四季折々に想う。3 8月

8月9日(水) ハグの日

 羽田空港国際線ターミナル。
 ここに来るのは初めてじゃない。むしろ慣れたもので、行き交う人々をぼんやり眺めながら目的の人の到着を待つ。
 予定時刻通りのアナウンスがあったから、そろそろだ。スマホの時刻を確認して、新一はミーティングエリアから離れた。
 ワシントンからの便に乗ってきたのはほとんどが外国人。多種多様な人種の波の中から、新一は相手よりも先に見つけて手を上げた。
「赤井さん、こっちです!」
 ぶつからないようにすり抜ける身のこなしは相変わらずだ。その後ろを図体の大きいキャメル捜査官がついてくる。目が合ったので笑ってもう一度手を振った。
「あれ、ジョディさんは?」
 キャメル捜査官の後ろを覗いても見当たらなくて、キョロキョロと見回した。
「あいつはトイレだ」
「け、化粧直しって言ってました」
 女のメイクは長いからなとうんざりしてるのか呆れているのか、赤井はスタスタと先に歩き出す。その後をキャメルが慌てて引き留めた。
「ジョディさんを待ってなくていいんですか」
「バスターミナルでどうせ会う」
 それよりスモーキングエリアは何処だと尋ねてくるあたり、全然変わらないなぁと新一は苦笑した。

「ちょっと、シュウ!置いていくなんて酷いじゃない!」
 スモーキングエリアの前で赤井と別れたあと、バスターミナルで米花町方面へのバス停を調べている最中にジョディと合流した。人が多くても自分がいれば目印になって見つけやすいですからと、ずっと付いていてくれたキャメルと三人で和やかに談笑していたところに赤井が戻ってきたのだが、彼の姿を見た途端ジョディが豹変した。
「ミーティングエリアで待っててって言ったでしょ」
 腕組みしたジョディが赤井を睨みあげる。もちろん、何処吹く風の赤井は肩を小さくすくめただけで、キャメルに「バスが来るまであと何分だ」と聞いている。
「すみません、俺だけでも待っていればよかったですね」
 場を取り持たなくちゃと焦る新一に、キャメルが首を横に振った。
「クドウくん、気にしなくていい」
「いや、でも……」
「二人のあれはいつもの事なんでね」
 そうなんだ、と半信半疑で頷いたところでバスが来た。
 今日は事件の捜査でもなんでもなく、純粋に観光に来たのだという現役FBI捜査官たちを案内するのが、今日の新一のお役目。
 初っ端からギスギスしてては旅行も楽しめないよな、と気を取り直して、新一はまだ文句を言い足りない風なジョディに敢えて声を弾ませて気を引いた。
「あ.ほら、ジョディ先生、バス来たよ!楽しみだねぇ、観こ……う、」
 一気に場が静まる。
 ——完全に、気を抜いていた。

 美味しいフレンチのお店でランチと、ジョディがリクエストしたセレクトショップを数件と。夜は新一ご贔屓の、食事とお酒が美味い和食料理店に一行を案内した。
 その後、ジョディは友人に会うからと行動を別にし、男三人でバーへ。
 他愛もない話から、新一が降谷と同棲を始めたことまで。話題は尽きなかったが、時計の針が十時をまわったところで新一のスマホが震えた。
「シンデレラタイムの終了か」
「からかわないでくださいよ。店の前に着いたって」
 じゃあ僕たちもそろそろホテルに行きましょうか、とキャメルが立ち上がる。
「あ、俺の分——」
「ここは高給取りに奢られておけ。こう見えてあいつも特別捜査官の一員だからな」
「こう見えて、は余計です赤井しゃん……」
 冷房の効いた店内から一歩出れば、むわりとした空気に一気に汗が吹き出る。歩道を挟んだ眼の前、路駐している白い車が視界に入った。
 ピュウ、とからかうように赤井が口笛を吹く。
「大事にされてますねぇ」
 キャメルまでも降谷の意図を汲み取ったらしい。明らかな牽制に嫌な顔一つせず、にこやかに車に向かって手を振る二人はきっともう慣れたものなのだろう。
「新一」
 ガードレールを跨ごうとしたところで呼び止められて、振り向いた。
「ジョディが言っていた。今日はハグの日だそうだ」
 え、と聞き返す間もなく。
 タバコと香水と、男の体臭が混ざったなんとも言えない匂いに包まれた。
 背後の車内から、窓を閉めていても漏れ聞こえてくる罵詈雑言。
 フリーズした新一の肩をポンと叩いて、赤井は朗らかに笑った。
「空港からの警備ご苦労、と伝えておいてくれ」
 驚くキャメルと一言二言交わしながら去っていく長身の背中を見送る。
 いや……これ、俺が怒られるやつじゃん。
 これから始まるであろう理不尽な説教タイムを思って、このまま逃げ出せたらどんなにいいだろうと夜空を見上げた。今夏最高気温を叩き出したこの日、降谷の怒りも最高潮に達したことは言うまでもない。



8月10日(木) 焼鳥の日

 昨日は大人げなかったな、と降谷は帰りの車内で思った。
 信号待ちの帰宅ラッシュの列は誰もが早く帰りたいと、仕事の疲れも背負ってかやや荒みがちになる。どこかで鳴るクラクション。真横を食事宅配サービスの自転車がすり抜けていく。
 二人で暮らし始める前までは新一の御用達だった宅配サービスだが、引っ越しを機にぱたりと使わなくなった。
 降谷からは特に何も言っていないのだが、彼なりに気を遣っているのかもしれない。そうでなくとも家には常に、すぐ食べられるものが用意してある。体調を崩した時や停電等の災害時に備え、三日くらいなら外出しなくても保つようにしていた。
 さて、冷蔵庫の中には何があったかな、と今晩の献立に思いを馳せたとき、サラリーマンらしきスーツ姿の男がロードバイクですり抜けていく。それ自体は特に珍しくもないのだが、直後にもう一台、助手席の窓を横切っていった自転車宅配人にぎょっとした。
「————新一くん!?」
 眼鏡をかけてはいたが、自転車用の白いヘルメットの下で風に揺れている特徴ある襟足で直ぐに分かった。毎日見飽きることなく眺めている横顔だ。一瞬だけ視線が投げかけられた気がしたが、渋滞でのろのろ行進の車と違い、自転車はあっという間に走り去っていく。
 気付くだろうかとダメ元で電話をかけてみると、相手はすんなりと受話口に出た。
『はい』
「君、いつの間に転職したんだい」
『ははっ!依頼で前のチャリの人を調査中なんだ。報酬はこん中の焼鳥盛り合わせ——っと』
 インカムの向こうでププッ!とクラクションが鳴らされた。背筋がぞわりとして冷たいものが駆け上がっていく。
『わり、降谷さんまた後で!』
 何かを言う前に切れた通話で、新一は相手を本気で追いかけ始めたのだと察した。
 自分も加勢に回るべきか?と考えて、打ち消す。手助けが欲しい時はそう言ってくるはず。彼の性格上、使えそうなものは(相手を選んで)遠慮なく巻き込んでくるので、今回は大丈夫だと判断した。
「焼き鳥か……。そのままでもいいが、焼き鳥丼もいいな。温玉を乗せて七味をかけて」
 頭の中でサイドメニューとお味噌汁をテーブルの上に並べていく。うん、今夜はこれにしよう。
 ウインカーを出して十字路で右折レーンに入る。まだ少しだけ、ウインカーの音より速い心臓の鼓動。
 大丈夫、あの子の豪運は今に始まったことではない。
 それでも降谷は、新一の帰宅する音を聞くまでは心落ち着かず。
 少しばかり煮立たせてしまったお味噌汁を素知らぬ顔で出したのに、新一は「いつもとちょっとなんか味が違う」と降谷の動揺を見抜いたのだった。


8月11日(金) 山の日

「はぁ?キャンプぅ.!?」
 早朝五時、相棒からの電話に緊急事態かと飛び起きてでてみれば開口一番「ギックリ腰やっちゃった博士の代わりに、私達で子供たちのキャンプの引率をするわよ」で、眠気も一気に吹き飛んだ。
「っつーか、あいつらもう中学生だろ」
 相棒の「ばかね」という口調は相変わらず、新一をどうしようもない大きな子供だといわんばかりだ。
『キャンプは口実。博士のギックリ腰も仮病。あの子達、博士と結託してるのバレバレなのよ』
 どういうことだ?と首をひねる。仮病なんて装わなくても、素直に新一に頼めばいいのに。
 宮野はため息を一つ、大げさに吐いて言った。
『そういうとこ、幾つになっても変わらないんだから……とにかく、朝七時に米花駅前コンビニ集合だから。レンタカーは借りてあるから、運転よろしく』
「は、ちょっ、オイ!」
 一方的に切れたスマホの画面を睨みつけても事は覆らない。寝癖の付いた頭をガシガシ掻いて、天を仰いだ。
「いきなりキャンプってマジかよ……」

 六時、朝食の席で新一は降谷に朝の件を話した。
「へぇ、キャンプ。いいんじゃない?今日あすと君、依頼は入っていないんだろう」
 仮にも若い男女が野外で一泊するというのにこの軽さ。
「ちょっとくらい嫉妬しろっつの……」
「なにか言った?」
「なんにも!」
 勝手に拗ねている新一を見遣た降谷は苦笑して答えた。
「『安室の兄ちゃん』が偶然居合わせられたら良かったんだけどね」
「別に来てくれなんて言ってねぇ」
「そう怒んないでよ。とはいえ、君たちが揃うと何事も無くというのは可能性として低い。——そうだ、確か風見が有給を取っていたな」
 え、と聞き返す間もなく降谷は電話をかけだした。勿論相手は休日労働を余儀なくされる部下である。
「いいよ、風見さんだって予定があんだろ」
「風見か。君、ソロキャンするって言ってたよな?場所を変更して東都の森キャンプ場にするように」
 疑問も反論もする暇なく強制終了となった通話。それってパワハラじゃねぇの、とジト目で抗議する——いつものことながらそんな視線に動じる降谷ではないのだけれど。
「風見なら子供たちにも面識があるし、そう警戒しないで受け入れてくれるだろうさ」
「あいつらは、な」
 宮野は間違いなく毛を逆立てた猫みたいになる。
 機嫌悪いと俺に矛先向くんだけど、と新一は先が思いやられた。

 ――ちょっとしたアクシデントはあったけれど、キャンプは概ね楽しめた。
 偶然出会った私立探偵安室透の助手を誘ってバーベキューをしたり、森の散策で白骨を見つけたり。これは新一が動物の骨だと直ぐに見抜いたが、探偵団の面々が知識とネットの情報を駆使して真実に辿り着くまで黙っていた。
 夜は男女に分かれたそれぞれのテントで夜が更けるまでいろんな話をした。女子の方はどうだか知らないがこっちは光彦の恋バナ独壇場で、元太が先に寝落ちて鼾をかきだしても「聞いてますか新一さん!」と中々離してくれない。
 それでもやはり真夏のキャンプは体力を使う。夜の十一時にもなろうかという頃に堂々巡りの恋愛相談から解放された。
「——結構盛り上がってたじゃない」
 そっとテントを出ると、宮野がロッキングチェアーで寛いでいた。足元のランタンでガスの灯火が揺れている。
 隣の空いているチェアーに身体を預け、新一は疲れたと大きく両腕を伸ばした。
「光彦の恋バナだけで一時間だぜ?ったく、ああいうとこはいつまで経ってもガキだな」
「そう?高二のくせに恋愛音痴してたあなたと大して変わらないんじゃない」
 うっせー、と口を尖らせた。あの頃は体が小学生だったし、状況が状況なだけに恋愛に現を抜かす暇なんてなかっただけだ。
「ま、今のあなたはしっかり『大人の恋愛』をしてるみたいだけど」
 ちらりと寄越された視線に気付かないふりをして、チェアーの背もたれに体重をかけ天を仰ぐ。木立が満天の星空を縁取る世界を、なんの感動も抱かずに眺めた。
「大人っつーか……あの人の仕事とか立場とかあるだろ?俺が足引っ張るワケにはいかねぇからな」
 付き合い始めてすぐの頃。僕たちの関係についてはご両親と一部の関係者以外には伏せておいてほしいと、降谷が新一に頭を下げた事があった。
 降谷が警察庁の公安であること、交際の対象者が潜入時に深く関わった人物であることを考えれば、新一だって馬鹿じゃない。警察内部に知られたら、良くない顔をする者もいるだろう。
 黒田管理官には伝えているようだが、捜査一課の人たちは様子からすると何も知らないみたいだった。
 多くの人に祝福されたい願望なんてのはそもそも持っていない。
 秘密の恋というには少々、知っている者が多い気もする。なにしろ両親公認なのである。警察関係者にもそのうちバレるんじゃないかなとは思う。
 でもそれは『今』じゃないと降谷が言うので合わせているだけだ。
 大人の恋愛がそういうものなのかはさておき、新一にできることと言えばコッチ方面に関しては口を噤むくらいだ。
「禁じられた恋をしてるわけでもねぇし、オメーにとばっちりがいくようなもんでもねえから安心しろって」
「別にそんなこと気にしてないわよ。ただ、件の人がいけしゃあしゃあと混ざってくるんじゃないかと警戒してただけ。結局k自称助手が来たけれども。……私達、これでも元組織の奴らからしたら報復対象なわけだし」
「風見さんは完全なとばっちりだけどな」
 別の日に有給を取らせてあげられたらいいけど、それは新一の管轄外だからどうしようもない。
「あ、そーだ」
 新一は両手をぽんと軽く叩いた。と、両手を素早く翻して缶を二つ、マジックのように取り出した。
「……ビックリした」
「へへっ、くろ……キッドのマネしてみた」
 片方を宮野に差し出すも、じろりと睨まれた。
「あなたね、明日帰るのにお酒って」
「ダイジョーブ。ほんの三パーだし梅酒だからオメーの嫌いな洋酒も入ってねーし」
 宮野はなんとも言えない顔をしてそれから「あの人が選んだんでしょ。あなたそういう気遣いできる子じゃないもの」と抜かした。もちろん図星である。
 なんだかんだ云いつつ受け取った缶を開けて、一口呷るのを見届けてから、新一もプルトップを開けた。ほとんどジュースに近いそれに物足りなさを覚えるも、車を運転して帰るのは明日の午後とはいえまだ子供たちを引率しなければならない身だ。
「開放的な屋外の森の中で、若い男と女が酒を飲んで。——あの人が心配するわけだわ」
 宮野が視線を投げかけた先にある風見のテントをつられて眺めた。もう既に寝ているのか、灯りは付いていない。
「いや、心配してんのは残党の襲撃だろ。俺らじゃまともに迎撃できねぇし」
 一応、時計型麻酔銃は付けているが。
「ハァ……これだもの」
 いつの間にか飲み干した空き缶を持って宮野がチェアーから身を起こした。
「もう寝るわ。あなたも早く寝なさいよ」
「わぁってるって」
 まるで母親みたいだとは口に出さずとも口調で伝わってしまったらしい。ギロッと睨まれて思わず居住まいを正した。
 大げさな溜息のあと、足元のランタンに伸ばした手を止めて宮野が呟く。
「露草……」
「ん?」
「気付かなかったわ。こんなに咲いていたなんて」
 ランタンの灯りで照らされた足元に、小さな青い花々。よく目を凝らせば、地面のあちこちにそれは群生していた。
「——密かな恋」
「え?」
 宮野がほとりと落とした言葉を拾いそこねて聞き返した。
「密かな恋。露草の花言葉よ。今のあなた達にぴったりじゃない。朝から昼までの数時間のみ密やかに咲く花。華々しく大輪を咲き誇るわけでもなく、それは足元で力強く根を張るの」
 新一は前かがみになって地面との距離を縮めた。真夜中の露草が星あかりの下で仄かに浮かび上がる。既に咲き終えた花の横で、次の朝に開花しようとしているものもあった。
「別にこんな可愛げのあるようなもんじゃねえけどな」
 どう見たって、これが降谷と自分に当てはまるとは思えなくて。というより花を恋になぞらえる感性がそもそも理解できない。
 宮野はそれもお見通しなのか苦笑するだけ。
「そうね。それに露草の花言葉は他にもあって、『心変わりの恋』『敬われない恋』とも言われるし。あなたが心変わりなんかしちゃったら、そこで聞き耳立てている誰かさんの上司は泣くんじゃないかしら」
 風見のテントから物音がした。
 聞いてたのかよ、と呆れつつも新一は宮野に訂正を入れた。ちゃんとあの人に伝わるといいなと願いつつ。
「心変わりできるような相手がこの地球上にいるんなら話は別だけどよ、いると思うか?あの人以上にこの俺を理解できる奴が」
 宮野は宇宙を見上げ——新一を見て微笑んだ。それはまるでモナ・リザのような、深淵から彼方を見つめるような。
「いるんじゃない?あの銀河のどこかに。あなたに惚れ込む奇天烈な宇宙人の中に、一人か二人くらいはきっと」
「オメーなぁ……」
「前途多難な恋でもそれを順風満帆にする力があなた達にあるのを忘れていたわ。前言撤回。露草のような恋なんてそもそも無理だったわね」
「おい!」
 静かにと窘められて、ウググと唸る。なんだか煙に巻かれたような気もするが、相棒との会話はだいたいいつもこんな感じなのでもう慣れた。
 二つのロッキングチェアーが揺れて、足音はそれぞれのテントの方へ。
「宮野」
「……なに?」
「おやすみ。酒飲んだからってイビキかくなよ?」
「それ、そっくりそのままアナタに返すわ。寝言でボロを出さないように気を付けることね。……おやすみなさい」
 失笑して、片手で答えてテントに入る。元太の寝相のせいで自分の寝場所が狭くなっていることに難儀しつつもなんとかスペースを確保した。
 山の夜は空気が冷えて、木々の匂いも強く薫ってくる。目を閉じれば闇夜の中に沢山の露草が浮かび上がってきて、未だ道標の定まらない降谷との新一を密やかに見上げていた。


8月12日(土) 配布の日

『————以上が昨日の事になります。今朝はホットサンドを作って食べていました。今のところ、不審者等は見当たりません。他のキャンパーにも怪しい動きはありません』
 そうか、と答えた。
 一行はこれから沢にある釣り場へと向かい、今日の昼食となる魚を獲りに行くのだという。風見は一旦別行動となり、車に戻って降谷に報告の電話をかけてきた。
 都心から少し離れた自然公園の駐車場に停めた車内から緑に縁取られた空を眺める。
 この世界で新一を理解し、受け入れ、愛せる人が降谷以外に果たしているのか、と彼は言い切った。
 彼女には悪いが、新一が朴念仁でよかったと心からそう思った。
 そんな降谷の胸中などお構いなしに部下は報告を続ける。
『……ので、ひとまず自分も休みを満喫しつつ警戒を怠らぬよう————なんだ?』
 車のパワーウインドウを開ける音がした。途端に飛び込んできたのは聞き覚えのある少女の声。
『助手のおじさん!大変なの!』
『どうした。……これは?』
『さっき、釣りをしていたら知らないおじさんが来てあたし達にこの紙を配っていったの。それで光彦くんがあなたはどこの誰なんですか、って聞いたらその人、「宝探しの仕掛け人だよ」って笑って。異変に気付いたコ、新一お兄さんが走ってきたら逃げちゃったんだけど、紙を見た新一お兄さんは「これは暗号だ。それも爆破予告のな!」って叫んで急に走ってどこかに行っちゃうし……』
『暗号?』
『志保さんは高木刑事に連絡してた。でも安室さんの助手ならもしかしたらすぐに解けるかと思って』
 早口で急き立てる少女の口調には焦りが滲み出ている。降谷は風見に問いかけた。
「風見、その暗号とやらの画像を僕に今すぐ送ってくれ」
 直後に送られてきた暗号は、暗号というには幼稚じみたお粗末な——簡単すぎるものだった。だから新一はひと目見ただけですぐに暗号が解けたのだろう。
「風見。犯人の目的はそこのキャンプ場そばを流れる川の十キロ上流にある取水堰だ。工藤くんはそこを目指しているはず。犯人は予告状をわざわざ暗号にして複数名に配布していることから自己顕示欲が強いタイプ——おそらく、爆破の様子を一望できる場所へと向かっただろう」
 あの辺りで見晴らしがよく、山道も整っている山は。
「A山だ。風見、取水堰の東側にあるA山に行け」
 矢継ぎ早に指示を出す。降谷もまた、シフトノブに手をかけた。ここからだと車で三十分かそこら。行ったところで全てに決着がついて終わっているかもしれないが、それでも向かわずにはいられなかった。

 結果として爆破テロは未遂に終わり、犯人は降谷が予見した場所で風見に捕まった。犯人の作った暗号の稚拙さと同様に、爆発物の隠し場所も仕掛けもまた簡単なものだったらしい。道路の路肩に車を停め、取水堰を見下ろしてスマートフォンを構えていた男に職質をかけた風見は、男の車の中からした火薬の臭いと助手席に無造作に置いてあった覚醒剤と思わしき小袋を見つけ、問い質したところ罪を認めたのでその場で現行犯逮捕。
 堰では事務所にいる人たちを一時避難させた新一が、土手際の草むらの中から爆弾と思わしきものが入った紙バッグを見つけ出して回収した。『ネットで誰もが知り得るような』簡単な作りのそれは、新一の手によって早々に時限装置を解除された。
 駆けつけた警察官や爆発物処理班に後を託した新一が、野次馬の中から降谷を見つけたのを確認して踵を返す。離れた場所に停めた車に時間差で乗り込んだ。
「お手柄だね、名探偵工藤新一くん」
「バーロー、あんなん難解でもなんでもねーよ。犯人も捕まったって?」
「風見……いや、私立探偵助手の飛田くんが大手柄を立ててくれたよ」
「ヘェー。……ま、そういう事にしといてやるか」
 適当な所で方向転換して、もと来た道を走る。なにしろこれから警視庁で事情聴取だ。飛田を回収する手筈も整えなければいけない。
「宮野さん達は?」
「あいつらはレンタカーで帰宅中」
「……君、キャンプ場からここまで何で来たの。十キロはあるよね」
「はぁ?チャリに決まってんだろ。って、あー!返さねぇと!あれレンタルのやつなんだ」
 後方を向く新一は今にも車を降りて取りに行きそうな勢いだ。やれやれと嘆息して、インカムをつけた。
「風見、もう一つ頼まれてくれるか」
 はい、と応答する部下に降谷は本日最後の仕事を押し付けた——隣からの憐れみを込めた視線に、せめて休みをもう一日伸ばしてやってもいいな、なんて考えながら。


8月13日(日) 左利きの日

 休日の夕方はキッチン滞在時間がいつもより長い。降谷はともかくとして、新一もまたエアコンの効いたリビングから熱気でやや蒸しているこの場所に移動して電子本を読んでいた。
 ストーリーが一段落して顔を上げた新一が見たのは、左手で器用にピーラーを操る降谷の姿。
 最初は黙って観察していた新一だったが、ちょいちょいと左手を使いこなしているので気になってしまった。
「降谷さんって左利きでしたっけ?」
「いや?」
 対する返答は二文字の簡素な言葉。これは忙しいからなのか、いや違うな、と脳内で降谷の表情から察する。
 これは、君にこの謎が解けるかい、という降谷からの挑戦状だ。新一の探偵魂に火が付いた。
 まずは観察する所から始める。
 料理下手な新一と違い、降谷は基本なんでも器用にこなす。三つの料理が同時進行で作られているのを知ったときには心底驚いた。新一がそんなことをしたら、焼き魚にするはずの切り身を味噌汁に入れてしまうくらいのことはやりそうだ。……しないけど。多分。
 目の前の男は右手で包丁を持ち野菜を細かく刻みながら、左手でフライパンをガサガサ揺すり塩と胡椒を振りかける。
「スゲー器用」
「別にこんなの、普通だよ」
 苦笑いされた。そうか、今のはできて当たり前なのか。
 鍋の中を箸でかき混ぜるのも左手だ。右側からシンク、ワークトップ、コンロと並んでいるので、火を使うものは左側——つまり、降谷は左手でそれをこなしていた。ちなみに新一だと刻む作業を止めて鍋物に専念する。そうしないと吹きこぼすからだ。
「分かった」
 不意に閃いた。論理も何もあったもんじゃないけど、これまでの降谷の行動パターンからするとこれ一択しかない。
「赤井さんに対抗してる」
「――煮込み料理しか作れんような男と張り合う必要がどこに?」
 おっとやべーやべー。うっかり地雷を踏み抜いたようで、新一は慌てて手で口を塞いだ。
 自分の苦手分野での推理は骨が折れる。早々に思考を放棄した。
「時短のため」
「それはあるけど」
「他にも理由があるってことかよ。……じゃあ、左手が暇だから」
「っふ」
 揺れる背中。笑われてしまった。
「筋トレ?」
「くっ」
 小刻みに震えている。そんなに面白いこと言ったつもりないんだけど、とジト目で睨みつけた。
「降参かな」
「は、まさか」
 こうなったらぜってー当ててやる!と意気込む。
 しかし挙げていくもの尽く答えを外し、しまいには降谷から「ご飯出来たからそこ片付けて」とタイムアウト宣言されてしまった。
「答え、知りたい?」
「俺がこの手で暴くまで黙ってろって」
 なんでこんなことでムキになってるんだって笑う降谷の脇腹を手刀で突いてやったが、全然効いていないのが悔しい。
「覚えてろよ」
 いただきますの代わりに宣戦布告をしたら本気で笑われたので、テーブルの下の長い脚を思い切り踏んづけた。


8月14日(月) 専売特許の日

 その日のネットニュースを騒がせたのは、ある一つの見出しだった。
【高校生探偵、大手柄!】
 工藤新一の再来かと持て囃す記事はよく読めばなんてことはない、財布を落として困っていた老人を通りすがりの高校生が一緒になって探してくれただけのもの。
 だが、新一の周りの大人たちは真相を知っていてもからかわずにはいられなかったらしい。
 降谷が夜になって帰宅した頃には、元祖高校生探偵の青年は大いにむくれていた。
 えーと、と降谷は声掛けのタイミングを失う。今朝のネットニュースの話題をネタにしてやろうかと思っていたのだが、どうやら虫の居所が悪いらしい。頬杖をついて見てもいないテレビのバラエティ番組を口を尖らせ睨みつけていた。
 例えばこれが風見だったり赤井だったとしたら、降谷は相手の機嫌などお構いなしに仕事の話や嫌味の一つも浴びせられるだろう。だが相手は降谷が愛してやまない、この世で最も大切にしたい人。どうにかしてその不機嫌を解消してやれないかと思案する。
「テレビ、ニュースに変えるよ」
 応という返事はあるので、降谷とコミュニケーションを取ることに否定的ではないらしい。チャンネルをニュース番組を放送している局に変えると、ちょうどローカルニュースのコーナーへと切り替わった。アナウンサーがネット記事の拾い読みを始める。それはまさに、今朝話題になった高校生探偵の人助けの話だった。
「ああ、これ——」
「降谷さんまで『御株を取られちゃったね』なんて言わないでくださいよ」
 先手を打たれた言葉が喉の奥に引っ込んだ。新一はといえば、さっきよりもっと渋い顔をしている。
「し、新一くん?」
「高木刑事も佐藤刑事も、千葉刑事や果ては白鳥警部まで。みんな俺の顔を見るなりそう言ってからかってきて、もう耳にタコなんだっつの」
 あー、と曖昧な相槌を打った。まぁ、気持ちはわかる。高校生探偵として華々しく活躍をしていた頃の工藤新一も、一転して身を潜めるようにストイックに難事件を解いて名を伏せさせていた頃も。そして今の彼を知っている者からしたら、やはり可愛がってる名探偵の在りし日を思い出してからかいたくなるものだ。
「恐らく、昔の君を懐かしく思い出したんじゃないかな」
「それくらい分かりますよ」
「あの頃と比べたら成長したよね。精神的にも大人になって」
 こんなことで拗ねるあたり、まだまだ可愛いけれど。
「……降谷さん」
「うん?」
「目暮警部と同じこと言ってます。まるで親戚のオジサンみたいなんで、やめてもらっていいですかね」
 オジ、と言いかけて絶句した。
 どすりと刺さった図太い矢には『十二歳差』の文字がでかでかと書いてある。これは痛恨の一撃だ。
 工藤新一青年は地味にショックを受けている降谷を横目で一瞥したあと、フンと鼻で不機嫌の源であるテレビを消して席を立った。
「御株もなにも、俺が高校生だった頃は服部も世良もいたってのによ。まるで俺の専売特許みたいな扱いをしないでくれよな」
 つん、とそっぽを向いてリビングを出ていく後ろ姿を黙って眺めるしかできなくて。
 その夜。降谷は夢の中でぐるぐると回る『オジサン』の文字をやっつけるべく追いかけ回し続けていた。すばしっこい動きで降谷の捕縛を躱すその文字は次第に大きく膨れ上がっていく。
 ――翌朝、目覚めが最悪だったことは言うまでもない。


8月15日(火) 月遅れの盆

 最悪な朝の目覚めだった。
 最近の寝不足も相まって、早朝四時半という起床時間は新一を不機嫌のどん底に突き落とすのに十分だというのに、さらに降谷のローテンションも気分の悪化に拍車をかける。
「ほら、起きろ」
「うう……」
 遮光カーテンを開ける音がした。まだ日の出前のはずなのにもう眩しい。おかしいな、天気予報では曇りのはずなんだけど。
「雨は午後からの予報だよ」
「あ、そ……」
 ていうか、どうせ父さんと母さんが行くんだから何も自分まで行かなくてもいいじゃないか。つか、夜でいいじゃん。寝返りをうって枕に顔を埋めた。少しだけ眩しさが軽減される。途端に睡魔が脳に滲みのように広がっていく。
「こらこら、夜は雨だって言っただろう?あとこの期間は人の流れが流動的で、いつも忙しくて何時に帰れるか分からないって」
 そうだった。先週の日曜に言われたことを思い出した。……が、その話と今ものすごく眠いのはまた別の話。せめてあと一時間、瞼を閉じさせてほしい。
「舌っ足らずな君も可愛いけどね、そんなんで絆される僕じゃない」
 それ!の掛け声で枕を奪われた。人でなし。オニ。アクマ。これだからこうあんてやつは。
 むにゃむにゃと回らない舌で抗議していたら、頭の真横に人肌の気配がした。ギシリとスプリングが鳴って傾く。
「ホォーー。それじゃあサディスティックに寝覚めの運動でも始めようか?君が今日一日ベッドから起き上がれなくてもそれは君が望んだことだし、僕は一人淋しく雨の中を真夜中のお墓参りに行くとしよう」
 タンクトップの裾を捲って降谷の手が背中を撫で上げてきた。脊髄反射で飛び起き、ベッド下に転がり落ちるようにして降谷から距離を取る。
「起きる!起きた!」
「よーしよし、いい子だ」
 見れば既に身支度も整えていた降谷がワイシャツのボタンを留め直していた。本気で新一を襲う気だったと知って、ゾッとする。
「ご先祖の墓参り前にヤるってどんな神経してんだよ」
「なんのことかな?僕は純粋に柔道の寝技をかけるつもりでいたたけだよ」
 ああ言えばこう言う。新一はもう反論するのも億劫になって大人しく着替えた。降谷はこの後出勤だが、新一は休日(オフ)だ。Tシャツとカーゴハーフパンツでラフにいく。
 簡単に身支度を済ませて二人一緒に靴を履く。革靴と、サンダル。家の鍵はそれぞれが持つ。
「あれっ、花は?」
「車に積んであるよ」
「なぁ、ホントにおれんちのだけでいいのかよ?降谷さんちのお墓は?」
「遠い所にあるから、そっちはまた今度にしよう」
「ふぅーん……」
 また今度、ね。何でもない風に聞き流したが、新一の心に見えない靄がまた一枚、折り重なった。
 時々感じるこの距離を、新一はどこまで踏み込んでいっていいのか分からないでいる。
 もっと大人になったら、分かるのだろうか。
 降谷が新一を大人だと認めたら、教えてくれるのだろうか。
 見えないからこそ、壁はとても厚く。
 見えないからこそ、突破口すら掴めない。
 慢性的な浅い眠りのせいで思考はこんがらがりがちで。
「——新一くん?」
 玄関のドアに鍵をかけた降谷が心配そうに顔色を覗う。
「目の下にちょっとだけクマができているね」
 帰ったら寝たほうがいい、なんて。
 寝不足の原因である男はそうとも知らず、新一の額に手を当てて熱を測っている。
「なんでもねーよ。夏の暑さのせいだろ」
「でも、」
「こんな早起きすりゃ誰だって寝不足になるって」
 いいから行こうぜと早足で先を急いだのは、茹だる顔を冷ますため。ふとした触れ合いだけで、未だに頬が赤くなる。先月までむしろ素っ気ないくらいだったのに、今月は同じベッドで寝る日がいきなり増えたせいで、新一は毎夜昂る身体を鎮めるのに四苦八苦していた。
 若い男の性欲って、ヤベェな……。Tシャツをパタパタ扇いで風を取り込むも、湿度の高いぬるい風しか来なくて意味がない。
 ああそうか、降谷はもう三十路だから半分枯れかけているのかもしれない。そうでなくても公安警察は精神的にキツイ仕事が多い。性欲よりも睡眠で心の疲れを取る方が優先されるのだろう。
「ん?……待てよ?」
 八月に入ってからのセックスした日を頭の中で数えた。一、二……五日はしてる。え、そんなに、とうっかり声が漏れた。まだ半月しか経ってないのに。
 誰だ降谷は半分枯れかけていると言ったのは。俺だ。新一は心の中で自分にビンタした。
 先月と比べると降谷度が増している。当社比で倍くらい。同棲を始めたころより多い気がするが、そろそろ心臓と体力が保たないのでペースダウンしてもらえないだろうか。なんて。
 一人悶々と考えていたら、いつの間にか工藤家のお墓がある墓地に着いていた。
 降谷が降車を促しながら、助手席の新一へと身を乗り出す。
「新一くん」
「へっ?はい?」
 こちら側のウインドウへと手をついた降谷と、新一の顔はほぼゼロ距離。内心で上がった絶叫が相手にも聞こえそうな近さ。
「君、心の声がダダ漏れ」
「……えっ」
「誰が枯れかけのオッサンだって?これからご先祖様に会うってのに、エッチなことばかり考えているのは一体どっちなんだろうね?」
 ふ、と鼻で笑った降谷が唇を重ねてきた。
「ちょ、ここ外ッ」
「大丈夫、どこからも見えない」
「ん、ふるっ——」
 舌が交わり合う。エアコンで涼しかったはずなのに一気に汗が吹き出た。そういえば外でキスするのなんて初めてだ。新一は装着したままのシートベルトをぎゅうと掴んだ。水音に混じるアイドリングの音と遠い蝉の鳴き声が、とてもふしだらな事をしているという気持ちを強くする。
 そのせいで腰砕けになってしまった新一は、目的の場所まで降谷の背中に掴まらないと真っ直ぐ歩けなくて。今が早朝で良かったと、俯き恥じらいながらそう心の底から思ったのだった。


8月16日(水)月遅れ盆送り火

 今年の夏はあまり夏と思えないような天気が多かったなと、新一は事務所のロールスクリーンを下げる手を止めて窓から空を見上げた。
 夕方五時、日の入りまでまだまだ余裕があり、いつもならもう少し明るさを残しているはずの空は雨雲に覆われてどんよりと灰色に染まっている。気温もさほど上がらず、半袖では肌寒いと事務所に置いてあった長袖のワイシャツに着替えたくらいだ。
 一日中雨だったせいか、客足はさっぱり。閉店前だけど今日はもう閉めちまおう、と新一は帰り支度を始めた。

 昨日、お墓参りのあと真っ直ぐ仕事に行った降谷が帰ってこれたのは真夜中で。短時間の睡眠だけ取って、相も変わらず早くに家を出ていった。少しピリピリしていたから、何かが起きているのは間違いない。その何か、を聞いてみてもいいかなと口を開きかけた新一の先手を切って「教えないよ」と釘を刺されたので、浮かしかけた腰を降ろしたのは今朝のこと。
 冷蔵庫の中に何があったかなと思い出しつつ、帰途につく。エアコンアプリで前もって付けておいた冷房のお陰で快適なリビングを横切り、キッチンへ。ぱかんと開けた扉と一緒に流れ出てきた冷気が、外気で汗ばんでいた体に気持ちいい。
「麦茶作っとくか」
 コップに注いだら残りが微妙な量になった。なんで麦茶って毎回微妙に残るんだろう。捨てるのも勿体ないし、かと言って注ぎ足すにはやや多い。
 作り置きのおかずと、インスタントの味噌汁と、冷凍のご飯を温めて今夜の献立は完成。なぜか小玉スイカがあったけど、切るのが面倒くさいなと見なかったことにする。
 ダイニングテーブルで一人、いただきますをする。ふと何気なく視線を窓へと向けた。ベランダに通じる掃き出し窓の横に小さな出窓があり、そこには宮野から引っ越しアンド同棲祝いで貰ったサボテンが置いてある。そのサボテンの鉢の隣、ガラスの小瓶に花が活けてあった。
 はて、いつからそこにあったのか。
 目を凝らせばその花はスプレーマムで、日本では仏花としても用いられる種類のものだった。それが四輪、色とりどりに咲いている。
「……あっ」
 咄嗟に視線を逸らした。なんとなく、降谷の心の柔い部分に土足で踏み入ってしまったような後ろめたさ。数年前のハロウィンに事件で彼らについて調べたことはあったけれど、ここは降谷のプライベートなエリアで、故人を偲んで飾られた花はその最たるものだ。
 もそもそと夕食を口に運びながら、思った。今日も、いや今日は、降谷は遅く帰ってくるだろう。彼らの墓前に立つには、新一はまだその『覚悟』ができていない。それを降谷もきっと感じ取っている。
 けれどいつか——いつになるかまだ分からないけれど。
 降谷と共に会いに行ける日がくればいいなと。胸を張って、降谷への一生の愛を彼らに誓えたらいいなと。そう、思うのだ。
「って、何クセーこと考えてんだ俺は……」
 一人しかいないのになんだか誰かに聞かれているような心持ちを誤魔化すように咳払いした。
 窓辺に咲く花達が笑うかのように、微かに揺れたような気がした。


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