四季折々に想う。3 8月

8月17日(木) プロ野球ナイター記念日

 街頭に並べられたTVモニターが各局の番組を流して歩く人の足を止める。
 呼び込みの店員が夏休み最後のセールと声を張り上げていた。夕暮れ時を過ぎ、モニターの光が疲れた目に突き刺さる。降谷はなんともうらめし気な気持ちでテレビに目線を飛ばした。
「っ!……し、」
 新一くん、と口走りそうになるのをすんでで堪えた。
 まるで降谷が視認するのを見計らったかのようにほんの一瞬、テレビ中継中の画面に映った恋人の姿。
 それは今ドーム球場で行われているプロ野球のナイター中継。観戦客の盛り上がりや応援を切り取った一コマだった。
 誰かと観戦してるでもなく、スタンド席通路を早足に歩いていた。そして目線はマウンドではなく、天井へと。柳眉が寄った眼差しは試合を楽しむものでなく――。
 その場で風見に電話をかけた。
 既に捜査一課には連絡が行っていたようで、どうやらドーム内のどこかにリモート式の爆弾が仕掛けられているらしい。犯人らしき人物は受付に紙切れを無言で置いて去っていった。紙には指示通り対戦相手のチームに勝たせないとここを爆破するという脅迫文が。ざわついていた所にたまたま居合わせた新一は、犯人に気付かれないようにと先に一人密かに探索していたというわけだ。
 紙には暗号が書かれてあり、また、通報したら爆破するとも書いてあった。捜査一課と爆発物処理班はそうと分からないようにして現場へと向かっているらしい。
「なるほど」
 頷いて、後方を振り仰ぐ。大通りのビルの隙間から見える白いドーム型の天井。まるで数奇なめぐり合わせのようだなとひとりごちた。部下の訝しむ声を遮って降谷は指示を出す。そして独りで戦っている恋人の元へと征くために、早足でその場を離れた。

 作業員の服を拝借し、専用通路を通り抜ける。梯子を登った先は外で、降谷は一度気配を窺った後にそっと扉を開けた。
 体をさらうように強い風が吹く。通常ならばハーネスを着用しなければならないが、今は緊急事態である。屋外の誰かに見つかってはうるさいからと身をかがめ、作業用通路となっている幅の狭い平坦な場所を小走りに行く。目的のものは案外すぐに見つかった。
「新一くん」
 前もって通話状態にしていたインカムに呼びかけた。相手からは「見つかりましたか?」と潜めく声。あの時、新一は天井を見上げていたから暗号の答えは天を指しているのだろうと踏んで、自分が行くからと代わりに警察の誘導と犯人確保を頼んだ。
「犯人の方は?」
「球場の売店でポップコーン買ってる。――これから八百長ゲームを始めさせようってのに、よく楽しもうと思えるよな」
「そいつから目を離すなよ。これから解体を始める。なにかあったら、すぐに教えてくれ」
 了解の返事を聞くと通話を終わらせた。以前の彼ならば、誰の到着も待たずに単身屋上に登っていただろう。いや、今回もそうしていたかもしれない。だがすぐ近くに降谷がいた。問答無用で頼れる人がいると思ってもらえることに感じるのは誇らしさより安堵の方が強いのは、もうどうしようもない。
「さて、僕の愛する名探偵の心を囚えてやまない恋敵をやっつけるとするか」
 付き合い始めたきっかけは鍋料理店で起きた事件現場に居合わせた日の夜のことだった。
 そういえば、初めて出会ったレストランでも事件が起きていたなと苦笑する。
 工藤新一のあるところに事件あり。
 今度の休みは自宅で映画でも見ながら美味しいものを食べてゆっくり過ごそうか。事件も謎も起きない安心安全なテリトリーで、無防備状態の誰も知らない新一を降谷だけが堪能できる日が欲しい。
「今なら夏蕎麦もいいな」
 夏野菜を天ぷらにして。どうせなら長野からそば粉を取り寄せようか。
 ひゅうひゅう渡る風が、汗ばんだ背中に気持ち良い。袖口で額を拭うと、降谷は次の休日が待ち遠しいというように解体を急いだ。


 8月18日(金)米の日

 今日は探偵の仕事が数件舞い込んできて、繁盛繁盛でほくほくしながら帰宅した――ら、お米がなかった。冷凍庫にもご飯の余りストックがなかった。
 そしたら、コンビニに買いに行くか外食するかのどちらかを選択するしかない。パスタは茹でられるけど、ソースを一から作るなんて面倒くさい。インスタント麺すらないこの家は、新一が一人で生きていくには少々難がある。
 高校生の頃は蘭がなにかと気にかけてくれていたからどうにかなった。大学生のときも最初のうちは彼女に甘えていた。心配する声を聞かず事件に東奔西走していたら、もう無理だと泣かれた。大学生活と両親のことと、さらには自愛しない恋人の面倒までなんて見きれない、と。
 そんなわけで大学の後半は食生活に関しての記憶があまりというか全然ない。降谷に再会した日だって、服部らが無理やりあの店に連れてきたのだ。「工藤はもう少し肉をつけろ」と言って。確かあの日、降谷からも言われたような気がずる。あまり成長した感じがしないのはその痩躯のせいかなと。
 付き合いだしてからはスパルタだったな……と遠い目をした。
 肉だけ、野菜だけ、なんて偏った食事がいけないんだと、事あるごとにバランスが大事だと口を酸っぱくする降谷に辟易したことは一度や二度じゃない。
 むん、と力こぶを作る。前よりも山ができてきていた。
「ん。これなら一食くらい」
「一食くらい――なにかな」
 真後ろからの声にうっかり「ぎゃあ」と叫んだ。振り向きバックステップで距離を取る。家主が放つおっかないオーラと怖い笑顔に背筋が凍った。
「また鶏ガラになりたいのかな、君は」
「はぁ?見ろよ、この山を!」
 せっかく右腕を曲げて披露したのに、それを見た降谷は鼻で笑い飛ばした。
「僕から見ればまだまだ」
「もう十分筋肉ついたろ!?」
「ふぅ……。あのね、新一くん」
 その時になって新一はようやく気付いた。降谷が片手に持っているものの存在に。
「筋肉っていうのは、」
 大きな茶色の紙袋にはブランド米の名前と、三十キロの文字。
「こういうのを言うんだよ」
 ぱんぱんに膨らんだ三十キロの米袋を見るのは初めてだ。一体どのくらい重いのだろうと思うくらいに、新一は動揺していた。
 袋の閉じ口にある持ち手代わりの結び紐が、降谷の手のひらに食い込んでいる。軽々と上げ下げするたびに隆起する筋肉の動きが正直気持ち悪い。
 そういやこの男、小学生を片手で放り投げられる剛腕の持ち主だった。腕の筋肉自慢の相手を新一はそもそも間違えていたのだ。
「たかが一食。されど一食。絶対に駄目とは言わないが、ここ最近君は夏バテを理由に昼食もおろそかにしているだろう?まったく、僕が帰ってくるまで我慢もできないのか」
 無言でいるのはどうやらご自身の筋肉に見とれているからだと勘違いしているらしく、フンフンとしつこく上下する米袋。そして上から目線の説教に、新一はカチンと来ないはずがなく。
「じゃあ降谷さん一人で自炊どうぞ。俺は博士と食べてくっから」
「えっ」
「久しぶりに顔見てぇし。同じ自慢話なら見飽きた筋肉より新しい開発品のほうがおもしれぇし」
 ガン!とショックを受けているけど知るもんか。こっちだってようやく出来てきた力こぶを一笑されてショック受けてんだよバーロー、と心のなかで吐き捨てて。
 さっさと約束を取り付け支度を済ませ、玄関でスニーカーを履く新一に降谷が声をかけてきた。
「……なんだよ」
「いや。阿笠博士によろしく」
 それだけか、と脱力した。てっきり謝ってくるものだと思った。だって新一はムカついているのだ。なんでそんなに普通の態度なんだ。
 おざなりに答えて家を出た。
 途端に襲いかかるのは後悔の念。またやっちまった。そんな呟きは夜の冷気と一緒に地に落ちて消えていく。どうしてこんなにガキ臭い態度しか取れないんだろう。いつか、蘭と同じく降谷にまで愛想をつかされてしまうんじゃないかという小さな不安を作り置きのおかずの数で補って。
 それでも明日になればまたいつものように朝起きて、いってらっしゃいをして。ちいさな諍いなんかなかったかのように過ぎていくのだろうと思っていた。
 帰宅して、ぎっしりと詰まった冷蔵庫の中身に自己嫌悪する。どうしてこうも成長しないんだ自分は。同棲したからと言って明日必ず会えると確約されたわけでもないのに。
 ついこの間まで一人で寝ていたベッドがとてつもなく広く感じられる夜だった。



8月19日(土) バイクの日

「何が悲しぅて野郎とタンデムせなあかんねん」
 滑るように走り出した大型バイクはその馬力でもって新一が指示した車にすぐに追いついた。このまま付かず離れずで尾行しろと、風の音に負けないように声を上げる。グリップを握る平次のぼやきに「聞こえてんぞ」と言わんばかりに背中にチョップを食らわせた。
 
 とある会社役員からの依頼で素行調査を請け負った新一が対象者を観察していたところ、どうもただの情報流出だけでは済まなさそうで。きな臭い匂いに顔をしかめつつ跡をつけていたら、なんとその対象者が拉致されてしまった。バイクで偶然通りかかった平次と和葉が声をかけてくれたのは本当にラッキーで、新一の「服部、前の車を追いかけろ!」の一言で全てを察した和葉が席を譲ってくれたお陰で今こうして対象の車を見失わずにいる。
 交差点にさしかかり、赤信号で止まった標的の数台後ろにつく。
「ほんで何やらかしたんや、あの車」
「ただのインサイダー取引だけかと思ってたら、密輸にも噛んでいた」
「お前……ほんっまに『持っとる』なァ」
「うっせぇ」
「通報したんか」
「いや、まだ証拠が」
 信号が青に変わり、会話は一旦途切れた。しばらく追跡していた平次が「こりゃあかん」と叫んで新一を呼んだ。
「首都高に向かっとる!」
「それがどうしたんだよ!」
「ドアホ!首都高はタンデム禁止やぞ!」
「くそ、服部!俺を隠せ!」
「ハァ!?ボウズん時やないねんから、フツーに無理やろ!」
 ぎゃいぎゃい言い合う間にも対象者を乗せた車は首都高入り口へと入っていく。その手前のUターンエリアで停まった二人はメットを外した。八月下旬の外気はまだまだ暑いが、ヘルメットの中に比べればマシだ。
「くっそー、完全に見失っちまった」
「お得意のアレはつけとらへんのか」
「ああ。そんな暇もなかった。……ん?」
 ブブ、と震えたスマホの画面には差出人不明のショートメールが一通。『手出し無用』のその一文だけで、新一は全てを悟った。
「工藤、オレはここで降りるで。オマエこれ乗って追いかけろや」
「無理だな。それに俺、大型持ってねぇし」
 なんとも言えないくさくさした気分でスマホをヒップポケットにねじ込む。十八歳になるとすぐに大型自動二輪車免許を取得した服部と違い、新一は普通自動車免許しか持っていない。バイクに乗れるとしても小型のみ。いつか取ろうと思いながら後回しにしてきたことを初めて悔やんだ。
「降谷さんたち公安が動いてるみてーだから、俺の仕事はここで終了。ケースクローズド!」
 服部の吠え声を遮るようにメットを被った。シールドを上げて目線だけで促す。
「オメーが乗らねぇと俺も乗れねぇだろ」
「~~~~っ!ガソリン代キッチリはろてもらうからな!」
「わーったから早く帰ろうぜ……」
 以前の自分なら、と考えかけて、やめた。いつからオトナになってしまっていたのだろう。気付けば新一の行動に常に付き纏う、一人の男の影。彼に降りかかるかも知れない火の粉を慮るあまり、いつしか無理も無茶もしなくなっていた。
 それは即ち、新一の探偵たらしめるものを。真実を思い求める心を無意識に抑えさせていたのだと。
 無人の自宅に帰り着き、アプリ操作をし忘れていたせいで丸一日蒸し焼き状態の空気に息苦しくなりながら、エアコンを付けて涼を入れる。
 満タンに補充されたバスルームのソープ類や、洗濯洗剤にキッチンの食器用洗剤。空のゴミ箱、綺麗に畳まれたリネン。何不自由ない生活空間。
 まるで飼い殺しだな、とぽつり漏らした。
 足首を撫でる冷たい空気を振り払う。それは足枷のように、新一の足元にずっと纏わりついていた。


 8月20日(日) 蚊の日

 蝉が一匹、ジワ、と鳴いた。
 それから後に続けとばかりに始まる大合唱。思い思い好き勝手に鳴いているようで、その実生殖活動の一環であり命懸けでもあり。七日間という短い期間の内に次の命を残す為、蝉は我こそがと大きく音を鳴らすのだ。
「つっても、うるせーもんはうるせえ」
 こめかみを伝い落ちる汗を手の甲で拭う。あちい、とぼやいてまた作業に取り掛かった。
 本日の新一のお仕事である『実家の草むしり』に。

 ことの発端は有希子からの早朝電話だった。まだ半分夢の中にいた新一を叩き起こすハイトーンボイスで『新ちゃん大変!もしかしたら排水口の生ゴミ捨てるの忘れちゃってるかも……いますぐ見てきて頂戴!』と命令されればもう拒否権などない。
 昨夜一度も帰宅した気配のない降谷へ書き置きを残そうかどうか迷ったが、何かあればメールしてくるだろうと思い直して部屋を出た。
 お盆期間に帰国していた両親に会うために一度寄ったきりで、たったの数日間無人だった家はさすがに八月の暑さに空気がむわりと籠もっていた。シンクの排水口はきれいなままで、有希子はきちんと全てを片付けていたようだ。その場でクレームの電話を入れて、けれど『ついでに家の換気と庭の雑草伸びてたらむしっておいて』と追加の依頼をしてくる母親の圧には逆らえない。
 どうせ零くんに何もかも任せっきりで怠惰な生活送ってるんでしょ、せめて自分の実家くらい管理しなさい。――なんて。だったらそっちが日本に帰ってくりゃいいだろと口ごたえをしたら倍になって返ってきた。
 家の周りをぐるりと一周して、所々に生えていた長めの雑草だけをむしっていく。ゴミ袋に入れて、あとは燃えるゴミの日に出してもらうように博士に頼めば作業はおしまいだ。
 いつの間に刺されていたのか、ふくらはぎの赤い腫れをぽりぽりと掻いた。左腕も刺された痕を見つけて舌打ちした。さっさとマンションに帰って、アイスコーヒーを飲みながら本でも読もう。ここ最近は泣きっ面に蜂みたいなことばかり。これは蚊だけれど。
 面白くないことが重なると気分も憂鬱になる。何かスカッとするようなことでもないかなと思いながら帰っていたら事件に行き逢い、見事にフラグを回収した新一は捜査一課の面々から何故か生暖かい目で見られながら「今日のところは事情聴取はいいからまっすぐ帰りなさい」と諭された。


 8月21日(月) 噴水の日

 2LDKの賃貸マンションの一室を借りての張り込みは二日目に突入していた。
 30℃超えの暑さが連日のように続いている。それでも屋内はエアコンさえついていれば快適な空間だ。たとえそこにいるのが仕事上の部下であっても文句は言うまい。
 とはいえ、週末に恋人と逢瀬を楽しめなかったのは同じでも、張り込みに入る直前その恋人と些細な喧嘩をした者は降谷だけかもしれないが。

「中々尻尾をだしませんね」
 いつもはオールバックのヘアスタイルをしている部下がぼやいた。今日は出歩かず監視カメラのモニター画面をひたすら見続ける担当なので寝起きのままの頭だ。隣で同じ画面を注視していた風見が「まだ二日目だ。焦るな」と嗜める。
 先日、対象者同士の密会の場に新一がふらりと現れた時は驚いたが、降谷が手を引くようにと送った警告はどうやら守られているようだ。バイクで尾行されたのがバレたのかは分からないが、どうやら対象者に少し警戒されているらしい。
 リビングに通じる部屋のドアを開け放してその様子を隣室から眺めながら、降谷もまた別の角度からの監視カメラを追っていた。路上を歩く人々をひたすら観察する。他のメンバーには伏せていたが、降谷のみ持っている別件のリストに載っている人物が現れるのを待っているのだが。こちらも長期戦かなと凝り固まった首の後ろを強く揉む。
『ピンポーン』
 ピリピリとした空気を玄関のチャイムが呑気にぶち壊した。インターホンのモニターを確認した部下が、昼食の買い出しに出ていた同僚の姿を認めてドアロックを解除する。降谷はもう一度肩を揉んだ。
「交代で休憩を取ろう。夜番の二名は昼食のあと風呂と仮眠を。二十一時になったら交代だ」
 降谷が居る部屋の出入り口に立って指示を仰ぐ風見の後ろから、短髪のほうの部下が顔をひょいと覗かせた。
「すみません遅くなりました」
「いや、捜査本部への報告ご苦労だった」
 短髪はいそいそとコンビニの袋を広げ、降谷と風見に何がいいかと聞いてくる。
「美味しそうな期間限定モノも買ってきたんで!あと、警視庁で面白いネタ拾ってきました」
「お昼を食べながらでいいだろ」
 風見の顔が『どうせまたくだらない話だろう』と言っていた。

「廊下で捜一の佐藤刑事と仲のいい交通課の女子が噂してたんですけどね、」
 ぴりぴりとおにぎりの紐を引っ張りながら始まるのはどうやら噂話らしい。風見がペットボトルの緑茶を口に含んだ。
「あの探偵やってる工藤新一いるじゃないですか。どうやら恋人がいるらしいです」
 ごふ、と隣で咽る風見を一瞥した。
「あの歳なら普通じゃね?」
 オールバックが鮭のおにぎりにかぶりつく。降谷はまだ数あるおにぎりの中からどれにしようかと迷う素振りを続けた。
「それはそうなんだが、お相手は年上で」
「ゲホッ」
「風見、大丈夫か」
 すみません、と謝った風見は喉を落ち着かせようとさらにお茶を含んだ。
「毎晩お盛んらしくて、昨日は首の後ろにキスマークがいくつも」
「ブフォア!」
「風見さん!」
「台拭き台拭き!」
 眼鏡の奥から問いかけられて小さく首を振る。そもそも昨夜は会っていない。当然だ。ここにずっといたのだから。それを知らない風見ではない。じわじわと青褪めていく部下の顔色がおもしろいな、と降谷は他人事のようにそれを眺めた。
「っていうか、もしかして工藤新一のお相手って年上のカノジョじゃなくて――」
 ハッ、と部下二人が顔を見合わせた。風見が止めに入ろうとする。
「あの男!」
「FBIの!」
「――んなわけあるかァ!」
 あの人ならまぁ……わかるな、とウンウン頷く二人に風見がついに声を荒げる。噴水芸の次は滝汗芸。風見の体から水分がどんどん抜けていく。
「アッもしかして風見さんでした!?」
「申し訳ありません!まさかこんな身近にお相手がいるとは思わず……!」
 風見がこちらを見ようとするのを視線だけで抑えた。固まる身体はギギギと変な音を立てそうなほどに不自然に震えている。黙って成り行きを楽しんでいた降谷だったが、仕方がないなとついに口を開いた。
「工藤探偵のそれは虫刺されだよ」
 三人が一斉にこちらを見る。降谷は塩おにぎり一つとペットボトルを持って立ち上がった。息抜きに面白いものが見れたのでだいぶ肩の力が抜けた気がする。
「彼にはとある事情からGPSなどの情報が『こちら』に来るようになっている。昨日はどうやら家の草むしりをしていたようだからね」
 なぁんだ、とつまらなさそうな二人と対象的に心底安堵している風見の顔を、じっと見た。
「ここで彼の相手として僕の名が挙がらなかったのは悔しいなぁ」
「ふふふふふ降谷さんは別格ですから!」
 意味不明な風見のフォローにうっかり吹き出す。本当に、見ていて飽きないというか。降谷は肩をすくめて余裕の笑みで答えた。
「それは褒め言葉として取っておくよ」
 

 
 
 8月22日(火) 金鯱の日

 極秘捜査をしているときは何があっても連絡できないと言われていたのに、今日に限ってそれは適用されなかった。こないと踏んでかなりな大立ち回りをした自覚があっただけに、部下の伝手やメールではなく眼の前に血相を変えて現れた本人の姿に新一は心底驚いた。
「降谷さん、そっちのお仕事は――」
「莫迦か君は!」
 絶対に怒られるだろうなとは思っていた。そりゃそうだ。深夜の名古屋城、スポットライトやヘリのサーチライトがあったとはいえ、その天辺で怪盗キッドと追いかけっこをして落ちたのだ。端的に言えば。

 天守閣に展示されているレプリカで作られた金のしゃちほこの眼として収められた金塊。これを盗れるものなら盗ってみろという鈴木次郎吉からの挑戦状に受けて立つ形で怪盗キッドが予告状を出してきたのは今朝のこと。
 暗号を解くと今日の黄昏時に参上するとあり、新一は中森警部と共にキッドを捕らえるために天守閣で待機していた。そして現れたキッドを伸縮サスペンダーなどを駆使して追っているうちについつい本物の金鯱がある屋根へと到達してしまった。
「宝石以外は手を出さないんじゃなかったのかよ」
「ったりめーよ。今回のはイレギュラー。あのじーさんのボケ防止に一役買ってやったんだから感謝しろよ、名探偵」
 確かにキッドが現れなくなってからの鈴木次郎吉は張り合いがないせいか大人しかった。まあ、世界中の貴重な宝石はめぼしいものはほぼ出尽くした感があるせいかもしれなかったが。
「第一、金塊なんてあったって重いし、魚類の目ん玉なんか触りたくもねぇ」
 両腕で自分の身体を擦って、キッドがブルブルと震えた。
「え?オメー、知らねえの?」
「何が」
「鯱鉾の鯱は海獣のシャチじゃなく、想像上の生き物なんだぜ」
「そんくらい知ってるっつの」
「体は魚だけど頭は虎だっていうのも?」
「へぇーー……」
 顎に手を当て何かを熟考したのち、キッドはやはり頭を振った。
「いやでも魚類に変わりは……っと!」
 雑談を何かの取引と思ったのか、一基のメディアヘリが会話を聞き取ろうと接近してきた。プロペラの風圧が二人を襲う。
「オイ!近づきすぎ――――工藤!」
 サーチライトの眩しさに光を遮ろうと腕を上げたはずみで、バランスを崩した。風に煽られるまま傾いで足が滑る。
 やば、と聞こえた声は自分のもののはずなのに他人事のような浮遊感。
 瞳に映る二対の金のしゃちほこを、白い影が遮った。
 
 外界に降りてキッドが飛び去り、それまで遠巻きだった取材陣や警察関係者、鈴木財閥の面々にどっと囲まれた。方々から叱られ謝罪され心配されて、その度に新一はしおらしく反省の態度を見せて頭を下げて。
 一旦引いた波を見計らって現場を離脱した新一を物陰に引っ張り込んだ降谷はあの一言を放ったあと、まだ捜査中だからとどこかに消えていった。
 右手を見下ろして、反芻するのは降谷のこと。
 無言で新一の手首を掴んだ降谷の手は、震えていた。

 

 8月23日(水) ふみの日

 工藤探偵事務所の郵便受けには毎日のようにDM(ダイレクトメール)が来る他に、遠方に住む謎めいた富豪からの依頼だったり、ファンレターや感謝の手紙、高校生探偵時代を知る者からの粘質じみたラブレターだったり、様々な手紙が届く。
 帰宅前、最後に覗いた郵便受けの中には消印のない手紙が一通。
「……へっ」
 ぴらりと開いた手紙には昨日の無事を確かめる文面と、その後の一場面を目撃していたらしく恋人との仲を気遣う文。
「怪盗は怪盗らしくしてろっての」
 安心しろキッド。とりあえず今のとこ恋人関係の解消は免れてるっぽい。
 スマホのバッテリー残量からそんなことを推し量るのも癪だけど。
 これがごく普通の恋人同士だと束縛だとかなんとか、諍いの原因になるのだろうが、自分たちはその普通のカテゴリーに全く当てはまらないわけで。
 位置情報把握は新一の生命の安全を確実にするためのもの。黒ずくめの組織の残党がいつどこで新一に目をつけるかもわからない。そうでなくとも、新一はアングラ的な意味で世界的にも有名になっていたからこれは謂わば命綱なのだ。
 新一がどんなピンチに陥っても、降谷が見守っていてくれる。どうにかしようと動いてくれる。
「そういや昨日も怒られはしたけど、二度とするなとかは言わねぇんだよな……基本的に」
 毛利小五郎はやれ事件現場に来るなとかガキはすっこんでろとか。口を挟むたびにゲンコツだったりつまみ出されたりしていた。
 デキるオトナはやっぱ違うなとウンウン頷いて、キッドからの手紙をスーツのヒップポケットにねじ込んだ。
 


 8月24日(木) 愛酒の日

 オトナというのは大変だ。ときには飲まなきゃやってらんねぇ!な時もある。たまに。
 中にはやってられねぇ!な気分でなくてもとりあえず飲んどけ!というテンションの人もいるけれど。
 残念ながら新一には、二十三になっても未だにその気持ちが理解できないでいた。
「やっぱここにいた」
 黄昏時の繁華街。プールバーとして隠れた人気がある『ブルーパロット』のドアを開いて、新一は嘆息した。
 開店して間もないというのにカウンターには酔い潰れたオッサンが一人、琥珀色の液体が入ったグラスを指先で傾け弄んでいた。
「おじさん、帰ろうぜ。……アイツが心配してた」
 あぁん?と胡乱げに見上げた小五郎が「ケッ」と吐き捨てた。
「おめぇはアカの他人になっても蘭の尻に敷かれたまんまかよ」
「幼馴染であることに変わりはないんで」
「ヘン!蘭からキッドに乗り換えたヤツがなぁ~にを偉そうに!」
 お勘定を、とバーテンダーに告げていた新一の顔がビキリと固まった。
「乗り換えた?誰が?誰に?」
 なんかめちゃくちゃ誤解を招きそうな言い回しをしなかったか、このオッサン。
 けれど小五郎は最後の一杯を大きく呷って、グラスをタン!とテーブルに置いて大声でのたまったのだ。
「決まってんだろォ!天下の名探偵、工藤新一様はよォ!健気に帰りを待っていた幼馴染の彼女を捨てて、美形イケメン年上の怪盗キッド様と毎晩ニャンゴロ発情してるってんだよ!警視庁じゃその噂で持ちきりだぞぉ?」
 そこそこ客が入って賑わっていた店内がシン、と静かになる。背中に突き刺さる視線と、徐々に広がっていくヒソヒソ声。一体どういう迷推理をしたら、そんなデマが生まれるのか。
「ヒック。……図星かぁ?ボウズ」
「そのボウズってのやめてください。っていうか!なんだよその根も葉もないウワサは!」
 ゾゾッと駆け上がる悪寒。キッドのヤローとどうにかなる噂にもだけど、その出所が警視庁というのにも目眩を覚えた。
「ま、待て……つーことは、」
 当然ながらあの人の耳にも入っているはずだ。
 脳裏に浮かんだのは笑顔なのに目が笑っていない、本気で静かに怒った時の降谷の顔。……これは、マジでヤバい。
「とにかく、蘭とおばさんが家で待ってっから!さっさと帰って手料理くらい食ってやれよ」
「だぁから!それが嫌だからここに来たんだろーが!」
 あんなぁ、と切れた堪忍袋の緒はほとんど八つ当たりだった。
「こっちだって料理下手なの自覚してやってんだよ!それを頭ごなしに否定されたらムカつくのはあたりめーだろ!?まずは努力を認めろよ、相手を思い遣ってくれよ。それが愛ってもんだろ!?」
 言ってから自分の発言にはっとした。
 至れり尽くせりなあの空間を思い出す。
 あの部屋は――あの空間は。
 ぽかんとしていた小五郎が我に返って叫んだ。
「やっぱあのコソドロとデキて……!」
「美形イケメン年上ってとこしか合ってねーっつのバーロー!」
 ざわざわし始めた店内と、小五郎の顔が驚愕に染まるより早く新一はブルーパロットを飛び出した。
 一分一秒でも早く、降谷に会いたくて。
 涼しかった店内から一気に30度超えの外気に触れて、汗が滝のように流れてくる。それを乱暴に袖で拭って走り出した。
 
 

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