら狸汁じゃ済まなかったぞ」
「ごめんなさぁい……」
 絡まれてるのを見たときは寿命が縮まるかと思った、とヒロは呆れた顔を隠しもしない。駅の中にあるコーヒーチェーン店でひと息入れようと誘われ、奇跡的に空いていた席に着いてアイスコーヒーの入ったプラカップにストローを刺す。一月の東京は地元に比べればそれほどでもないがやはり寒く、逆に店内は頬が火照るほど暖かい。人のざわめきと気配が満ちた空間にあっても、新一とヒロのいる一角だけは隔たれたかのように不思議と静けさがあった。
 それを新一は、この人もまた己の存在感を消すのに慣れているからだと知った。降谷も、ヒロも。きっと、この二人が歩んできた人生はそこらへんの人間たちよりも奇特なものだったに違いない。
「それで?わざわざこんな所まで単身乗り込んできたのはアイツに会うため?」
 組んだ腕をテーブルに乗せ、上体を前に傾けたヒロは真面目な顔をしていた。アイスコーヒーを一口飲んで、どことなく馴染めない味のするそれに内心肩を落としつつ、新一は首を横に振った。
「父さんと母さんからの頼まれ事。実家の隣に住む人に、海外のお土産を渡しそびれてしまったんだって」
 自分の書いた小説が海外で映画化されるにあたり、アメリカで暮らしている両親が日本に帰国するのは滅多になく。必要な資料を取りに来たついでに娘の顔を見に来た両親とこたつで温まりながら歓談に花を咲かせた。降谷の姿がないことを最初に聞かれた新一は、十二月に入ってから所用で東都に行ったきりだと答えた。一緒に行きたかったが、降谷は「絶対に駄目」の一点張りで。東都のどこに行くのか、何しに行くのかも知らされないままもう一週間も音沙汰無しなのだと愚痴をこぼした。そこで両親が何を思ったか知らないが、有希子が「そうそう、東都と言えば……」と切り出したのが、このお遣いだったのだ。
「うっかり長居しちゃったから家に寄らずに真っ直ぐ空港に行くから、代わりに渡してくれないか、って」
「なるほど……」
 どことなく安心している様子のヒロから察するに、降谷の行方を探ってはいけないのだろう――とは、思う。思うが、面白くないと思うのも仕方のないことで。
「……探しちゃダメ?」
「ダメだな。というか、オレもアイツがここで何をしているのかまでは聞かされていない。Need not to know.ってやつさ」
 腕組みを解いた流れで両手を組んで。そう答えたヒロに、新一はそっか、と返すしかなかった。

 せっかくだからお遣いついでに東都観光でもしていこうか、というヒロの誘いに乗ったのは、もしかしたらどこかで降谷に会えるかもという下心からだった。だが新一の生家でもある家に徒歩で向かいながら、都心部に行けばここ以上に人がごった返していることや、さっきよりもたちの悪い人間がうじゃうじゃいることを聞かされたらそんな気持ちもシュンと潰えた。善人そうな面をかぶった人間と本当の善人を見分けられたとしても、どうしたら上手く切り抜けられるか。あの土地で生きていく分には必要のないスキルだけどな、と苦く笑うヒロの目も、冬の空みたく凍えているように見えた。
 地図を一回見ただけで覚えたヒロの道案内でたどり着いた新一の生家は、郷長の家とはまた違った立派さを誇っていた。
「君の家、本当にここで合ってるのか?」
「俺だって生まれたときしかいなかったんだから、そんなん分かんねぇよ……」
 表札には『工藤』とあるし、多分間違いないだろう。預かってきた鍵を門扉の鍵穴に刺すとちゃんと解錠できたので、やはりここで合っていたとホッとする。角に位置するこの家の隣人は一つしかない。塀の向こう側に見える家もまたここに負けず劣らず大きいのだが、さてどんなお金持ちが住んでいるのだろうかと二人とも気後れがちな思いを抱いた。
 屋敷内を探検したい気持ちをこらえて、まず面倒くさい用件を先に済まそうという意見の一致から、聞かされていたリビングのテーブルの上から手土産用らしき紙バッグを掴んで隣人宅のチャイムを鳴らした。インターホンで誰何されることもなく不用心に開いたドアから顔を出したのは、大金持ちからイメージするような葉巻を咥えたダンディでもなければ執事等の使用人でもなく、口ひげを蓄えた恰幅のいいおじさんだった。おじさんは眼鏡の奥の瞳に優しさを滲ませて、「おお!」と笑顔で二人を出迎えた。
「大きくなったのう!昨夜優作くんから連絡があってのう。土産など気遣わんでいいと言ったんじゃが、君を寄越すからと聞いて楽しみにしとったんじゃ。生まれたばかりのころに一度会っとるんじゃが、覚えとらんだろうな。ワシは阿笠ひろし。発明家をやっとる者じゃ」
 はかせと皆から呼ばれているからそう呼んでくれと自己紹介をした彼は家の中を一度振り返り、「すまんが……」と謝ってきた。
「今、家のものに来客があってな。ゆっくりもてなしたいところなんじゃが……」
「いや、俺……私も急に来ちゃったし。邪魔しちゃ悪いんでこれで」
 辞退し後ろに下がろうとした足が止まったのは、家の奥の方でドアが開閉する音を聞いた直後のことだった。室内で揺れた空気が玄関へと押し出され、そこに混じる匂いに新一の目が大きく開かれる。どうして、こんなところで。
「――ハカセ、来客?」
 ハスキーな女性の声がして、博士が後ろを振り向いた。
「志保くん」
 大柄な体格の影に隠れて姿は見えないが、新一の鋭敏な嗅覚がさらにもう一つの俄には信じがたい匂いを嗅ぎつけた。
「なんで――」
「新ちゃん、どうした?」
 玄関を塞ぐように立ちはだかる博士の体の脇を掻い潜って、その後ろにいる存在へと手を伸ばした。
「きゃっ」
 可愛らしい悲鳴。ぱちりと合った瞳は山間に揺蕩う湖面の翠。綺麗な色だな、と束の間見惚れた。これまで出会った仲間とはまた違った雰囲気の――。
 自分と同じ生い立ちを持つ仲間がいた事が嬉しくて、つい距離感を飛び越えてしまっただけだった。ただ触れるだけのつもりだった。新一が伸ばした手は、強い力に引っ張られ捻じり上げられるまで、もう一つの匂いの存在をうっかりと失念してしまっていた。
「痛ってぇ!」
「――新一!?」
「ぜ、ゼロ!?なんでここに!?」
「なんじゃ君たち、知り合いか?」
 新一の腕を捻じりあげたのはまさかの自分の恋人で、その人もまた驚愕に大きく目を見開いて新一を見おろしていた。これにはヒロも想定外だったのだろう。降谷を指差して固まっていた。様々な声が一気に上がった後、硬直した空気に針を刺したのはハスキーな彼女の一言だった。
「なんか色々訳あり揃いみたいね。寒いから戸を閉めて頂戴。お茶くらい飲んでいけば?」
 踵を返してキッチンらしきコーナーに入っていく女は、明らかに新一より年上だと分かるミステリアスな雰囲気を纏っていた。そして久しぶりに再会した降谷もまた、普段なら絶対に着ないだろうスリムな黒パンツと、白の上質なものだとひと目で分かるニット、それから濃いグレーのトレンチコートを身にまとっているせいか、全然雰囲気が違っていた。年がら年中色落ちデニムに安物の色Tシャツを着ていた男とは思えない出で立ちに、新一の目が糸のように細く吊り上がる。
「うわき……」
「違う!断じて!違うから!」
 これは仕事で、と言い訳をする姿が逆に怪しい。園子から聞いた事がある。『仕事の付き合い』は浮気を誤魔化す常套句である、と。
 降谷はヒロを隅へと引っ張っていった。こしょこしょと内緒話をしているつもりだろうが、こちとら獣の聴力を持っているのだ。全て筒抜けである。
――ちゃんと見ててくれって言っただろ!
――いや、気付いたら東都行きの電車に乗ってんだもん。
――なんでここに来たんだ!?
――隣が新一ちゃんのご実家だったんだって。
 ……マジか。そう呟いた降谷の声は潜めることすら忘れていた。

 促されるままにソファに着いて、若者四人の中で最初に口火を切ったのは降谷だった。
 まず誰から紹介しようか、と泳いだ目が捉えた先、顎のラインで切り揃えられた赤毛を揺らしたその女の人は、カップを持ちながら「私は最後でいいわ」と答えた。新一の真向かいに座る彼女の組んだ脚がすらりとしていて格好いいなと見惚れる。黒のタートルニットと細身のパンツ、そして白衣という組み合わせ。お医者さんなのか、研究者なのか。新一の推理欲がそわ…と疼く。突然の見知らぬ人物の来訪にも慌てず騒がず、一人がけのソファに悠々と座るこの女から嗅ぎ取った匂いがまた、好奇心を駆り立ててくる。
 そわそわと落ち着かない新一の右隣に座った降谷が「それじゃ、こちらから紹介しよう」と言った。
「直接対面は初めてだろうが、こっちは諸伏景光。僕と同じ職場で働いていた」
「ええ、知ってるわ」
「あとこちらは――」
 最初に降谷の右隣にいたヒロを、それから今度は左にいた新一を向いて、束の間息を止め。
「工藤新一、僕の婚約者だ」
 ゴフッ、と口付けていたコーヒーカップで危険な音を立てたその人は、それでも冷静さを保っていた。
「……正気の沙汰じゃないわ」
「年齢差のことかな」
「貴方、この子の正体を知らないからそんな呑気にしていられるのよ」
「――というと?」
 ピリ、と走った緊張感は誰のものか。新一は、この放っておけばいつまでも続けられそうな茶番に終止符を打つことにした。腹芸は好きじゃない。ここには悪いやつは一人もいないのに。
「俺が狸だってことは、降谷さんは知ってる。知ってて、俺と結婚してくれるって言ったんだ」
 驚愕に見開かれた目線が一気に集中する中で、新一だけ不機嫌を隠さずにあさっての方を向いていた。
「新一!なんで」
「なんでバラしたのかって、そりゃあ俺の前に座ってる彼女も同胞だからだよ。多分、狸と人間の合の子じゃねぇかな」
 ご名答、と赤毛の女は白けた顔で答えた。
「君が……?するとじゃあ、エレーナ先生は」
「馬鹿ね。お父さんが、よ。お母さんは確かにハーフだけど、人間同士のハーフ。良かったわね、初恋の人はちゃんとした人間よ」
 志保さん、と焦った口調の降谷は困り顔をしている。へえー、初恋。そりゃあ、長く生きていれば恋の一つや二つもするだろう。新一は降谷しか見ていなかったが。ふぅん、初恋の人の、娘さんと。自分の知らない遠いところで。密会ですか。ほぉー。
「新一、だからそれは誤解だって」
 知らず口にしていたらしい。誤解だろうが六階だろうが、面白くないものは面白くない。
「こーあんのおまわりさんは婚約者に黙って他の異性と密会しても、仕事の一言で済まされんだからいいよな」
 ケッと吐き捨てて、そっぽを向いた。後ろからは打って変わって深刻な降谷の声が追いかけてくる。なぜ、警察官だとわかったのか、なんて。そんなの狸じゃなくても分かるっつの。
 両肘を膝の上について、手のひらに顎を乗せる。相変わらず外を向いて、全員の視線をシャットアウトした。
「歩き方、他人の気配に敏感なとこ。乗車前の点検にそれから、刑法に詳しいのも。あとは……薬莢の臭い。もっと言えば、ヒロは全くの他人の前じゃ降谷さんをゼロとは呼ばない。まぁそんなのマナーとして当然かもしんねぇけど。こっち来てからも降谷さんの名前すら口にしてなかった。俺と二人の時は降谷さんのことゼロって言ってるのに。それはゼロ、という単語に別の意味が存在するのを知っているからだ」
 ちろりと薄目で見遣った先、ヒロは降谷に拝むポーズをしていた。降谷はどんな表情をしているか分からない。彼は新一が話している間無言のまま、微動だにしない。
「警察庁の公安警察の中に存在する、特殊な部署のことをかつてそう呼んだときもあったそうですね。なんだっけ、警察庁警備局警備企画課……でしたっけ。この事に気付いた時、最初はあの地で潜入捜査でもしているのかなと思ったのですがそうでもない。降谷さん、よくスンナリと辞められたよな」
 今度こそ振り向いて、降谷を真正面から見据えた。『無』を取り繕った仮面がどう崩れるか。それとも白を切り通すのか――。
 降谷は、眉は怒っているのに目は泣きそうで、唇は笑いを堪えているみたいに歪んでいるのに口からは重たい溜め息を吐き出して。
「そういうところが……。全く、君は本当に僕の心を捕らえるのが上手い」
 新一の肩に額を乗せて強く抱き締め、白旗を大きく振り翳した。完敗だ、なんてこぼしてるけど別に言い負かすつもりもなかった。降谷からは別の雌狸――彼女の匂いがして、どれほど会っていたのか、ここにずっといたのかと疑心暗鬼が擡げて嫉妬心ばかり煽られる。
「で?降谷さんはお仕事でこのひとと浮気してたのかよ」
 あまり苛めないでくれ、と懇願する降谷の弱りきった顔は新一にしか見えていない。それで溜飲を下げることにして、新一は改めて問いかけた。
「降谷さんの協力者、ってやつ?」
「違うよ。というか、そんな言葉まで覚えたのか……。まぁ、情報をちょくちょく貰いには来ていたけど」
 改めて紹介するよ、と座り直して降谷が言った。
「彼女は宮野志保さん。以前の仕事の繋がりで知り合ったんだ。化け狸だとは今まで知らなかったけどね」
 つんと澄ました顔の宮野はだからどうした、と言わんばかり。確かに、わざわざ言う狸もいないだろうとは思う。新一は宮野と降谷がどんな仕事で知り合ったのか聞きたくてウズウズする。そんな新一を、降谷は視線だけで「教えられないぞ」と牽制してきた。ケチ、と舌を出したのを見た宮野がフッと嘲笑ったので、ますます面白くなくなる。
 険悪になりそうな空気を察したのか、ここでヒロがわざとらしく声を上げた。
「あ〜!そういえば!ここに来る前に新一ちゃんが危うく宗教団体のオバちゃんに連れて行かれそうになっててさぁ、大変だった……んだ……」
 降谷の形相が険しくなるにつれ尻すぼみになっていくヒロの声。どういうことだ、と詰問するその様はまさに般若のような恐ろしさ。無意識に物理的距離を取って新一はそろそろと尋ねた。
「そんな怒るもんでもねぇだろ?ヒロが来たらすぐ逃げてったし。それに街なかで声かけられんのよくある事だし。……手を掴まれたのは初めてだったけど」
 地元で人間修行していた頃のことを思い出す。そういえば、東都でアイドルにならないかと誘われたっけ。あの時は大都会は女が少ないんだななんて考えたけど、来てみれば普通にたくさんいるし、新一より可愛い子なんてそれこそ山ほど歩いていた。
 ということを感嘆とともに語ると、降谷の目つきはさらに厳しくなった。
「――その声をかけてきた男の、特徴は覚えているか」
「男の嫉妬は醜いわよ」
 宮野が呆れて言う。だが降谷は即座に「違う」と却下した。
「先程見せた防犯カメラの映像。組織の末端だった男がやり取りをしていた相手が、そいつだった可能性がある。新一が人間としての生活に慣れる為、街なかに降りていたのは去年。元部下から目撃情報が寄せられたのが先月。つまり、そいつは長野で匿われていた。仲間がまだ近辺にいるかもしれない」
 スマートフォンを片手に別室へと消えていく降谷の背中を見送った。田舎での彼とはまるで別人だ。都会の、他人に無関心な人々。誰もが忙しなく通り過ぎていく道。声を掛けてくるのは恐ろしい人間ばかり。こんな街で、世界で、降谷は生きてきたのか。新一の知る普段の彼よりも『らしい』なと思ってしまったのは、テキパキと動く様がどことなく生き生きしているように見えたから。
 きっと、あれが降谷本来の姿なのだろう。居間のこたつの中、座布団を抱えて悠々と寝そべり読書をする姿も。夏の暑い昼間に風通しの良い場所を奪い合って争うのも。大量に貰ったさつまいもを二人がかりでおやつにかえて、隣近所に配って回った。タニシが好きな新一の為にと調理までしてくれたこともあった。それを偽りの姿だなんて思ったことはない。ただ、どちらが降谷に合っているかを考えると、新一の瞳には今の降谷の方が生き生きとしているように見えてしまうのだ。
「捨てられた狸みたいな顔ね」
 志保が空になったコーヒーカップを置いた。新一とヒロにおかわりは、と尋ね、二人とも首を横に振る。
「東都から出ていく直前と比べたら、月とスッポンぐらい差があるって教えてあげたら?貴方、相棒なんでしょ」
 リビングデッドがよくあそこまで回復したわね、と半ば感心している志保に、ヒロは苦笑いで口を濁した。
「その土地の水が合ったんでしょうけど……。アニマルセラピーも効いたんじゃなくて?」
 ちろりと流し目をしてきた彼女の声は明らかに楽しんでいるというか、話の流れからすると仕事をやめる直前の降谷と比べると元気が出たのは新一のおかげらしい。
 それは一理あるな、とヒロが浮かべた笑みは慈しみに満ちていた。
 戻ってきた降谷は厳しい顔を崩さないままに、ヒロに新一と一緒に長野に帰るよう促してきた。降谷さんは、と尋ねると、もう少しだけやりきってしまわないといけない仕事ができたからと首を振られた。
「君に声を掛けてきたのはこの男?」
 見せられた画像に迷いなく頷いた。それから強く抱きしめられて、「人身売買からのたぬき汁エンドにならなくてよかった」と深い安堵のため息を漏らした降谷の頭をよしよしと撫でてあげた。


 2.

「……余計なことを」
 苦々しい口調で、こたつに手を入れたまま降谷は天板に上体を伏せた。頭部がぶつかった弾みで籠の中のみかんの山から転げ落ちた一つをキャッチして、新一は身を乗り出す。
「もう前の仕事に関わんなくていいんだろ?」
「そうだね。僕の仕事は完全に終わったよ」
 僕の、ということは関連した何かは残っているのだろう。だがそれは降谷の範疇ではない。手にしたみかんを降谷の頭の上に置いた。一足早い鏡餅だなと吹き出して笑う。
「リビングデッドって、想像つかねーけどな」
「……それ言ったのどっちだ?」
 えーと、と視線を泳がせた。髪の隙間から険のある視線が飛んでくる。こたつの中で伸ばしていた足の裏にふと、何かが触れた。何かというか、降谷の指先だ。
「んぎゃ、っだははははは!」
 こしょこしょと擽られ、身を捩って避けるけれど、不埒な手はどこまでも付いてくる。
「うひ、ひーっ!やめ、やめぇってふるやさん!」
 こんにゃろ、と横に転がり狸に変化する。こたつの中からマズルで押して服を追い出すと、再び中に潜り、胡座をかいていた降谷のお腹に突進した。わしわしと前足で駆け上り、こたつ布団から頭を出すとそこでもう一度横にころんと転がった。急激な体重の変化に油断していた降谷のバランスが崩れる。
「うわ、ちょっ……!!」
 後ろにどさりと倒れ、珍しく動揺した声に溜飲が下がる。してやったり、と笑った新一だったが、その直後に降谷の腕によって今度は身動きが取れなくなってしまった。
「さむっ!降谷さん離して――」
「駄目だ」
 ぴたりとくっついた体のこたつ布団からはみ出たお尻から上が寒くて、強固な檻から逃れようと藻掻く。それなのに何故か、降谷は頑なに腕を解いてくれない。それどころか頼むから暴れないでと懇願してくる始末。そんな事を言うくらいなら、この腕を離せばいいのに。
「君の全部が見えてしまうから、駄目だ」
 はた、と動きを止めた。降谷は頭を擡げて新一を見下ろしている。自分が身を起こせば胸も何もかもが丸見えになってしまう事に、言われてやっと気が付いた。
「え――えっち!」
「そっちから抱きついておいて何が!?というか、あんまり暴れられるとちょっと不味い」
 片腕だけ拘束を解いた降谷は、新一が脱ぎ散らかした服に手を伸ばしている。少しばかり赤くなっているその顔は不機嫌そうに顰められているが、新一の下腹部に硬いものが当たっていて、つまりそれは。
 それはつまり――
「は、発情してんのか!?」
「言い方!」
 重ねた胸から伝わる鼓動はとくとくとちょっとばかり早く高鳴っている。つられて新一の鼓動も早まっていく。すん、と鼻で吸った空気に混じる、降谷の体臭。それが一番強く感じる首筋に顔をうずめた。
「し、新一」
「へへっ」
 心がふわふわとしてくる。男の匂いと、今夜食べた晩ごはんの匂いと、この家の匂いを纏う降谷が好きだ。耳の後ろの匂いに堪らなくなって額をぐりぐりと擦り付けた。無意識に揺らめく腰を下肢の熱部に押し当てると、降谷から焦る声が上がる。
「まて、待て待て!」
「ん、んんぅ」
「もしかして……新一、きみ、発情期なんじゃないか!?」
 本気の力で引き剥がされ、遠ざかる匂いにいやいやとかぶりを振った。
「やだ、もっとくっつきてぇ」
「新一」
 おれたち、こいびとなんだろ、と尋ねる声が上擦る。お腹の奥がきゅうんと疼くのを止められない。さっきまで寒かったはずなのに、今は吐く息すら熱くて、その吐息にすら身悶えてしまう。
「なぁ、ふるやさん」
 もじもじと腰を押し付けて、強請った。
「――繁殖行為、したい。ふるやさんと。交尾……しよう?」
 見下ろした恋人の、眉間の溝がぎゅうと深まる。その苦悶の表情すら新一には色っぽく見えてしまうから。湧き上がる衝動のまま降谷の薄い唇に己の唇を押し当てた。


 3.

 思えば、最初の頃から不思議な行動を取る狸だった。言いつけは守るし、人間の事情も理解している。とても知能の高い個体だなと感心した覚えがある。
 同じ屋根の下で暮らすようになって、家族とはいえ休み無しで働かせるのは意に反する。毎週二日の休みと規則正しい労働時間を心がけ、それに見合った給与――お小遣いも渡していた。たまに友人(友狸?)と連れ立って街に出て、その度に本を沢山買い込んで。知識欲が強いのだな、なんてのほほんと見守っている内に家の書棚は新一の蔵書で埋め尽くされてしまった。ずらりと並ぶ背表紙を眺めていると、人間社会についてのものや図鑑、博物誌など多岐に渡るジャンルを片っ端から読み漁っているようだった。
 毎回買って帰るのも大変だろうと運転手を買って出たが、終始「降谷さんは貴重な休日くらい寝てて」と頑なに固辞する。指に食い込んだショップバッグの跡が痛々しくて、今は通販という手もあるんだと教えたが、本屋で探す楽しみもあるしそれに届くのを待っていられないんだと力説されてからは好きなようにさせていた。
 女の子は恋愛ものが好きだという先入観は早いうちに砕かれて、ミステリーにどハマリしてからはテレビドラマやドキュメンタリー番組にも食いつくようになった。昔の海外ミステリーはどうだか知らないが、現代ものに関してはこちらに知識の分がある。半ば白けた気持ちで犯罪捜査ものを隣で見ていると、新一は時々「これってドラマならではの演出くさいよな」と鋭い指摘を出すことも。推理劇に関しては犯人を当てるのもトリックを見破るのも段々と早くなっていったのが特に面白かった。同時にピンときて鼻でフッと笑って、目を見合わせて同じ犯人の名前を言い当てた時の高揚感。テレビなんて事件の報道ばかりが目について、引っ越してきた当初は一切点けない日の方が多かったのに、今では録画予約機能をフル活用している有様。
 家電やネットも飲み込みが早くて、それを褒めたら「友達の教えが良かったからかも」と肩を竦めながらも照れているのが丸わかりで。そんな新一が可愛くてついからかってしまい、当時片想い真っ最中の彼女を困らせてしまったと、己の失敗に気付いて気まずくなった苦い思い出。
 元から人の気配には敏感な自分が、動物とはいえ他人と一緒に暮らすなんて出来るのかと悩んでいたのが嘘みたいに、新一の存在は自分の生活にあっさりと溶け込んだ。野生動物は本来、足音や気配を消して歩く。だが新一はそうすると降谷が神経質になるのだと早々に察した。
 なんだかんだで思ったよりもストレスの少ない共同生活の中で、唯一新一が苦手と明言したのは料理くらいだ。以前は野生のものを獲っていたから――とかではなくこればかりはセンスの問題だなと、教えて行く中で把握したのはかなり早いうちのことだった。女の子は料理が出来なければならないなんて価値観は昔のものだ。どのみち自分が出来るのだから、そこは何ら問題ないと片付けた。
 作るのは不得手でも、味に関してはうるさいと知ったのも直ぐだった。化学調味料の味に敏感で、残しはしなかったが箸のスピードと目の色に、極僅かの違いを見つけたときは逆に新鮮な喜びを感じた。それからは毎日の料理にも力が入った。新一の目の輝き、頬の緩み。どんな味付けを喜ぶのか、どんな食材が好きなのか。一人のときは適当だった食卓が、どんどんと華やいでいく。ある時なんかは調子に乗りすぎて、新一から「こんなに食えねぇって!」と逆に叱られた事もあった。

 リビングデッド、とは言い得て妙だなと苦みが込み上げる。任務とはいえ、神経をすり減らしながらの潜入捜査は知らず知らずのうちに精神を蝕んでいた。自分の手落ちで共に潜っていた親友が死にかけ、一命を取り留めたものの前線を退くことになってからは一人で戦い続けた。全てが終わり、何もかもが片付いたとき。この手の中には何も残らなかったと気付いたとき。――ふ、と肩の力が抜けてしまった。燃え尽き症候群、と診断され数ヶ月の休暇が与えられた。
 何もない日々の中で、ジムに通ってみたり、それこそ見知らぬ女性と肌を重ねた夜もあった。酒は美味しくもなければ酔えもせず。煙草に手を出してみたが、あまりの不味さに一本も吸えず、残りはゴミ箱へ。何かをしなければ、と焦る気持ちばかりが増幅していくのに鏡の中の自分は日毎に虚ろになっていく。暦が春を告げる頃、先に退職して実家の農業を手伝っていた親友から連絡が来たのは、その頃だった。請われるままに田植えの手伝いをしに行って、自分のせいで死にかけたというのに親友は屈託なく笑って、言ったのだ。
「ゼロ。なぁ、一緒に農業やらないか」――と。
 ボロボロで死んだ顔をした、見るからにハーフだとわかる男に、その集落の纏め役である老人は何も言わずに一番奥地にある空き家を紹介してくれた。前年まで人が住んでいたからかそれほど荒れてはいなかったが、あちこちの建付けだったり庭や田畑があるらしき場所は手入れが必要で。ネットや本、親友の父親に助力を仰ぎながらも体裁を整えていく。
 見知らぬ土地で、セキュリティなんか当然ある筈もない一軒家で。暫くは眠れず毛布に包まりながら膝を抱えて夜を過ごした。護身用の銃は何処にいても手放せなかった。
 だが農作物に手をかけていれば一年はあっという間に過ぎていった。恐れていた潜入先の組織の報復なんてものは、己が作り上げた幻にすぎなかった。
 裏山に棲む子狸が降りてくるようになってからは、むしろ外で仕事をするのが楽しみになった。あのつぶらな瞳が興味津々に自分の仕事を見ている。親友からも顔色が良くなった、と安堵の笑みを漏らしながら言われた時に、初めて鏡で自分の顔をまじまじと眺めた。生ける屍は、いつの間にかいなくなっていた。


 女からのキスなんて鬱陶しいだけのものだった――過去に於いては、の話。
 新一の唇が触れ、けれどそれは濃厚で性的なキスじゃなく、たどたどしい稚拙なもので。それでも気持ちを伝えようと何度も重ねてくるから、降谷は胸の中が愛おしさでいっぱいになってしまった。これは、ずるいとしか言いようがないと言い訳して。
 体勢を入れ替えて柔い体を下に組敷いた。こちらから舌を差し入れ、口内を蹂躙する。良い処を掠める度に反応する躰に、自分の体温も上昇していく。手のひらで滑らかな肌を余すところなく堪能した。理性なんてものはとっくに消滅していた。
 初めての場所が高級ホテルのスイートルームでもなければ旅館の離れでもなく。それどころか自室の布団ですらない、居間のこたつなのはどうなんだろう――と射精後になってふと我に返る。くったりとしながらも新一は潤んだ瞳で見上げて、手を伸ばしてくれた。
「新一、ごめ」
「れえさん」
 最中に教え込んだ、自分の名前を舌足らずに呼ぶ声は甘く、蜜がかかったみたいだ。華奢な檻は緩くて抜け出すのも容易いはずなのに、捕らえられたらもう体を起こすのは無理だった。
「れえさん、れーさん」
「……なに、新一」
「へへへ。呼んでみただけ」
 なんだそれ。そう返した声が震えていたのがバレていませんように。いまだ汗で湿った肌は、自分がそうさせたものだ。新一と自分の匂いが混ざって、かつては不快なだけだったものが今は興奮の材料にしかならない。あっという間に元気になってしまったそこを新一は腿で感じ取ったらしく、心臓をトクンと跳ねさせた。
「もっと、する?」
 頭を抱え込まれているから、表情は窺えない。けれども、嫌そうな雰囲気ではない。頭を撫でる手つきが優しくて、うっかりすると涙腺が崩壊しそうになる。
「していいのか?」
「いいけど……」
「けど?」
「背中が痛え」
 今度こそ、男気を見せなければと起き上がり抱きかかえた。向かうは自室。さっきは外に出したけれど、リスクがないわけではない。今度こそしっかりとセーフティを心掛けなければ。まだ自分たちは夫婦になっていないのだから。
「明日、市役所に行こう」
「?なんで?」
「入籍届を出さないと」
「そういやあれがないと結婚出来ないんだっけか」
 この間の旅行でプロポーズしておいてよかった。これが求婚の言葉だとしたら格好悪いことこの上ない。そんなくだらない事を考えていたせいか、スキンを付ける降谷を微妙な顔で見守っている新一に気付けなかった。
「なぁ、それ……」
「?これ?コンドームだよ。結婚する前に妊娠しないように――」
「いやそれは分かんだけど。それ、……臭いからイヤだ」
「………………」
 そうだった。この子は化学調味料も薬品の臭いにも敏感だった。物は選んだつもりだが、これすらお気に召さなかったらしい。
 夜は長い。――新たな試練に脂汗が浮いた。




 ――――不思議な夢を、見た。

 前職で潜入捜査していた頃の夢だ。
 違うのは、そこに一人、新たな登場人物が加えられた事。
 その幼い少年は野暮ったい黒縁メガネの奥に鋭い輝きを隠して、こちらの事情もお構いなしに巨悪組織に立ち向かっていく。散りばめられたヒントから己の正体を探り当て、あろうことか味方につけて。その小学生を名乗る少年が実は、組織が開発した毒薬によって体が縮んでしまった高校生探偵工藤新一なのだと。夢の中で降谷は「体が縮むなんて、そんな事はありえない」と思った。だが、狸が人間に化けることがあるならば、それもあるのかもしれない、とも。
 夢の中で、少年は幼馴染の少女に恋をしていた。降谷と結ばれる未来は用意されていなかった。
 降谷の親友は、あの事故で命を落としたまま。全てが終わった後、それこそ何もこの手に残らないままの――哀しい、夢だった。




 意識が浮かび、目を覚ます。
 切なさの余韻が降谷にかつての虚無な日々を思い起こさせ、無意識に腕を伸ばし温もりを抱きしめようとした。
「…………?」
 だが、隣で健やかな寝息をたてているはずの存在がない。初めてだったにも関わらず日付が変わるまで無体を強いてしまったから、いくら若い体でも相当しんどい筈なのに。
 しんいち?と呼び掛ける声に張りはなく。これまでがむしろ夢だったのだろうかと、頭の奥がすっと冷えていく感覚。
 それを打ち消したのは、腹のあたりのやたらと温い体温だった。
 ――まさか、本当に縮んでしまったのでは。
 完全に寝惚けた思考だった。
 慌てて捲った掛け布団の奥、そこには茶色の大きな毛玉が突然の眩しさと明るさに目をぎゅうと瞑っていた。がぁ、と怠そうな抗議が飛んできて急いで布団を戻す。
 もぞもぞとして急に膨らんだ掛け布団の中から出てきた、まだ寝足りないと顔に書いた新一は「ぁんだよ……」とそれでも降谷に訊ねてくる。
 なんでもないと答えたけれど、新一はよほど寒いのか顔面だけを外に晒してキッと睨んだ。怒っているのに可愛いなんて、反則もいいところだ。
「こなん、って誰」
「え?」
「れーさん、夢ン中で何度も呼んでたぜ。『コナンくん』って」
 あー……と目線が宙を彷徨った。まさか、架空の人物の名前を口走るなんて。しかも新一がそれにヤキモチを焼いているなんて。
「番になったってのに、俺の前で他のヤツの名前連呼するとはいい度胸じゃねーか」
「違うよ、これは……つまりだな」
 結婚前から暗雲が立ち込めるなんて縁起でもない。降谷はやや逡巡してから口を開いた。前職についてはぼやかして、見たままの夢の内容を語る為。突拍子もない話だけど、謎解きが好きな新一には良い娯楽になるかもしれない。
 部屋の隅にあるファンヒーターのスイッチを入れ、少しばかり冷え気味な細い体を抱き寄せて。絡ませた素足と視線。キスという行為が気に入ったのか、新一はちゅ、ちゅ、と降谷の頬や腕に口付けてくる。……青い瞳は雄弁に夢物語を話せと強請っているけれど。その上目遣いも可愛いと思えるのだからもう末期だ。
 なので、降谷は自分に降りかかった悲劇を伏せて、掻い摘んで話して聞かせた。時折、語り手の内心に隠された孤独や臆病さを嗅ぎとったかのように身を擦り寄せてくる新一を、これ幸いとあちこち触りまくっては叱られて。以前なら想像もつかなかった、なんとも贅沢で無駄な時間の過ごし方。こんなんでいいのか、と目を三角にした自分の影を無理矢理片隅に押し込めた。いいんだ。たまには。
 語り終えた頃には新一の興味は夢の中の、いもしない嫉妬の相手から、触れ合ううちにむくむくと育ってしまった降谷の雄物へと移っていて。それならばと好きなように沢山触らせたあと、今度は自分の番だと新一のなかへと押し入った。
 突き上げられながらも、新一の瞳はひたすらに降谷をじっと見つめて逸らさず。なに、と問いかけるたびに蕩けるような笑みを浮かべて嬉しいんだ、幸せなんだと繰り返すから、ああ、生きていて良かったと心の底からそう思った。
 新一の指先が眦をなぞる。汗びっしょりだ、と呟く掠れ声に、そうだね、と新たな雫を零しながら頷いた。
 


 終。


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