四季折々に想う。3 8月

 8月25日(金) 即席ラーメン記念日

 捜査が一段落つき、数日ぶりに帰った我が家はなんとも香ばしい匂いに満ちていた。
 醤油だ。それも、魚介出汁ベースの。
 なんとも懐かしい匂いに誘われるままキッチンへと真っ直ぐ進んだ。

 ずずー、ずるっ

 もぐもぐ咀嚼して、スープを啜る音。そしてまたずるると威勢のいい麺の啜る音に、降谷の腹の虫がぐうと鳴った。
 降谷が入室して無言のまま凝視していてもお構いなしに、大きめのどんぶりからラーメンを啜り続ける新一は、ちらりと視線を寄越しただけで慌てる素振りも言い訳もしない。ただひたすらに、麺を口へと運んでいく。
「……そんなに、お腹空いてた?」
 もぐもぐ、ごくん。新一が目線だけで頷いた。
「なんか、普通のインスタントよりもいい出汁の匂いがするね」
 せっせと口に運ぶ忙しない右手に代わって左手が指さしたのは、コンロ横に置いてある小箱。
 どれどれと寄って手にとってみれば、それは五食で四百幾らの即席麺ではなく、降谷でも耳にしたことのある地方の有名ラーメン店のものだった。
「依頼人から貰った」
 スープもマジで旨い、とレンゲを置いた新一がどんぶりから直に飲みだした。
 いいなぁ、と心の声がうっかり漏れた。
 新一は両手を合わせ、ごちそうさまと満足気だ。氷水を一気に飲み干して、それからにやりと笑って言った。
「降谷さんの分もありますけど?」
 シャワーも浴びずに食卓に着いたのは言うまでもない。さっぱりしてこいよと追い払おうとする新一の真横に立って、存在が暑いなんて邪険にされながらもずっと調理する姿を見ていた。
「その甘ったりぃ伸びたツラ、気持ちわりーんですけど!?」
 ちらりと降谷を盗み見た新一が赤面して、ぷるぷると菜箸を持つ手を震わせ、とうとう耐えきれずに叫ぶまで。降谷は自分の顔がどれだけだらしなくなっているか自覚していなかったという。



 8月26日(土) ユースホステルの日

「山口さんってもしかして、シャーロキアンですか?」
 若い女性の弾んだ声が、『安室』の鼓膜に飛び込んできた。黒縁眼鏡の奥からそっと覗えば、二十代前半―それこそ、今しがた話しかけられた『山口』なる青年と年頃の近い女性が、彼の持つ本に目敏く気付いて近寄っている。
「ええ、まぁ。もしかして貴女も?」
 そうなんです!と答えた女性は逆ナンの類ではなく純粋にお仲間がいた事に喜んでいるようだ。青年も読みかけの本を閉じて、部屋の一角で女性とホームズ談義を始めてしまった。
 群馬県の外れにあるこのユースホステルは、オーナーが推理小説マニアをホームページに掲げているだけあって、一階大広間にある書棚にはびっしりと世界中の推理小説が陳列されていた。
 大きな窓からは太平洋が一望でき、眼下のビーチサイドは海水浴客で賑わっていた。
 ファミリー向けのペンションなどと違い、ここはまさしくユースホステル。ベッド以外は全て、他の宿泊客と共同のためこの大広間が唯一の寛ぎスペースとなっている。
 昼過ぎにチェックインした『安室』は一通り施設と周辺を見て回ったばかりで、宿泊客への挨拶はこれからという所だった。
 まさか、こんな所に居ようとは。
 おそらくあちらもそう思っているに違いない。
 降谷が追っていた案件と、新一が依頼されたであろう案件は果たして被るのか。
 できることなら別件であってほしいが、どこかで絡むのだとしたらいっそのこと巻き込んでしまうか。
 そんな思いを見透かすかのように、『山口』がこちら見て立ち上がった。相手もまた黒縁眼鏡をかけていた。差し出された右手。「初めまして」の挨拶と、交わされる握手。レンズの奥から窺う瞳に、『安室』はにこやかに微笑んで返した。


 それから半日後。
 宿泊予定のユースホステルで起きた殺人未遂事件と、宿泊施設から数キロ離れた岩場に隠し停められていた密輸グループ船の大摘発と。
 この二件は全くの無関係だったものの、同時並行でタッグを組み、夕方前には無事解決に導いた。
 一般人の『山口』と『安室』は事情聴取から解かれ、スタンバイしていた公安の仲間に全てを託し、二人はこれ幸いと現場を早々に離れた。なにしろ今回はどちらも身元を隠していたので。
 県警が工藤新一についてあまり覚えていなくてよかったと安堵する気持ちと、眼鏡をかけたくらいで気付かれないなんてよくこれで県警が務まるなと憤慨する気持ちと。
 複雑な思いをしつつ帰路につくべく駐車場に向かって砂浜を新一と歩いていたら、後ろから「すみません」と声をかけられた。
 二人同時に振り向くと、ホステルから走ってきたのか、『山口』になんども話しかけて気を引こうとしていた女性が息を切らして追いついた。
「あの……ありがとうございました」
「いえ、貴女のお父様の大切なホステルを守れてよかった」
「それで少しだけお時間を頂けませんか?私――」
 彼女は降谷をちらりと見た。この雰囲気からして、きっと『山口』に告白したいのだろう。なにしろホステルのオーナーは彼女の父親。父の大切なものを素行の良ろしくない親戚の乗っ取りから守り、さらにシャーロキアンで話も合い、近くからよく見れば整った顔立ちの『山口』はかの有名な名探偵工藤新一に似ているのだ。恋に落ちないはずがない。
 ここは気を利かせるべきか、とその場を離れようとした降谷を引き止めたのは新一だった。
 控えめに触れた新一の指先が降谷の手のひらをきゅうと掴む。え、と戸惑う彼女と、少しだけ心拍数が高くなった降谷と。
 二人に見つめられた新一は夕日に負けないくらい耳を赤くして、固く張り詰めた眼差しを彼女に向けていた。
「悪いけど。この人、俺の大切な人なんで。すみません」
 小さく頭を下げた新一が踵を返すのにつられる形で降谷も背を向ける。
「ちょっ、」
「いいから帰ろうぜ」
「や、うん、まぁ……」
 ズンズンと先を行く新一の代わりに振り向いた降谷が見たものは、ぽかんとした彼女の顔。それはそうだ。告白しようとしたらいきなり隣のモブを指して彼が恋人なんで貴女とは付き合えません、とシャットアウトされたのだ。振られ方としては最悪だ。
 正直――いや、かなり。
 歪みそうになる口の端を空いた方の手で覆い隠した。
 相変わらず鈍感な恋人は、他人からの秋波を自分のものだと思いもしない。それどころか降谷に当てたものだと勘違いをして牽制し、焼き餅を焼く始末。
「はぁ……」
 ここまで己の性格が捻じくれているとは思わなかった。喜色に染まりそうな顔色を堪える降谷の動揺を、これまた別に捉えた新一が繋いでいた手をぱっと離した。
「すみません、外でこんな事したら駄目なんでしたよね」
 降谷零と工藤新一が恋仲にあることは極秘――だけど。
 離れていく手を追いかけようか迷ったけれど。思いきって降谷は新一の腰を抱き寄せた。
「ふ、ふるやさ……」
「大丈夫、あのホステルからはかなり離れている」
 それにサンセットビーチは恋人たちの溜り場。あちこちで良い雰囲気に見つめ合うカップルには他人など見えていない。
「そういえば……僕たち、二人で海に来るのは初めてだったね」
「へっ?あ、うん」
 頷く顔が夕陽よりも赤い。茹でダコみたいになった新一の項を伝う汗。まるで、情事のさなかのような艶かしさ。
 ――キスしたい。
 喉の乾きを覚えて、生唾を飲み込んだ。
「そ、それにしてもさ、降谷さんも罪作りだよな!」
 ぱっとこちらを見上げた青年は場の雰囲気に飲まれそうになるのを拒んでいたかに見えた。
 寄せようとした顔を瞬時に戻し、紳士の仮面を付け直す。
「罪作り、とは?」
「だってあの人、明らかに『安室さん』狙いだっただろ?降谷さんさ、眼鏡かけててもイケメンオーラ漏れまくりだってもっと自覚した方が」
「はぁ……。自覚がないのは君の方」
 砂浜と駐車場を隔てる堤防は降谷くらいの高さがあって人の目を遮るのに丁度良く、やんわりとそこに新一を押しつける。
 ふるやさん、と最後まで言わせずに塞いだ唇はほんのり潮騒の香りがした。

 


 8月27日(日) ツナの日

「ツテで手に入れたんだ。これは絶対に美味しいぞ」
 いまだかつてない満面の笑みを浮かべて降谷が帰宅したのは昼前のこと。
 昨日の捜査の件で出てくる、と言って出勤したのが早朝まだ朝日も登りきらない頃。昨夜のアレソレで体力が回復しきっていなかった新一は、好奇心よりも眠気を優先させた。それにどうせ着いていったって、肝心なところは教えてくれないのだ。最近じゃ風見のガードも強化されて情報を盗み見るのも一苦労。
 ――話が逸れた。
 そんなわけで大人しく日曜の午前を怠惰に満喫していた新一は、降谷のスキップ姿に目をゴシゴシ擦ってこれは白昼夢かもしれないと思い直した。
「ほらほら起きて、まぐろだよまぐろ」
 エアコンを強めにかけて、ブランケットにくるまってソファで寝そべっていた新一に声をかけただけで、降谷はさっさとキッチンへと行ってしまった。
「んあ……。…………まぐろぉ?」
 人を指してまぐろとは、これいかに。
 確かにだらしなくトドのように寝ていたけど、それは半分降谷のせいだし。
 けど待てよ、と新一は思い直した。
 まぐろってつまり、寝てばっかりで動かない新一はまるで冷凍マグロだと。降谷はそう言いたいのか。
 確かに、昨夜もあまり自分から積極的に動かなかった。けどそれは降谷が初っ端から激しくしたせいで、新一のせいじゃない。
 いや待てよ。もしかしたら仕事から帰ってきたら同居人が掃除の一つもしないでぐうたらしていたから遠回しに嫌味を言ったのかも。そういや洗濯機の中に降谷が回していったシーツが入りっぱなしだ。
 これじゃ本当に新一はマグロじゃないか。いや、マグロ以下だ。
「あーっと、シーツ!俺が干すから!ごめん降谷さ――っだ!」
 慌てて飛び起きたものの、見事に腰が抜けていた新一はソファから転落した。ごん!と強かに打ち付けた後頭部を押さえてうずくまったところに降谷が飛んできた。
「新一!どうした!?」
「や……落ちただけ。ダイジョーブ」
「洗濯物は僕がやるから、君はまだ本調子じゃないだろう、寝てていい」
「でもそしたら俺ホントにマグロになっちまう」
「……うん?」
 何を言っているんだ、この子は。
 降谷の表情から思っていることを読み取るのはとても難しい。だがこのときばかりは新一にもはっきりと読めた。
「何を言っているんだこいつ、って顔してますね。降谷さん」
「ああ。まさしくその通りのことを思ったよ」
 そよりと揺れたカーテン。一気に冷えた空気はエアコンのせいだけではないかもしれない。

 その日のお昼は、マグロの希少部位を手に入れた降谷が腕によりをかけて作ったマグロ定食。
 これは中落ち、これはなんと頬肉!カマも今焼いているから、楽しみにしててと話す本人が一番ウキウキしていた。
「なんだよ、てっきり俺がマグロって言われたのかと思ったぜ」
 いただきます!と手を合わせて、箸を手にとって。さぁいざ!と赤身に向かった箸先は、降谷の「確かに君はマグロだけどね」の一言でぴたりと止まった。
「――――ぱ……ぱーどぅん?」
 何言ってんの降谷さん。
 今度は新一が引きつった笑いをこぼす番だった。
「お、おれ……そんなマグロだった?」
「うん。君は自身のことをよく鮫に例えるけれどね。どちらかといえば、まぐろだと常々」
「つねづね!?いっつもそう思ってるってことかよ……俺、そんなにえっち下手だったのか!?」
 お互い無言で、間にはまぐろのフルコース定食があって。終わりそうにない夏の暑さは窓の外。防音性に優れたマンションの部屋には蝉の鳴き声も届かない。とても平和な日曜の昼下がり。
「――くっ」
 先に動いたのは降谷の方だった。
 腹を抱えて声もなく爆笑するのを呆然として見ていたが、ひっひっと引き笑いまでしだしたものだから、新一はなにが可笑しいのかと憤懣ぎみに身を乗り出した。
「ちょっ、ふるやさん!俺本気なんだけど!」
「あっははは!ごめん!ごめん、僕の言い方が悪かった!そうだねマグロって言ったら普通そっち思い浮かべ――ぐふぅ」
 手で覆い隠しても今更遅い。小刻みに揺れる肩に怒りのボルテージがマックスになった新一は椅子から勢いよく立ち上がり、チクショー!と叫んで箸を閃かせた。降谷の皿から先程蘊蓄とともに紹介された頬肉とやらを奪って自分の口のなかに放り込む。
「んっ、なんだこれぇ……」
 蕩けた。口の中に広がった旨味に、直前までの怒りも忘れた。降谷が唖然として新一の愚挙を見上げている。
「は……はぁぁぁ!?ちょっ、あっ――」
 本能が命ずるままに、自分の皿にあったそれも一気に頬張った。
「ぐはぁ!」
 吐血する勢いで床に崩折れた新一と、般若の面相をした降谷と。
 この後の一悶着のあと、新一は降谷の真意を聞いてようやく納得したのだった。

「鮪は泳ぎ続けることで生命を保っているんだ。謎の匂いを嗅ぎ分けて食らいつく鮫も確かに格好良いけどね。己の使命を果たさんと走り続ける君の姿はまるでそれが生命の源だと言っているようで、さながら鮪のようだなと。そういう意味で言ったし、最初に君にかけた言葉はこれから鮪をいっぱい食べるよー、って意味だった!」
 うっすらと浮かぶ涙は本気か、それともお得意の演技か。
 それでも早とちりをした新一が百パーセント悪いのは確かだったので、後日、親のコネを使い降谷に鮪三昧をご馳走することでチャラにしてもらった。ちなみにセックスに於いてはマグロというより蛸のようだという意味不明な例えをされた新一は暫くの間、営みの最中に蛸っぽくないか気になって集中できなかったとか、なんとか。
 
 
 

 8月28日(月) バイオリンの日

 今日は珍しく定時で上がれた。
 忙しくない月曜日などないというのが社会の定説だというのに、トントン拍子で事が片付き綺麗になったデスクを見下ろして降谷は決意した。
 そうだ、たまには早く帰ろう。
 定時で上がるだけなのにちょっとした罪悪感のようなものを感じるのは日本人の悲しい性。
 だが恋人との時間が増えるのなら、また日本が平和だという証ならば。定時で帰れるって素晴らしいことなんだなと、ハンドルを握ってウンウン頷いた。
 新一にメールを送ると『米花町の家にいる』の一文が返ってきた。掃除か、はたまた父親の蔵書でも読み耽っているのか。間もなくして到着した降谷が正式な合鍵で中に入ると、奥の書斎から微かに音が聞こえてきた。
「これは……ヴァイオリンか?」
 確か、以前調べた時に彼の特技の一つに上がっていた。降谷は一度も聴いたことがないし、新一本人がそれを構えている姿を見たこともない。だからこの音色を聴くまで彼が弾けることすら忘れていた。
 ふつりと途切れた旋律に、夢から醒めたような心地で重厚なドアを押し開ける。夕闇の書斎というステージの中央で、彼は凛として立っていた。
「降谷さん」
「綺麗な音色だね」
「いや、ブランク開きすぎて駄目です」
 集中したくてここに来たのに、と不貞腐れた表情で新一は語った。
「パガニーニすらまともに弾けないんじゃあな」
「超絶技巧練習曲?」
 ご存知でしたか、と新一が弓を構えて微笑んだ。
 つ、と触れる。小さく息を吸う――――と。



 曲が終わり、新一が深々と礼をした。
 音の波に圧倒されていた降谷は自分が呆然と立ち尽くしていたことに、我に返って気付く。
 拍手をしなければ、と思い至ったのは、新一が「やっぱちょいちょいミスったのバレました?」と茶目っ気たっぷりに肩を竦めてからで。手を打ちながらも、ずっと体内を駆け巡る音の渦に支配されていた。
「ラ・カンパネラ――鐘の音に相応しい演奏だったよ」
「へへ、サンキュ!」
 新一が少年の姿をしていた頃。小さな身体のどこにそんな力があるのかというくらい、彼は自由に、軽やかに、ひたむきに走り続けていた。子供の姿に課せられたハンデを、彼は――江戸川コナンはその身一つで乗り越えてきた。
 本来の姿を取り戻してからは見た目のハンデは消え失せて、誰もが『名探偵工藤新一』の言葉を信じて協力を惜しまない。我武者羅に走る必要もなくなって久しい。
 忘れかけていた、あの眩い煌めきと紺碧の瞳の奥に燃え盛る焔が蘇る。
 人の思考の遥か上、神の如き手腕で難解を紐解いていった才は今もまだここにあるのだと、降谷は改めて痛感させられた。
「――――そうか、そういう事か!」
 突如何かを閃いたらしい新一が、手にしていたヴァイオリンを降谷に押し付けて叫んだ。
「ごめん降谷さん、これ片しといて!」
「はぁ?」
「あのトリックの謎が解けたんだ!」
 ケースは机の上にあるから!とだけ残して、青年は駆け出した。降谷が車で送るよと言う頃にはすでに足音は遠く、玄関の開閉音が書斎に虚しく響く。
「やれやれ、そういうところだぞ……工藤新一め」
 両手抱えた弦楽器を見下ろした。
「これ、このまま入れても大丈夫なのか……?」
 まずは扱い方を調べなければと頭を振って、鼓膜の奥にある音の残滓をふるい落とした。
 
 


 8月29日(火) 焼肉の日

 降谷に誘われて、夜はちょっとリッチに完全個室の焼肉店へと新一は来ていた。
 少しだけ遅れそうだから先に入っていて、と通された二階の座敷は防音もしっかりしていて、階下のざわめきは微かにすら届かない。
 降谷らしいというか、こういう場でないといけない何か大切な話でもあるのかと少々身構えたものの、約束の時間から十分ほど遅れてきた本人は普段通りで。
 気にしすぎかなと足を崩し、伺いに来た店員に一通り注文する降谷の横顔をぼんやりと眺めていた。

 とはいえやはり、ただの杞憂で終われるはずがなく。
 肉にはやっぱりビールじゃないかと降谷に唆されて、ジョッキを三杯ほど空けた。楽しい会話につられて普段は飲まない紹興酒などというものに手を出したあたりから、新一の心がふわふわしだした。
 そのタイミングを作り出した本人がさり気なく話を切り出した時に、「あ、嵌められた」と思ってももう遅い。
「ところで新一くん」
「うぁい?」
「僕たちが共に暮らし始めて三ヶ月経つけれど、どう?」
「どう……って?」
 こてんと首を倒した。視界の中、降谷が斜めに傾ぎながらも器用に肉を焼いている。新一の好きな壺漬けカルビをハサミでカットする姿も格好良い。
「ただ付き合うたけじゃなく、一緒に生活を共にしてみて初めて、相手の欠点に気付くこともあるだろう?」
 ……たしかに。
 新一はウンウンと頷いた。
「つってもさ、一日のうち一緒にいる時間そんなになかったしなー」
 今月はじめ頃までは寝る場所も別々だったし。
 ぶつぶつと脳内を垂れ流す新一を、降谷は静かに見守っている。
「そういや一緒のベッドで寝るようなっただろ。それがなー」
「それが?」
 言っていいのかな、と躊躇う新一にすかさず「言っちゃえばいい」と唆す声。
「あのさぁー、ハッキリ言って寝不足!降谷さんが真横で寝てるとさ、なんつうのかな、こう……」
 両手をわきわきとさせた。ドキドキとも違うこの胸のざわめきは、そう、
「ムラムラ!むらむらくんの。降谷さんの体温が近いってだけで。わかるか?この苦行!あと、」
「あ、あと……?」
 眼の前の降谷は少々引き攣った笑いを浮かべているような、いないような。新一はお皿に盛られたばかりの焼肉を指した。
「これ!この至れり尽くせり感!」
 はあ、と気の抜けた相槌を打つ恋人は、もしや自覚がなかったのか。
「朝起きれば朝飯があり、夜帰れば作り置きのおかずが毎日!」
「節約の為だよ」
「休日の洗濯も、掃除も降谷さんが朝のうちに終わらせちまって俺の立つ瀬がない……つーか、甘やかされてる気が」
 ああ、と空を見上げた降谷が顎に指先を添えて回顧する。それはそうかも。と。
「ほらなぁ!ったく、俺のこと甘やかすの禁止!」
「ダメかな」
「ダメに決まってんだろぉ。俺がダメ人間になっちまうじゃねーか」
「僕がいないとダメになるようにしたかったんだけどなぁ」
 頬杖をついて、甘く蕩けた誘惑を仕掛けてくる大人は、その内面に秘めたものをちらつかせて様子を窺っている。
「できることなら君には安全な所で、僕が安心できるような仕事をして、何不自由なく幸せに暮らしてほしい」
「……んなの、」
 無理な願いだ。降谷が求めているものは、新一が追い求めてしまうものの対極にある。
 そして降谷もまたそれを完全に理解しながら口にしていることも伝わってきた。
「なんで降谷さんは俺のこと好きになったんですか」
「それは――」
 とんとん、とノックの音が控えめに鳴った。そういえば少し前に焼き網の交換をお願いしていた。このタイミングもまた、降谷の計らいだろうか。
 そそくさと網の上の少し焦げかけた肉たちを皿に移した。
 女性の若い店員はあまり場馴れしていないらしく、緊張に網を掴む手が震えていた。
「君がじっと見つめるから、彼女緊張しちゃってるんじゃない」
 和ませようとした降谷に、新一も乗っかる。
「つーか、それご自身の顔見てから言ってくださいよ。どう見てもそっちのがイケメンじゃん」
 ですよね、と声をかけた。店員が愛想笑いをした拍子に網を落とし、それは畳の上へ。
「あっ」
「熱っ」
 降谷が右手を庇った。店員が悲痛な声で謝罪するのを、「かすっただけだから」と宥める降谷の右手を凝視する。一瞬のぎこちない動きが強く網膜に残った。
「もしかして、右腕怪我してるんじゃ」
 浮きかけた腰を、降谷が制した。
「流水で冷やせば大丈夫。君、氷嚢代わりになるようなものを持ってきてくれるかな」
 あとハイこれ、と左手でトングを使って落ちた網を拾い上げて、トレーに乗せる。店員よりよほど器用な手捌きで焼き網の交換を済ませて、降谷が立ち上がった。
「工藤くんはここにいて」
 走らせた視線でその言葉の意味を悟る。公安は視界から一度でも消えた食べ物には手を付けないという。託された信頼の重さを自覚する。すっかりと酔いは冷めてしまっていた。

 じゅうじゅうと良い音と匂いを放つのは、この店で一番の良いお肉。店長が謝罪とともに銀のトレーに乗せて持ってきた艶光放つそれに、新一は思わず感嘆の溜息を漏らした。
「君って意外と庶民的なところがあるよね」
 くつくつと笑う降谷に新一はむくれて答えた。
「うっせぇ。金持ちなのは親の方!俺はこれでもしがないイチ私立探偵です〜」
「日本警察の救世主様のお言葉とは思えないな」
 降谷の右手は包帯でぐるぐる巻きにされていた。代わりに左手で肉をひっくり返して、焼けたものから新一の皿にひょいひょいと移してくる。
 あ、と開きかけた口を閉ざした。
 いつだったか左手でも器用に調理をしていた。理由を当てられなくて保留にしたままの答えが、今になって分かった。
「新一くん?冷めちゃうよ」
「あ、うん」
「そんなににやけるくらい、美味しそう?」
「へっ?あー、うん、美味そう。……降谷さんの尊い犠牲に感謝していただきます」
「うむ。心して味わうがいい」
 なんのキャラだよ、と笑い飛ばして、口に頬張った。肉汁がやばい。語彙力が消滅する美味さに無言で咀嚼する。
 その様子を見ていた降谷も、自分の分が焼けるとタレも付けずに口に持っていく。
「うん、これは良い肉だね」
 全力で高級食材を味わおうとする姿も、いついかなる状況にあろうとも生き延びるための術を常日頃から身につけ維持しようと努力する姿も。
 そんな貴方に惚れたんです、とは新一の心の声。焼肉の煙越しに伝えるのはあまりにも格好悪いから。
 それはまた今度、いつの日にか。
「これ、おかわりしてもいいですか?」
「次は流石に自腹でいこうか――ううむ、こんなにするのか……」
「いよっ!お大尽!このイケメン!」
「……新一くん?きみさ、僕のこととりあえずイケメンって言っとけばいいや~とか思ってるでしょ?」
 誤魔化し笑いをする新一のかわり、肉汁が勢いよく網の上で弾けて答えた。




 8月30日(水) EPAの日(エイコサペンタエン酸)

 今夜は魚が食べたい。
 昨夜、もう入らないと降谷でさえ白旗を上げるくらい肉を食べた。
 今朝からずっと頭を占めていたのは魚への渇望感。
 鮮魚店で降谷はずっと、何にしようかと迷っていた。
 やはり手堅くアジで行くべきか。しかしイナダの刺し身も捨て難い。いや、待てよ。カレイ。カレイがある。煮付けを最近は食べていない気がするな。あの白いぷりぷりの身に絡む甘い醤油のタレが――
 くる、と小さく腹が鳴って決断を迫られる。
 よし、と顔を上げた所で、背後から声をかけられた。
「降谷さん?」
 同じく仕事帰りなのか、新一が商店街の人波を上手く躱して横切ってくるのが見えた。
「お疲れ様です。……ほほう、今夜は魚料理ですか」
 不特定多数の目がある場所では他人を装う決まりなので、不用意に距離を詰めない新一とは拳三個分。半袖シャツの袖から伸びる腕が、すっと一角を指した。
「そういえば先日、ごま鯖の釜飯レシピを何かの番組で見たんですよ」
「へぇ」
「僕は料理の腕はからきしなんですけどね、あれならなんとか作れそうかも!って思いました。とても美味しそうでしたよ?」
「それは有用な話を聞いたな」
「もし晩御飯に迷われているようでしたら、ぜひ試してみてください。残念ながら僕はまだ仕事中でして、買って帰りたいのはやまやまなんですが……自分で作るのはまたいつかになりそうです」
 にこやかに、営業スマイルを浮かべて新一は一礼した。
「買い物中に失礼しました。では」
「ああ。また今度」
 去っていく新一の後ろ姿を一瞥する。夕飯の買い出し時、人混みのせいで蒸す中をポケットから出したハンカチで項の辺りを拭っている。その仕草がなんとも大人らしく見えて、ふと笑いが漏れた。
 店主を呼び、指を指す。
「すみません、そこの――」


 ただいま、と玄関で声がしたのは夜の八時をまわった頃。
 腹減ったと疲れ目を擦る新一に蒸したタオルを渡した。なんでこの暑いのにと訝しんだのは一瞬で、吸い寄せられるようにして顔に当てた新一がタオル越しに発したのは声にならない呻き。
 辛うじて聞き取れた『生き返るぅ』の言葉に吹き出した。
「汗でべたべたして気持ち悪いだろう?冷たいボディシートよりも、こういう時は蒸しタオルのほうが効果的だったりするんだよ」
「おお、気持ちぃ……」
 腕と首周りと。ついにはその場でワイシャツを脱いだ新一は、インナーシャツを捲って裾からタオルを入れ体中を拭き始めた。
「シャワー浴びてきたら?」
「その前にメシって気分なんです、俺は」
 ふうんと相槌を打ちつつ、丸見えの臍をちょんとつついた。
「だっ」
「隙だらけだぞ新一くん」
 よくそれで探偵が務まるな、とからかえば、飛んできたのは廻し蹴り。笑って躱して、ダイニングへとふざけながら進んでいく。
「なぁなぁ、今日の飯って鯖?」
「ふふ、どうだろうね」
「スゲーいい匂い。降谷さん知ってますか、青魚に多く含まれるオメガ脂肪酸のDHAとEPA。DHAはよく耳にしますけど実際の所、EPAのほうが――」
「はいはい。エイコサペンタエン酸の話は知っているから、君はまずお喋りの前にお腹を満たしなさい」
 リクエスト通りのごま鯖釜飯をどんと置いたら歓声が上がった。流石降谷さん!イケメン!男前!等々。
「イケメンは聞き飽きたから、そろそろ違う言葉で聞きたいなぁ」
「愛してます、降谷さん」
 そうそう、そういうの。と頷きかけて。
 言葉が文字となって脳に到達し、降谷は一気に顔を熱くした。
「は……、え?」
 お箸を手にした新一が、テーブルを挟んで真向かいに立つ降谷をじっと見上げている。
「聞こえました?愛してます、って言ったんです。降谷さんのこと。ちゃんと好きですから、俺」

 


 8月31日(木) I LOVE YOUの日

 降谷は落ち込んでいた。
 否、物凄く自戒の念に苛まれていた。
 仕事に集中しているときはまだ、そこに専念していれば他のことは忘れられたからいい。
 だがひとたび仕事から離れると思い出されるのは昨夜のこと。

「愛してます、って言ったんです。降谷さんのこと。ちゃんと好きですから、俺」
 ひたむきに見つめてくる紺碧の空色をした瞳はどこまでも真っ直ぐで。
 新一からの真摯な愛の告白を貰ったのは、これが初めてだったとその時遅まきながらも気付いてしまった。降谷からの告白に新一は、「あいつは今でも大切な女(ひと)だけど、そんな自分でもいいですか」と逆に問う形で応えた。「好き」という言葉は、初めて二人が繋がった夜に貰ったけれど。
 愛している。その言葉に込められたのは、ただ好きなだけじゃなく。降谷の立場も意志もなにもかもを受け入れた上での、覚悟の表明。
 この三ヶ月間の同棲生活で、新一は何があろうとも降谷の全てを受け止める覚悟ができたのだ。
 もちろん降谷も最初からそのつもり――だったはず、なのに。
「僕も、あいしているよ」
 答えた言葉は薄っぺらく、顔に浮かんだのは作り笑いで。こんな筈ではと焦る降谷の内心を読み取ったかのように、新一は瞬時に空気を入れ替えた。
「へへっ、照れますね、こういうのって」
 釜飯、テレビで見たのより美味そう!魚がふっくらしてますね、もしかして炊きたてとか?――完全に話も気持ちも切替えてしまった新一に、降谷も合わせて会話を続けるしかなかった。

 当然、気持ちはずっと晴れないまま。
 今朝もなんとなくよそよそしいような空気が漂う新一の横顔ばかりがちらちらと脳裏を過る。
 そんな焦りに追い討ちをかけるように、他部署の降谷より肩書が二つも三つも上のお偉いさんが二つ折りの台紙を持ってきた。
「申し訳ありませんが、僕はこういうのは」
 丁寧に、角を立てず。これまでいくつものらりくらりと断って逃げてきた。まだ現場に立っていたいから。先の捜査でかなり恨みを買ってしまったので、身の安全を考えるとどうしても……等々。
 だが今回ばかりはそうも言っていられなかった。
「君ね、最近あの探偵ぼうやと仲がいいようだけど。駄目だよあれは。父親が世界中の警察組織と通じてる。ウチの情報まで渡されたらたまったもんじゃない」
「はは、それは怖いですね」
 空笑いの裏で煮えたぎる臓腑。今の自分は一体どんな顔をしているのだろう。大切な恋人をスパイ呼ばわりされても平静を装う自分に、果たして彼を愛する権利などあるのだろうか。
 結局押し付けられた台紙をもて余し、デスクの引き出しの奥にでも突っ込んで忘れたフリをしてやろうかと投げやりな気分で溜息をついた。今日はもう定時で帰ってやる。


 これまで毎日が猛暑の連続だったのに今日は雨天のせいか気温が上がらず、むしろ肌寒い一日だったなと帰りの車中で振り返る。そんなどうでもいいことを考えていないと、先程のやり取りが思い出されてしまって、表立って庇えなかった自分に対して嫌悪感ばかりがぐるぐる渦を巻く。
 今夜は適当にありあわせで作るか、それとも。
 冷蔵庫にある残った作り置きを思い出しながら組み立てた献立はしかし、キッチンで素麺を茹でる新一によって全て無と化した。
 ぐらぐらと沸騰しかけている大鍋の側では額に汗を浮かべた新一が、素麺の束と格闘している。
「あっ、お帰り降谷さん」
 ナイスタイミング!と笑って、素麺の袋を逆さにして残りの束も手に取った。
「お湯、足りないんじゃないか?」
「そっか」
 コンロ前の新一とシンクの間に立っていた降谷が代わりにボウルに水を張って、鍋に注ぎ足す。
「ねぇ新一くん」
「はい」
 茹だっていた鍋の中が静かになる。
「いつから僕のこと好きになっていた?」
「は、はいぃい!?」
 一気に真っ赤になった新一が一歩後ろに離れた。
「なっ、何だよ急に!」
 とても昨夜と同一人物に見えない狼狽えぶり。格好良く決める新一も好きだが、やはり降谷はこっちの新一も年相応に可愛くて好きだなと思う。
「僕はね、君のそのギャップに惹かれたのもあるけれど。大事なときにちゃんと大事な言葉を言える所に惚れたんだよね」
 小さな気泡が鍋の底面からぷくりと生まれて登ってくる。
 それをきっかけにしてぷつ、ぷつと新たにできた気泡はやがて大きくなって、水温が上昇していく。ぶくぶくと沸騰した鍋に素麺をぱらぱらと投入し、あまりの蒸し暑さに見上げれば換気扇が静かなままだったので、腕を伸ばしスイッチを入れた。
「好きだよ。新一のこと、……俺も、愛している」
 は、と口を半開きにした新一がようやく発した言葉は。

「それ、素麺茹でながら言うことかよ……」
「釜飯を食べる直前だった君に言われたくはないなぁ」

 まだまだこれからを思えばクリアすべき問題は山積みだけど、心の中の一等席に収まった恋人が『大丈夫』と笑ってくれるなら、何でもできるし乗り越えられると思い出させてくれた。その強さが自分たちにはあるのだと。
「しまった。素麺じゃなく蕎麦だったら縁起が良かったのに」
「うわ、ジジく」
 最後まで言わせてたまるかと片手で新一の両頬を挟んで引き寄せた。互いの唇が触れるか触れないかギリギリの所で止まって、ふっと笑う。
「お互いの愛について、もっと理解を深めていかないといけないね」
 ――とりあえず、今夜から始めようか。
 本気で逃げ腰になった新一の腰を抱き寄せて、密着させて。
 唇が重なる直前、鍋の湯が吹きこぼれたのは言うまでもない。




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